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五話 春の弓競べ



弓競べの朝。


裴家の庭には、まだ薄い朝靄が残っていた。


濡れた若葉の先から雫が落ち、石畳の上で小さく弾ける。厩からは馬の鼻を鳴らす音が聞こえ、門前では従者たちが荷物を馬車へ積み込んでいた。


「兄上、弓はもう一度確認しなくていいの?」


星揺は出立の支度を整えた景明の周りを、落ち着きなく歩いていた。

今日、王都郊外にある王家の弓場で、若い武官や武門の子息による弓競べが開かれる。

景明も裴家を代表して出場することになっていた。


「夜のうちに確認した」


景明は淡々と答え、弓袋を従者へ渡した。


「弦は?」


「張り替えた」


「矢羽は?」


「揃っている」


「腕は?」


「朝起きた時には、きちんと二本ついていた」


鈴花が口元を袖で隠して笑った。

星揺は不満そうに兄を見上げる。


「真面目に聞いているのよ」


「お前が何度も同じことを聞くからだ」


「だって、裴家の名誉が懸かっているでしょう?」


「急に話を大きくするな」


叔母が笑いながら、景明の肩に見えない埃を払った。


「怪我をせず帰ってくれば、それで十分よ」


「はい、叔母上」


景明は素直に頷く。

叔母は続いて星揺へ顔を向けた。


「あなたは、兄上の応援に行くのですからね」


「分かってるわ」


「ほかの令嬢と争うためではありません」


「まだ何もしてないでしょう?」


「先に言っておかなければ不安なのよ」


「叔母上まで……」


星揺が肩を落とす。

韓家の宴から、まだそれほど日が経っていない。

叔母が心配するのも無理はなかった。


そのうえ先日、韓家へ詫びに行った帰りには、自分の裾を踏み、石段から転びかけている。

龍昊然に抱き止められた一件も、すでに鈴花から叔母へ全て伝わっていた。


叔母は驚いたものの、星揺をからかいはしなかった。

助けていただいたことを忘れず、次に会った時もきちんと礼をするようにと諭しただけだった。


ただ、最後に小さく、


「それにしても、二度も助けていただいたのね」


と呟いた。


その言葉を思い出し、星揺は無意識に腰元へ手を添えた。 


黒い日傘の下。

腰へ回された、強い腕。

衣越しに伝わった温かな体温。

間近で見た、夜のように黒い瞳。


思い出した途端、また頬が熱くなりそうになり、星揺は慌てて手を下ろした。


「どうしたの?」


鈴花が顔を覗き込む。


「何でもないわ」


「少し顔が赤いけれど」


「朝から歩き回ったからよ」


「まだ門の外にも出ていないでしょう?」


星揺は鈴花の背を押した。


「ほら、早く乗りましょう。遅れるわ」


「一番落ち着いていないのは、お前だな」


景明の声を背に受けながら、星揺はそそくさと馬車へ乗り込んだ。


     ◇◇


王家の弓場は、王都の北門から馬車で半刻ほどの場所にあった。

なだらかな丘と広い草原に囲まれ、遠くには春霞に煙る山並みが見える。


普段は近衛兵や武官たちが訓練に使用する場所だが、今日は門から弓場まで、色鮮やかな旗が並べられていた。


風が吹くたび、王家の紋を染め抜いた旗と、出場者たちの家紋を掲げた旗が大きくはためく。

中央には長い射場が設けられ、大小幾つもの的が、距離を変えて置かれている。


その周囲には、貴族や官吏の家族が座るための天幕が並んでいた。


最も高い場所に設けられたのが、王族の席だ。

天幕の屋根には金糸の房が垂れ、王家の近衛兵が周囲を守っている。

馬車を降りた星揺は、弓場の広さに目を輝かせた。


「思っていたより大きいわ」


「王家が主催する弓競べだもの」


鈴花も辺りを見回している。 


弓弦を弾く乾いた音。

矢筒が触れ合う音。

出番を待つ若者たちの声。


芝の匂いへ、馬と革の匂いが混じっていた。

景明は受付を済ませると、出場者の控えへ向かう。

星揺はその背中へ声をかけた。


「兄上!」


景明が振り返る。


「絶対に中心へ当ててね!」


「簡単に言うな」


「兄上ならできるわ」


景明は一瞬だけ目を細めた。


「見ていろ」


それだけ言い残し、弓を持って歩いていく。

星揺は嬉しそうに笑った。


「景明兄様、少し緊張していたのではない?」


鈴花が言う。


「そうかしら?」


「星揺の言葉を聞いたら、少し顔が柔らかくなったわ」


「兄上が緊張するなんて、想像できない」


「あなたの前では見せないだけでしょう」


二人は侍女や従者と共に、裴家へ用意された観覧席へ向かった。

そこで、星揺の足が僅かに止まる。

すぐ近くの天幕に、杜家の紋が掲げられていた。

そして、その下に座っていた令嬢もまた、星揺へ気づいた。


杜明霞。


韓家の宴で、母の形見である簪を奪い、池へ落とした令嬢だった。

明霞の頬には、あの日に星揺から受けた傷の痕が、まだ薄く残っている。

二人の視線が重なった。


明霞は扇を開き、口元を隠すように微笑んだ。

けれど、その目は笑っていない。


「裴様もいらしていたの?」


「ええ。兄が出場しますので」


星揺は足を止め、礼を欠かない程度に頭を下げた。

今日は景明のために来た。

兄の晴れ舞台で、また騒ぎを起こすわけにはいかない。

明霞の視線が、星揺の髪へ向けられる。


今日は、白玉の簪を挿していた。


「あら…あの銀の簪は、お持ちにならなかったの?」


鈴花の表情が強張った。

星揺の胸の奥にも、鋭いものが走る。

それでも、声を荒らげはしなかった。


「大切なものですから、今日は屋敷へ置いてきました」


「そう」


明霞は扇の陰で、僅かに口角を上げる。


「今日は近くに池もございませんし、安心ですわね」


後ろにいた従者の一人が、小さく息を呑んだ。

星揺は何も言わず、明霞をまっすぐに見た。

怒りを見せれば、相手の思うつぼだ。


「今日は兄を応援するために来ただけですから」


星揺はそれだけ答えた。

明霞は、星揺が言い返してこないことへ少し拍子抜けしたようだった。

さらに何か言おうと唇を開く。

けれど星揺は、鈴花の腕を取った。


「行きましょう。兄上の出番を見逃してしまうわ」


「ええ」


二人は明霞へもう一度だけ礼をし、その場を離れた。

鈴花は何も言わなかった。

ただ、星揺の腕へ自分の腕を絡め、少しだけ強く抱いた。


     ◇◇


王族の到着を知らせる鐘が鳴った。

弓場にいた者たちが、一斉に立ち上がる。


まず太子・蕭凌川が、数人の近衛兵と共に姿を現した。

昊然と年はさほど変わらない。

明るく堂々とした雰囲気を持ち、王の代理として大会を見届けるため、今日は王族席の中央へ座る。


その少し後ろ。

黒い日傘が、陽光の下へゆっくりと現れた。

星揺は、すぐにその姿へ気づいた。


龍昊然だった。


墨色の衣に、黒銀の冠。

春の光に満ちた弓場の中でも、彼だけは夜の一部を切り取ったように見えた。


半歩後ろには、龍景雲が付き従っていた。

星揺の胸が、ほんの少しだけ強く鳴った。


韓家で会ったばかりなのに。

もう一度姿を見るだけで、黒い傘の下へ抱き止められた時のことが蘇る。


星揺は慌てて、射場へ視線を戻した。

隣で鈴花が、口元を緩めている気配がする。


「…何?」


「何も言っていないわ」


「顔が言ってる」


鈴花は小さく笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。

星揺が何か言い返す前に、凌川の声が聞こえた。


「昊然。せっかく来たのだ。お前も出てみてはどうだ?」


凌川は席へ座る前に、射場を見ながら楽しそうに言った。

昊然は黒い日傘の下で、静かに凌川を見る。


「私が出れば、弓競べではなくなります」


「随分な言い方だな」


「殿下もご存じでしょう」


「だからこそ、見たいのだ」


凌川は笑っている。

二人のやり取りから、幼い頃から親しいことが窺えた。昊然の言葉遣いは丁寧だが、王へ向けるものほど堅くはない。


「陛下から、正式な弓競べには出るなと申しつけられております」


「父上も相変わらず慎重だな」


「勝負にならないうえ、余計な疑いを持たれるからでしょう」


「少しくらい加減すればよい」


「その加減が面倒です」


凌川は声を上げて笑った。

星揺は思わず、もう一度昊然へ目を向ける。

戦場で“夜の龍”と恐れられていることは知っている。

人よりも力が強く、動きも速いことも、先日身をもって知った。

けれど弓まで、王から大会への出場を禁じられるほどなのか。


その時、王族席の奥から華やかな声が響いた。


「昊然!」


色鮮やかな衣をまとった昭華公主が、宮女たちを従えて現れた。


薄紅色と金を重ねた衣。

髪には宝石を散りばめた飾りが揺れ、歩くたびに細かな光を放っている。


誰より華やかで、人目を引く。

昭華は太子へ挨拶するよりも先に、昊然を見て顔を明るくした。


「来ていたのね」


昊然は昭華へ向き直り、僅かに頭を下げる。


「公主殿下」


「兄上のお供でしょう? こちらへいらっしゃい。私の隣が空いているわ」


昭華は、自分のすぐ隣に置かれた椅子を示した。

昊然は一度だけ、そこへ視線を向ける。


「私は太子殿下のお供で参りましたので、こちらにおります」


「兄上には、ほかにも護衛がいるでしょう?」


「護衛としてだけ参ったわけではございません」


「では、何のため?」


昊然は凌川へ視線を向けた。


「殿下に、無理に連れてこられました」


「人聞きが悪いぞ」


凌川が笑いながら口を挟む。


「戦以外は、屋敷へ籠もって仕事ばかりしているから、たまには外へ連れ出してやったのだ」


昭華は嬉しそうに、昊然へ一歩近づいた。


「なら、今日は私と一緒に見ればよいでしょう?」


「ご遠慮いたします」


「どうして?」


「先ほど申し上げました」


「兄上の隣でなくても、弓競べは見られるわ」


「私はここで結構です」


昭華は少し頬を膨らませた。

それでも諦めず、自分の宮女から扇を受け取る。


「日差しが強いでしょう?私の天幕なら、傘も必要ないわ」


昊然は返事をしなかった。

凌川の隣へ立ち、射場へ視線を向けている。


「昊然。聞いているの?」


返事はない。


「飲み物を用意させるわ。何がよい?」


昊然は、弓の弦を調整する出場者たちを見たままだった。


昭華の眉が僅かに寄る。


「ねえ、聞こえているでしょう?」


凌川が面白そうに昊然を見る。


「妹が呼んでいるぞ」


「聞こえております」


「なら返事をしてやれ」


「すでにお断りしました」


それきり、昊然は昭華へ何の反応も示さなくなった。

昭華が何を言っても、射場から視線を動かさない。


完全に無視している。


昭華は不満そうに唇を尖らせたが、怒って立ち去ることはなかった。

むしろ、昊然の冷たい態度には慣れているらしい。


「相変わらず愛想がないのね」


返事はない。


「そこがよいと言う令嬢も多いのでしょうけれど」


返事はない。


「私は、少しくらい笑った顔も見てみたいわ」


やはり返事はなかった。


昊然の後ろで、景雲が僅かに視線を伏せた。

笑いを堪えているようにも見える。

昭華はそれを見逃さなかった。


「景雲」


突然名を呼ばれ、景雲はすぐに顔を上げた。


「はい、公主殿下」


「今、笑ったでしょう?」


「いいえ」


「笑ったわ」


「お気のせいかと存じます」


「あなたまで私を無視するつもり?」


「そのような恐れ多いことはいたしません」


「なら、昊然にきちんと返事をするよう言いなさい」


景雲は一瞬だけ昊然を見る。

本人は何も聞こえていないような顔で、射場を見続けている。


「私から申し上げても、難しいかと」


「どうして?」


「すでにお断りしているからでございます」


昭華はますます頬を膨らませた。

怒っているはずなのに、少しも恐ろしくはない。

ころころと表情を変え、次に何を言い出すのかも分からない。


景雲はもう一度、僅かに目を伏せた。


――面白い方だ。


     ◇◇


競技の開始を知らせる太鼓が鳴った。

最初の競技は、静止した的を射るものだった。

出場者たちは五人ずつ射場へ並び、一定の距離から三本の矢を放つ。

的の中心に近いほど高い点が与えられ、上位の者だけが次の競技へ進む。


景明の名が呼ばれた。


「兄上よ!」


星揺は身を乗り出した。

景明は濃紺の騎装に身を包み、弓を手に射場へ進み出る。

普段、屋敷で見る時よりも背筋が伸び、その表情には武門の子らしい鋭さがあった。


一射目。


景明が弓を引く。

弦が張り詰める音が、風の中へ細く響いた。

指が離れる。


ひゅっ、と。


矢が空気を裂き、的の中心近くへ突き刺さった。

星揺の顔が明るくなる。


「兄上、すごい!」


周囲の者たちが、一斉に星揺を見る。

侍女が慌てて星揺へ声をかけた。


「お嬢様、もう少しお声を――」


「なぜ?応援なのだから、聞こえた方がいいでしょう?」


景明は振り返らない。

けれど、その口元が僅かに緩んだように見えた。


二射目。


一射目よりも、さらに中心へ近い。


三射目。


矢は、すでに刺さっていた二射目のすぐ横へ並んだ。

裴家の天幕から歓声が上がる。

星揺は誰よりも大きく手を叩いた。


「兄上!」


景明が射場から戻る途中、一度だけ裴家の席へ目を向ける。

星揺は両手を振った。

景明は呆れたような顔をしながらも、ほんの少しだけ笑った。

王族席でも、凌川が感心したように頷いている。


「裴将軍の息子か」


「はい」


昊然が答えた。


「あの家は、父だけでなく息子も弓が立つのだな」


「幼い頃から鍛えられているのでしょう」


昊然の視線が、景明から裴家の天幕へ移る。

そこでは星揺が、我がことのように喜んでいた。

周囲の令嬢たちは、扇の陰で静かに拍手をしている。

星揺だけは身を乗り出し、目を輝かせ、兄へ向かって何度も手を振っていた。


昊然は、その姿を少し長く見た。

韓家で詫びる時の、真っ直ぐな顔。

転びそうになった時の、驚いた顔。


今はそれとは違う、幼いほど無邪気な笑顔を浮かべている。


「昊然」


凌川が呼ぶ。


昊然は射場へ視線を戻した。


「何でしょうか」


「今、どこを見ていた?」


「競技を」


「的は反対側だぞ」


凌川の口元には、面白がる笑みが浮かんでいる。


昊然は表情を変えなかった。


「裴家の反応を見ておりました」


「裴家の、か」


凌川は自分でも星揺へ目を向けた。


王族席から見られていることなど気づかず、次に射る者の点数を景明のものと比べている。

着飾った令嬢の多くは、競技よりも王族席を気にしていた。

けれど星揺は、一度もこちらを見ない。


兄の一射一射に喜び、悔しがり、忙しく表情を変えている。


「面白い娘だな」


凌川が呟く。

昊然は答えなかった。

昭華も二人の視線を追い、裴家の天幕を見る。


「あの娘は誰?」


昊然は答えない。

昭華は凌川へ顔を向けた。


「兄上。あの、騒がしく手を振っている娘よ」


「裴将軍の娘だろう」


「裴将軍の?」


昭華は星揺をじっと見る。


「名前は?」


再び昊然へ尋ねたが、やはり返事はない。


「知っているのでしょう?」


無言。


「昊然」


それでも昊然は射場を見続けている。


景雲が笑いながら答えた。


「裴星揺殿です」


「星揺……」


昭華は、その名を口の中で確かめるように繰り返した。

少し離れた席では、明霞も王族席の様子を見ていた。


昊然が星揺へ視線を向けたこと。

太子まで星揺へ関心を持ったこと。

その両方に気づき、明霞の目が細くなった。


     ◇◇


景明は第一の競技を上位で通過した。

続く競技では距離を伸ばした的を射る。

さらに最後は、合図と共に左右へ動かされる小さな的を狙うものだった。


風は午前中より少し強くなっている。

旗の向きが絶えず変わり、出場者たちは矢を番えたまま、風が弱まる瞬間を待っていた。


景明の番が来る。

動く的が、縄で引かれながら射場の奥を横切った。

景明は慌てずに弓を引く。

的の現在の位置ではなく、その先へ狙いを定める。


矢が放たれた。

乾いた音と共に、動く的の端へ突き刺さる。


一射目は命中。

二射目は、さらに中心へ近い。

そして最後の一射。


一度、強い風が吹いた。

景明は弓を下ろさず、風の流れを読む。

星揺は両手を胸元で握りしめた。


「兄上……」


風が僅かに弱まる。

その瞬間、景明が矢を放った。

矢はまっすぐに飛び、動く的の中央へ突き刺さった。


弓場に大きな歓声が上がる。

星揺は立ち上がった。


「兄上!」


今度は侍女も止められなかった。

鈴花も一緒になって拍手をしている。

景明は最終的に二位となった。

優勝には届かなかったものの、王都の若い武官や名門の子息が集まる中での、見事な成績だった。


太子から銀の矢飾りを授けられ、景明は深く礼をする。


「裴家の弓は見事だった」


「ありがたきお言葉にございます」


「最後の一射は、特によかった。父君が戻られたら、今日のことを伝えるとよい」


「はい」


景明が王族席から下がる時、昊然とも一瞬だけ目が合った。

昊然は僅かに頷く、景明も深く頭を下げた。


     ◇◇


競技が終わると、弓場の緊張した空気が少しずつ解けていった。


出場者たちは家族のもとへ戻り、天幕の間には祝いの声が飛び交う。

景明が裴家の席へ戻ると、星揺は待ちきれずに駆け寄った。


「兄上、おめでとう!」


「走るな。また転ぶぞ」


「今日は裾を踏んでないわ」


「そういう問題ではない」


口では注意しながらも、景明の顔には満足そうな色があった。

星揺は銀の矢飾りを覗き込む。


「綺麗。父上にも見せたいわね」


「ああ」


「次は一位になれるわ」


「もう次の話か」


「だって、最後の一射は誰よりも中心だったもの」


「全体の点で負けた」


「少しだけでしょう?」


鈴花も景明へ祝いの言葉を贈り、侍女たちは用意していた水と布を差し出した。

その時、周囲の者たちが一斉に道を空けた。

太子と昭華公主が、こちらへ歩いてくる。

少し後ろには、黒い日傘を差した昊然と、景雲の姿もあった。


景明がすぐに姿勢を正す。

星揺たちも並んで頭を下げた。


「太子殿下、公主殿下にご挨拶申し上げます」


「楽にしてよい」


凌川が穏やかに言った。

その視線は、一度景明へ向いたあと、星揺へ移った。


「先ほどの応援は、射場の端までよく聞こえていたぞ」


星揺は、自分が話しかけられると思っていなかったらしく、僅かに目を見開いた。


「あ…も、申し訳ございません」


「叱っているわけではない」


凌川は楽しそうに笑った。


「兄が二位となった時、自分のことのように喜んでいたな」


「はい。兄上は、とても立派でしたので」


星揺は景明を見上げる。

その顔に迷いも、取り繕った様子もない。

凌川はそんな星揺を見て、ますます興味深そうに目を細めた。


「裴家は、兄妹の仲がよいのだな」


「普段は、うるさいくらいです」


景明が答える。


「兄上!」


星揺が不満そうに景明を見る。

凌川は声を上げて笑った。


「なるほど。本当に面白い妹だ」


星揺は褒められたのか分からず、少し困った顔で頭を下げた。

その横で、昭華は星揺を上から下まで眺めている。


「あなたが、裴星揺?」


「はい、公主殿下」


星揺は改めて丁寧に頭を下げた。


「韓家の宴で、ほかの令嬢と掴み合いをしたという娘ね」


周囲の空気が、一瞬静まった。

景明の眉が僅かに動く。

鈴花も心配そうに星揺を見るが、口は挟まない。

星揺は胸の前で手を重ね、落ち着いて答えた。


「……お祝いの席で騒ぎを起こしてしまったことは、事実でございます」


「言い訳をしないの?」


昭華は意外そうに首を傾げる。


「事情はございました。ですが、騒ぎになってしまったことまで、なかったことにはできませんので」


昭華は暫く星揺を見つめた。

やがて、面白いものを見つけたように笑う。


「変わった娘ね。普通なら、まず自分は悪くないと言うでしょうに」


その時、明霞が母と共に近くを通りかかった。

昭華が星揺へ声をかけているのを見て、すぐに足を止める。


「公主殿下」


明霞は恭しく礼をした。


「先日の件をご存じでしたのですね」


昭華が明霞を見る。


「あなたも、その場にいたの?」


「はい」


明霞は星揺へ一度だけ視線を向けた。


「大変な騒ぎでございました。裴様は、突然私へ襲いかかり――」


「先に簪を奪ったのは、そちらだ」


低い声が、明霞の言葉を遮った。


昊然だった。


黒い日傘の下から、明霞を静かに見ている。

明霞の顔が強張った。

韓家で真実を告げられた時と、まったく同じ目だった。


「りゅ、龍国公様……」


「公主殿下へ説明するなら、すべて話せ」


昊然の声に、怒りはない。

ただ事実だけを求める冷たさがあった。


「簪を奪い、亡くなった母親を侮辱したことも含めてな」


周囲から、小さなどよめきが起こる。

明霞は顔を赤くしたが、昊然の前では言い返せない。

昭華の目が、明霞から星揺へ戻った。


「掴み合ったという話だけでは、随分と印象が違うわね」


「公主殿下、私はただ簪を見せてもらおうと――」


「無理に髪から抜いたのでしょう?」


「それは……」


「都合の悪いところを隠して、人へ話すものではないわ」


昭華は、きっぱりと言った。

わがままで、自分の望みが叶わないことには慣れていない。

けれど、卑怯な振る舞いを好むわけではないらしい。

明霞の顔から血の気が引く。


昭華は星揺へ向き直った。


「あなたも、次からは人前で掴み合いなどしないことね」


「はい、公主殿下」


「せっかく可愛らしい顔をしているのに、傷だらけでは台無しだもの」


星揺がどう答えるべきか迷っていると、昭華はすでに昊然へ向き直っていた。


「昊然。私の喉が渇いたわ。一緒に天幕へ戻りましょう」


昊然は答えない。


「聞いているでしょう?」


無言。


「私が誘っているのよ」


昊然は凌川へ顔を向けた。


「殿下。ほかにご用はございますか」


凌川が吹き出す。


「妹を見事に無視したな」


「必要なことには、お答えしております」


「私には答えていないではない!」


昭華の声が響く。

景雲は少し顔を伏せた。

口元が緩んでいる。


昭華はすぐに気づいた。


「景雲。また笑ったわね?」


「いいえ」


「絶対に笑ったわ」


「お気のせいでございます」


「あなた、昊然よりも余程失礼ではなくて?」


「それは心外でございます」


景雲は穏やかに答えた。

昭華はむっとしながらも、なぜか少し楽しそうだった。


     ◇◇


弓競べの後には、近衛兵による騎射の演武が行われることになっていた。

見物人たちは再び観覧席へ戻り、射場の両脇から馬が入ってくる。

美しく飾られた馬に乗った近衛兵たちが、走りながら的を射抜いていく。



馬の蹄が大地を打つたび、乾いた土が舞い上がった。

昭華は自分の席へ戻る途中だった。

少し先を歩く昊然へ、まだ諦めずに話しかけている。


「せめて演武が終わるまでは、私の天幕にいなさい」


返事はない。


「昊然」


無言。


「聞いているの?」


昊然は凌川の傍らを歩いたまま、振り返らない。

その少し後ろを景雲が歩いていた。

昭華は不満そうに頬を膨らませながら、後ろ向きに数歩進む。


「景雲。あなたからも何か言いなさい」


「前をご覧になった方がよろしいかと」


「私は昊然に話を――」


景雲の言葉が終わるより先に。

演武場の方から、馬の激しいいななきが聞こえた。

一頭の馬が、突然鳴り響いた銅鑼の音へ驚いたのだ。


馬は大きく前脚を上げた。

乗っていた近衛兵が体勢を崩す。

手にしていた弓の弦へ、指がかかっていた。


放つつもりのなかった矢が、弦から外れる。


ひゅっ――。


鋭い音が、空気を裂いた。

矢は的ではなく、王族席へ続く通路へ向かって飛んだ。


「公主殿下!」


誰かが叫んだ。

昭華が振り返る。

けれど、矢はすでに目の前へ迫っていた。

逃げる間もない。


身体を動かすことさえできなかった。


その時。


景雲の姿が、昭華の視界から一瞬消えた。

次の瞬間には、強い腕が昭華の腰へ回っていた。


「え――」


身体を引き寄せられる。


景雲は昭華を抱え込むように自分の胸元へ引き寄せ、そのまま身体を入れ替えた。

昭華の前へ、自らの背を向ける。


矢が景雲の左肩を掠めた。

布の裂ける音。

矢はその先にあった木の柱へ、深く突き刺さった。


昭華は景雲の腕の中で、息を止めていた。

何が起きたのか、すぐには理解できない。

腰へ回された腕は強く、逃げようと思っても動けないほどだった。


けれど、少しも痛くない。

昭華を傷つけないよう、きちんと力が加減されている。

景雲の胸元からは、確かな体温が伝わってきた。

普段は昊然の半歩後ろへ控え、柔らかな微笑みを浮かべている青年。

けれど今、昭華を庇う横顔は鋭く、周囲を警戒する目には、いつもの穏やかさがなかった。


「公主殿下」


景雲が顔を下ろす。

昭華と視線が重なった。


「お怪我はございませんか」


近い。


今まで、景雲の顔をこれほど間近で見たことはなかった。

昊然とは違う、柔らかな目元、そして白い肌、整った鼻筋。


けれど、昭華を支える腕には、想像もしなかった強さがある。


胸が、大きく鳴った。


「わ、私は……」


昭華は自分の身体を確かめる。


「平気よ」


「それはよろしゅうございました」


景雲は安堵したように、僅かに目を細めた。

その表情を見た瞬間、昭華の胸がもう一度強く鳴る。

景雲は、昭華が自分の足で立てることを確認してから、腰へ回していた腕を離した。

離れた途端、昭華はなぜか少しだけ落ち着かない気持ちになった。


「景雲」


昭華の目が、裂けた衣へ向かう。


左肩から、赤い血が滲んでいた。


「あなた、血が出ているわ」


「掠っただけでございます」


「掠っただけではないでしょう!」


昭華の声が大きくなる。

近衛兵や宮女たちが慌てて駆け寄ってきた。

凌川も険しい表情で演武場を振り返っている。

馬はすでに取り押さえられ、矢を誤って放った兵は顔を青ざめさせ、地面へ膝をついていた。


「医師を呼びなさい!」


昭華が宮女へ命じる。


「公主殿下、この程度であれば――」


「私を庇って怪我をしたのよ。私が問題だと言ったら問題なの!」


景雲は一瞬、言葉を失った。

昭華は怒っている。

けれど、その目には本気の心配が浮かんでいた。

先ほどまで昊然を追いかけていた時とは違う。

景雲の肩から流れる血だけを見つめている。


傷口では、すでに自らの血が治癒を始めていた。


しゅうう……。


裂けた衣の奥から、ごく微かな音が鳴る。

弓場の騒ぎに紛れ、周囲の人間には聞こえていない。

けれど昊然と景雲には、はっきり聞こえていた。

このまま医師に診せれば、傷が異常な速さで塞がっていることへ気づかれるかもしれない。


昊然が、景雲の肩へ一度だけ目を向けた。


「景雲」


「はい」


「先に戻れ」


「承知いたしました」


昭華がすぐに昊然を見る。


「どうして戻すの? 医師に診せるのが先でしょう」


「屋敷で診せます」


昊然は短く答えた。


「私も行くわ」


「必要ございません」


昊然は昭華へそう告げると、それ以上は答えず、凌川の方へ向き直った。

昭華は昊然ではなく、景雲の袖を掴んだ。


「本当に大丈夫なの?」


景雲が僅かに目を見開く。


「はい。かすり傷でございます」


「さっきも同じことを言ったわ」


「事実でございますので」


「血が出ているでしょう」


「もう止まります」


「そんなにすぐ止まるわけがないでしょう?」


景雲は答えに詰まった。

実際には、すでに傷は半分ほど塞がり始めている。

昭華が覗き込もうとするため、景雲は自然に肩へ布を押し当てた。


「公主殿下」


「何よ」


「私は大丈夫でございます。どうかご安心ください」


景雲は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

昭華はその顔を見つめる。


「……必ず、きちんと手当てを受けなさい」


「はい」


「約束よ」


「承知いたしました」


昭華は、ようやく景雲の袖から手を離した。

景雲は太子と昭華へ深く一礼する。


「それでは、失礼いたします」


景雲が歩き出す。

昭華はその後ろ姿を、じっと見つめていた。

昊然が先に行く時は、どれだけ呼んでも振り返らないことへ腹が立つ。


けれど今は違う。


景雲が遠ざかることが、なぜか心細く感じられた。


「公主殿下」


宮女に呼ばれ、昭華はようやく我に返った。


「お怪我は、本当にございませんか?」


「私は平気よ」


答えながらも、昭華の目は景雲の背中を追っている。

昊然がすぐ近くに立っているのに。

いつもなら、真っ先に昊然へ話しかけているはずなのに。

今は、景雲の肩に滲んだ赤い血と、抱き寄せられた時の腕の強さばかりが頭に残っていた。


景雲もまた、日傘を開き、歩きながら先ほどの昭華の顔を思い出していた。

泣きそうなほど心配しているのに、怒った顔で医師を呼べと命じた。

約束をするまで、袖を離そうとしなかった。

思っていたより、ずっと素直な方なのかもしれない。


それに。


怒った顔も、少し可愛らしかった。

そう思ったことへ気づき、景雲は一人で小さく目を伏せた。

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