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十八話 影の中の二人



裴星揺ハイ・セイヨウは、庭に面した居間で、叔母の前へ背筋を伸ばして座っていた。


卓の上には、今日買うものを書き留めた紙が置かれている。


叔母に頼まれた香。


裴春華ハイ・シュンカが使う刺繍糸。


裴景明ハイ・ケイメイのための弓弦。


星揺が自分で使う新しい髪紐。


そして最後に、菓子が二種類。


叔母は紙を上から下まで眺め、最後の一行で手を止めた。


「菓子が二つあるけど?」


「一つは、皆で食べるの」


星揺は迷いなく答えた。


「もう一つは?」


「帰りの馬車の分」


叔母の隣に座っていた陸鈴花リク・リンカが、口元へ袖を当てた。

それを見た星揺は、すぐに鈴花を見る。


「何よ」


「何も言っていないわ」


「顔が言ってる」


鈴花は笑みを隠すように、静かに茶碗へ視線を落とした。

すると、叔母が小さく息を吐く。


「買い物へ行ってもいいわ。ただし、鈴花から離れないこと。決めた店以外へ勝手に行かないこと。それから――」


「走らない。知らない道へ入らない。騒ぎが起きても近づかない、でしょ?」


星揺は指を折りながら自慢げに答えた。


「ちゃんと覚えてるわ」


「覚えていても、それを守るかどうかが問題なのよ」


「ちゃんと守る」


「…不安だわ」


叔母はそう、不安気に言いながらも、目元には僅かな笑みを浮かべていた。

夜宴で足首を捻ってから、星揺は暫く屋敷の中で過ごしていた。

もう普通に歩けるようにはなったものの、叔母も景明も、以前より外出には慎重になっていた。


「足も、もう何ともないの」


星揺は右足を軽く上下に動かしてみせた。


「分かっているわ。でも、治った途端に走り回る必要はないでしょう?」


「大丈夫よ、まだ走らないって約束する」


「その約束が、南市を出るまで残っていればいいけれど」


「もう…叔母上まで、私を子どもみたいに言うのね」


「実際、貴方は目を離したら何をするか分からないでしょう?」


星揺は不満そうに唇を尖らせた。

それでも外出を許されたことは嬉しいらしく、すぐに表情を明るくする。


とにかく、支度の準備をしようと立ち上がろうとした、

その時。

部屋の外から家令が入り、鈴花へ一通の書状を差し出した。


「鈴花様。陸家の伯母上様より、急ぎの書状が届いております」


「伯母様から?」


鈴花は少し驚いたように、書状を受け取った。

陸家にいる伯母は、鈴花の父の姉にあたる。

普段から頻繁に文を寄越す人ではない。

鈴花が封を開き、書かれた文字へ目を通す。


長いまつ毛が、僅かに下がった。


「何かあったの?」


星揺が身を寄せる。


「今日中に、陸家へ顔を出してほしいそうなの」


「何の用事?」


「それが、書いていないの」


鈴花は困ったように、母である叔母へ書状を渡した。

叔母も初めから終わりまで目を通したが、やはり詳しい用件は記されていない。


少し話したいことがあるので、鈴花に来て欲しい。

書かれているのは、それだけだった。


「普段なら、用件くらい書いて寄越す人なのに」


叔母の眉が僅かに寄る。


「鈴花、何か心当たりはある?」


「いいえ。何も聞いていないわ」


「そう……」


叔母は書状をもう一度見つめた。

理由も分からないまま、流石に鈴花だけを陸家へ向かわせるのは気に掛かるのだろう。


「私も一緒に行くわ」


叔母の声に、鈴花が顔を上げる。


「母様も?」


「ええ。何の話か分からないもの。あなた一人で行くより、その方がいいでしょう」


「はい」


鈴花は頷いたあと、申し訳なさそうに星揺を見る。


「星揺ごめんね、今日は一緒に買い物へ行けなくなってしまったわ」


星揺の肩が、分かりやすく落ちた。


「叔母上も行ってしまうの?」


「用件が分からないからね。私も鈴花について行くわ」


「では、買い物は別の日にする?」


鈴花が尋ねる。

星揺は、卓上に置かれた紙へ目を落とした。

春華のために買う刺繍糸は、今日から売り出される新しい色だと聞いている。

景明の弓弦も、次の稽古までには必要だった。

何より、久しぶりの外出を諦めたくない。


「従者と侍女についてきてもらうわ」


叔母がすぐに星揺を見る。


「一人で行くつもりではないでしょうね」


「行かないわ。ちゃんと護衛も連れていく」


叔母は暫く考えたあと、部屋の隅へ控えていた年嵩の従者へ顔を向けた。


「悪いけれど、星揺について行って。侍女も一人連れていきなさい」


「かしこまりました」


従者が深く頭を下げる。

叔母は改めて星揺を見た。


「…いい?護衛から離れないこと。寄り道をしないこと。買い物が終わったら、まっすぐ帰ってくるのよ」


「そんなに心配しなくても大丈夫よ」


「いいえ、大事なことなの。…もし、何か気になるものを見つけても、勝手に追いかけないこと。いいわね?」


叔母に念を押され、星揺の返事が、ほんの僅かに遅れた。


「……はい」


叔母の目が細くなる。


「今、返事が遅かったけど?」


「はい!」


「…返事はいいけど、本当に大丈夫かしら?」


先ほどから二人の会話を聞いていた鈴花は堪えきれずに笑う。

それを見た星揺は不満そうに頬を膨らませた。


     ◇◇


王都の南市


そこには染めた布を何枚も吊るした店。

色鮮やかな糸を壁一面へ並べた店。

花や鳥をかたどった髪飾りを売る露店。

果実を蜜で煮た菓子や、香ばしく焼いた薄餅の匂いが、風に乗って通りへ広がっていた。


建物の屋根と屋根の間には、日除けの布が幾重にも張られていた。

赤や青の布が風を受けて膨らみ、石畳の上へ色のついた影を落としている。


荷車の車輪が石を踏む音。

値を交渉する女たちの声。

遠くから聞こえる、金属を打つ乾いた音。

星揺は侍女と従者を伴い、叔母から渡された紙を確認しながら、約束どおり店を回っていた。


最初に香を買い。

次に、春華が好みそうな淡い銀色の刺繍糸を選んだ。

弓具を扱う店では、景明が使っている弓の大きさや弦の太さを何度も説明し、ようやく合うものを見つけた。


「これで残りは、髪紐と菓子ね」


星揺が紙を覗き込むと侍女が隣から答えた。


「菓子が二種類でございます」


「ありがとう」


通りの向かいを見れば、細い髪紐や簪を並べた店がある。

その店へ向かおうと、一歩進みかけた時。

人混みの向こうに、見覚えのある淡い藤鼠色の衣が見えた。


星揺の足がピタッとその場で止まった。


「姉上?」


少し先の通りを、春華が歩いていた。   

傍らには、日除け笠を被った龍清遠リュウ・セイエンがいる。


少し後ろには、春華の侍女も控えており、清遠の手には、深い藍色の表紙を持つ一冊の書物がある。

春華はその本を見ながら、静かに何かを話していた。


星揺の黒い瞳が、大きくなる。


「姉上と清遠様だわ」


後ろにいた従者は、すぐに嫌な予感を覚えたらしい。


「星揺様。髪紐のお店は、あちらでございます」


「分かっているわ」


答えながらも、星揺の視線は二人から離れない。

春華と清遠は大通りから外れ、書肆の並ぶ細い道へ入っていく。


星揺は一歩、そちらへ進んだ。


「お嬢様」


すぐに侍女が小声で呼び止める。


「少し見るだけよ」


「寄り道をなさらないようにと――」


「寄り道ではないわ。姉上が何をしているのか、少し確かめるだけ」


「それを寄り道と申すのでは……」


侍女の言葉が終わるより先に、星揺は春華たちの後を追った。

従者と侍女も、星揺を一人にするわけにはいかず、慌てて後に続く。


幸い、星揺は約束通り走らなかった。

叔母との約束を、完全に忘れてはいないらしい。


店先に積まれた木箱の陰。

屋根から垂れた布の後ろ。

客を呼び込む商人の間を抜けながら、星揺は一定の距離を保って二人を追った。


本人は慎重に行動しているつもりだ。

けれど今日の若草色の衣は、物陰へ隠れるにはあまり向いていなかった。


春華と清遠は、古い書肆の前で足を止めた。

店の脇には、人一人が通れるほどの細い路地がある。

高い土壁と、隣の建物から張り出した深い軒に挟まれ、昼間でも薄暗い。

星揺は従者たちへ静かにするよう合図し、路地の入口へ身を寄せた。


春華たちの姿は、積まれた書箱と低い塀の隙間から僅かに見える。


「こちらの詩は、前の巻より明るいものが多いのですね」


春華の穏やかな声が聞こえた。


「旅を終え、故郷へ戻った後に書かれたものだそうです」


清遠が答える。


「それで、同じ花の描写でも印象が違うのですね」


春華は胸元に抱いた本へ目を落とした。


「前の巻では、咲いている花を見ても、少し寂しく感じました」


「帰る場所がなかったからでしょう」


「では、今は見つけたのでしょうか」


春華が尋ねると、清遠はすぐには答えなかった。

星揺は聞き逃すまいと、少し身を乗り出す。


「見つけたのかもしれません」


低く、静かな声だった。

春華のまつ毛が、僅かに揺れる。


「それは、どこだったのでしょう」


「詩人にしか分かりません」


清遠は穏やかに答えた。

日除笠の下で表情は見えないけれど、彼の視線は春華を見ているように見えた。


その瞬間星揺の目が見開いた。

今の言葉には、詩集の話だけではない何かが含まれていた気がする。

もっとよく聞こうと、壁へ耳を近づけた。



──その時。


すぐ後ろから、低い声が落ちた。


「何をしている」


「ひゃ――」


声が出る寸前。

星揺は反射的に、自分の両手で口を塞いだ。


そして、勢いよく振り返る。

黒い日傘の下から、龍昊然リュウ・コウゼンが星揺を見下ろしていた。


半歩後ろには、龍景雲リュウ・ケイウンと数人の役人が立っていた。


どうやら南市の視察中らしい。


星揺は、二人を見るのに必死で後ろから昊然が近づいていたことに、全く気が付かなかった。


昊然の黒い瞳が、両手で口を塞いだ星揺から、路地の先へ移る。

それから、困り切った顔をしている従者と侍女へ向けられた。


昊然の眉間の皺が、グッと深くなる。


「また何を――」


その時。

通りの向こうから、春華の声がした。


「今、何か聞こえませんでしたか?」


星揺の肩が大きく跳ねた。

清遠も、路地の方へ視線を向ける。


二人の足音が近づいてきた。


星揺は両手を口から離すと、反射的に昊然の袖を掴んだ。


「こちらへ」


声は出さず、唇だけを動かす。

昊然が何かを尋ねるより早く、春華たちの影が路地の入口へ近づいてきた。

星揺は慌てて路地の奥へ下がろうとした。

けれど数歩も進まないうちに、背中が冷たい土壁へ触れた。


これ以上、後ろへは行けない。

昊然は近づく足音へ一度目を向けた。

影に入ると、黒い日傘をゆっくりと閉じた。


次の瞬間。

星揺の腰へ腕を回し、その身体を壁際の深い影へ引き寄せた。


「え――」


声になる前に、身体が浮くほど強く引かれた。

昊然が星揺の前へ立つ。

黒い衣が、路地の入口から彼女の姿を覆い隠した。


背中には、冷たい壁。

正面には昊然の胸。


腰へ回された腕に引かれ、星揺の身体は昊然へぴったりと重なっていた。

呼吸をするたび、胸元が僅かに触れる。

星揺の両手は、いつの間にか昊然の胸へ置かれていた。

薄い衣越しに伝わる、確かな体温。


腰を抱く腕も。

胸元から伝わる鼓動も。


あまりにも近い。


顔を上げれば、昊然の顎へ触れてしまいそうな距離だった。

黒い髪が肩から流れ、星揺の頬のすぐ横へ落ちている。

市場の騒がしさが、急に遠くなった。


自分の心臓の音だけが、狭い路地へ響いているように感じられる。

昊然の腕にも、この鼓動が伝わっているのではないかと、そう思うと星揺は恥ずかしくなり、一気に頬に熱が集まった。


「静かに」


少しだけ離れようと動けば、昊然がごく低い声で囁いた。

星揺は声を出すこともできず、小さく頷いた。

その動きだけで、額が昊然の胸元へ近づく。


路地の入口へ、春華と清遠の影が落ちた。


「誰もいないようですが」


春華が言う。


「猫でも通ったのでしょう」


清遠の声が続く。

けれど、清遠の足は路地の前で一瞬止まった。

星揺は思わず息を止める。

昊然は腰へ回した腕へ僅かに力を込め、星揺をさらに自分の胸元へ引き寄せた。


頬が、墨色の衣へ触れる。


昊然のもう片方の手が、星揺の頭のすぐ横にある壁へつかれた。

外から見れば、黒い衣と壁の影しか見えないだろう。

けれど星揺からは、逃げる場所が完全になくなった。


前も後ろも昊然に囲われている。

腰を支える手は強かった。

それでも決して痛くはない。


夜宴で抱き上げられた時と同じように、星揺を傷つけないぎりぎりの力へ、きちんと加減されている。

そのことへ気づくと、胸の奥がギュッと別の意味で苦しくなった。


清遠の視線が、路地の奥へ向けられる。

昊然の身体が、星揺を覆うように僅かに動いた。

胸元へ押しつけられた星揺の耳へ、昊然の鼓動が聞こえる。


自分ほど速くはない。

けれど、普段より少しだけ強く鳴っているような気がした。


やがて清遠が視線を戻す。


「参りましょう」


「ええ」


春華たちの足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。

星揺は、ようやく止めていた息を吐いた。

けれど昊然は、すぐには身体を離さなかった。


腰へ回された腕も。

壁へつかれた手も。

そのままだった。


星揺が恐る恐る顔を上げる。

昊然も、彼女を見下ろしていた。

黒い瞳の奥へ、頬を赤くした自分の顔が映っている。


昊然の視線が、星揺の目から頬へ。

そして一瞬だけ、僅かに開いた唇へ落ちた。

すぐに黒い瞳へ戻る。


その短い動きへ気づいたのか、気づかなかったのか。

星揺の胸が、さらに強く鳴った。


「もう……行かれましたか?」


声が、思ったより小さくなった。


「ああ」


低い返事。


「では……」


もう離れてもよいはずだった。

そう言おうとしたのに、続く言葉が出てこない。

腰へ回された腕の温かさが消えることを、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまった。


昊然の視線が、星揺の両手へ落ちる。

星揺はまだ、彼の胸元の衣をしっかりと掴んでいた。


「先に手を離せ」


低い声で言われ、星揺は目を見開いた。


「あ……」


慌てて両手を離す。

指先が墨色の衣から離れた途端、どこへ置けばよいのか分からなくなり、自分の胸元へ引き寄せた。


昊然もようやく腰から腕を離し、半歩だけ後ろへ下がる。

二人の身体の間へ、路地の冷たい空気が入り込んだ。

星揺は壁へ背をつけたまま、乱れた呼吸を整えようとした。

腰にはまだ、昊然の手の形が残っているような気がする。


昊然も、星揺から離した手を一度だけ握った。

指先には、細い腰の柔らかな感触が残っていた。


「それで」


昊然の眉が、再び僅かに寄る。


「何をしていた」


星揺の目が泳いだ。


「姉上がいらしたので」


「それは見れば分かる」


「清遠様とお話ししていたので、少しだけ気になって」


「後をつけたのか」


「少しだけです」


「盗み聞きをしていたな」


「……す、少しだけです」


昊然は暫く星揺を見つめた。

星揺は反論しようと唇を開いたが、何も浮かばなかった。


視線を下げ、小さく唇を尖らせる。


「姉上は、清遠様のことを何も話してくださらないのです」


「話したくないこともあるだろう」


「でも、私は心配なのです」


星揺は顔を上げた。


「清遠様が、姉上を大切にしてくださる方なのか知りたいのです」


先ほどまでの、悪戯を見つかった娘の顔ではなかった。

姉が傷つかないことを、本気で願っている目だった。

ただ、春華が幸せであることだけを願っている。

   


「清遠のことは、私も見ている」


「龍国公様が?」


「ああ」


「どうしてですか?」


「龍家の者だからだ」


嘘ではない。

けれど、すべてでもなかった。

星揺は少し考えたあと、昊然の顔を見上げた。


「では、姉上が傷つきそうな時は、教えてくださいますか?」


「…善処しよう」


「ありがとうございます。では、もう後はつけません」


「本当か?」


「はい!…今日は」


返事の後に小さい声で本音を言えば昊然の眉が寄った。

それを見た星揺はまた慌てて言い直した。


「あっ、いえ、これからもです!」


「信用できないな」


「ひどいです…」


星揺は不満そうに昊然を見る。

星揺を見つめるその黒い瞳は少しも冷たく見えなかった。


路地の外から、景雲の声が聞こえた。


「昊然様。お話は終わりましたか」


星揺の従者と侍女も、少し離れた場所で困った顔をしている。

二人とも、星揺を止めようとはしたのだろう。

昊然は路地の外へ出ると、従者へ視線を向けた。


「そなたたちの責任ではない」


年嵩の従者が、僅かに目を見開く。


「この娘を止めるのは難しい」


「龍国公様」


星揺が不満そうに呼ぶ。

景雲は口元を緩めそうになり、静かに顔を伏せた。


「今、笑いましたよね?」


「いいえ」


「絶対に笑いました」


「お気のせいかと存じます」


星揺は景雲を疑うように見た。

しかし景雲は涼しい顔をして口元を緩めている



「それで、買い物は終わったのか?」


昊然の問いに、星揺の目が大きくなる。


「どうしてご存じなのですか?」


「先ほど紙が見えた」


「見たのですか?」


「目に入っただけだ」


昊然は黒い日傘を開いた。

深い影が、星揺の足元まで広がる。


「行くぞ」


星揺は一瞬、昊然の顔を見つめた。


「もしかして…一緒に?」


「視察の道が同じだ」


短い返事。

けれど星揺の顔には、隠しきれない笑みが広がった。


「では、参りましょう」


星揺は自分から、黒い日傘の下へ一歩入った。

先ほど壁際で重なった身体の温かさを、二人ともまだ忘れてはいなかった。

傘の下へ二人で入ると、肩が触れそうなほど距離が近くなる。


星揺はそれを意識しないふりをして前を向いた。

昊然も何も言わず、歩き始める。

黒い影が、二人を包んだまま石畳の上を進んでいった。


歩き始めて間もなく。

星揺は、傘の端から昊然の肩へ細い陽が落ちていることに気づいた。


昊然が無意識に、傘を星揺の側へ傾けているのだ。

星揺は昊然の袖を掴み、自分の方へ引いた。


「何をする」


「日が当たっています」


「君が外へ出ればよい」


「私が外へ出たら、龍国公様がまた傘をこちらへ傾けるでしょう?」


昊然は黙った。

図星だったらしい。


「私は、陽に当たっても平気です」


「分かっている」


「では、きちんと傘の中へ入ってください」


「君が近い」


星揺はそこで初めて、互いの肩が触れていることへ気づいた。

路地で身体が重なった時の感覚が、一瞬にして蘇る。


胸元へ触れた、昊然の体温。

腰へ回された腕。

耳元に落ちた、低い声。


星揺の頬が、また少し熱くなった。


「仕方がありません。傘が小さいのですから」


昊然は星揺を見下ろした。

本人は平然としているつもりらしい。

けれど、長いまつ毛は僅かに伏せられ、耳の先には薄い赤みが差している。


昊然は何も言わず、日傘を持つ手を少し高くした。

二人分の影が、石畳の上へ重なって伸びる。


黒い傘の下。

星揺は、もう一度だけ昊然の袖を掴み直した。

人混みの中ではぐれないため。

そう自分へ言い聞かせながら。


     ◇◇


髪紐の店へ着くと、星揺は色とりどりの紐を前に、長い時間迷った。


春の桃を思わせる淡い紅色。

晴れた空のような水色。

金糸を織り込んだ白。

そして、深い夜を思わせる青。

星揺は紅色と青色を一本ずつ手に取り、交互に見比べた。


「どちらがよいと思われますか?」


昊然へ二本の髪紐を差し出す。


「私に聞くのか」


「今、龍国公様が一番近くにいらっしゃいますから」


少し離れた場所には侍女もいる。


けれど星揺は、初めから昊然へ尋ねるつもりだったらしい。

昊然は二本の髪紐を見たあと、深い青へ視線を止めた。


「こちらだ」


「青ですか?」


「ああ」


星揺は青い髪紐を、自分の黒髪へ当ててみる。


「似合いますか?」


昊然の黒い瞳が、髪紐から星揺の顔へ移る。

頬へ残る淡い赤み。

期待するように自分を見上げる黒い瞳。


「似合う」


迷いのない声だった。

星揺のまつ毛が大きく瞬く。

それから、嬉しさを隠しきれないように口元を緩めた。


「では、こちらにします」


店主へ青い髪紐を渡す。

紅色の方へは、もう一度も目を向けなかった。


買い物を終え、最後に菓子の屋台へ寄った。

星揺は蜜を絡めた果実を二本買う。

一本を侍女へ預け。

もう一本を、昊然へ差し出した。


「何だ」


「龍国公様の分です」


「私はいらない」


「一緒に歩いてくださったお礼です」


「視察の道が同じだっただけだ」


「それでもです」


星揺は果実を下げようとしない。


「お受け取りにならないと、ずっとこのままです」


昊然は差し出された菓子と、星揺の顔を見比べた。

やがて諦めたように受け取る。


「甘いだろう」


「菓子ですから、苦い菓子など、あまり美味しくないでしょう?」


星揺は自分の分を一口かじり、嬉しそうに目を細めた。

昊然も、手にした果実へ視線を落とす。

透明な蜜が、春の光を受けて小さく輝いていた。


「では、私はここで帰ります」


馬車を待たせている場所は、すぐ先だった。

従者と侍女が、星揺の近くへ戻ってくる。

星揺は黒い傘の下から、一歩外へ出た。


明るい陽が、若草色の衣と黒髪を柔らかく照らす。

黒い影の中へ残った昊然と、光の中へ出た星揺。

その間には、僅か一歩の距離しかない。


「今日は、ありがとうございました」


「次は、大人しくしていろ」


「努力します」


「約束はしないのか」


「できない約束は、しない方がいいでしょ?」


昊然の眉が僅かに寄る。

星揺は堪えきれず、小さく笑った。


「また、お会いしましょう」


その言葉は、社交辞令ではなかった。

本当に、次に会うことを楽しみにしているような声だった。

昊然の日傘を持つ指に、僅かに力が入る。


「……ああ」


星揺は満足したように笑い、馬車の方へ歩き出した。

数歩進んだところで、もう一度振り返る。

昊然は、まだ同じ場所へ立っていた。

片手に黒い日傘。

もう片方の手には、星揺から渡された蜜菓子。


普段の昊然には、あまりにも似合わない組み合わせだった。

星揺は堪えきれず、小さく笑った。

昊然の眉が僅かに寄る。


「何だ」


「いいえ。何でもありません」


星揺は今度こそ、馬車へ向かった。

春の陽の中を進む背中を、昊然は暫く見送っていた。

腰へ回した腕に残る柔らかさ。

胸元へ触れていた、小さな両手。

壁際で、自分を見上げていた赤い顔。


昊然は手にした菓子へ目を落とした。

一口だけ、口へ運ぶ。

やはり甘い。

普段なら、好んで食べる味ではなかった。


それでも。

昊然は残りを捨てなかった。

傘の内側には、先ほどまで隣を歩いていた星揺の声と、袖を掴んでいた指先の温かさが、まだ残っているように感じられた。

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