表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

十九話 春の終わりに



裴家の門前には、二つの灯籠が揺れていた。

昼間は暖かかった風も、陽が沈むと冷たさを帯びている。

居間で待っていた裴星揺ハイ・セイヨウは、すぐに顔を上げた。


「帰ってきた!」


向かいに座る裴春華ハイ・シュンカが、読みかけの書物を閉じる。

卓上には、星揺が南市で買ってきた品が並んでいた。


叔母に頼まれた香。

春華のための淡い銀色の刺繍糸。

裴景明ハイ・ケイメイの弓へ張る新しい弦。

家族で食べるための菓子。


そして星揺の手元には、深い青色の髪紐が置かれていた。

指先で何度も布の端を撫でていたことに気づき、星揺は慌てて髪紐を買い物の包みの下へ隠した。


やがて回廊から足音が聞こえ、戸が開かれ先に入ってきたのは叔母だった。

その後ろに、陸鈴花リク・リンカが続いている。

 


「お帰りなさい」


春華が穏やかに声をかける。

星揺は座っていられず、すぐに立ち上がった。


「遅かったわね。お話は何だったの?」


叔母は外衣を侍女へ預けながら、小さく息を吐いた。


「まずは座らせてあげなさい」


鈴花が腰を下ろせば、星揺は鈴花のすぐ隣へ座り、その顔を覗き込んだ。


「陸家で何かあったの?」


「家で問題が起きたわけではないわ」


鈴花は静かに答えた。

侍女が温かい茶を運んでくる。

鈴花は茶碗を両手で包んだが、すぐには口をつけなかった。

湯気が白く立ち上り、長いまつ毛の前をゆっくりと流れていく。


「それで、何だったの?」


星揺が重ねて尋ねれば、鈴花はゆっくりと茶碗を卓へ戻した。


「結論から言うと、縁談の話だったの」


星揺の目が大きく開いた。


「縁談?」


思った以上に声が響いたらしい。

廊下へ控えていた侍女が、僅かに顔を上げた。

星揺は慌てて口に手を添えると、声を落とした。


「鈴花に?」


「ええ」


「どなたと?」


「伯母様が懇意にしている官吏の家の方だそうよ」


鈴花の声には、驚きも浮ついた様子もなかった。

けれど、膝の上で重ねられた指先だけが、普段より少しだけ固く結ばれていた。


「それで、お会いしたの?」


「お会いする前に、お断りしたわ」


星揺の瞼がパチパチと瞬きをした。


「どうして?」


「一度会って話をしてみないかと勧められただけよ」


「それなら、会ってみればよかったのに」


星揺は迷いなく言った。

鈴花のまつ毛が、一度ゆっくり上下する。


星揺は続けた。


「とても良い方かもしれないでしょ?会ってみて嫌だったら、その時にお断りすればいいじゃない?」


春華は何も言わず、二人の会話を見守っていた。

叔母もすぐには口を挟まない。


「…そういう考え方もあると思うわ」


「じゃあ、なぜ?」


「会えば、相手の方にも、そのご家族にも期待を持たせてしまうでしょ?」


鈴花は茶碗の縁へ指を添えた。


「今の私は、婚姻を考えるために誰かと会いたいと思わないの」


「鈴花は婚姻したくないの?」


「いいえ、ずっとしたくないとは言っていないわ」


鈴花は少し困ったように微笑んだ。


「ただ、今はその時ではないと思ってるの」


星揺は、まだ完全には納得できないようだった。


「会うだけでも?」


叔母が、今度は静かに口を開いた。


「星揺。家同士の紹介で会うというのは、本当に話をするだけとは限らないのよ」


星揺が叔母を見る。


「一度会えば、次の話へ進むつもりがあると思われることもあるわ。鈴花は、相手へ余計な期待を持たせたくなかったの」


「そういうものなの?」


「そういうものよ」


星揺は、鈴花へ視線を戻した。


「伯母様は、怒らなかった?」


「残念そうではあったわ」


眉を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべる鈴花


「でも、無理に会わせるとは仰らなかった」


「母様も、私が断りたいなら断ってよいと言ってくれたの」


叔母は娘を見る。


「本人が望んでいないのに、連れていくわけにはいかないでしょう?」


当然のことのように言った。

星揺の肩から、少しだけ力が抜ける。


「それなら、よかったわ」


「会ってみればよかったと思っているのではなかったの?」


鈴花がすかさず尋ねる。


「それは思ってるわ」


星揺は真っ直ぐに鈴花を見ると、素直に答えた。


「でも、鈴花が嫌なのに無理に行かされるのは、もっと嫌よ」


星揺の、本音を聞いて鈴花の目元が柔らかくなった


「ありがとう」


星揺は卓の上の菓子を鈴花の前へ押し出した。


「疲れたでしょう?これでも食べて」


鈴花が菓子へ手を伸ばしかけた時、その視線が買い物の包みの下から覗く深い青へ止まった。


「それは、今日買った髪紐?」


星揺の肩が分かりやすく僅かに揺れる。


「そう」


「綺麗な色ね」


鈴花が手を伸ばすと、星揺はなぜか先に髪紐を持ち上げた。


「まだ見せてくれないの?」


「見せないとは言っていないわ」


星揺は渋々、青い紐を卓上へ広げた。

春華も一緒に目を向ける。


「星揺が自分で選んだの?」


「私が買ったのだから、私が選んだに決まっているでしょ?」


返事が少しだけ早い。

鈴花は青い紐から、星揺の頬へ視線を移した。


すると、昼間のことを思い出したのか、頬には僅かな赤みが浮かんでいる。


「何よ」


星揺が先に聞く。


「何も言っていないわ」


「顔が言ってる」


鈴花は追及せず、静かに菓子を一つ取った。

けれど口元には、小さな笑みが残っていた。


     ◇◇


それから数日後。


西方の国から届いた婚姻の申し入れによって、王宮の空気は僅かに変わっていた。


表向きには、いつもと何も変わらない。


けれど王族の住まいへ近づくほど、人々の話し声は小さくなっていた。

星揺と鈴花は、蕭昭華ショウ・ショウカに招かれ、王宮の西苑を訪れていた。


水亭へ向かう回廊を歩きながら、星揺は何度か髪へ手を添えた。

黒髪には、南市で買った深い青の髪紐を結んでいる。

星揺が歩くたび、紐の端が背中で柔らかく揺れた。


「さっきから、何度も髪を気にしているわね」


鈴花が言う。


「緩んでいないか確かめているだけよ」


「朝から、もう五度は確かめていると思うけど?」


「王宮で髪が乱れたら恥ずかしいからよ?」


鈴花はそれ以上何も言わなかった。



水亭へ入ると、昭華は池へ向けて置かれた長椅子へ座っていた。

今日は、いつもの華やかな薄紅色や金の衣ではない。

霞がかった空のような、淡い紫色の衣をまとっている。

艶やかな黒髪を飾るのも、真珠の簪が一本だけだった。


別に、顔色が悪いわけではない。


けれど、普段なら星揺たちが水亭へ入る前から声をかけてくる昭華が、今日は二人の足音へ気づいても、すぐには立ち上がらなかった。


「公主殿下にご挨拶申し上げます」


星揺と鈴花が頭を下げる。

昭華は少しだけ遅れて、二人へ顔を向けた。


「堅苦しくしなくてよいわ」


声にも、いつもの勢いがなかった。

卓の上には茶と菓子がいくつも並べられている。

けれど昭華の茶碗には、口をつけた跡すらなかった。

星揺は鈴花と一度だけ視線を交わし、昭華の向かいへと座った。


「今日は、弓の稽古はなさらないのですか?」


水亭から少し離れた場所には、景雲から弓を教わっていた小さな弓場が見える。


けれど、弓架は空だった。

的もすでに片づけられている。

昭華の視線が、一度その弓場へ向いた。


「今日はしないわ」


「右手が、まだ痛むのですか?」


鈴花は静かに尋ねる。


「もう痛くないわ」


「では、景雲様が王宮へいらしていないのですか?」


星揺が尋ねた瞬間。

昭華の指先が、膝の上で僅かに動いた気がした。


「今日は昊然と一緒に、父上のところへ行っているそうよ」


何でもないことのように答えるけれど、視線は弓場へ残ったままだった。


星揺は、その横顔を見つめた。

先日までなら、景雲がいなければ不満そうに彼を呼びつけていたはずだ。

けれど今日は、誰にも彼を呼びに行かせる様子もない。


涼やかな音だけが、水亭へ落ちる。

昭華は暫くそれを聞いていたが、やがて小さく息を吸った。


「私…、西方へ嫁ぐことになったわ」


茶を飲もうとした星揺の手が一瞬で止まった。

隣の鈴花の長いまつ毛も、僅かに持ち上がる。


「と、嫁ぐ……?」


星揺がもう一度聞き返した。


「先日、使者が来ていた国へよ」


昭華は池の向こうへ顔を向けたまま淡々と答える。


「父上から、正式に話を聞いたわ」


先日、西方の国から、通商と同盟を強めたいという申し入れが届いた。

その条件の一つが、王家同士の婚姻だった。

求められたのは、この国でただ一人の公主である昭華。

相手は、西方王の次男だという。


「それは…もう、決まっているのですか?」


鈴花が静かに尋ねた。


「ええ」


「ですが、公主殿下のお気持ちは……」


鈴花は言葉を選ぶように、一度間を置いた。


「陛下から、尋ねられたのですか?」


昭華の口元へ、ごく薄い笑みが浮かぶ。

笑っているように見えるのに、彼女のその目は少しも笑っていなかった。


「父上は…、私がどう思うかなど尋ねなかったわ」


卓上の茶碗へそっと指を添える。


「両国のために必要な婚姻だと仰っただけ」


星揺は言葉を失った。


つい数日前。

鈴花から縁談の話を聞いた時には、会ってみればよかったのにと簡単に言えた。


会ってみて、相手の方と話してみて気に入らなければ、断ればよい。


そう思っていた。


けれど、昭華には、そのどれも許されていないのだ。


「お断りすることは…できないのですか?」


星揺は恐る恐る尋ねた。

昭華は静かに首を横へ振る。


「私は公主なのよ」


それだけで、すべてを説明するつもりなのだろう。


生まれた時から。

国のために使われる日が来ることを、彼女は知っていた。

断るなんて、出来るはずがないことを。


「相手の方へ、お会いしたことは?」


「ないわ」


「では、どのような方かも……」


「年が近く、評判も悪くないそうよ」


昭華は、父から聞かされた言葉を二人へとそのまま繰り返した。


「剣も学問も優れている。穏やかな気質で、王族としての責任感もある」


そこで、一度だけ言葉を止めた。

父から言われた言葉を思い出しているのだろう、どこか悲しい表情が浮かんでいる。


「だから、何も心配する必要はないのですって」


星揺の胸へ、鈍い痛みが広がった。

父から、どれほど良い人だと言われても、知らない人であることに、変わりはない。


「いつ、西方へ?」


鈴花が尋ねる。


「春が終わる頃には、王都を出るそうよ」


昭華は淡々と答えた。

けれど茶碗へ触れた指には、白くなるほど力が入っている。


「一度嫁げば、簡単には帰ってこられないのでしょうね」


その声は、誰へ尋ねたものでもなかった。

星揺は唇を開いたが、答える言葉が見つからない。

昭華は、自分で続きを口にした。


「父上に、尋ねたわ」


少しだけ笑う。


「いつ、戻れるのですかと」


風が止んだ。

池の水面も、玉飾りの音も静まる。


「父上は、婚姻だ、客として赴くのではないと仰ったわ」


最後の方だけ、声が僅かに小さくなった。

けれど、昭華は決して泣かなかった。

二人に対しても涙を堪えているようにも見せない

ただ、弓場へ向けられた横顔だけが、ひどく寂しそうだった。


「景雲様には……」


星揺は、ほとんど無意識に名を口にしかけた。

けれど途中で止める。

昭華のまつ毛が、僅かに揺れた。


聞こえていたのだろう。


「まだ何も話していないわ」


静かな声だった。


「お話しになるのですか?」


鈴花が尋ねる。

昭華は暫く答えなかった。


「…私が話す必要はないでしょう」


「ですが……」


「いずれ、王宮中へ知らされるわ」


昭華は、少し強い声で言った。


「景雲も、ほかの者たちと同じように知ればよいのよ」


星揺には、その言葉が彼女の本心ではないと分かった。


もし、自分の口から伝えれば、景雲がどのような顔をするのか、見なければならない。

それが怖いのかもしれない。


あるいは、変わらない穏やかな顔で景雲に祝われることに耐えられないのかもれない。


「西方は、とても遠いそうよ」


昭華が話を変えるように呟いた。


「雪の多い山を二つ越えて、その先には、王都とはまったく違う乾いた土地が広がっているのですって」


「寒い場所なのですか?」


星揺が尋ねる。


「冬はね。夏はこちらより暑いそうよ」


昭華は知らない国のことを、誰かから聞いた話のように続けた。


「言葉も少し違う。食べ物も、着るものも。王宮の造りも違うそうよ」


声の奥へ、隠しきれない不安が滲む。


「けれど…私なら、きっとすぐに慣れるわ」


そう言って、昭華は笑おうとした。

しかし唇の端は、うまく持ち上がらなかった。

星揺は思わず、卓上へ置かれた昭華の手へ自分の手を重ねた。


昭華の目が、僅かに見開かれた。


「…すごく、怖いですよね」


星揺は、取り繕わずに言った。


「知らない場所へ行くのは」


「私は一人ではないわ。侍女も連れていけるもの」


「それでも、です」


星揺の手へ、少しだけ力が入る。


「怖くないふりをしなくても、いいと思います」


昭華は星揺を見つめた。

いつもならば、怖くなどないとすぐに言い返しただろう。

けれど今日は、その言葉が出てこなかった。

長いまつ毛がゆっくりと伏せられる。


「……少しだけよ」


小さな声だった。


「少しだけ、不安なだけ」


星揺は何も言わず、その手を握ったままでいた。

鈴花も、昭華の隣へ静かに座り直す。


「私たちでよければ、いつでもお話を伺います」


昭華は二人を交互に見た。

やがて、ほんの僅かに笑う。

今度の笑みは、先ほどより少しだけ本物に見えた。


「なら、嫁ぐまで何度でも呼ぶわ」


「はい」


「必ず来なさい」


「もちろんです」


星揺が答える。

鈴花も静かに頷いた。

それでも昭華の視線は、そのあと何度も、誰もいない弓場へ向けられていた。


     ◇◇


王宮を出る頃には、空が夕暮れの色へ変わっていた。

西へ傾いた陽が王宮の屋根を赤く染め、金色の瓦が眩しく輝いている。

星揺と鈴花は、裴家へ戻る馬車の中へ向かい合って座っていた。


車輪が石畳の継ぎ目を踏むたび、車内が小さく揺れる。

けれども、二人とも、暫く何も話さなかった。

星揺は窓の外を流れていく朱塗りの塀をじっと見つめていた。


「好きな人がいても……」


ぽつりと二人の間に声が落ちる。

鈴花が顔を上げた。

星揺は窓の外を見たまま、そのまま言葉を続ける。


「そんなことは、関係ないのね」


昭華は、誰が好きだとは言わなかった。

けれど、景雲の名が出た時の僅かな沈黙。

誰もいない弓場へ何度も向けられた視線。


それだけで、十分だった。

鈴花は膝の上で、指を静かに重ねた。


「私は、断ることができたわ」


その声には、数日前にはなかった重みがあった。


「会わないと自分で決めることができた。…でも、公主殿下には、会うかどうかを選ぶことさえできないのね」


「…不公平だわ」


「そうね」


「公主殿下なのに」


「公主殿下だから、なのでしょうね」


身分が高ければ、何でも望みどおりになると思っていた。


美しい衣。

宝石。

広い王宮。


欲しいものは全て手に入って、美味しいものを食べて好きな人と一緒に過ごす。


多くの人々から傅かれる暮らし。


けれど、自分の人生で最も大切なことだけは、自分で選ぶことができない。

星揺は髪へ結ばれた青い紐へ、無意識に指を触れた。


好きな人がいても。

その人と一緒にいたいと思っても。

家や国の都合の前では、意味を持たないことがある。


その瞬間。


黒い日傘の下に立つ昊然の顔が、なぜか脳裏へ浮かんだ。


透けるように白く綺麗な肌

夜のような黒い瞳。

壁際で自分の腰を抱き、低い声で静かにするよう囁いた時の顔。


髪紐を選びながら、似合うと迷いなく答えた声までが鮮明に蘇る。


星揺の指が、青い紐の上で止まった。


なぜ今。

好きな人と考えた時に、龍国公様の顔が浮かんだのだろう。

胸の奥が、ほんの僅かに落ち着かなくなる。

けれど星揺には、その理由が分からなかった。

自分の中に生まれ始めている感情へ、まだ名前をつけるには幼く。


誰かを好きになるということが、どのようなものなのかも知らなかった。

星揺は答えを探すことを諦めるように、窓の外へ目を戻した。


夕暮れの王都を、長い影が流れていく。

向かいに座る鈴花も、静かに窓の外を見つめていた。

二人はそれ以上、もう何も話さなかった。


ただ同じように。


自分では選べない未来というものを、初めて少しだけ怖いと感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ