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二十二話 赤い痕

第二十二話 赤い痕


控えの間には、昼の柔らかな光が差し込んでいた。


高い位置に設けられた格子窓から細い光が入り、白い床へ四角い模様を描いている。

裴星揺ハイ・セイヨウは、長椅子へ腰を下ろした夫人の前に膝をついた。


棚の上に置かれていた水差しから、白磁の杯へ水を注ぐ。


「どうぞ。ゆっくりで大丈夫です」


「……ありがとうございます」


夫人は両手で杯を受け取った。

けれど指の震えが強く、水面が小さく波打っている。杯の縁を唇へ近づけても、うまく飲むことができない。


星揺は夫人の手へ自分の手を重ね、杯が傾かないように支えた。

幾口か水を飲むと、夫人はようやく浅い息を吐いた。


顔からは、まだ血の気が失われている。

唇も白く、肩は小刻みに震えたままだった。


「少し、横になられますか?」


「いいえ……このままで」


夫人は首を横へ振った。

その視線は、何度も閉ざされた戸口へ向けられている。


誰かが入ってくるのを待っているのではない。

先ほどの男が戻ってこないことを、確かめているようだった。


星揺は、その様子を見ながら何も尋ねなかった。


今ここで、何があったのかと問い詰めても、この人をさらに怯えさせるだけだ。


「宮女を呼んでまいります」


星揺が腰を上げようとした時だった。

夫人が咄嗟に、その袖を掴んだ。

力は弱かった。

布を掴んだ指先は、まだ震えている。

それでも、行かないでほしいという思いだけは、はっきりと伝わった。


星揺は再び、長椅子の傍らへ腰を下ろした。


「大丈夫です。ここにいます」


その言葉を聞き、夫人の指から僅かに力が抜けた。

袖を掴んでいた手が、ゆっくりと膝の上へ戻される。


その時。


夫人の衣の袖口が、僅かに上がった。

白い手首が覗く。

星揺の視線が、そこへ止まった。

夫人の細い手首を取り囲むように、くっきりと赤い痕が浮かんでいる。


親指と。

向かい側へ並ぶ、四本の指。

誰かに強い力で掴まれた痕だった。


そこは、先ほどまであの男が握っていた場所だ。


「その痕……」


星揺が小さく口にする。

夫人は星揺の視線へ気づき、はっと息を呑んだ。

慌てて袖を引き下ろし、手首を隠す。


「な、何でもございません」


「でも、赤くなっています」


「私が倒れそうになったので、あの方が咄嗟に支えてくださっただけです」


返事が、あまりにも早かった。

夫人は星揺の目を見ようとせず、袖の上から自分の手首を押さえている。


「本当に……それだけですか?」


星揺は、できるだけ柔らかな声で尋ねた。

夫人の唇が、小さく開きかける。


けれど、声は出なかった。

伏せられた長いまつ毛の下へ、涙が薄く滲んでいく。

何かを言おうとしている。

それでも、それを口にすること自体を恐れているようだった。


人気のない回廊で。

夫ではない男に手首を掴まれ、壁へ押しつけられた。

顔を首筋へ近づけられ、逃げることさえできなかった。

夫人には、あの男が何をしようとしていたのか分からなかったのだろう。



口づけをしようとしたのか。

それとも、さらに酷いことをしようとしていたのか。

そう恐れたのかもしれない。


たとえ夫人に何の非もなくとも。

人気のない場所で、夫以外の男と二人きりでいたという噂が立てば、傷つくのは夫人だけではない。


夫の名も。

家の立場も。


すべて巻き込まれるかもしれない。

星揺は、それ以上尋ねるのをやめた。


「もう、何も聞きません」


夫人の肩が、僅かに揺れる。


「お話ししたくなった時だけ、お話しください」


夫人は顔を伏せたまま、小さく頷いた。


暫くして、

星揺は、なるべく何でもないことのように尋ねた。


「あの方とは、以前からお知り合いだったのですか?」


夫人の指が、杯の縁で再び震えた。


「いいえ……」


小さな返事だった。


「本日、初めてお話しいたしました」


星揺は僅かに眉を寄せた。


「あの方は、どなたなのですか?」


夫人が、驚いたように星揺を見る。


「ご存じではなかったのですか?」


「はい。龍家に関わる方なのだろうとは思いましたが……」


あの男は、龍国公である昊然をよく知っているような口ぶりだった。

けれど星揺は、それまで一度も姿を見たことがなかった。


夫人は、不安そうに戸口へ目を向けた。

誰もいないことを確かめるように。

それから、声を潜めて答えた。


「あの方は、龍玄烈リュウ・ゲンレツ様と仰います」


「龍玄烈様……」


星揺は、その名を初めて口にした。


「龍家の分家筋にあたる方で、先代の頃から当主を支えていらっしゃると聞いております」


「先代の頃から……」


「はい。一族の内情にも詳しく、龍家で重きを置かれているお方です」


夫人の声は、最後だけ僅かに掠れた。


先代の頃から龍家を支えてきた人物。

昊然をよく知る者。

それならば、本当に具合を悪くした夫人を助けていただけなのだろうか。


けれど、震える指と、赤く残った痕を見ると。

そう簡単に納得することもできなかった。


「静蘭様」


星揺が名を呼ぶと、静蘭の瞳が僅かに揺れた。


「私は、裴星揺と申します」


「存じております。裴将軍家の……」


「はい」


星揺は、安心させるように少しだけ笑った。


「何かございましたら、裴家へ知らせてください」


静蘭は驚いたように星揺を見た。

けれど、すぐに目を伏せる。


「ありがとうございます」


その声は、聞き逃しそうなほど小さかった。

暫くすると、広間から宮女が一人やってきた。

続いて、静蘭の家から付き添ってきた侍女も、青ざめた顔で駆け込んでくる。


「奥様!」


侍女は静蘭の前へ膝をついた。


「申し訳ございません。お姿が見えなくなってしまい……」


「大丈夫よ」


静蘭は、無理に笑おうとした。


「少し、気分が悪くなっただけだから」


その声は、まだ僅かに震えていた。

星揺は静蘭を侍女へ任せ、ゆっくりと立ち上がった。

静蘭は何度も礼を述べた。


けれど、玄烈と何があったのかは、最後まで話さなかった。


     ◇◇


星揺が香合わせの広間へ戻ると、幾つもの香りが一度に押し寄せてきた。


白檀。

花の蜜。

乾かした果実。


少し前まで美しいと感じていた香りが、今は妙に濃く感じられる。

陸鈴花リク・リンカは、星揺が席へ戻るとすぐに顔を向けた。


「随分遅かったわね」


「途中で具合の悪い方を見つけて、控えの間へ寄っていたの」


「そう。その方は、もう大丈夫なの?」


「お家から付き添ってきた侍女が来たから」


星揺はそう答え、卓上の香炉へ目を落とした。

白い煙が細く揺れながら、高い天井の近くへ昇っている。


鈴花は、星揺の横顔を暫く見つめた。

何かあったことには気づいたようだったが、人の多い広間で詳しく尋ねようとはしなかった。

星揺も、その場では何も話さなかった。


香の名を答える声も。

周囲の笑い声も。

今の星揺には、どこか遠く聞こえていた。


     ◇◇


帰りの馬車が、王宮の門を出た。

春の陽は西へ傾き始め、王都の屋根を淡い金色へ染めている。

星揺は向かいに座る鈴花へ、先ほどの出来事を話した。

具合を悪くした周静蘭が、人気のない回廊で見知らぬ男と二人きりになっていたこと。

その男が、静蘭を壁際へ押しつけるようにしていたこと。


手首を強く掴み、そこへ赤い痕が残っていたこと。

そして、その男の名が龍玄烈だということ。


「龍玄烈様……」


鈴花が、その名を確かめるように繰り返した。


「知っているの?」


「名前を聞いたことがあるだけよ。龍家の中でも重きを置かれている方でしょう?」


「静蘭様も、そう仰っていたわ」


鈴花は少し考えるように視線を伏せた。


「それで、赤い痕が残っていたのね?」


「ええ。指の形が分かるくらい、はっきりと」


「倒れかけた静蘭様を、咄嗟に掴んだ時にできたとか?」


「それにしても、赤くなるほど強く握る?」


「そうね……」


鈴花は、すぐには答えなかった。

自分は、その場を見ていない。

星揺の話だけで、玄烈の行動を悪いものだと決めつけることもできない。


「星揺が気になるほどなら、随分強く掴まれたのでしょうね」


星揺は頷いた。


「それに、壁へ押しつけているようにも見えたの。普通なら、まず横になれる場所へ連れていくでしょう?」


「静蘭様は、何と仰っていたの?」


「倒れそうになったから、支えてもらっただけだと」


「なら、本当にそうだった可能性もあるわ」


「そうなんだけど……」


星揺は窓の外へ顔を向けた。


通りを歩く人々。

店の軒先で風に揺れる布。

母親の手を握り、走っていく幼い子ども。

いつもと変わらない王都の景色が流れている。


「静蘭様は、玄烈様が立ち去ったあとも震えていたの」


星揺は膝の上で手を組んだ。


「控えの間へ入ってからも、何度も戸口を見ていたわ。戻ってくるのを怖がっているように」


鈴花の表情から、僅かに柔らかさが消えた。


「それは……少し気になるわね」


「でしょう?」


「だけど、具合が悪かったうえに、位の高い方と二人きりになって、気が動転していただけかもしれない」


「それだけじゃないの」


星揺は、言いにくそうに言葉を止めた。


「何?」


「玄烈様の目が、一瞬だけ赤く見えたの」


鈴花の長いまつ毛が、僅かに持ち上がった。


「赤く?」


「うん。でも、次に見た時には普通の黒い目だったわ」


「光の加減ではないの?」


「やっぱり、そうよね」


星揺は小さく頷いた。

赤い瞳を見たという確信はない。

ただ、黒い瞳の奥へ、一瞬だけ別の色が浮かんだように感じただけだった。


「それから……」


「まだあるの?」


「玄烈様に、血の匂いには気をつけた方がよいと言われたの」


鈴花の目が、僅かに細められる。


「血の匂い?」


「耳元で、そう囁かれたの。でも私が聞き返したら、月のものが来ている女性は貧血を起こしやすいという意味だと」


「言葉だけなら、おかしくはないわね」


「そうなの」


星揺は、困ったように息を吐いた。


「だから、私が妙に考えすぎているだけなのかもしれない」


先代の頃から龍家を支えてきた人物が、王宮で官吏の妻を襲う。

そのようなことが、本当にあるのだろうか。

ただ具合を悪くした静蘭を、助けようとしていただけかもしれない。


それでも。


静蘭の白い手首へ残っていた、赤い指の痕。

伏せられた目に滲んでいた涙。

自分の袖を掴み、行かないでほしいと訴えた震える指。

そのどれもが、星揺の胸へ引っかかっていた。


「気になるのなら、龍家に詳しい方へ聞いてみたら?」


鈴花が言った。


「詳しい方に?」


「玄烈様が、普段どのような方なのかだけでも」


星揺の頭へ、黒い日傘の下に立つ昊然の姿が浮かんだ。


昊然なら、

尋ねたことには、必要な言葉だけで答えてくれるような気がした。


けれど今日は、王宮のどこにも、あの黒い日傘を見なかった。


王太子の傍らにも。

王の執務室へ続く回廊にも。

普段なら、人混みの中でもすぐに見つけられる姿が、どこにもなかった。


「今日、龍国公様をお見かけしなかったわ」


星揺が呟く。


「そういえば、私も見ていないわね」


鈴花も、初めて気づいたようだった。

二人とも、昊然が王都を離れていることは知らない。

星揺は窓枠へ頬杖をつき、流れていく景色へ目を向けた。


次に会った時に聞けばいい。

そう思ったものの、いつ会えるのかは分からなかった。


     ◇◇


裴家の馬車が屋敷へ着いた頃には、陽がさらに西へ傾いていた。


星揺と鈴花が馬車を降りる。

門の内側から庭へ続く回廊には、見慣れない濃紺の布が張られていた。

急いで用意されたものらしく、まだ使用人たちが布の端を柱へ結びつけている。


「お客様がいらしているのかしら」


鈴花が尋ねる。

近くにいた侍女が、慌てたように頭を下げた。


「お嬢様。龍暁嵐様がお見えでございます」


「暁嵐様が?」


鈴花の目が、僅かに大きくなる。


「以前お約束なさった地図を、お持ちくださったとのことでございます」


鈴花の長いまつ毛が、嬉しそうに持ち上がった。


「覚えていてくださったのね」


「鈴花も、ずっと楽しみにしていたものね」


「ずっとではないわ」


「今朝も、昔の北街道の続きを見たいと言っていたでしょう?」


鈴花は返事をせず、客間へ向かって少しだけ歩みを速めた。


星揺は、その背中を見て小さく笑う。

二人が客間へ入ると、卓の上には一枚の古い地図が広げられていた。


龍暁嵐リュウ・ギョウランは、陽の届かない窓際へ腰を下ろしている。


深い藍色の衣。

艶のある黒髪は、高く結われていた。


その後ろには、広いつばの日除け笠を脇へ置いた龍岳リュウ・ガクが、静かに控えている。


鈴花はすぐに丁寧な礼をした。


「お待たせしてしまい、申し訳ございません」


「急に訪ねたのはこちらだ」


暁嵐は、気にした様子もなく答えた。


「王宮から屋敷へ戻る途中で、地図の写しができたと聞いた。近くまで来たから、持ってきただけだ」


鈴花の視線が、卓上へ向く。

以前に見せてもらったものよりも古い地図だった。


王都を囲む外壁も。

川の流れも。

今とは形が違っている。


「こちらが、以前仰っていた地図ですか?」


「ああ。南側が、まだ湿地だった頃のものだ」


暁嵐が、地図の一角へ指を置く。

鈴花は向かいの席へ座り、細い墨の線を目で追った。


「この水路は、今の南大路の下にあったのですね」


「よく分かったな」


「前の地図に、少しだけ跡が残っていましたから」


二人は、すぐに地図の話へ入り込んでいった。


昔の水路。

湿地を避けるように曲がっていた街道。

今は埋められた小さな池。

鈴花が疑問を口にすると、暁嵐は地図の上へ指を動かしながら答える。


星揺は、少し離れた椅子へ腰を下ろした。

普段なら、鈴花が珍しく楽しそうに話していることを面白がり、からかう機会を探していたかもしれない。


けれど今日は。


暁嵐の姿を見た時から、別のことが頭に浮かんでいた。

龍家の者なら、玄烈のことを知っている。

星揺は暫く、二人の話を聞いていた。

そして、地図についての会話が一度途切れたところで、静かに名を呼ぶ。


「暁嵐様」


暁嵐が地図から顔を上げた。


「何だ?」


「あの……龍玄烈様とは、どのようなお方なのですか?」


暁嵐の眉が、僅かに動いた。


「玄烈?」


「はい。今日、王宮で初めてお会いしました」


暁嵐は、星揺の顔をじっと見つめた。

声が、僅かに低くなる。


「何かあったのか?」


「いえ」


星揺は、すぐに首を横へ振った。


けれど、

何もなかったと言い切っていいのか、分からなかった。


静蘭から名前を聞くまで。

星揺は、玄烈が龍家の者であることさえ知らなかった。


ただ、

穏やかに笑っていた顔と、静蘭の腕へ残っていた赤い痕だけが、どうしても結びつかなかった。


「どのようなお方なのか、少し気になったのです」


「なぜだ?」


星揺は、どこまで話すべきか迷った。


「具合を悪くされた静蘭様を、介抱していらしたのですが」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「穏やかに笑っていたのに、なぜか少し怖いように感じて……」


暁嵐は、星揺の言葉を笑わなかった。

けれど、玄烈を疑った様子も見せない。


少しだけ考えたあと、静かに答えた。


「玄烈は、父上の代から龍家を支えている者だ」


星揺は黙って聞いていた。


「一族の古い習わしにも詳しく、若い者へは厳しいところもあるが……」


暁嵐の口調に、迷いはなかった。


「龍家への忠義は深い」


「龍国公様も、玄烈様を信頼していらっしゃるのですか?」


「ああ」


暁嵐は、当然のように頷いた。


「兄上も、幼い頃から玄烈を知っている」


兄上。


その言葉を聞き、星揺は先ほどから気になっていたことを思い出した。


「そういえば、今日の王宮で龍国公様をお見かけしませんでした」


暁嵐が、星揺を見る。


「兄上は、今朝王都を発った」


「王都を?」


星揺の問い返す声が、思っていたより早く出た。


「陛下の命だ。東の山間へ討伐に向かっている」


「討伐……」


「街道を襲う賊が出た。大きな一団ではないから、三日ほどで戻る予定だ」


「三日……」


星揺は、無意識にその言葉を繰り返した。


暁嵐が、僅かに首を傾ける。


「兄上に何か用があったのか?」


「いえ」


星揺は、すぐに答えた。


「玄烈様のことを、お尋ねしようと思っただけです」


「私では足りなかったか?」


「い、いえ。そのようなことはありません」


慌てて否定する。

鈴花は何も言わず、二人のやり取りを見ていた。

暁嵐は深く追及せず、再び玄烈の話へ戻った。


「兄上に尋ねても、同じことを答えると思う」


「では、やはり私の気のせいかもしれません」


星揺は小さく笑い、卓上の菓子へ手を伸ばした。

けれど、指が菓子へ触れる前に。

静蘭の白い手首が、また頭へ浮かんだ。


肌へくっきりと残っていた、五本の指の痕。


星揺は自分の手首へ、反対の手をそっと回した。


少し強く握ってみる。


すると、皮膚が僅かに沈んだ。

あれほど濃い痕を残すには。

どれほどの力で、掴まなければならないのだろう。


星揺は手首からそっと指を離し、何事もなかったように菓子を一口かじった。

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