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二十話 遅すぎた想い



王宮の東にある執務殿には、朝の冷たい空気が残っていた。

格子窓の外では、春の風に竹の葉が擦れ合っている。

陽の光は幾重にも重ねられた濃い布に遮られ、室内へ届く頃には、薄い灰色へ変わっていた。


黒檀の卓には、西方へ続く街道を記した地図が広げられている。


王都を出て南西へ向かう道。

二つの山脈。

雨季には水位が上がる大河。

国境を越えた先にある、西方王国の都。


その道筋へ沿うように、宿営地と井戸の位置が細かな墨字で書き加えられていた。


龍景雲リュウ・ケイウンは卓の前へ立ち、軍から届いた報告書へ目を通していた。


濃紺の衣。


いつもと変わらず整えられた黒髪。

口元には、誰と話す時にも浮かべる穏やかな表情がある。


卓を挟んだ向かいには、龍昊然リュウ・コウゼンが座っていた。


黒い衣の袖を卓へ置き、一通の王命書を読み終え、昊然は書状を畳むと、地図の端へ静かに置いた。


「昭華公主の婚姻が決まった」


景雲が報告書をめくろうとしていた指が、ほんの一瞬だけ、止まった。

けれど、その僅かな動きには、他の者なら気づかなかったかもしれない。



「西方王の次男へ嫁がれる」


昊然の低い声が、静かな部屋へ落ちる。


「春の終わりには王都を発つ。陛下から、道中の警護と旅程を龍家でも確認するよう命じられた」


景雲は何も答えなかった。


しかし、胸の奥へ。

突然、細い刃を突き立てられたような痛みが走った。


ずきん、と。


その瞬間だけ、呼吸をすることを、一瞬忘れる。


報告書を持つ指へ、僅かに力が入った。

紙の端が、小さく歪む。


婚姻。

西方へ嫁ぐ。

王都を離れる。


それぞれの言葉が、すぐには理解できず、一つへ繋がらなかった。


けれど、次の瞬間には、幾つもの記憶が景雲の胸へ押し寄せた。


弓場で、矢から庇った時。

腕の中で目を見開き、怪我はないかと尋ねた自分より先に、肩から流れる血を見て顔色を変えた昭華の表情。


翌朝、屋敷の薬庫へ収まりきらないほどの薬を送りつけてきたこと。

傷を見せろと手を伸ばし、手首を掴まれた途端、頬を赤くした顔。


弓が初めて的へ当たった時。

彼女が子どものように笑い、誰よりも先に景雲の顔を見たこと。

北の軍営から戻った時には、不満そうに眉を寄せながら、


――私が長く感じたのだから、遅いのよ。


と告げた声。


なぜ、あの言葉が嬉しかったのか。

なぜ、弓場へ向かう足取りが、日を追うごとに軽くなっていたのか。

なぜ、昭華が自分を待っていると知ると、胸の奥が温かくなったのか。


今まで分からなかったことが、いや…分からないふりをしていたことが。

胸を刺した痛みによって、一つの答えへ繋がった。


ああ…、自分は、あの方を好きだったのだ。


それに気づいた瞬間。

その感情は、すでに行き場を失っていた。

王命によって決まった婚姻。

国と国を結ぶための約束。

一介の臣下である景雲が、口を出せるわけがない。


たとえ今、昭華のもとへ駆けつけたところで。

行かないでほしいと告げる権利など、自分にはないのだ。


「景雲」


昊然に呼ばれ、景雲はスッと顔を上げた。

黒い瞳が、静かに自分を見ている。


景雲は、いつもの穏やかな笑みを作った。


「左様でございますか」


声は、思ったよりも普段どおりに出た。

そのことが、かえって苦しかった。


昊然の視線が、景雲の手元へ落ちる。

指の間で、報告書の端が僅かに折れていた。


「旅程の確認は、別の者へ任せてもいい」


景雲のまつ毛が、微かに動いた。


「…なぜですか?」


「無理をする必要はない」


昊然はそれ以上、もう何も言わなかった。

けれど景雲には、何を見抜かれたのかが分かった。

自分ですら今さら、ようやく知ったばかりの感情を。


昊然は、胸の痛みへ名前をつける前から気づいていたのかもしれない。

景雲は指先の力を抜き、折れた紙を静かに伸ばした。


「いいえ、私が確認いたします」


「景雲」


「公主殿下の御身に関わることです」


景雲は地図へ目を落とす。

王都から西方へ続く、長い道。

自分が考えた安全な道を通って、昭華は自分のもとから遠ざかっていく。


それでも…、


彼女を、危険な道へ通らせるわけにはいかなかった。


「最後まで、きちんとお守りいたします」


昊然は暫くの間、景雲を見ていた。

やがて小さく息を吐くと、何も言わず、王命書を卓の端へ寄せた。


「そうか」


短い返事だった。


  ◇◇


午後。


王宮の池の水面には白い花びらが幾つも浮かび、風に押されてゆっくりと流れていた。

景雲は、昭華からの呼び出しを受け、以前弓を教えていた小さな弓場へ向かっていた。


濃い日除けの傘を差し。

陽の届かない回廊と、宮人たちが作る影の下だけを選んで歩く。

弓場の上には、龍家のための藍色の天幕が張られていた。

その影の下に、蕭昭華ショウ・ショウカが立っている。


今日は弓を持っていなかった。

淡い紫色の衣。

髪には、白い真珠の簪が一本だけ。


いつもの華やかさが薄い分、白い頬と、伏せられた長いまつ毛がどこか、寂しげに見えた。

景雲は天幕の下へ入り、傘を静かに閉じる。


「公主殿下。お呼びにより参上いたしました」


「遅いわ」


帰ってきたのは、いつもと同じ言葉だった。


けれど声には、以前のような拗ねた明るさがない。


「お約束の刻限より早く参りましたが」


景雲も、いつもと同じように答えれば、昭華の目が、僅かに細くなる。


「今日も、そう言うのね」


「事実でございますので」


「そう」


会話が、途切れた。

以前なら、ここで昭華が何かを言い返し、景雲が穏やかに受け流していた。


けれど今日は、どちらも続く言葉を見つけられなかった。


昭華は暫く黙ったあと、景雲を見た。


「…話があるの」


「はい」


「私……」


昭華の指先が、袖の中で僅かに動く。


「西方へ嫁ぐことになったわ」


景雲の胸が、もう一度鋭く痛んだ。


「はい、存じております」


昭華の目が見開かれる。


「知っていたの?」


「本日、昊然様から伺いました」


「そう」


昭華は短く答えた。

言葉を告げるために、どれほど迷ったのだろうか。


景雲は胸の内で息を整え、正しい言葉を選んだ。

臣下として、公主へ申し上げるべき、何一つ間違いのない言葉を。


「このたびは、おめでとうございます」


その瞬間、昭華の唇が、僅かに開いた。

やがて、ゆっくりと閉じられる。


目の奥へ浮かんだものは、怒りにも悲しみにも見えた。


「それだけ?」


景雲の指先が、袖の中で僅かに握られる。

本当は、いくらでも尋ねたいことがあった。


行きたいのですか。

嫌ではないのですか。

王都へ残りたいとは思いませんか。

自分と弓を引いていた時間を、少しでも惜しいと思ってくださいますか?


けれど、どれを口にしても、それは昭華を苦しませるだけだった。

答えを聞いたところで、何も変えることはできない。


「ほかに、何か仰ってほしいことがおありですか」


景雲は静かに尋ねた。

昭華の顔が、少しずつ強張っていくのが分かる


「別に」


声だけが、いつものように強かった。


「あなたなら、そう言うと思っていたわ」


昭華は景雲から顔を逸らし、弓架へ目を向けた。


そこには、彼女のために選んだ軽い弓が掛けられている。


「今日、稽古をするつもりだったの」


「本日は、お休みになった方がよろしいでしょう」


昭華が景雲の言葉に振り返る。


「なぜ?」


「御婚姻の準備も始まります」


「それと弓に、何の関係があるの?」


景雲は答えられなかった。

婚姻が決まった昭華と、これまでのように二人で弓を引く。


肩へ触れ。

肘を支え。

矢が当たれば、ともに喜ぶ。


今までなら役目として許されていた距離を。

もう、同じように保つ自信がなかった。

自分の気持ちを知ってしまったから。


「西方にも、優れた弓の師はいるでしょう」


言った瞬間。

昭華の顔から、僅かに色が失われた。


「西方で?」


「はい」


「私は、あなたに教えなさいと言ったのよ」


「いつまでも、私がお教えすることはできません」


景雲の声は、どこまでも穏やかだった。


だからこそ。

一つ一つの言葉が、昭華を拒絶する刃のように聞こえた。


「婚姻が決まった途端…貴方は、急に私から離れるのね」


「…いいえ。そのようなつもりではございません」


「では、どのようなつもり?」


昭華が一歩近づく。

景雲との間にあった距離がグッと縮まった。


以前なら、それを気にしたことなどなかった。

けれど今は、昭華の瞳を正面から見るだけで、胸が苦しくなる。


「私が西方へ行っても」


昭華の声が、少しだけ震えた。


「あなたは、何とも思わないの?」


景雲の呼吸がほんの少しだけ、止まる。


なんともない、はずがない。

本音を言えば、本当は行ってほしくない。

知らない国へ、一人で嫁がせたくない。

いつもの弓場で、明日も、その次の日も。

自分を待っていてほしい。


その言葉が、喉元まで上がってきた。


けれど景雲は、口にしなかった。

もし、自分の望みを告げれば、昭華の決意を揺らし。

ただでさえ不安な心へ、さらに重いものを背負わせる。


それは愛ではない。


自分の苦しさを、昭華へ分け与えるだけだ。


「公主殿下の道中が、何事もなく穏やかなものとなるよう、心から願っております」


昭華はじっと、景雲を見つめた。


そのまま暫く、何も言わなかった。

やがて、その目から僅かな期待が消えていく。


「あなたは、本当に……」


昭華は途中で言葉を止め、唇を噛む。


「正しいことしか言わないのね」


「申し訳ございません」


「謝る必要はないわ。…あなたが何も悪くないことくらい、分かってる」


その言葉が、かえって景雲の胸を抉った。

昭華は弓架から、自分が使っていた弓を取る。

白く、細い指で、一度だけ弦へ触れた。


軽い音が鳴る。

二人で何度も聞いた音だった。


「この弓は、もういらないわ」


昭華は弓を景雲へ差し出した。

しかし、景雲はすぐには受け取れなかった。


「公主殿下」


「西方にも、優れた師がいるのでしょう?」


先ほど景雲が口にした言葉を、そのまま返す。

笑っているような口元だった。

けれど瞳は、泣く寸前のように揺れていた。


景雲は両手で弓を受け取る。

二人の指が、ほんの僅かに触れた。

けれど、すぐに昭華の手が先に離れる。


「もう、下がっていいわ」


「…承知いたしました」


景雲は深く頭を下げた。

顔を上げた時には、昭華はすでに背を向けていた。


淡い紫色の衣が、風に揺れている。

景雲はその後ろ姿に、何かを言おうとした。


彼女の名前を呼びたいと思った。

公主殿下ではなく。

ただ、昭華と。


けれど、唇は動かなかった。


昭華は一度も振り返らず、朱塗りの回廊へ消えていった。

景雲は一人、天幕の影に残された。

腕には、昭華の使っていた弓。

弦へ触れれば、最初に的へ当てた時の笑顔が鮮明に蘇る。


あの笑顔は。

もう二度と、自分へ向けてはもらえないのかもしれない。


景雲はようやく目を閉じた。


あの方をお慕いしている。

例え、この気持ちに気づいたとしても一緒にはなれない。

けれど、気づくのが、あまりにも遅かった。


そして認めた今も。

その思いを告げることは、最後まで許されなかった。


     ◇◇


同じ日の夕方。


庭の隅にある小さな水亭で、裴春華ハイ・シュンカは一冊の詩集を膝へ置いていた。


今日は淡い青磁色の衣をまとっている。


龍清遠リュウ・セイエンから贈られた衣だった。


白い小花の刺繍が、夕陽を受けて柔らかく浮かび上がっている。


向かいには、清遠が座っていた。


黒い瞳は、春華の膝にある詩集へ向けられている。

少し離れた場所には、春華の侍女が控えていた。


決して、二人きりではない。


それでも、庭を囲む花木と水音によって、そこだけが外から切り離されたように静かだった。


「お借りしていた本です」


春華は詩集を両手で持ち、清遠へ差し出した。

本は、新しい薄布の包みで丁寧に覆われている。

表には、白い小花が一輪だけ刺繍されていた。


清遠の目が、僅かに細められる。


「これは…」


「表紙が少し擦れていましたので、傷まないようにと思いまして」


「ご自分で?」


「はい」


春華は少し恥ずかしそうに、まつ毛を伏せた。


「勝手に包みをつけてしまいました。お気に召さなければ、外していただいても――」


「いえ、外しません」


清遠の返事は、春華が言い終えるよりも早かった。

清遠は詩集を受け取り、白い花の刺繍へ指先で触れた。


細かな針目。

一針ずつ、春華自身が縫ったもの。

高価な贈り物ではない。

けれど、清遠が今まで受け取ったどの品よりも、とても大切に思えた。


「ありがとうございます」


声が、普段より少しだけ柔らかくなる。

春華の頬へ、僅かな赤みが差した。


「中の栞も、そのままにしてあります」


清遠が本を開くと、頁の間には、薄い紙へ挟まれた白い花が残されていた。


あの日、南市で拾った、花弁の欠けた一輪。

壊れないように、春華が新しい紙へ丁寧に挟み直したのだ。


「傷が増えないようにしただけです」


春華はそう言った。


清遠の胸へ、静かな温かさが広がっていく。

誰かが自分の持ち物を、大切に扱う。

次に自分の手へ戻る時のことまで考えて、整える。

そのようなことをしてもらった記憶が、清遠にはほとんどなかった。


「詩は、いかがでしたか」


清遠が尋ねると、春華の顔が花が咲いた様に明るくなる。


「最後の一篇が、特に好きでした」


「旅人が故郷へ戻る詩ですか」


「はい」


春華は庭の白い花へと、目を向けた。


「以前は、帰る場所とは生まれた土地のことだと思っていました」


「違ったのですか?」


「今は、少し違うように思います」


春華は言葉を探すように、ゆっくりと続けた。


「自分を待っていてくれる人がいる場所も、帰る場所と呼ぶのかもしれません」


清遠の指が、詩集の端でほんの一瞬だけ止まった。

春華は、自分の言葉が恥ずかしくなったのか、照れ笑いを浮かべた。


「詩の話です」


「分かっております」


清遠はそう答えた。

けれど胸の中では、別の言葉が響いていた。

自分を待つ人がいる場所。

それは、玄烈の屋敷ではない。


この庭で、自分のために本を包み。

次に会う時の話をしてくれる人の元。

そこを帰る場所だと思えたならどれほどよいだろう。


春華は膝の上で、指先を重ねた。


「次の巻は、まだ見つかりそうにありませんか?」


「今…、探しております」


「そうですか」


春華のまつ毛が僅かに下がった。

その表情を見た瞬間、清遠は考えるより先に口を開いていた。


「本が見つからなくても…また、お会いしていただけますか」


水亭へ、細い水音だけが流れた。


清遠は今、彼女へ自分が何を言ったのか理解し、僅かに目を伏せる。


任務のためなら。

会う口実は、いくらでも作れる。

書物、裴家の情報、星揺と昊然の関係。


けれど今の言葉は、任務のために出たものではなかった。


ただ、目の前の春華と話がしたい。

その思いだけから零れた言葉だった。


春華の白い頬へ、ゆっくりと赤みが広がってゆく。

そして、驚いたように清遠を見た。

その後、まつ毛を伏せ、彼女は小さく頷いた。


「はい」


帰ってきた返事は、聞き逃しそうなほど静かな声だった。

それでも清遠には、はっきりと届いた。


「私も、清遠様とお話しするのは楽しいですから」


清遠の黒い瞳が、僅かに揺れる。


──嬉しい。


そう感じたことを、もう隠すことができなかった。

目元には、普段より柔らかな笑みが浮かんだ。

春華もその表情を見て、柔らかく微笑んだ。


白い花びらが一枚、水亭の中へ舞い込む。

二人の間にある詩集の上へ、ひらりと静かに落ちた。


     ◇◇


夜。


龍家の古い屋敷の地下には、湿った冷気が満ちていた。

石壁へ取りつけられた灯火が、風もないのに細く揺れている。


龍玄烈リュウ・ゲンレツは、長い卓の前へ座っていた。

卓上には、幾つもの報告書が並べられている。


王宮。

龍国公府。

裴家。

王都の市場。


それぞれ別の場所から集められた情報だった。

一人の配下が、卓の前で頭を下げている。


「清遠様からの報告でございます」


玄烈は封を切り、簡潔な文字へ目を通した。


――裴春華との接触は継続。


――書物の貸借により、今後も自然に面会できる見込み。


――裴家から疑いを持たれた様子はない。


報告は、これまでと変わらない。

任務は順調に進んでいる。


けれど、春華が自ら縫った本の包みを渡したことも。

次に会う理由がなくても、会いたいと言葉を交わしたことは、清遠は何一つ記していなかった。


玄烈は、報告書を卓へ戻す。


「清遠には、そのまま続けさせろ」


「承知いたしました」


「急がせるな」


玄烈は別の紙へ手を伸ばした。

そこには、南市で見かけた昊然と星揺について記されている。


黒い日傘の下を、二人で歩いていた。

星揺が昊然の袖を掴み。

昊然が髪紐を選ぶ店まで付き添った。


配下が、静かに尋ねる。


「噂を、もう一度流しますか」


玄烈は紙から目を上げなかった。


「まだ早い」


「ですが、当主は以前よりも、裴星揺へ――」


「だからこそだ」


玄烈の指が、報告書に記された星揺の名をゆっくりとなぞる。


「今ここで騒ぎを大きくすれば、昊然はあの娘を遠ざける」


「身を守るために、ですか?」


「ああ」


玄烈の口元へ、僅かな笑みが浮かぶ。


「自分の感情へ気づく前ならば、切り捨てることができる」


王宮では、昭華の婚姻が決まった。

西方へ嫁ぐための支度。

道中の警護。

各家からの祝い。


これから王宮も龍家も、暫く慌ただしくなる。


動こうと思えば、機会はいくらでもある。

けれど玄烈は、今すぐ糸を引くつもりはなかった。


まだ。


昊然の中にあるものは、興味と庇護に近い。

失えば耐えられないものにはなっていない。


「守りたいと思うだけでは足りぬ」


玄烈が低く呟く。


「失うことを恐れるまで、近づけろ」


配下がはっと頭を下げると、玄烈は灯火の向こうにある暗闇へ、静かに目を向けた。


人の心は。

急かせば、身を守るために閉じる。

けれど自ら差し出した心は。

奪われそうになった時、初めて己の弱さを知る。


「今は動くな」


玄烈の声が、地下の石壁へ響く。


「機会が来るまで、見ていろ」


昊然と星揺。


春華と清遠。


そして王宮で、始まる前に終わろうとしている一つの恋。


幾つもの感情が、それぞれの胸の内で動き始めていた。


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