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二十一話 不穏な香り

不穏な香り


王宮の西偏殿では、春の香合わせが開かれていた。


広間には、白檀や沈香、乾かした花の香りが幾重にも重なり、薄い煙となって高い天井へ昇っている。

格子窓には淡い絹が垂らされ、外から差し込む光を柔らかく和らげていた。

色鮮やかな衣をまとった夫人や令嬢たちが、低い卓を囲んでいる。


扇が開く音。

茶器の触れ合う澄んだ音。

香の名を言い当てた娘たちの、控えめな笑い声。


その華やかな輪の中で、一人の若い夫人だけが、青ざめた顔で腹へ手を添えていた。


朝から、月のものが来ていたのだ。


初めは僅かな重さだけだった。

けれど、香合わせが始まってから腹の痛みは次第に強くなり、身体もひどく怠くなっていた。


立ち上がるたび、足元が揺れる。

それでも、人前で顔へ出すまいと、何事もないふりをして座っていた。


夫は礼部に勤める若い官吏だった。

近く、昇進の話もある。


妻である自分が王宮の席で取り乱せば、夫へ迷惑がかかるかもしれない。

そう思えば、簡単に席を立つこともできなかった。


けれど。


隣にいた夫人が、次の香炉へ移った隙に。

若い夫人は静かに立ち上がった。

誰にも気づかれぬよう、広間の奥にある小さな扉へ向かう。


衣を整えたい。

少し横になれば、痛みも治まるかもしれない。

そう考えていた。


扉の向こうには、人気の少ない細い回廊が続いている。

香合わせの手伝いへ人が出払っているのか、控えているはずの宮女の姿もない。


壁際には、灯籠が一つずつ置かれていた。

昼間だというのに、厚い布で光を遮った回廊は薄暗い。

白い石床へ落ちた灯火の影が、風もないのに揺れている。


若い夫人は壁へ手をついた。

息を整えようと、ゆっくり目を閉じる。


その時。


背後から、衣の擦れる音がした。


誰かがいる。

夫人は安堵して振り返った。


「申し訳ありません。少し気分が――」


言葉が止まった。

回廊の奥に、一人の男が立っていた。


龍玄烈リュウ・ゲンレツ


深い紫黒の衣に、長い黒髪を銀の冠で束ね、顔には穏やかな微笑を浮かべている。


王宮の回廊で誰かとすれ違えば、礼儀正しく、物静かで、龍家の年長者らしい落ち着きを持つ男に見えるだろう。


「お加減が悪いのですか」


玄烈が尋ねた。

その声は、ひどく柔らかだった。


夫人は僅かに肩の力を抜いた。


「少し……眩暈がしただけでございます」


「それはいけない」


玄烈は、ゆっくりと近づいてくる。

足音は、ほとんどしなかった。


「控えの間までお送りしましょう」


「いえ……少し休めば――」


夫人が一歩下がった。


しかし、背中が壁へ触れた。

その時になって初めて、玄烈との距離が近すぎることへの違和感に気づく。


「ご遠慮なさらず」


玄烈は、にこりと微笑んだまま、夫人の手首へ触れた。

だが、言葉とは裏腹に、掴む力は、驚くほど強かった。


「痛っ……」


夫人が小さく声を漏らす。

それでも、玄烈の指の力は緩まなかった。


「失礼」


口ではそう謝りながら、黒い瞳は夫人の顔を見ていない。


視線は、首筋へ向けられている。

速く打つ脈。

薄い皮膚の下を流れる、温かな血。


そして。


衣の奥から漂う、僅かな血の匂い。

香合わせの強い香りに紛れていても、玄烈には隠しようのない匂いだった。


甘く。

温かい。

玄烈の瞳が、僅かに細められる。


これまで、数え切れないほど人の血を口にしてきた。


若い者。

老いた者。

男も、女も。


けれど、そのどれとも違う。


目の前の女の血は、香合わせの濃い香りさえ押しのけ、理性の奥へ絡みついてくるようだった。


ただの空腹ではない。

好みだった。

玄烈の喉が、僅かに動く。

普段の玄烈ならば、王宮の中でこのような真似はしない。


人目の多い場所、龍家の名、王との盟約。


一つ間違えれば、面倒なことになる。

それでも今は、見逃して立ち去るという考えさえ浮かばなかった。


たとえ、この女が回廊から姿を消したとしても。

急な病で実家へ戻ったことにも。

人目を忍んで男と王宮を抜け出したことにもできる。


宮中の記録も。

家人の証言も。

後から流れる噂さえも。


玄烈にとっては、都合よく形を変えられるものに過ぎなかった。



夫人は、玄烈の視線に理由の分からない寒気を覚えた。


目の前の男は、笑っている。

怒っているわけでもない。

声を荒らげたわけでもない。


それなのに、獣の前へ立たされているような恐怖が、背筋を這い上がってくる。


「龍様……?」


玄烈は答えなかった。


返事をする代わりに、掴んだ手首を壁へ押しつけた。

夫人の喉から、短い息が漏れる。


「何を……」


玄烈の顔が、ゆっくりと近づく。


頬の横を、玄烈の息が掠めた。

耳元。

顎。

そして、首筋へ。


夫人の身体が強張った。

何をされようとしているのか。

考えた瞬間、別の恐怖が胸へ広がった。


口づけをされるのか。

それとも、人の来ない場所へ連れ込まれ、さらに酷いことをされるのか。


夫を持つ身で、王宮の中で。


たとえ自分に非がなくとも、この男と二人きりでいたことを知られれば。


傷つくのは、自分の名誉だけではない。

夫の立場まで失わせてしまうかもしれない。


「動かない方がよい」


玄烈が囁いた。

声は、ひどく穏やかだった。


「すぐに済む」


夫人の目が、大きく見開かれる。

危険を感じ、逃げようと身体を捩る。

けれど、手首は石壁へ縫いつけられたように動かない。


口を開く。

誰か、助けを呼ばなければ。

そう思うのに、恐怖で喉が強張り、声が出なかった。


玄烈の唇が、首筋へ触れそうなほど近づく。


夫人からは見えない角度で。

僅かに開いた口元から、白く鋭い牙が覗いた。


その時だった。


「そちらに、どなたかいらっしゃるのですか?」


明るい声が、回廊へ響いた。

その声で、玄烈の動きがぴたりと止まる。

夫人の身体が、びくりと震えた。


回廊の角から、若草色の衣が現れる。

裴星揺ハイ・セイヨウだった。

手には、落とし物らしい小さな香袋を持っている。


「広間で、こちらを落とした方がいると――」


そこまで言い。


星揺は、壁際にいる二人を見て足を止めた。

玄烈の身体に隠れるようにして、若い夫人が壁へ押しつけられている。


掴まれた手首。

青ざめた顔。

息を詰め、助けを求めるように星揺を見る目。


そして、玄烈。


星揺の視線が、男の顔へ向いた。


ほんの一瞬だけ。

玄烈の瞳が、赤く見えた。

星揺は、はっと息を呑む。


次の瞬間には、玄烈の目は落ち着いた黒へ戻っていた。

口元にも、先ほどまでと変わらぬ穏やかな微笑がある。


「おや。裴家のお嬢様でしたか」


玄烈は、ゆっくりと夫人から顔を離した。

手首を掴んでいた指も、何事もなかったように解かれる。


夫人はすぐに腕を胸元へ抱えた。

白い肌には、指の形が赤く残っている。


「こちらの方が、少し気分を悪くされたようでしたので」


玄烈が静かに言った。


「控えの間まで、お連れしようとしていたところです」


星揺は答えなかった。


玄烈を見る。

夫人を見る。


「そうだったのですか?」


星揺は、夫人へ尋ねた。

夫人は返事をしようと口を開く。


けれど。


玄烈の視線が、横から静かに注がれていることへ気づき、唇が震えた。


「わ、私は……」


声が続かない。

星揺は、二人の間へ一歩入った。

玄烈の前へ立ち、夫人を背へ隠すようにする。


「では、ここからは私がお連れします」


玄烈の眉が、ほんの僅かに動いた。


「裴家のお嬢様のお手を煩わせる必要はありません」


「いえ。同じ女性の方が、安心できることもございますから」


星揺は笑った。

いつもの、思ったことを隠さない明るい笑顔だった。


そして、一歩も退かなかった。


「それに、広間ではお連れの方も心配していらっしゃるかもしれません」


玄烈は、暫く星揺を見つめた。

彼女をこれほど近くで見るのは、初めてだった。


黒い瞳。

春の光を知る肌。

怖がっていないわけではない。


星揺の指先は、衣の袖の中で僅かに震えている。

それでも、玄烈から目を逸らさない。

自分より身分の高い相手であっても。

おかしいと思ったことを、そのまま見過ごさない目だった。


「なるほど」


玄烈の口元へ、ゆっくりと笑みが広がっていく。


「龍国公殿が気に留めるのも分かる」


星揺の表情が、一瞬止まった。


「え……?」


「いえ。こちらの話です」


玄烈は、何でもないことのように答えた。

視線が、星揺の後ろへ向けられる。


壁際で震える夫人。

本来なら、もう一度、人のいない場所へ連れ出すことは難しくない。

あの血を諦める理由など、何一つなかった。


けれど、今、この女が姿を消せば裴家の娘は、必ず今日の回廊を思い出す。


疑いは、やがて昊然へ届く。


ならば、


殺すよりも、生かしておく方がよい。

何もなかったと、自らの口で語らせるために。


玄烈は星揺の横を通り過ぎた。


しかし、すれ違う瞬間。

顔を、星揺の耳元へ僅かに近づける。


「血の匂いには、気をつけた方がよい」


その声は、先ほどまでの穏やかな声とは違い、ひどく低かった。


けれど、あまりにも小さく。

後ろにいる夫人には、聞こえなかっただろう。


星揺の背筋へ、冷たいものが走った。

振り返ると、玄烈はすでに数歩先を歩いている。


「今のは、どういう――」


星揺が言葉の真意を尋ねようと、呼び止めかけた時。


玄烈が再び足を止めた。

ゆっくりと、半分だけ振り返る。


「月のものが来ている女性は、貧血を起こしやすい」


穏やかな声。

常識的な言葉。

先ほどの囁きを、星揺の聞き違いへ変えてしまうような顔だった。


「大切にして差し上げなさい」


玄烈は、それだけを告げた。

そして、回廊の奥へ消えていった。

残された星揺は、暫く男が消えた暗がりを見つめていた。


なぜか、胸の奥が、理由もなく冷えている。


「あの……」


背後から、弱い声がした。

星揺は我に返り、夫人へ振り向く。


「あ、大丈夫ですか?」


尋ねると、夫人の目から、堪えていた涙が一粒落ちた。


星揺は何も聞かなかった。

その腕を、自分の肩へ回す。

 

「まずは、控えの間へ行きましょう」


「はい……」


「お名前を伺っても?」


夫人は一度、玄烈が消えた回廊の奥へ目を向けた。

それから、震える声で答える。


「周……静蘭と申します」


「静蘭様。もう大丈夫です」


星揺は、ゆっくりと歩き始めた。

控えの間へ着くと、近くにいた宮女を呼び、静蘭を休ませるよう頼んだ。


静蘭は寝台へ腰を下ろしても、まだ自分の肩を抱いている。


何度も、誰かが入ってくることを恐れるように、戸口へ目を向けていた。

星揺には、その理由が分からなかった。


ただ、

あの男が、具合の悪い静蘭を介抱していただけではないことだけは分かる。

けれど、玄烈が本当は何をしようとしていたのか。


静蘭も。

星揺も。

まだ知らなかった。


星揺の頭からは、一瞬だけ赤く見えた玄烈の瞳と、耳元へ落とされた低い声が、離れなかった。


――血の匂いには、気をつけた方がよい。


甘い香りに満ちていたはずの回廊には、今も香煙が漂っている。

それなのに星揺には、その場所がひどく冷たく感じられた。

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