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二十三話 理由のいらない約束



午後の光が、裴家の庭へ柔らかく差し込んでいた。

窓の外では、白い花をつけた枝が春風に揺れている。

風が通るたび、花びらが一枚ずつ離れ、青石を敷いた庭へ静かに落ちた。


裴春華ハイ・シュンカは、窓辺の椅子へ腰掛け、一冊の詩集を開いていた。


淡い藍色の表紙。

頁の間には、薄く乾かされた白い花が挟まれている。

南市で荷車から落ちた花。

清遠と共に拾い集めた、僅かに花弁の欠けた一輪だった。


春華の指が、白い花を傷つけないよう、そのすぐ傍らへ添えられる。

開いているのは、遠い故郷から離れた旅人を詠んだ頁だった。


何度も読んだ詩。

文字の並びも。

最後の一節も。


すでに覚えてしまうほど読み返している。

それなのに、春華の目は少しも先へ進んでいなかった。

文字を追っているはずの意識は、いつの間にか別の場所へ向かっている。


古い書肆の狭い書棚。


高い位置へ手を伸ばした時、すぐ後ろへ立った清遠の気配。

頬の横を通った灰青色の袖、指先が触れた時の、ほんの僅かな温かさ。


「お嬢様」


侍女の声に呼ばれ、春華はゆっくり顔を上げた。


「何?」


「同じ頁を、随分長くご覧になっております」


春華のまつ毛が小さく瞬く。

詩集へ目を戻す。

確かに、頁は先ほどから一枚も動いていなかった。


「内容を考えていたのよ」


「もう何度もお読みになった詩ではございませんか?」


「読むたびに、感じ方が変わることもあるでしょう」


「左様でございますね」


侍女は素直に頷いた。

けれど口元には、僅かな笑みが浮かんでいる。

春華はその顔を見た。


「何か言いたいことがあるの?」


「いいえ」


「何でもない顔ではないわ」


「お嬢様が詩そのものではなく、詩集をくださった方のことを考えていらしたように見えただけでございます」


春華の指が止まった。


「くださったのではありません。お借りしているだけです」


「では、お貸しくださった方を」


「同じことでしょう」


そう答えながら、春華は詩集を閉じた。


少しだけ頬が熱い。

それを隠すように窓の外へ顔を向ける。

白い花びらが風に舞い、縁側のすぐ近くへ落ちた。

清遠と最後に会ってから、まだそれほど日が経っていない。


別れ際。

春華が詩集の感想を、また話してもよいかと尋ねると、清遠は僅かに声を柔らかくして答えた。


――お待ちしております。


その言葉を思い出すたび、胸の奥が静かに温かくなる。

けれど同時に、詩集を読み終えてしまえば、返さなければならない。


返したあと、次に会う理由がなくなったら。

そう思うと、最後の数篇だけを読むことが惜しくなった。


頁を開いては閉じ。

同じ詩へ戻り。

まだ読み終えていないことにしている。


「私は……」


春華は小さく呟いた。

何をしているのだろう。

詩集を読みたいのか、返したいのか。


それとも。


返すことを理由に、清遠へ会いたいのか。

胸の奥へ浮かんだ答えを、春華はすぐに言葉にはできなかった。


暫くして、部屋の外から、控えめな足音が近づいた。

別の侍女が戸口へ姿を現し、深く頭を下げる。


「春華様。お届け物がございます」


「どなたから?」


差し出されたのは、薄い灰青色の紙を折り畳んだ、小さな書状だった。


封へ名はない。

けれど紙の色を見ただけで。

春華には、誰からのものか分かった。

胸が、一度大きく鳴った。

侍女から書状を受け取り、封を開く。

癖のない端正な文字が、簡潔に並んでいた。


――先日のお約束について。


――明日の午後、以前の書肆へ伺う予定でおります。


――ご都合が許しましたら、お話しできれば幸いです。


たった三行だった。


新しい詩集を見つけたとも。

返却を急いでほしいとも書かれていない。

ただ。

会って話がしたい、そのためだけの書状だった。


春華は、最後の一文をもう一度読む。


「お嬢様」


侍女に呼ばれ、春華は顔を上げた。


「何?」


「お返事は、いかがなさいますか?」


「参ります」


答えは、考えるより早く出た。

自分でも驚き、春華のまつ毛が僅かに揺れる。

侍女は何も言わなかった。

ただ、柔らかく微笑み、返書の用意をするため部屋を出ていった。


一人になった春華は、手の中の書状へ目を落とした。


清遠から書状が届いた、明日、会える。


そのことが、詩集の続きを読めることよりも、新しい本を見られることよりも、ただ嬉しかった。


春華は胸元へ書状を寄せる、そして自分がこの書状を、ずっと待っていたのだと気づいた。


     ◇◇


翌日の午後。


王都の東にある古い書肆は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

大通りから一本奥へ入った石畳の道。

黒ずんだ木の看板、入口の両脇へ下げられた青竹の簾。

戸が開くと、小さな鈴が澄んだ音を立てた。

春華は侍女を伴い、書肆の中へ入った。


今日は、青磁色の衣をまとっていた。

以前、龍清遠リュウ・セイエンから贈られたものだった。


青とも緑ともつかない柔らかな色。

襟元には銀糸の蔓草。

袖口と裾には、白い小花の刺繍。

光の加減で青磁色の布が僅かに色を変え、控えめな刺繍が静かに浮かび上がった。


朝、どの衣を着るべきか迷った末。

春華はこの衣を選んだ。

清遠に見せるためではない。

せっかく頂いた衣なのだから、着なければ失礼になる。


そう、自分へ言い聞かせながら。


けれど書肆の奥へ清遠の姿を見つけた瞬間。

春華は、自分が本当は何を期待してこの衣を選んだのか、分かってしまった。


清遠は書棚の近くへ立っていた。


陽の入る入口から離れた、深い軒と簾の影が重なる場所だった。

傍らには閉じた濃い日傘が置かれている。

清遠は春華の姿に気づいた。

その黒い瞳が、まず顔へ向き、それから青磁色の衣へ落ちる。


ほんの一瞬。


何も言えなくなったように、その視線が止まった。

春華の胸が強く鳴る。

清遠はすぐに表情を整え、丁寧に頭を下げた。


「お越しいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、お招きくださりありがとうございます」


春華も礼を返す。

顔を上げると、清遠の視線がもう一度、衣へ向けられた。


「その御衣を……」


「はい」


春華は袖口へ指を添えた。


「大切にしまっておくだけでは、かえって失礼かと思いまして」


「お召しくださったのですね」


清遠の声が、僅かに柔らかくなる。


「よくお似合いです」


以前にも、似合うと言われたことがある。


けれど。

清遠自身が選んだ衣をまとい、その本人から改めて言われると、同じ言葉なのに、胸へ届く場所が違った。


「ありがとうございます」


春華は僅かに頬を染め、目を伏せた。

清遠も、それ以上見つめ続けることはしなかった。

けれど視線を外したあとも青磁色の衣を着て現れた春華の姿が、黒い瞳の奥へ残っていた。


書肆の主人が、二人を奥の小さな中庭へ案内した。

建物に四方を囲まれた、静かな庭だった。

深い軒と張り出した簾によって、庭の半分以上は柔らかな影に包まれている。


中央には小さな石卓。

その周囲へ、白い花をつけた低木が植えられていた。

風が吹くと、花の香りと古い紙の匂いが混じる。

春華の侍女は、二人の姿が見える少し離れた回廊へ控えた。


清遠と春華は、石卓を挟んで向かい合う。

卓上へ置かれているのは、茶器だけだった。


新しい詩集も、貸し借りする本もない。


春華は気づいた。

今日、二人が会うために必要なものは本ではなかった。


「詩集は、いかがでしたか」


清遠が尋ねる。

春華は膝の上へ置いていた藍色の詩集を、卓上へ差し出した。


「とても、美しい詩ばかりでした」


「お気に召したのであれば、よかった」


「ただ……」


春華の指が、表紙の上へ残る。


「最後まで読んだあとも、なかなかお返しすることができませんでした」


清遠のまつ毛が僅かに動く。


「何か、気になるところがございましたか?」


「…いいえ」


春華は小さく首を横へ振った。


「これを、返してしまえば、次にお会いする理由がなくなるような気がして…」


言葉が口から出たあと。

自分が何を告げたのか理解し、春華の瞳が僅かに揺れた。

清遠も、すぐには答えなかった。

春華は慌てて言葉を続ける。


「もちろん、詩についてお話ししたかっただけなのですが、」


言い訳を重ねるほど。

先ほどの言葉が、よりはっきりと胸へ残る。

清遠は春華を見つめていた、任務のためなら。

彼女が次に会う理由を求めていたことを、好都合だと思えばよい。


裴家との繋がりが深まる。

信頼も得られる、それだけの話だった。


けれど清遠の胸へ広がったのは、任務が進んだ安堵ではなかった。

春華も自分と同じで、次に会うことを望んでいた。

その事実が、ただ、とても嬉しかった。


「理由がなければ…」


清遠が静かに口を開く。

春華が顔を上げる。


「お会いしてはいけないのでしょうか?」


黒い瞳が、真っ直ぐ春華へ向けられていた。


以前、清遠は別れ際に、同じようなことを尋ねたことがある。次は本がなくても会えるだろうか、と。


春華は、またお話ししたいと答えた。

けれど今日、実際に本を理由とせず、向かい合っている。


「いいえ」


春華は小さく答えた。


「いけないとは、思いません」


「では」


清遠の声が、僅かに低くなる。


「次も、何かをお貸しする理由を探さなくてもよいでしょうか」


春華は清遠の目を見つめた。


「はい」


とても、短い返事だった。


けれど、二人の間にあった、薄い境目を一つ越えるには十分だった。


清遠は茶碗へ手を伸ばした。

普段と同じ落ち着いた動き。

それでも指先へ僅かな力が入っていることを、春華は見逃さなかった。


春華も茶碗を持ち上げる、茶は少し冷めていた。

けれど喉を通る温度は、いつもより熱く感じられた。


それから暫く、詩集について話した。

旅人が故郷へ戻ったあとに詠んだ詩。

同じ花の描写が、前の巻とは違って明るく見えたこと。

帰る場所を得たことで。

美しいものを、美しいまま受け取れるようになったのではないかということ。


「以前」


春華が言った。


「清遠様へ、帰りたい場所がおありなのかとお尋ねしましたね」


「ああ」


「その時は、初めて考えていると仰いました」


清遠の指が、茶碗の縁で止まる。


「今は、答えが見つかりましたか?」


春華の声は穏やかだった。

ただ詩について尋ねているようにも聞こえる。


しかし、黒い瞳は、清遠から逸れなかった。

清遠はすぐには答えられなかった。


帰る場所。

龍家の屋敷。

玄烈から命令を受ける暗い部屋。

自分の生まれた場所、このどれもへ帰りたいと思ったことはなかった。


戻るべき場所はあっても、待っている人がいると感じたことはない。


けれど最近、書肆へ向かう時、南市で白い花を見た時。

真っ先に思い浮かべる人がいる。


彼女が、青磁色の衣を着て現れた瞬間、言葉にできないほど、安堵した。


「帰る場所かどうかは、まだ分かりません」


清遠は慎重に答えた。

春華のまつ毛が僅かに伏せられる。


「ですが、」


続く言葉に。

春華はもう一度顔を上げた。


「帰りたいと思う場所なら、見つかったのかもしれません」


清遠の視線は、庭でも、詩集でもなく。


ただ、一人春華へ向けられていた。


春華は、胸が大きく高鳴った。

自分のことだと思うのはあまりに思い上がっているかもしれない。


でも、そうであってほしいと思ってしまった。

春華は茶碗を持つ指へ、僅かに力を込めた。


「私も、最近…」


ゆっくりと口を開く。


「待つことが増えました」


「何を、ですか?」


清遠が尋ねる。


「書状を」


春華は目を伏せる。


「次に読める詩集を」


そこで一度、言葉を止める。

白い花が、風を受けて枝の上で揺れていた。


「それから……」


春華は勇気を出すように顔を上げた。


「貴方とお会いできる日を、」


二人の視線が重なった。


今度は、どちらもすぐには逸らさなかった。


告白ではない。

好きだと、はっきり言ったわけでもない。


だけどもう、互いに分からないふりをすることはできなかった。

清遠の黒い瞳へ、これまで隠していた柔らかな色が浮かぶ。


春華の頬にも、淡い赤みが広がっていく。

庭を通る風が、石卓の上に落ちていた白い花びらを、二人の間へ運んだ。


「次は…」


清遠が低く言う。


「いつ、お会いできますか?」


春華の口元へ、小さな笑みが浮かぶ。


「清遠様のご都合がよろしい時に」


「私の都合だけで決めてよいのですか?」


「私も、同じ日を、空けておきます」


清遠は暫く春華を見つめた。

それから、ほんの僅かに目元を柔らかくした。


「では、近いうちに」


「はい」


春華の笑みが、少しだけ深くなった。


     ◇◇


書肆を出る頃には。

午後の陽が西へ傾き始めていた。

清遠は濃い日傘を開き、深い影の中へ入る。

春華は侍女と共に馬車へ向かう。

石畳の道を数歩進んだところで。


一度だけ、振り返った。

黒い日傘の下。

清遠はまだ、書肆の前へ立っていた。

目が合う。


春華は僅かに頭を下げる、清遠も静かに礼を返した。

馬車へ乗り込んだあと、春華は胸元へ詩集を抱いた。

返すために持ってきたはずだった。


けれど清遠は、


「また読みたくなった時に、お返しください」


と言って、受け取らなかった。

今も春華の手元にある。

頁の間には、乾いた白い花、その花へ触れた時。

書肆の中庭で交わした言葉が蘇った。


――帰りたいと思う場所なら、見つかったのかもしれません。


あの言葉が、自分へ向けられたものならいいと思った。

次に会える日を待っているのは、自分だけではないのだと。


そう信じたいと思った。


なぜ、そこまで願うのだろう。

なぜ清遠からの書状が届くだけで、嬉しくなるのだろう。


なぜ、

別れたばかりなのに、もう次に会う日を考えているのだろう。


答えは本当は、ずっと前から胸の中にあった。

春華は窓の外へ顔を向けた。

夕暮れの光が、青磁色の袖へ柔らかく落ちている。


「私は……」


小さな声は、馬車の音へ紛れた、けれど自分の耳には、はっきりと届いた。


「清遠様が、好きなのね」


口にした瞬間、不思議なほど、胸の中が静かになった。

驚きはなかった。


ただ、長い間名前をつけずに大切にしていた気持ちがようやく本来の姿を現したように思えた。

春華は詩集を胸元へ抱いたまま誰にも見られないよう、ほんの少しだけ笑った。



一方。


清遠は、春華の馬車が通りの先へ消えたあとも、暫くその場へ立っていた。

濃い日傘の下へ、夕方の風が入り込む。


青磁色の衣、白い花の刺繍、自分へ向けられた、穏やかな笑顔。


――お会いできる日を。


春華の声が、耳へ残っている。

任務としてなら、すべて順調だった。

裴家の娘から信頼を得た、次に会う約束もできた。


春華自身も、自分へ好意を持ち始めている。

玄烈へ報告すれば、喜ぶだろう。

利用できるものが増えたと。


しかし、それを考えた瞬間。


清遠の胸へ、鋭い痛みが走った。

春華の気持ちを玄烈へ渡したくなかった。


あの花が咲いた様な柔らかく美しい笑顔を、任務の成果として扱われたくなかった。

彼女が待っているのは、龍家の情報を得るために近づいた男ではない。


詩集を探し、花を拾い、もう一度会いたいと願った自分だと。


そう思いたかった。


「私は……」


清遠の指が、日傘の柄を強く握る。


これまで彼女と約束したのは、任務だから会った。

信頼を得るため、相手の好みを覚えた。

次の接触を作るため、彼女が好きだと言う詩集を探した。


そう、何度も言い聞かせてきた。


けれど、青磁色の衣を着てくれたことへの喜びも次に会える日を尋ねずにはいられなかったことも。

任務という言葉ではもう説明できなかった。


「彼女を……好きになったのか」


初めて、自分自身へ問いかける。

答えは、問いを口にする前から、もう分かっていた。

清遠は静かに目を閉じた。


「私は、春華様が好きなのだ」


認めた瞬間、胸へ広がったのは、喜びだけではなかった。


それ以上に重い、恐れだった。

自分は、好きになった人を騙している。

彼女の信頼へ近づきながらその家を探るための任務を背負っている。


清遠は目を開けた。

夕暮れの通りには、もう春華の馬車は見えない。


それでも、彼女が消えていった先から、暫く視線を離すことができなかった。


     ◇◇


その夜。


清遠は、一人で机へ向かっていた。

灯火が僅かに揺れ、白い紙の上へ長い影を落としている。


龍玄烈リュウ・ゲンレツへ渡すための報告書。

清遠は筆先を墨へ浸した。


――裴春華との接触を継続。


――信頼関係は、順調に深まっております。


そこまで書き、ピタリと筆が止まった。


今日、春華もまた、次に会う日を待っていると言った。

彼女は、自分へ好意を持ち始めている。 


そう一言書けば、玄烈は春華をさらに利用しようとするだろう。

清遠の指先から、僅かに力が抜ける。

墨を含んだ筆の先から、一滴が紙へ落ちかけた。


寸前で持ち上げる。

長い沈黙のあと。

清遠は筆を置いた。


それ以上は、何も書かなかった。

報告書を乾かし、折り畳み封をする。


決して嘘は書いていない。

けれど、最も重要なことを、意図して隠した。


玄烈の命令へ。

清遠が初めて、小さく背いた瞬間だった。


机の端には、春華から以前受け取った礼状が置かれている。


丁寧に折り畳まれ、何度も開かれた紙の端は、僅かに柔らかくなっていた。


清遠は、その上へ指を置いた。

春華の穏やかな笑顔を思い出す。

次に会う時も、彼女は何も知らないまま、同じように笑ってくれるだろうか。


そう考えると余計に胸が苦しくなった。

好きだと認めたことで清遠は、自分が彼女を失うことを、恐れ始めていた。

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