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十七話 待ち人



龍国公府の門前には、まだ夜の青い影が残っていた。


黒瓦を幾重にも重ねた大門の上では、夜露が細い軒先を伝い、白い石段へ一滴ずつ落ちている。

門から馬へ続く道には、濃い紺色の布を張った天幕が設けられていた。


布と布の間から光が入り込まぬよう、龍家の従者たちは燭台を手に、一つずつ継ぎ目を確かめている。

厩から連れ出された馬が、冷たい空気の中へ白い息を吐いた。


──蹄が石畳を打つ音。

──革の手綱が擦れる音。

──荷を積み込む従者たちの低い声。


普段は静かな龍国公府の前庭が、今朝だけは出立の気配に満ちていた。


龍昊然リュウ・コウゼンは、天幕の深い影の下に立っていた。

墨色の騎装は動きやすいよう袖が細く仕立てられ、腰には黒銀の鞘へ収めた剣が下げられている。


長い黒髪は高く束ねられ、黒銀の冠の下から背中へ真っ直ぐ流れていた。


その半歩後ろには、龍景雲リュウ・ケイウンが控えている。


景雲も濃紺の騎装姿だった。


肩と腰には軽い革の防具をつけ、普段の穏やかな装いより、武人らしい鋭さが際立っている。


「北の軍営までは、日暮れ前に到着できるかと」


景雲が告げた。


「ああ」


今回の目的は、王都北方にある軍営の視察だった。


兵糧の数と報告書が一致せず、保管されているはずの武具にも不足が出ている。

昊然が王から調査を命じられ、側近である景雲も同行することになった。


予定は五日。


雪解けの影響で山道が荒れていれば、さらに二日ほど遅れる可能性もある。


景雲は黒い馬へ乗る前に、一度だけ王宮の方角を見た。

高い塀と幾つもの屋根に遮られ、ここから宮殿が見えるわけではない。


それでも視線は、自然と西苑のある方へ向いていた。

翌朝には、昭華公主へ弓を教える約束がある。

急な出立だったため、延期を伝える使いだけを王宮へ向かわせていた。


「気になることがあるのか」


すぐ側で、昊然の低い声がした。

景雲は視線を戻した。


「いいえ」


昊然はそれ以上尋ねず、日焼け笠を被ると馬へ跨った。

景雲もその後へ続く。

東の空が白み始めるより先に、龍家の馬は眠りの中にある王都を離れた。


     ◇◇


翌朝。


王宮の西苑には、柔らかな春の光が満ちていた。


朱塗りの回廊の外には、浅い池と芝を敷き詰めた庭が広がっている。

池の縁では柳の細い枝が水面へ垂れ、風が吹くたび小さな波紋を作っていた。


そのさらに奥。


低い石垣で囲まれた弓場には、龍家の者が稽古へ立ち会えるよう、濃い藍色の天幕が張られている。


いつもなら、その影の下へ景雲が立つ。

けれど今日は、弓架と矢筒だけが静かに並んでいた。


蕭昭華ショウ・ショウカが放った矢は、的の端へ斜めに突き刺さった。


乾いた音が庭へ響く。

以前より悪くはない。

それでも昭華は少しも嬉しそうではなかった。

薄紅色の騎装の裾を風に揺らし、無意識に天幕の端を見る。


そこには誰もいない。

いつもなら景雲が立ち、静かに射形を見ている。

褒めたあとには必ず一つ欠点を指摘し、不満を言えば僅かに笑う。


今日は、その声がなかった。


「もう一度よ」


昭華は新しい矢を取った。

控えていた侍女が、弓を持つ右手を心配そうに見る。

指の付け根が、弦に擦れて薄く赤くなっていた。


「公主殿下。少しお休みになられては」


「これくらい平気よ」


「景雲様がお戻りになった時、お叱りになるのでは……」


昭華の手が止まった。


「どうして私が、景雲に叱られなくてはならないの?」


侍女は慌てて頭を下げた。

昭華は弦へ指を掛けながら、何でもないことのように尋ねる。


「それで、いつ戻るの?」


「予定では、四日後でございます」


「そう」


矢を放つ。


今度は先ほどよりも中心に近い輪へ刺さった。

昭華はまた天幕へ目を向けた。

けれど、自分の一射を見ている者は誰もいなかった。


     ◇◇


昊然たちが王都を離れて三日目。

裴星揺ハイ・セイヨウは、陸鈴花リク・リンカと共に王宮の西苑を歩いていた。


昭華に招かれ、弓の稽古を見た帰りだった。

長い回廊には、朱色の柱が等間隔に並んでいる。


天井には雲や瑞鳥が描かれ、柱と柱の間からは、桃の花が咲く庭が見えた。

風が通るたび、薄紅色の花びらが回廊へ吹き込み、磨かれた床の上を転がっていく。


星揺は髪へ落ちた花びらを払おうとして、白玉の髪飾りへ指を掛けた。


その拍子に、飾りが髪から抜ける。


「あっ」


白い玉飾りは回廊の外へ飛び、庭木の細い枝へ引っかかった。

星揺はすぐに石段を下りる。


「星揺。宮女の方へ頼みましょ」


鈴花が後ろから止めた。


「低い枝よ。自分で取れるわ」


庭の土は柔らかく、木の根元には形のよい景石が置かれていた。

星揺はその石へ片足を乗せる。

淡い杏色の衣の裾を押さえながら、枝へ手を伸ばした。


あと少し。


指先が飾りへ届きかけた時。


「今から木登りでもするのか?」


背後から明るい声がした。

星揺が振り向く。


深い青色の衣をまとった蕭凌川ショウ・リョウセンが、回廊の石段へ立っていた。


玉冠の下の顔には、呆れと笑いが半分ずつ浮かんでいる。

星揺は景石の上へ立ったまま眉を寄せた。


「違います」


「今まさに、木へ登ろうとしているだろう」


「登ってはいません。石の上へ立っているだけです」


「次は枝へ足を掛けるつもりだったのではないか?」


星揺は答えなかった。

凌川は声を上げて笑い、庭へ下りた。

王族らしい華やかな衣をまとっていても、歩き方には武官のような迷いのなさがある。


「どれだ」


「白い玉の飾りです」


凌川は星揺よりも頭一つ以上背が高い。

枝を僅かに引き寄せるだけで、髪飾りは簡単に手の中へ収まった。


「ありがとうございます」


星揺は石から下りようとした。

その時、衣の裾が景石の角へ引っかかった。


身体が傾く。

凌川がすぐに腕を掴んだ。


「危ない」


「…ありがとうございます」


星揺が地面へ足をつけると、凌川はすぐに手を離した。

そして白玉の髪飾りを差し出す。


「今度は落とすな」


「太子殿下は、私が問題を起こさぬ様見張っていらしたのですか?」


「通りかかったら、起こす直前だっただけだ」


「大丈夫です、何も起きてません」


「木に登ろうとしていた者のセリフではないな」


鈴花が口元を袖で隠した。


星揺は不満そうに凌川を見る。

けれど凌川があまりに楽しそうに笑うため、やがて星揺の口元にも小さな笑みが浮かんだ。


     ◇◇


その日から。

星揺が昭華に招かれて王宮へ来るたび、凌川は西苑へ姿を見せるようになった。


一度目は偶然だと言った。

二度目は、池に新しく入れた魚を見に来たのだと言った。

三度目には、昭華が露骨に眉を寄せた。


「兄上。最近、西苑へ来すぎではない?」


「ここも王宮の中だ」


「以前は、池の魚にも花にも興味などなかったでしょう?」


凌川は答えず、水亭の卓へ並ぶ菓子を一つ取った。

西苑の水亭は、池へ半分せり出すように建てられている。


白い石の欄干。

春風に揺れる薄絹。


卓の上には、花の形をした菓子と、透明な茶器が並べられていた。

星揺は欄干の外へ咲く白い花を見つめていた。


「この花は、夜になると閉じるそうです」


宮女から聞いたばかりのことを、凌川へ伝える。


「そうか」


「ご存じなかったのですか?」


「すべての花を知っている太子でなければ不満か?」


「王宮のことなら、何でもご存じなのかと思っておりました」


「では、今知った。これで問題ないな」


星揺は少し考えたあと、真面目に頷いた。


「はい」


凌川が笑う。


以前の星揺なら、太子を前にもう少し言葉を選んでいた。


しかし、今は違う。

からかわれれば言い返し、分からないことがあれば尋ね、凌川が笑えば、自分も自然に笑う。

二人の間から、少しずつ堅苦しさが消えていた。

星揺にとって凌川は、身分こそ高いが、話しやすくて面白い人。


それ以上ではなかった。


けれど凌川が星揺を見る時間は、会うたびに少しずつ長くなっていた。


     ◇◇


五日目の夕暮れ。


北門から戻った黒馬は、そのまま王宮へ向かった。

王都の城壁は、西へ傾いた陽を受けて赤銅色に染まっている。

門前では一日の仕事を終えた商人たちが荷を片づけ、遠くから夕餉の煙と香辛料の匂いが流れてきた。


宮門をくぐる頃には、空は淡い紫色へ変わっていた。


日暮れが近いとはいえ、地面や屋根にはまだ陽の熱が残っている。

昊然と景雲が通る回廊には、宮人たちが濃い布の日除けを張り、光が入り込まぬ道を作っていた。


王への報告を終えたあと。

二人は、西門へ続く回廊を歩いていた。

回廊の外には、桃の庭が広がっている。

薄紅色の花をつけた木々の間を、夕方の風が抜けていた。


ひらりと、花びらが舞い池の水面へ落ちていき、石灯籠の上へ積もっていく。


その庭から、女の笑い声が聞こえてくる。

その瞬間、昊然の歩みが僅かに遅くなった。


昊然の目に入ったのは、桃の木の下で凌川と星揺が並んでいる姿。星揺の手には、折れた細い花の枝がある。


「ですから、太子殿下が枝へ触れたから落ちたのです」


「風だろう」


「先ほど揺らされました」


「少しだ」


「その少しで、これだけ落ちました」


星揺は自分の肩を見せた。

淡い衣の上には、桃の花びらが幾つも積もっている。

凌川が笑いながら、そのうちの一枚を指先で摘まんだ。


星揺は避けなかった、それよりも以前より近い距離で、何の緊張もなく言葉を交わしている。

昊然の黒い瞳が、二人へ向けられたまま動かなくなる。


たった五日。

けれど自分の知らない五日間に、星揺と凌川の間には、新しい会話と時間が積み重なっているようだった。

胸の奥へ、ずしりと重いものが沈んだ。


凌川の指先にある桃の花びら。

その花びらが、先ほどまで星揺の肩に触れていたというだけで、なぜか気に障った。


昊然様(コウゼン)?」


歩みの止まった昊然へ、景雲は呼びかけた。

その声に気づいた星揺は、回廊を振り返った。


いつもの、黒い日傘、そして墨色の旅装。

その姿が目に入った瞬間、星揺の顔が、明るく変わった。


「龍国公様」


凌川へ向けていた笑顔とは違う。

驚きと安堵が、何の飾りもなく表情へ浮かんでいる。

星揺は桃の花びらを肩に残したまま、昊然の方へ走っていく。


「お戻りになったのですね」


「ああ」


「何事もなかったのですか?」


「問題ない」


星揺は、昊然の姿を確かめるように見た。

墨色の旅装には長い道中の土が僅かに残っている。

普段より目元へ疲れた影が落ちていたが、怪我はない。


無事に戻ってきた。


「よかったです」


その一言で。


昊然の胸に沈んでいたものが、ほんの僅かに軽くなった。

だが、星揺の髪にも肩にも、凌川と同じ桃の花びらが残っている。


「随分、殿下と親しくなったようだな」


自分でも分かるほど、声が低くなった。

星揺が目を瞬いた。


「この五日の間に、何度かお会いしましたので」


「そうか」


返事が、冷たくなる。

その声に、星揺の長いまつ毛が、僅かに伏せられた。


「…お疲れなのですか?」


「いや」


「ですが、少し……」


機嫌が悪いように見えます。

そう、言おうとして、星揺は口を閉じた。



昊然自身にも、なぜ今、こんなにも気分が沈んでいるのか分からない。


彼女が、自分の帰りを喜んだ、ただそれだけで十分なはずなのに、桃の木の下で凌川と笑っていた姿が、やけに黒い瞳の奥から離れなかった。


     ◇◇


景雲は、昭華に呼ばれ、西苑の弓場で顔を合わせていた。夕暮れの弓場には、昼間とは違う静けさがあった。

天幕の下には、使い終えた矢が何本も並べられている。

昭華は景雲を見つけた瞬間、顔を明るくした。

けれど彼が近づく頃には、何事もなかったように顎を上げている。


「遅かったわね」


「予定どおり、本日戻りましたよ」


「私が長く感じたのだから、遅いのよ」


景雲のまつ毛が僅かに動いた。

昭華はすぐに的へ顔を向ける。



「申し訳ございません、急な出立でございましたので」


「分かってるわ」


景雲は昭華を見つめた。

弓を握る右手には、弦で擦れた赤い跡がある。

自分がいない間も、一人で稽古を続けていたのだろう。


「それで、明日は稽古ができるの?」


「まずはその右手を拝見してからでございます」


その瞬間、昭華は目を開き反射的に手を背中へ隠した。


「な、なんともないわ」


「弦で擦れているのでは?」


「どうして、分かるの?」


「隠されましたので」


昭華は景雲を睨んだ。

その視線を見て、景雲の口元は穏やかな笑みが浮かぶ。


「いま、笑ったでしょう?」


「いいえ」


「絶対に笑ったわ」


昭華の声には、怒りよりも嬉しさが滲んでいた。


     ◇◇


その夜。


龍国公府の書房には、北の軍営から持ち帰った報告書が山程積まれていた。

格子窓の外は暗く、庭を流れる細い水路から水音だけが聞こえている。


卓上の灯火が揺れ、積まれた紙の上へ長い影を落としていた。


昊然は一枚の報告書へ、長く目を落としている。


文字は読んでいる、内容も理解できる。しかし不思議なことに、一つも頭へ残らない。


浮かぶのは、

桃の木の下で、凌川と笑っていた星揺。

凌川の指が、星揺の肩から花びらを取った姿。


そして、自分を見つけた瞬間、明るくなった表情。


――本当に、お戻りになってよかったです。


嬉しかった、そのはずなのに。

なぜか胸の奥には、鈍い苛立ちが残っている


「昊然様」


ふいに、景雲の声がした。


「何だ」


「先ほどから、同じ行をお読みになっております」


昊然の指が止まる。


「考え事ですか」


「違う」


返事は早かった、景雲は卓上の報告書へ一度目を向ける。


「左様でございますか」


口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。

昊然はそれを見て、黒い瞳を細める。


「何がおかしい」


「何も」


景雲は静かに頭を下げた。

昊然は再び報告書へ視線を戻す。けれど文字の上へ、桃の花の下に立つ星揺と凌川の姿が重なった。


なぜ気に障るのか。

なぜ、五日の間に縮まった二人の距離が許せないのか。


その感情へ名前をつけることは、できなかった。

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