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四話 黒傘の下



韓家の定親宴から、七日が過ぎた。


朝の光が裴家の庭へ差し込み、池の水面に細かな金色の波を作っている。

軒下では燕が忙しなく行き交い、柔らかな春風が庭木の若葉を揺らしていた。

星揺の頬に残っていた傷も、今では薄い赤みが見える程度まで治っている。


医師からも、もう外へ出て構わないと言われた。


その言葉を聞いた星揺は、早速、韓美玉へ詫びの品を届けたいと叔母へ願い出た。


「街へ出るのは許します」


朝餉を終えた叔母は、星揺の襟元を整えながら言った。


「ただし、景明と鈴花から離れないこと」


「分かってるわ」


「侍女と護衛を置いて、一人で勝手に歩かないこと」


「一人で行ったりしないわよ」


「日が暮れる前には帰ってくること」


「はい」


叔母は最後に、星揺の顔をじっと見た。


「それから――」


星揺は嫌な予感がして、僅かに身構える。


「喧嘩をしないこと」


「どうして、それだけそんなに念を押すの?」


星揺が不満そうに尋ねる。


叔母は答えず、少し離れたところに立つ景明と鈴花へ視線を向けた。

二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に口を開いた。


「心当たりがあるだろう」


「心当たりがあるでしょう?」


「二人とも酷い!」


星揺が頬を膨らませると、叔母は堪えきれずに笑った。


「はいはい。今日は美玉様へお詫びに行くのでしょう? 騒ぎを起こして帰ってきたら、今度こそ暫く外へは出しませんからね」


「そんなことしないわ」


「なら安心ね」


叔母は星揺の髪へ挿された白玉の簪を、指先でそっと直した。

今日は、母の銀の簪ではない。

あの簪は池から拾い上げたあと、丁寧に洗い、磨き直した。

折れたり欠けたりしていないことを何度も確かめ、小さな布に包んで、自室の一番奥にある箱へ納めている。


しばらくは、外へ持ち出さないと決めたのだ。

鈴花は星揺の髪を眺め、少しだけ寂しそうに目を細めた。


「今日は、銀の簪ではないのね」


星揺は白玉の簪へ触れる。


「うん。暫くは、屋敷に置いておくことにしたの」


母をもう一度失いかけたような、あの時の感覚は、まだ胸の奥に残っていた。


「その方がいいわ」


鈴花が優しく言った。


「次に身につける時は、私も一緒にいるから」


「本当かしら」


二人が顔を見合わせて笑う。

景明が門の方へ歩きながら振り返った。


「話は馬車の中でしろ。遅くなるぞ」


「兄上は朝から急かしすぎよ」


「お前たちが朝から話しすぎなんだ」


星揺と鈴花の後ろには、それぞれの侍女が一人ずつ。

さらに裴家の従者が二人、護衛として付き従っていた。

叔母は一行を門まで見送る。


「星揺」


馬車へ乗り込もうとした星揺が振り返る。


「何?」


「喧嘩は――」


「しません!」


最後まで聞かずに答え、逃げるように馬車へ乗り込んだ。

叔母の笑い声が、閉じた扉の向こうから聞こえてきた。


     ◇◇


春の王都は、朝から大勢の人で賑わっていた。


大通りの両側には、色鮮やかな布や陶器、香油、茶葉を並べた店が軒を連ねている。


店先へ吊るされた薄布が風を受けて揺れ、その下では商人たちが声を張り上げていた。


「西方から入った上質な絹だよ!」


「焼き立ての胡麻餅はいかが!」


「今日は甘い棗が入っているよ!」


蒸籠から白い湯気が上がり、焼いた肉や香辛料、蜜を絡めた果実の甘い匂いが入り混じる。


荷車の車輪が石畳の上を軋みながら進み、その脇を子どもたちが笑い声を上げて走り抜けていった。


馬車を降りた星揺は、久しぶりの街の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「やっぱり街はいいわね」


「七日ぶりだぞ」


隣に立った景明が、冷静に言う。


「七日も出ていなかったのよ。十分久しぶりでしょう」


「普通はそう言わない」


「兄上は細かいわね」


「星揺が大雑把なんだ」


鈴花は二人の会話を聞きながら、すでに通りの向こうへ目を奪われていた。


「ねえ、あのお店を見てみない?」


鈴花が指した先には、色とりどりの髪飾りを並べた店がある。


「先に美玉姉様への品よ」


星揺が鈴花の腕を引いた。


「分かってるわ。見てみたいと言っただけよ」


「顔は、もう買う顔をしていたぞ」


景明が言う。


「景明兄様まで酷いわ」


三人はまず、祝いの品を扱う店へ向かった。


磨かれた棚には、白玉の飾りや香炉、刺繍の施された手巾、縁起物の置物が並んでいる。

裴家の者だと気づいた店主は、すぐに奥から幾つもの品を運ばせた。


「こちらは、鴛鴦を彫った白玉でございます」


「こちらの香盒には、連理の枝が刻まれております」


「定親のお祝いでしたら、この絹布も大変縁起がよろしいですよ」


星揺は棚の前で腕を組み、品を一つずつ真剣に見比べた。


「これは少し華やかすぎるかしら」


「美玉姉様なら、こちらの淡い色の方が似合いそう」


鈴花が薄紅色の香盒を持ち上げる。

景明は隣に並ぶ別の品へ目を向けた。


「詫びの品でもあるなら、派手なものより落ち着いたものの方がいい」


「兄上もちゃんと考えてくれているのね」


「お前たちだけに任せたら、日が暮れる」


「まだ店へ入ったばかりでしょう?」


三人が最後に選んだのは、淡い青磁で作られた小さな香盒だった。

蓋には二羽の鳥と、寄り添うように伸びる花の枝が描かれている。

派手すぎず、けれど祝いの品として寂しくもない。


星揺は香盒を両手で持ち、光の下で眺めた。


「これなら、美玉姉様も喜んでくれるかな」


「きっと喜んでくださるわ」


鈴花が頷く。


「星揺が一生懸命選んだものだもの」


「鈴花も兄上も一緒に選んだでしょう」


「最後に決めたのはお前だ」


景明も静かに頷いた。

さらに韓家の者たちにも配れるよう、紅白の祝い菓子を添えることにする。

店主が品を包み、赤い紐を丁寧に結んだ。


その包みを侍女へ預けたところで、店の外から甘い香りが流れ込んできた。

通りの向かいでは、串へ刺した果実に蜜を絡めた菓子が売られている。

陽の光を受け、赤い実が宝石のように艶めいていた。

星揺の目が、自然とそちらへ向く。


「星揺」


景明が名を呼ぶ。


「まだ何も言ってないわ」


「顔に出ている」


「美玉姉様への品は選び終わったでしょう?」


「だからといって、すぐ食べ物へ行くのか」


「たくさん歩いたから、お腹が空いたの」


店へ入ってから、まだ半刻も経っていない。

景明がそれを指摘する前に、鈴花が星揺の腕を取った。


「私も食べたいわ」


「鈴花まで」


結局、景明も二人に押し切られた。

蜜を絡めた果実を一串ずつ買い、店先の端で食べる。

星揺が実を齧ると、ぱりりと薄い蜜が割れ、中から甘酸っぱい果汁が広がった。


「おいしい」


嬉しそうに笑った直後、蜜が一滴、袖へ落ちかける。

侍女がすぐに布を差し出した。


「お嬢様、衣へ落ちます」


「大丈夫よ」


「先ほども、そのように仰いました」


景明が淡々と返す。


「兄上は、私を子ども扱いしすぎよ」


「衣へ蜜を落とさず食べられてから言え」


星揺が言い返そうとした瞬間、本当に蜜の一滴が袖へ落ちた。

鈴花が吹き出す。

景明は何も言わず、ただ星揺を見た。


「……少しだけでしょう」


「そうだな」


「何よ、その顔」


「何も言っていない」


星揺は侍女から布を受け取り、自分の袖を拭いた。

その後は、鈴花の希望で髪飾りの店を覗き、景明に急かされながら布地の店にも立ち寄った。

鈴花が迷っている間、星揺も幾つかの髪飾りを手に取ったが、結局何も買わなかった。


白玉の簪へ指を触れる。


今日はこれでいい、そう思った。


     ◇◇


一行が韓家へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。


先日の定親宴では華やかに飾られていた正門も、今は普段の落ち着きを取り戻している。

門番へ名を告げると、韓家の使用人がすぐに中へ案内した。


庭には白い花が咲き、細い水路を流れる水が陽の光を受けて涼やかに輝いている。

あの日の宴が開かれた庭とは別の場所だった。


それでも水面が目に入ると、星揺の胸の奥へ、銀の簪が池へ落ちていった瞬間が蘇った。

息が止まり、母をもう一度失ったように感じた、あの一瞬。


星揺の足が、僅かに止まる。


「星揺?」


鈴花が心配そうに顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」


「うん。何でもないわ」


星揺は小さく笑い、再び歩き出した。

客間では、韓美玉が待っていた。

先日の華やかな衣とは違い、今日は淡い藤色の衣をまとい、髪も簡素に結い上げている。

美玉は星揺たちを見ると、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。


「よく来てくれたわね」


「美玉姉様」


星揺は客間へ入ると、すぐに頭を下げた。


「先日は、本当に申し訳ありませんでした」


「星揺、顔を上げて」


「でも、せっかくの大切なお祝いだったのに、騒ぎを起こしてしまって……」


美玉は星揺の手を取り、顔を上げさせた。


「あなた一人が悪かったわけではないでしょう?」


「それでも、美玉姉様のお祝いの席を騒がせてしまったのは事実です」


星揺は美玉の目をまっすぐに見る。


「あの場で起きたことについて、きちんとお詫びしたかったの」


美玉は暫く星揺を見つめた。

やがて、その手を優しく握り返す。


「分かったわ。では、その気持ちはきちんと受け取ります」


星揺の肩から、僅かに力が抜けた。

侍女が包みを美玉の前へ運ぶ。

星揺は赤い紐を解き、青磁の香盒を取り出した。


「定親のお祝いも、まだきちんとお渡しできていなかったから」


美玉の顔が明るくなる。


「まあ、綺麗」


蓋に描かれた二羽の鳥へ、そっと指を触れる。


「三人で選んでくれたの?」


「はい。兄上は、途中から早く決めろと急かしてばかりでしたけれど」


「迷いすぎるお前たちが悪い」


「兄上も最後まで一緒に選んだでしょう?」


鈴花が笑いながら口を挟む。


「景明兄様が、落ち着いた色の方がよいと仰ったのです」


美玉が景明へ微笑む。


「ありがとうございます」


景明は少し居心地が悪そうに視線を逸らした。


「俺は、大したことはしていません」


「素直ではないのは、兄妹で同じね」


美玉の言葉に、客間へ笑い声が広がった。

先日の重苦しい空気は、もうそこにはなかった。

茶と祝い菓子が運ばれ、四人は暫く穏やかな時間を過ごした。


     ◇◇



やがて星揺たちが韓家を辞するため、客間を出た時だった。

陽の入る長い回廊の向こうから、韓家の当主と二人の男が歩いてくる。


墨色の衣をまとった長身の男。

その半歩後ろには、黒に近い紺色の衣を着た龍景雲が付き従っていた。

韓家の当主が見送りながら軍務について話している様子から、どうやら昊然は、用件を終えて帰るところらしい。


星揺はすぐに、その男が誰なのか分かった。


龍昊然。


先日の宴で、星揺を助けてくれた人。



池の向こうから現れ、誰も口を挟めなかった場で、見たままの真実を告げてくれた。


あの時から、怖い人だという印象は変わっていない。


表情は乏しく、声は低く、近くにいるだけで周囲の空気が張り詰める。


けれど、悪い人ではない。

それだけは、もう分かっていた。



「あ、龍国公様」


星揺が小さく呟く。

鈴花が耳元へ顔を寄せた。


「またお会いしたわね」


「そうね」


星揺の返事には、先ほどまでの賑やかさがなくなっていた。


緊張しているだけだった。

昊然は屋敷の中にいるため、黒い日傘を差してはいない。


閉じた傘は景雲が手にしている。

室内の柔らかな光の中でも、昊然の白い肌と墨色の衣は、周囲から浮かび上がるように目立っていた。


先に景明が足を止め、昊然へ礼をした。


「龍将軍」


昊然も足を止める。


「先日は、妹をお助けいただき、ありがとうございました」


「見たことを話しただけだ」


「それでも、龍将軍が証言してくださらなければ、妹だけが責められていたでしょう」


景明がもう一度、深く頭を下げる。

鈴花もそれに続いた。

星揺もすぐに姿勢を正し、丁寧に礼をする。


「先日は、本当にありがとうございました」


昊然の黒い瞳が、星揺へ向けられた。

宴の日とは違い、今日は髪も整い、頬の傷もほとんど消えている。

昊然の視線が、薄く残る傷跡へ止まった。


「傷は治ったか」


「はい。もう、ほとんど治りました」


「そうか」


短い返事だった。


けれど、星揺は不快には思わなかった。

もともと多くを話す人ではないのだろう。


怖い雰囲気の割に、頬の傷を覚えてくれていたことが、少し意外だった。

美玉が穏やかに微笑みながら言う。


「星揺は、先日のことを謝りに来てくれたのです。わざわざ街で、お祝いの品まで選んでくれて」


昊然の視線が、美玉の侍女が抱える包みへ移る。


「お前が謝ることではないだろう」


星揺は僅かに目を見開いた。

あの日も、昊然は星揺だけを責めなかった。

今もまた、同じように言ってくれる。


「簪を奪われたことについては、私も悪いとは思っていません」


星揺は静かに答えた。


「ただ、美玉姉様の大切なお祝いの席で、騒ぎを起こしてしまったのは事実ですから。それについては、きちんとお詫びしたかったのです」


昊然は暫く星揺を見つめた。


「そうか」


声はいつもと変わらない。

けれど、その目には僅かに感心したような色があった。

星揺はそれに気づかないまま、小さく頭を下げる。


「それから、龍将軍にも改めてお礼を申し上げたかったのです」


「あの場で、見たことを話しただけだ」


「それでも、助けていただいたことに変わりはありません」


昊然は何も言わなかった。

ただ、星揺を見ていた。

星揺も顔を上げる。


初めて、近くで昊然の顔を正面から見た。

陽の当たらない回廊の中でも、肌は驚くほど白い。

長い睫毛の下には、墨を流し込んだような深い黒の瞳。


近寄りがたい雰囲気とは裏腹に、その顔立ちは息を呑むほど整っていた。


――本当に、綺麗な顔をしている人。


ただ、そう思った。

昊然と目が合う。


見つめていたことへ気づかれた気がして、星揺は少しだけ慌てて視線を伏せた。


「では、私たちはこれで失礼いたします」


もう一度、きちんと礼をする。

それから気恥ずかしさを隠すように、少しだけ足早にその場を離れた。


鈴花は星揺の横顔を見て、何か言いたそうに口元を緩めた。

景明はそれに気づき、先回りするように小さく首を振る。

今は何も言うな、という合図だった。


     ◇◇


屋敷の外へ出ると、春の日差しが庭へ降り注いでいた。

白い石を敷いた道は眩しいほどに光り、池の水面では陽光が細かく砕けている。

風が庭木の間を抜け、薄紅色の花びらを何枚か舞い上げた。


景雲が、手にしていた黒い日傘を昊然へ差し出す。

昊然はそれを受け取り、静かに開いた。


ばさり――。


黒い布が大きく広がり、白い日差しの中へ濃い影が落ちる。

昊然はその影の下へ入り、韓家の門へ向かって歩き始めた。

星揺たちは、少し先を歩いている。

背後から足音が近づいてくる。


星揺は振り返らなかったが、石畳へ伸びる黒い日傘の影で、昊然たちが後ろにいると分かった。


先ほど、顔を見つめてしまったことを思い出す。


悪いことをしたわけではない。

それでも何となく落ち着かず、星揺の歩みは自然と速くなった。


「星揺、そんなに急いでどうしたの?」


鈴花が後ろから尋ねる。


「急いでないわ」


「さっきより速いわよ」


「早く帰ろうと思っただけ」


「帰りに、もう一軒お店を見たいと言っていなかった?」


「気が変わったの」


星揺は振り返らずに答えた。

その時、春風が少し強く吹いた。

衣の長い裾が、ふわりと浮き上がる。

けれど星揺は、背後の足音を気にしていて、それに気づかなかった。


次の一歩を踏み出す。

自分の足が、浮き上がった裾を踏んだ。


「あっ――」


身体が前へ傾く。


目の前には、白い石の階段があった。

景明が気づき、手を伸ばす。


「星揺!」


鈴花が息を呑んだ。

侍女と従者たちも、一斉に駆け寄ろうとする。


しかし、その誰よりも早く、数歩後ろを歩いていた昊然が踏み込んだ。

黒い影が、星揺の視界を覆う。

黒い日傘を持つ右手は、ほとんど揺れていない。

空いた左腕が星揺の腰へ回り、前へ倒れかけた身体を強く引き寄せた。


星揺が石段へ投げ出されるより先に、昊然の腕がその身体を胸元へ引き寄せていた。


星揺は息を止めた。

黒い日傘の下では、外の眩しい光が遮られ、二人の周囲だけが薄暗い影に包まれている。


鼻先が触れそうなほど近いところに、昊然の顔があった。


先ほど、回廊で綺麗な顔だと思った。

けれど、今はそれ以上に近い。


長い睫毛、日焼けのない白い肌、夜のように深い黒の瞳。


その瞳が、星揺だけをまっすぐに見ている。


昊然も、僅かに目を見開いていた。

宴の日は、乱れた髪と血の滲む頬ばかりが印象に残っていた。


回廊では、整った姿を遠目に見た。

だが今は、自分の腕の中にいる。

近くで見る星揺の瞳は明るく、春の水面を映したように澄んでいた。


驚きに僅かに開いた唇。

みるみるうちに赤くなっていく頬。


ほんの一瞬、庭を抜ける風も、池の水音も。

鳥の声さえ、遠ざかったように感じられた。


「きゃ……!」


最初に声を上げたのは鈴花だった。

両手で口元を覆い、驚いたというより、まるで物語の一場面を目の前で見たような顔だった。


景明は、妹へ伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。

転倒を免れたことへ安堵した直後、その妹が昊然の腕の中にいることへ気づく。


景明は何とも言えない表情で、片手を額へ当てた。


侍女たちも、目を丸くしたまま固まっていた。


従者たちは助けに動こうとした姿勢のまま止まり、互いの顔を見合わせた。

あまりにも迷いのない動きに、誰も声を発することができなかったのだ。


景雲が驚いたのは、その動きの速さではなかった。

普段、他人へ不用意に触れることのない昊然が、人目も憚らず一人の令嬢へ手を伸ばしたことだった。


しかも、片手には黒い日傘を持ったまま。


傘を投げ捨てることも日差しの下へ出ることもなく、星揺だけを、正確に抱き止めた。


景雲の目が、ほんの僅かに見開かれる。

昊然は星揺の両足がきちんと石畳へついたことを確かめた。

それから、ゆっくりと腰へ回していた腕を離す。

星揺は一歩、自分の足で立った。


腕が離れた途端、黒い傘の下に残っていた温もりまで遠のいたように感じた。


「足元を見ろ」


いつもと変わらない、低い声だった。

星揺はようやく我に返る。


「は、はい……」


いつものように言い返す余裕はなかった。


「怪我は」


「ありません」


「足は挫いていないか」


星揺は足首を少し動かして確かめる。


「大丈夫です」


「そうか」


昊然の視線が、星揺の足元へ落ちる。

長い裾が、再び石段へ広がっていた。


「裾を持て」


「はい。気をつけます」


星揺は素直に裾を持ち上げる。

それから、改めて昊然へ深く頭を下げた。


「また助けていただいてしまいました。本当に、ありがとうございます」


「礼はいい」


「でも――」


「怪我がないなら、それでいい」


短い言葉だった。

けれど冷たくはなかった。

星揺は顔を上げる。

黒い日傘の下で、再び昊然と目が合う。



やはり悪い人ではない。

それどころか、思っていたよりずっと優しい人なのかもしれない。

星揺がそう思っている間に、昊然は傘を僅かに持ち直した。


「今度は転ぶな」


「はい」


星揺は恥ずかしそうに答えた。


昊然はそれ以上何も言わず、星揺の横を通り過ぎていく。

黒い日傘が、春の日差しの中をゆっくりと遠ざかっていった。


景雲はその後を追いながら、一度だけ星揺の方を振り返る。

それから昊然の隣へ並び、声を抑えて尋ねた。


「昊然様」


「何だ」


「随分と、お早いご判断でございましたね」


「転びそうだった」


「はい。私も見ておりました」


「なら、聞くな」


「承知いたしました」


景雲は素直に頭を下げた。


けれど、その目には僅かな驚きが残り、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

昊然は気づいていたが、何も言わなかった。



一方、星揺はその場に立ったまま、遠ざかる黒い日傘を見つめていた。


「星揺」


鈴花が、楽しそうに顔を覗き込む。


「随分としっかり、抱き止めていただいたわね」


「転びそうになっただけよ」


「でも、ずっと見つめ合っていたでしょう?」


「見つめ合ってなんか……」


否定しようとして、星揺は口を閉じた。

確かに、見つめていた。


黒い傘の下で。

すぐ近くにある、昊然の顔を。

鈴花の目がますます輝く。


「やっぱり見つめ合っていたのね!」


「鈴花、声が大きいわ!」


星揺の顔が、耳まで赤くなる。

景明が大きく息を吐いた。


「とにかく帰るぞ」


「兄上、どうしてそんなに疲れた顔をしているの?」


「誰のせいだと思っている」


「私、何もしてないわ」


「歩いているだけで転びかけただろう」


「転んではいないわ」


「龍将軍がいなければ、石段へ顔から落ちていた」


「……それは、そうだけど」


景明はもう一度、額を押さえた。


「帰ったら、叔母上へ何と説明すればいいんだ」


「言わなくていいでしょう?」


「侍女も従者も、全員見ている」


後ろにいた侍女たちが、一斉に視線を逸らす。

従者たちも、何も聞こえていないふりをしていた。

鈴花だけが、満面の笑みを浮かべている。


「私は、最初から最後まで詳しくお話しできるわ」


「絶対に駄目!」


星揺は慌てて鈴花の腕を掴み、今度こそ門へ向かって歩き始めた。

ただし今回は、昊然に言われたとおり、衣の裾をしっかりと片手で持ち上げている。


歩きながらも、腰へ回された腕の強さと、衣越しに伝わった温かな体温が残っている気がした。


黒い日傘の下で見たあの瞳と、「怪我がないなら、それでいい」と告げた低い声が、いつまでも星揺の胸の奥から離れなかった。

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