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六話 銀の戒め


その夜。


龍国公府の最も奥深くにある大広間には、幾十もの燭台が灯されていた。

黒塗りの太い柱が、夜の闇を切り取るように等間隔で並んでいる。

高い天井から垂れた濃紺の幕には、銀糸で一頭の龍が刺繍されていた。


人の目には、ただ天へ昇る龍にしか見えない。

しかし、龍家の者が見れば分かる。

それは初代当主が王家と盟約を交わした夜を表す、龍一族の紋だった。


広間の扉は固く閉ざされている。

人間の使用人たちは、日が暮れる前に外院へ下がらせていた。

今、この場所にいるのは龍の血を持つ者だけだった。


本家に連なる者。

東西南北、それぞれの地を預かる分家の当主と、その側近たち。


皆、日焼けのない白い肌と、年齢を感じさせない整った顔を持っている。

けれど普段、王都の宴や人間の屋敷で見せる穏やかな仮面は、今夜ばかりは必要なかった。


燭台の炎の下。


時折、黒い瞳の奥へ、赤い光が滲む。

呼吸は静かでも、集まった者たちから漂う気配は、人間の群れとは明らかに違っていた。


広間の最上座には、龍昊然が座っている。


黒一色の衣。


背後の幕と同じく、銀糸で龍の紋が縫い取られていた。

王宮でも戦場でも見せることのない、龍家当主としての装いだった。


夜のため、黒い日傘はない。


灯火を受けた白い顔には、普段以上に感情が見えなかった。


右手側には景雲。

その反対側に置かれた席は、一つだけ空いている。


昊然の弟、龍暁嵐の席だった。

分家の者たちは、誰もその空席へ触れなかった。

けれど、集会が始まってから何度も、探るような視線が向けられている。


昊然は、そのすべてに気づいていた。


「今月、王都西部で七人の人間が姿を消した」


低い声が、広間の隅々まで届いた。

囁きに近いほど静かな声だった。

それでも、誰一人として聞き逃さない。


「うち三人は街道を行き来する商人。二人は付近の村人。残る二人は、奉公先から夜間に戻る途中だった女だ」


分家の列に並ぶ者たちは、黙っている。

昊然は景雲へ視線を向けた。

景雲が一冊の記録を開く。


「いずれも、金品を奪われた形跡はございません。西の林からは焼けた衣の一部と、砕き損ねた骨片が発見されております」


僅かに、場の空気が動いた。


「焼かれているのでしたら、野盗が証拠を隠した可能性もあるのでは?」


東の分家に属する男が口を開いた。

昊然は静かにその男を見る。


「人間の野盗が、生きた身体から血だけを抜くのか?」


男の唇が閉じた。

燭台の芯が弾け、小さな火の粉が舞う。


「遺された骨に、血はほとんど残っていなかった」


昊然の声に、怒りはない。


そのことが、かえって広間を冷えさせた。


「近頃、正規の血の受け取りが滞った分家はない」


景雲が記録を読み上げる。


「すべての家が、決められた期日と量を受領しております。血の不足を申し出た者もおりません」


「つまり、飢えに追い詰められた者の仕業ではない」


昊然が続けた。


「血を得る手段がなかったわけでもない」


最前列の一角に座る男が、僅かに目を細めた。


龍玄烈。


南方の広大な領地を預かる、有力分家の当主である。

分家の中では最も多くの兵と財を持ち、先代の龍国公の頃から、一族の評議に加わってきた男だった。

昊然よりも年長でありながら、外見は三十を少し越えた程度にしか見えない。


濃い紫の衣。


長い黒髪を金の冠でまとめ、その顔には穏やかな微笑を浮かべていた。


「それが事実ならば、見過ごせぬことにございますな」


玄烈は静かに言った。


「人間との盟約を危うくする行為です」


言葉だけを聞けば、昊然の考えへ全面的に賛同しているようだった。

昊然の黒い瞳が、玄烈へ向く。


「そう思うか」


「もちろんでございます」


玄烈は胸元へ手を添え、恭しく頭を下げた。


「掟は、掟にございますので」


昊然は暫く彼を見ていた。

玄烈の表情は少しも揺らがない。

やがて昊然は視線を外した。


「この件は、暁嵐(ギョウラン)に調べさせている」


空いていた席へ、分家たちの目が集まる。


「数日前から、西の街道と周辺の村を追わせている。今夜ここへ戻る予定だ」


「まだお戻りにならぬということは、手間取っておられるのでしょうか」


誰かが言った。

昊然は答えない。


弟の身を案じているようにも、遅参を咎めているようにも見えなかった。

ただ、最初から何かを待っている目だった。


その時。


大広間の外から、音がした。


ずる……。


重いものが、石床を擦る音。

続いて、金属が引きずられる鈍い響き。


じゃらり。


集まった者たちが、一斉に大扉を見る。


ずる……ずる……。


音は、ゆっくりと近づいてくる。

分家の中に、身構える者がいた。

燭台の炎が、突然吹き込んだ夜風に大きく揺れた。

閉ざされていた二枚の扉が、外側から開く。

冷たい夜気と共に、細かな雨粒が広間へ吹き込んだ。


その中央に、一人の青年が立っていた。


深い藍色の長衣。


夜露と雨に濡れた黒髪が、白い額へ数筋張りついている。

肩から掛けた黒い外套の裾には、泥と、乾きかけた赤黒い血がついていた。


昊然とよく似た、端正な顔立ち。

けれど兄よりも僅かに柔らかな目元には、今は笑みの欠片もない。


右手には、黒い鎖が握られている。

その先に繋がれた一人の男が、半ば倒れたまま石床を引きずられていた。


龍暁嵐(リュウギョウラン)


龍昊然の実弟にして、龍家本家に生まれたもう一人の青年だった。

広間に並んだ者たちの視線を一身に受けながら、暁嵐は足を止めない。


濡れた靴が、石床へ黒い跡を残す。


一歩。


また一歩。


鎖に繋がれた男が苦しげに呻いた。

それでも暁嵐は振り返らない。

最上座の前まで進むと、鎖を握っていた手を放した。


じゃらり、と。


男の身体が、昊然の前へ転がる。


「遅くなった、兄上」


暁嵐は顔を上げた。

昊然の目と、弟の目が重なる。


久しぶりに会った兄弟だというのに、互いに笑いもしなければ、無事を喜ぶ言葉もなかった。


「随分とかかったな」


昊然が言う。


「こいつが思ったより、よく逃げた」


暁嵐は濡れた外套を肩から外した。

近くにいた景雲が、それを受け取る。


「ご無事で何よりでございます、暁嵐様」


「ああ。ただいま、景雲」


暁嵐は短く答え、足元の男を見下ろした。

両手首には鎖が巻かれ、衣は泥で汚れている。


頬には殴られた痕。

唇の端から血が流れていた。

それでも、顔に浮かんでいるのは恐怖よりも苛立ちだった。


暁嵐は懐へ手を入れる。

取り出したものを、昊然の前へ一つずつ置いた。

焼け焦げた女物の髪飾り。

半分ほど黒く焼けた商人の身分札。

そして、赤黒い染みの残る小さな布。


「西の街道で三人。北の村で二人。本人が認めたのは五人だ」


暁嵐の声は冷たかった。


「残る二人についても、こいつの立ち寄った場所と重なる」


昊然は足元の男へ視線を落とす。


「名を」


男は答えなかった。

暁嵐が鎖を踏む。

拘束された両腕が引かれ、男の身体が僅かに浮いた。


「当主が聞いている」


「……龍宗耀(リュウシュウヨウ)だ」


男が吐き捨てるように答えた。


龍宗耀(リュウシュウヨウ)


西陵を治める分家当主、龍白楊(リュウハクヨウ)の長男だった。

名を聞いた瞬間、分家の列から椅子の倒れる音がした。


「宗耀……?」


一人の男が立ち上がっていた。


龍白楊。

その隣では、妻が両手で口元を覆っている。


「何かの間違いです」


母親が震える声を漏らした。


「宗耀が、そのようなことをするはずが……」


暁嵐が母親を見る。


「本人の口から聞いた」


「拷問をなさったのではありませんか?」


「必要なかった」


暁嵐の口元へ、冷たい笑みが浮かぶ。


「途中から、自慢げに話し始めた」


母親の顔から血の気が引いた。

父親の龍白楊が、一歩前へ出ようとする。


暁嵐が鎖を引いた。

宗耀の身体が、両親から遠ざけられる。


「近づくな」


低い声だった。


昊然ほど無表情ではない。

けれど、暁嵐の瞳に浮かんだ冷たい光を見て、白楊の足が止まった。


昊然は宗耀へ尋ねる。


「最後に血を与えられたのはいつだ」


宗耀は黙っている。

景雲が記録を開いた。


「十一日前でございます。西陵分家には、定められた量が不足なく渡されております」


「十一日前なら、飢えに理性を失うほどではないな」


昊然の声が落ちる。

宗耀は鼻で笑った。


「飢えてなどいない」


母親が息を呑む。


「宗耀、黙りなさい」


「では、なぜ襲った」


昊然が問う。

宗耀は拘束されたまま顔を上げた。

その目が、黒から赤へ変わり始める。


「うまそうだったからだ」


広間の空気が凍った。

宗耀の唇が、愉快そうに歪む。


「街道を一人で歩く人間など、食われる方が悪い」


「宗耀!」


父親が声を荒らげた。


「何を言っているのか分かっているのか!」


「分かっている」


宗耀は父親へ赤い目を向ける。


「人間は我らの食糧だ。血を飲むために生かしているようなものだろう」


「違う」


昊然が言った、声は静かだった。

宗耀が最上座を見る。


「何が違う?」


「我らが血を必要とすることと、人間の命を好きに奪うことは別だ」


宗耀は笑った。


「同じだ」


「違う」


「人間は弱い」


宗耀は鎖を鳴らしながら身を起こした。


「短く生き、簡単に死ぬ。数だけは多い。豚や牛と何が違う?」


分家の列の中で、玄烈が僅かに目を細めた。


「人間を食った程度で、なぜ龍の血を持つ者が裁かれなければならない」


宗耀は続ける。


「我らが本気を出せば、王都の人間など一夜で消せる。なのに王へ頭を下げ、罪人の血を恵んでもらう?」


唇に嘲笑が浮かぶ。


「馬鹿げている」


父親の白楊は、今度こそ膝から崩れた。


息子が何をしたのか。

何を考えていたのか。

もう否定できなかった。


母親は、それでも首を横へ振る。


「宗耀、謝りなさい」


震える声で懇願する。


「当主様へ謝って。二度としないと、今ここで誓いなさい」


宗耀は母親を見た。


「なぜ?」


「お願いだから……」


「何も悪いことはしていない」


母親の目から、涙が溢れた。

昊然は宗耀を見下ろしたまま、もう一度だけ尋ねた。


「悔いる気はないのだな」


「ない」


「二度と人間を襲わぬと誓う気も」


「ない」


宗耀は笑った。


「ここから出れば、また飲む」


昊然の表情は変わらなかった。

ただ、広間にいる龍族たちは感じた。


何かが決まる。


「景雲」


「はい」


景雲が広間の奥へ向かう。

黒い幕の裏に隠されていた扉を開いた。

そこから両手で運んできたのは、細長い黒檀の箱だった。


分家の者たちの間に、初めて明確な動揺が走る。

景雲は最上座の前へ箱を置き、蓋を開けた。


黒い布の上。


月の光を固めたような、白銀の剣が収められていた。

刃は細い。

華美な宝石も、金の飾りもない。

柄に刻まれているのは、龍一族の古い文字だけだった。


――戒めを忘れるな。


銀の剣。


龍の血を持つ者にとって、唯一と言ってよい死の刃だった。

普通の武器で受けた傷なら、龍族の身体は血さえ足りていれば瞬く間に塞ぐ。

だが銀の刃が残した傷は、治らない。

深く斬られれば、身体は少しずつ命を失い、最後には塵となる。

そして心臓を貫かれれば、一度で終わる。


「昊然様!」


白楊が床へ手をついた。


「お待ちください!」


昊然は箱の中から銀の剣を取った。

刃が燭台の炎を映し、白く光る。


「息子には、私から言い聞かせます」


白楊の額が石床へ触れる。


「二度と屋敷の外へは出しません。血も、私が直接管理いたします。どうか一度だけ――」


母親も床へ膝をついた。


「お願いでございます」


涙で濡れた顔を上げる。


「この子は、まだ若いのです」


昊然は宗耀から目を逸らさない。


「若いことは、五人を殺した理由にはならない」


「ですが!」


「本人が、また襲うと言った」


白楊の声が止まる。


「血を得る手段がなかったのではない。飢えていたわけでもない」


昊然は銀の剣を下げたまま、宗耀の前へ歩み出た。


「こいつは選んだ」


宗耀の笑みが、初めて僅かに揺れた。


「人間を殺す方が愉しいから、そうした」


昊然が近づくにつれ、宗耀の赤い目に小さな恐怖が浮かび始める。


強がって笑おうとする。

けれど唇が、僅かに引き攣っていた。

銀の剣を持つ昊然は、戦場で見る姿よりも静かだった。


静かすぎた。


宗耀は初めて、自分が本当に殺されるのだと理解した。


「ま、待て」


鎖を引きずり、後ろへ下がろうとする。

暁嵐が鎖を踏み、逃げ道を塞いだ。


「今さらか?」


「私は西陵分家の跡取りだ!」


宗耀が声を上げる。


「私を殺せば、西陵の者が黙っていないぞ!」


昊然は目の前で止まった。


「それが最後の言葉か」


「龍の血を持つ私と、人間の命を同じに扱うのか!」


「命に、本家も分家もない」


昊然の黒い瞳が、ゆっくりと赤へ染まった。


「掟を破り、悔いることもない者は、一族には残せない」


銀の剣が持ち上がる、母親の悲鳴が響いた。


「おやめください!」


その声と同時に。

銀の切っ先が、宗耀の胸へ沈んだ。


寸分違わず。

心臓の中央を貫いた。

宗耀の赤い瞳が、大きく見開かれる。


口が動く。


けれど、声は出なかった。

胸元から、銀色の細い亀裂が走る。


首へ。

頬へ。

指先へ。


それは一瞬で、身体中へ広がった。

昊然が剣を引き抜く。

宗耀の身体が、内側から崩れ始めた。


白い肌が。

黒い髪が。

目を見開いた顔が。


すべて灰よりも細かな黒い塵となり、着ていた衣の中へ落ちていく。

母親が手を伸ばす。

けれど触れる前に、宗耀の身体は完全に失われた。


空になった衣が石床へ沈む。

拘束していた鎖が落ち、重い金属音を立てた。


じゃらん――。


大広間に、その音だけが長く残った。


「宗耀……」


母親は衣の前へ膝をついた。

震える指で黒い塵を掬おうとする。

けれど、細かな粒は指の間から落ちていく。


顔もない。

手もない。


抱き締める身体も、すでに存在しない。


「私の、子……」


掠れた声が漏れた。

昊然は銀の剣を持ったまま、その姿を見下ろしている。

刃には血の一滴も残っていなかった。


「貴様……!」


分家の列から、椅子を蹴る音がした。


一人の男が立ち上がる。


龍爛然(リュウロンゼン)


白楊の弟であり、宗耀の叔父だった。

腰に帯びた剣を抜き、昊然へ向かって駆け出す。


「人間のために、宗耀を殺したな!」


暁嵐が動こうとした。

昊然が左手を僅かに上げる。


来るな。


弟はその場で足を止めた。

爛然が剣を振り上げる。


「この裁き、認めるものか!」


次の瞬間。


白い光が横切った。

誰一人として、昊然が銀の剣を動かした瞬間を見られなかった。


爛然の身体が止まる。

その胸には、銀の刃が深く沈んでいた。


「当主へ剣を向けた時点で」


昊然が静かに告げた。


「お前の裁きも決まった」


銀の剣が引き抜かれる。


爛然の胸から、銀色の亀裂が走った。


「待って――!」


白楊が叫ぶ。


遅かった。

爛然の身体も塵となり、衣だけを残して崩れ落ちた。

ただ、腰から外れた普通の剣だけが石床を跳ね、乾いた音を立てた。


誰も動けなかった。

母親の嗚咽すら止まっている。

父親の白楊も、広間にいる分家の当主たちも。

全員が昊然を見ていた。


いや。


正確には、見られずにいた。

昊然の赤い瞳と目が合う前に、次々と顔を伏せていく。

銀の剣を手にした若い当主は、怒っていない。


息を乱してもいない。


たった今、同じ血を持つ二人を塵へ変えたというのに、呼吸一つ変わっていなかった。

そのことが、何よりも恐ろしかった。


「これで二人だ」


昊然の声が落ちる。


「三人目になりたい者は、前へ出ろ」


誰一人、動かなかった。

玄烈さえも、穏やかな表情のまま目を伏せている。

昊然は宗耀の父、白楊を見る。


「息子一人の罪で終わると思うな」


白楊の肩が震えた。


「……当家は、何も存じませんでした」


「知らなかったことも罪だ」


「どうか……」


「お前の屋敷から人間が消えた。血の受け取りにも、事実と異なる記録があった」


白楊が顔を上げかける。

赤い瞳が向けられた。

それだけで、白楊は再び額を床へつけた。


「見逃したのか。隠したのか。これから調べる」


「……はい」


「本日より、西陵分家を本家の監視下へ置く」


広間が静まる。


「当主としての権限を停止する。領地を離れる際は、本家の許可を取れ」


「承知、いたしました」


「屋敷にある武器をすべて提出しろ。血の受け取りも、人間の使用人を雇い入れることも、本家の管理下へ置く」


白楊の両手が、石床の上で強く握られる。


爪が割れ、血が滲んだ。

けれど、反論はしない。


できない。


銀の剣で心臓を貫かれ、息子と弟が一瞬で塵になるところを見たばかりだった。


「一族全員に監察をつける」


昊然が続ける。


「屋敷への出入り。送られる書状。血の使用量。すべて記録させる」


白楊の妻が顔を上げた。

頬には涙の跡が残っている。

その目にあるのは、深い悲しみ。

そして、隠しきれない憎しみだった。


けれど昊然と目が合った瞬間、身体が強張る。


唇が震える。

言いたい、息子を返せと。

人間のためになぜ、と。

目の前の男を、決して許さないと。


それでも声が出ない。


怖かった、目の前の昊然が。


何を言っても揺らがず、必要と判断すれば自分さえ同じ銀の剣で消すであろう当主が、恐ろしくて仕方がなかった。


「……当主様」


白楊が声を絞り出す。


「それでは、我らは罪人と同じではございませんか」


昊然の目が僅かに細くなった。


「違うと思うなら、潔白を証明しろ」


「……」


「拒むなら、今ここで言え」


銀の剣の切っ先が、ゆっくりと床へ向く。


白楊は息を呑んだ。


妻の肩を掴み、二人で深く頭を下げる。


「……謹んで、お受けいたします」


声には、屈辱が滲んでいた。

その奥にある恨みを、昊然が見落とすはずはない。

けれど何も言わなかった。


「景雲」


「はい」


「明朝までに監察役を送れ」


「承知いたしました」


「宗耀と爛然の名は、家系の正記から除け」


母親の顔が上がる。


「お待ちください!」


悲鳴に近い声だった。


「せめて、宗耀の塵だけでも……」


昊然が母親を見る。

その視線を受けた途端、声が喉で止まった。


「掟を破り、五人を殺し、悔いることもなかった」


声に揺らぎはない。


「罪人に、龍家の墓は与えない」


「そんな……」


「塵は北炉へ入れろ」


母親の顔から血の気が引いた。


「昊然様……」


「宗耀の名は罪録にだけ残す」


罪を犯した者として。


後の一族への戒めとして。


息子が生きていた証ではなく、禁忌を破った者の名としてのみ残る。

白楊は、妻がさらに言葉を発する前に、その頭を床へ押さえた。


「……承知いたしました」


昊然は二人から視線を外す。

広間に集まった龍族たちへ向き直った。


「我らが生きるために、血は必要だ」


静かな声が、広い天井へ響いた。


「それを否定するつもりはない」


誰も顔を上げない。


「だが、必要であることと、好きに奪うことは違う」


燭台の炎が揺れる。

銀の剣が、冷たい光を返した。


「人間を家畜と呼ぶ者」


昊然の視線が、分家の列を通り過ぎる。

玄烈は深く頭を下げている。


「己の欲のために、人の命を奪う者」


「王との盟約を危険に晒す者」


昊然の赤い瞳が、一族全員を見下ろした。


「本家であろうと、分家であろうと、私が処断する」


広間にいた者たちが、一斉に頭を下げた。


「肝に銘じます、龍国公様」


声が重なる。


忠誠。

恐怖。

屈辱。


それぞれの胸にあるものは違った。

けれど誰も、銀の剣を持つ昊然へ逆らうことはできなかった。


     ◇◇


集会が終わると、分家の者たちは静かに広間を後にした。

白楊夫妻も、本家から選ばれた者に付き添われて去っていく。

母親は最後まで、息子だった塵の残る場所を振り返っていた。


やがて扉が閉まる。


広間に残ったのは、昊然、暁嵐、景雲と、本家のごく僅かな者だけになった。


景雲が黒い布を持ってくる。

昊然は銀の剣を拭い、箱へ戻した。

その手つきにも、迷いはなかった。


「相変わらず、自分でやるんだな」


暁嵐が言った。

昊然は箱の蓋を閉じる。


「私が下した裁きだ」


「ほかの者へ任せるつもりはない、か」


「ああ」


暁嵐は閉ざされた扉を見る。


「白楊たちは、兄上を恨む」


「分かっている」


景雲が銀の剣の箱を持ち上げる。


「監視は厳重にいたします」


「頼む」


昊然が言う。

暁嵐は兄を見た。


「私も西陵へ行こうか?」


「戻ったばかりだろう」


「まだ動ける」


「必要になれば命じる」


「分かった」


短いやり取りだった。

けれど景雲は、暁嵐の目に浮かんだ警戒を見ていた。

あの夫婦だけではない。

今夜の裁きを見た分家の中に、別の思いを抱いた者がいる。


誰が忠実で。

誰が恐怖だけで頭を下げ。

誰が、昊然の背へ刃を向ける機会を待っているのか。


その答えは、まだ闇の中にあった。


     ◇◇


同じ夜。


王都南部にある玄烈の屋敷では、灯りが遅くまで消えなかった。

龍家本家の静謐な広間とは異なり、玄烈の居室には甘い香が焚かれている。


厚い敷物。

金糸の刺繍が施された衝立。


卓上には、南方から取り寄せた果実酒が置かれていた。

龍玄烈は窓際の椅子へ腰掛け、杯を手にしている。

集会で見せていた穏やかな微笑は、すでに消えていた。


「人間を五人食った程度で、銀の剣か」


杯の中の赤い酒が揺れる。


「先代も、その息子も……家畜へ情を移しすぎる」


部屋の隅に控えていた龍族の側近が、慎重に口を開く。


「昊然様は、王との盟約を重く見ておられます」


「意味の分からぬ契約だ」


玄烈は鼻で笑った。


「なぜ龍が、人間の王を守らねばならない?」


答える者はいない。


「我らが本気を出せば、王宮など一夜で消せる」


杯が卓へ置かれる。


「王も。王太子も。あの騒がしい王女も」


玄烈の瞳に、赤い光が一瞬滲んだ。


「弱い人間どもが王を名乗り、我らがその足元に跪く。いつまで、そんな茶番を続けるつもりだ」


側近は黙って頭を下げる。

玄烈は窓の外へ目を向けた。

雨はすでに上がっている。


暗い庭の木々から、雫だけが落ちていた。


「白楊は使える」


「息子を処刑された者を、でございますか」


「だからこそだ」


玄烈の口元へ、薄い笑みが戻る。


「恐怖は人を縛る。だが、恨みはその鎖を内側から腐らせる」


今すぐ声をかける必要はない。

監視がついたばかりの西陵分家へ近づけば、昊然に気づかれる。


暫く待てばいい。

恐怖が屈辱へ変わり。

屈辱が憎しみへ変わり。


あの母親が、息子の名を記録から消されたことに耐えられなくなるまで。


「いずれ、向こうから救いを求める」


玄烈が杯を取ろうとした時、扉の外から控えめな声がした。


「旦那様。お酒をお持ちいたしました」


「入れ」


扉が開く。

若い侍女が、銀の盆を両手に抱えて入ってきた。

名は秀蓮。

三年ほど前から玄烈の身の回りを世話している、人間の娘だった。

年は二十を少し越えたほど。


黒い髪を後ろでまとめ、淡い水色の衣を着ている。

玄烈の機嫌を損ねぬよう、静かな足取りで卓へ近づいた。


「新しい酒をお注ぎいたします」


秀蓮は杯を取り、酒壺を傾けた。

赤い酒が、細い音を立てて注がれる。

玄烈は、その横顔をじっと見た。


いつもと同じ侍女。

毎朝、衣を用意し。

夜には寝所の灯りを整え。


食事の好みも、酒を飲む時の癖も知っている。


けれど玄烈にとって、それは彼女を一人の人間として覚える理由にはならなかった。

白い首筋が、衣の襟から覗いている。

近づいた身体から、生きた血の匂いがした。


今夜の集会で血を見たせいか。

それとも、単に目の前に食べ頃のものがいたからか。

玄烈の喉が、小さく動いた。


「秀蓮」


突然名を呼ばれ、侍女が顔を上げる。


「はい、旦那様」


「こちらへ来い」


秀蓮は少し驚いたものの、素直に玄烈の前へ進んだ。


「何かございましたか?」


玄烈は椅子へ座ったまま、彼女を見上げる。


「近くで見ると」


ゆっくりと手を伸ばす。

指先が、秀蓮の頬へ触れた。


「随分とうまそうだな」


秀蓮の目が見開かれる。

頬へ触れる手は温かかった。

乱暴ではない。

まるで大切なものへ触れるような、ゆっくりとした動きだった。


「旦那様……」


秀蓮の頬が赤く染まる。

言葉の意味を、別のものとして受け取った。

長く仕えてきた自分を、ようやく女として見てくれたのだと。

玄烈ほどの身分の男に見初められれば、ただの侍女ではなくなるかもしれない。


側に置かれ。

美しい衣を与えられ。

いつかは、特別な存在として扱ってもらえるかもしれない。


胸が速く鳴り始める。


「急に、そのようなことを仰られては……」


恥ずかしそうに目を伏せる。

けれど、逃げようとはしなかった。

玄烈の親指が、頬を撫でる。


秀蓮はますます頬を赤くした。


「嫌か?」


低く甘い声だった。


「い、いいえ」


秀蓮は小さく首を横へ振った。

玄烈がぐいっと体を近づける。

二人の距離が近づいた。


顔がゆっくりと下りてくる。

秀蓮は、口づけられると思った。

緊張で息を止める。


瞼を閉じかける。


その時。


薄く開いていた目に、玄烈の瞳が映った。

黒かったはずの瞳が。


内側から血を流し込まれたように、鮮やかな赤へ染まっていく。

秀蓮の胸に、初めて小さな違和感が生まれた。


「……旦那様?」


玄烈は微笑んだ。

先ほどまでと、まったく同じ優しい笑みだった。


「勘違いするな」


頬へ添えられていた手が、後頭部へ回る。

秀蓮が身体を引こうとする。

動けなかった。

細い腕では、玄烈の力に抗えるはずがない。


「お前は本当に」


赤い瞳が、すぐ近くから秀蓮を見つめる。


「うまそうだと言ったんだ」


秀蓮の顔から、血の気が引いた。


「え……」


玄烈の唇の隙間から、鋭い牙が覗く。

恋の始まりだと思っていた距離。

口づけを待っていた近さ。

そのまま玄烈の顔が、秀蓮の首筋へ下りた。


銀の盆が手から落ちる。

甲高い音が部屋へ響いた。

杯が床を転がる。

赤い酒が、敷物へ広がっていく。


秀蓮の口から短い悲鳴が漏れた。

けれど、それも長くは続かなかった。


燭台の炎が揺れる。

床へ落ちた髪飾りが、赤い酒の中へ沈んだ。


やがて。


部屋は、何事もなかったように静かになった。

玄烈はゆっくり顔を上げる。


唇の端についた赤い血を、親指で拭った。

赤く染まっていた瞳が、次第に黒へ戻っていく。

腕の中から力の抜けた秀蓮の身体が滑り落ち、床へ横たわった。


玄烈は暫くその顔を見た。

先ほどまで頬を染め、自分に選ばれたと信じていた娘。

今はもう息をしていない。


「悪くなかった」


感想は、それだけだった。

部屋の隅に控えていた側近は、青ざめた顔で床を見ている。


「この者は、長く旦那様へ仕えていた者では……」


玄烈が側近を見る。


「だから何だ」


「屋敷の者が、不審に思うかと」


「郷里へ帰したことにしろ」


玄烈は秀蓮の身体を一瞥する。

そこには悲しみも、惜しむ様子もなかった。


「焼け」


「……はい」


「衣も、骨も、すべてだ。何も残すな」


「承知いたしました」


側近が人を呼ぼうとした時、玄烈が再び口を開いた。


「待て」


側近が足を止める。

玄烈は空になった酒杯を見た。


「朝の支度をする者がいなくなった」


まるで、不便になった道具の話をするような声だった。


「明日までに新しい人間を入れろ」


「どのような者をお選びいたしましょう」


玄烈は少し考えた。


「若く、健康な女がいい」


床に倒れた秀蓮へ、最後の視線を向ける。


「今度は、もう少し甘い血の者を選べ」


側近は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


秀蓮の身体が運ばれていく。

床へ残った髪飾りを、玄烈は靴先で脇へ退けた。


名も。

顔も。

三年間仕えていた日々も。


すでに玄烈の中から消えていた。


窓の外、厚い雲の切れ間から、白い月が現れる。

玄烈はその光を見上げ、静かに呟いた。


「人間など、食糧にすぎない」


先代が守った盟約。

昊然が命を奪ってまで守ろうとする掟。

それらすべてを嘲笑うように、赤く濡れた唇が歪んだ。


「王族など、守る価値もない」


王を消す。

盟約を終わらせる。


龍一族が、人間へ頭を下げずに生きられる国へ変える。

その考えは、まだ玄烈一人の胸の中にしかない。


けれど今夜、銀の剣で息子を失い、恐怖と憎悪を抱えた分家が一つ生まれた。


反乱の火種は、確かに落ちていた。

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