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三話 王家と龍家の盟約



翌朝。


まだ王都を囲む城壁の向こうが、薄く白み始めたばかりの頃だった。

北西の関所から一騎の早馬が駆け込み、眠りの残る王宮へ緊急の軍報を届けた。


敵国の兵が国境を越え、山間の村を襲ったという。


食糧を奪い、家々へ火を放ち、抵抗した村人を斬った。生き残った者を盾にしながら、近くの砦へ進んでいるらしい。

報せを受けた王は、すぐに軍を動かした。

その中の一軍を任されたのが、龍昊然だった。


昊然は夜明けを待つことなく、龍景雲と直属の兵を率いて王都を発った。


   

   ◇◇

三日後。


沈みかけた夕日が、荒野を血のような赤に染めていた。

乾いた風が砂塵を巻き上げ、黒地に銀の龍を描いた軍旗を激しくはためかせている。

地面には折れた槍や剣が散乱し、ところどころで火の粉が燻っていた。


負傷した馬のいななき。

兵士たちが仲間の名を呼ぶ声。

担架を運ぶ足音。


戦はすでに決していたが、荒野にはまだ、戦いの熱と血の匂いが残っている。


「敵将が逃げます!」


前方から声が上がった。


昊然は、残った兵を盾にしながら山道へ向かう騎馬の一団へ目を向けた。

墨色の軍装は砂と血で汚れ、脇腹の衣が大きく裂けている。

少し前、敵兵の槍を受けた傷だった。

傷口から流れた血が腰まで伝い、黒い布をさらに濃く染めていた。


それでも、昊然の足取りは乱れていない。


「景雲」


「はい」


「ここを任せる。負傷者を先に砦へ運べ」


「昊然様、お一人で追われるのですか」


「私なら追いつける」


景雲の視線が、昊然の脇腹へ落ちる。


「ですが、その傷は――」


「戻ってから聞く」


昊然はそう言い残すと、黒馬へ飛び乗った。

手綱を引かれた馬が高くいななき、地面を力強く蹴る。

砂埃を上げながら、敵将の逃げた山道へ駆けていった。

景雲はその背中を見送り、小さく息を吐く。


「戻られてから、本当に聞いてくださればよいのですが」


そう呟いた次の瞬間には、もう戦場へ向き直っていた。


「生きている者を優先してください!敵兵は武器を奪い、抵抗しなければ生かしたまま捕らえるように!」


兵士たちが一斉に動き始めた。

味方の負傷者が次々と担架へ乗せられ、砦へ運ばれていく。

その一方で、剣を捨てた敵兵たちは両手を後ろへ縛られ、一か所へ集められていた。

降伏した者を、無闇に殺すことはない。


だが、その中には村へ火を放った者や、逃げる民を斬った者もいる。

生き残った村人たちの証言をもとに、罪を犯した者と、命令に従って戦場へ立っただけの者が分けられていった。


     ◇◇


昊然が敵将へ追いついたのは、荒野から離れた岩場だった。

山へ続く細い道の両側には、切り立った岩壁が迫っている。

敵将の馬が石に足を取られ、激しくいなないた。

男は馬から投げ出されたが、すぐに起き上がり、腰の剣を抜く。


「龍昊然……!」


昊然も黒馬から降りた。

脇腹から落ちた血が、岩の上へ赤い点を作る。

傷口の奥では、自ら流れた血がすでに治癒を始めていた。


しゅうう……。


熱した鉄へ水を落としたような、微かな音がする。

薄い白煙が傷口から立ち上り、裂けた肉の縁がゆっくりと引き寄せられていった。

龍家の血には、傷を癒やす力がある。


自らの身体から流れた血が傷へ触れるだけでも、裂けた皮膚や肉は元の形へ戻ろうとする。


深く斬られても。


矢や槍に身体を貫かれても。


命が尽きる前であれば、自らの血によって傷を塞ぐことができる。

龍家の者が、人間より遥かに傷へ強い理由だった。

だが今の昊然は、長く続いた戦いで血を消耗している。

本来ならば、すでに跡も残らず塞がっているはずの傷が、まだ赤く開いたままだ。


治癒する力は働いている。

けれど身体の中の血が足りず、傷の治りが遅くなっていた。


「血を流して、まだ追ってくるか」


敵将が剣を構え、引きつった笑みを浮かべる。


「夜の龍とは、よく言ったものだ。貴様には、人の血が通っていないのではないか?」


昊然は腰の剣へ手をかけた。


「村へ火を放ったのは、お前の命令だな」


「戦では当然のことだ!」


「武器を持たない民を斬ることがか」


「食糧を渡さぬ奴らが悪い!」


敵将が叫びながら斬りかかる。

昊然は身体を僅かにずらし、振り下ろされた刃を避けた。

すれ違いざま、剣を抜く。

銀色の光が一瞬、夕暮れの中を走った。

男の手から、剣が弾き飛ばされる。

昊然の刃は、敵将の首筋へ触れる寸前で止まっていた。


男の喉が、ひくりと動く。


「殺さぬのか」


「お前には、まだ役目がある」


昊然は剣を収めると、敵将の腕を後ろへ捻り上げた。


「何をする!」


「生きたまま連れて帰る」


昊然は男の腰にあった縄を取り、その両手を固く縛った。

敵将は逃れようともがいたが、昊然の手は微動だにしない。


「離せ!」


「暴れるな。腕が折れるぞ」


低く告げられ、男の動きが止まる。

昊然は敵将を自分の馬へ縛りつけると、手綱を取った。

龍家が必要とするのは、生きた者の血だった。


心臓が止まり、身体の中で冷えた血を飲んでも、龍家の飢えを満たすことはできない。

力も戻らず、血の枯渇も癒えない。

だから龍家は、戦場で倒れた死者から血を得ることはなかった。


必要な者は、生きたまま捕らえる。

そして、その罪を確かめたうえで、人目のない場所へ運ぶ。

敵将の命をその場で奪わなかったのも、そのためだった。


     ◇◇


昊然が戦場へ戻る頃には、日はほとんど沈んでいた。

空に残っていた赤は薄れ、荒野へ夜の色が広がり始めている。

味方の負傷兵はすでに砦へ運ばれ、一般の兵士たちも順に引き上げていた。

捕らえられた敵兵の中から、村を襲った者たちが分けられている。


家へ火を放った者。


武器を持たない村人を斬った者。


略奪した品を隠し持っていた者。


彼らは縄でつながれ、黒い幌を掛けた荷馬車へ乗せられていた。

一般の兵士たちは、罪人たちが王都へ運ばれ、裁きを受けるものと思っている。

けれど荷馬車が向かうのは、龍家の陣だった。

戦へ出た龍家の者は、敵軍の中から生きた罪人を受け取ることを王から許されている。


龍家が国と民を守る代わりに、王家は生きるために必要な血を与える。

それは、遥か昔から続く密かな決まりだった。

昊然が馬を止めると、景雲がすぐに近づいてきた。


「昊然様」


「怪我人は」


「全員、砦へ運びました。味方の死者は十二名です」


昊然の目が僅かに伏せられる。


「名をまとめろ。王都へ戻り次第、遺族への補償を申請する」


「承知いたしました」


景雲は敵将を引き渡すと、昊然の脇腹へ目を向けた。

裂けた衣の下から、まだ血が滲んでいる。


しゅう……。


弱い治癒の音が続いていた。


「傷を見せてください」


「このままでも治る」


「いつ治るか、という話です」


景雲は昊然の返事を待たず、裂けた衣を持ち上げた。

槍に抉られた傷は、半分ほど閉じている。

だが奥にはまだ赤い肉が見え、傷の縁も完全には結びついていなかった。


「血が枯渇しかけています」


「分かっている」


「今の血では、王都へ戻るまで傷が残ります」


景雲は腰から小刀を抜き、自分の指先へ浅く刃を入れた。

赤い血が、丸い雫となって指先へ盛り上がる。

それを昊然の傷口へ落とした。


一滴。


しゅうう――。


先ほどよりも大きな音が鳴った。

傷口から薄い白煙が立ち上る。


さらに一滴。


しゅうう――。


止まりかけていた治癒が、再び勢いを取り戻した。

裂けていた肉が目に見える速さで引き寄せられ、開いていた皮膚が重なっていく。

三滴目が落ちた時には、深かった傷は細い赤い筋だけになっていた。


「これでいいでしょう」


景雲が手を離す。


「助かった」


傷は塞がった。

しかし、昊然の顔色は戻らない。

身体の奥にある渇きも、指先に残る冷たさも、そのままだった。

他の龍家の血を傷へ垂らせば、傷だけは治すことができる。


一族の間では、その力を血薬と呼んでいた。

けれど、血薬で失った血そのものが戻るわけではない。

血の枯渇を満たすには、生きた血を飲まなければならなかった。


昊然は景雲の肩へ目を向ける。

軍装が裂け、その下から傷が覗いていた。


「お前も見せろ」


「私の傷は、もう塞がります」


「今、俺に何と言った」


景雲が僅かに口を閉じた。

昊然は自分の親指へ牙を当てる。

皮膚を浅く切り、滲んだ血を景雲の肩へ数滴垂らした。


しゅうう――。


景雲の肩からも、白い煙が細く上がる。

裂けていた皮膚が寄り、傷が音を立てて塞がっていった。


龍家の血は、同族にとって薬になる。

自分自身の血で治すこともできる。

同性同士であれば、互いの傷へ血を与えても問題はない。


だが、異性の血だけは違った。


異性の血が傷口から身体へ入れば、それは単なる治療では終わらない。

血は相手との結びとして働き、身体へ強い熱と動悸を引き起こす。


理性を乱し、血を与えた相手を強く求めさせる。

まるで媚薬のような作用が現れるため、龍家では異性の血を傷へ入れることを固く禁じていた。


治療へ用いるのは、自らの血。

あるいは同性の血だけだった。


「これでいい」


「ありがとうございます」


景雲が治った肩を確かめる。

その時、黒い荷馬車の中から、縄の擦れる音が聞こえた。


「今夜、この者たちを龍家の陣へ?」


景雲が尋ねる。

昊然は頷いた。


「村人の証言をもう一度確認しろ。罪のない者を混ぜるな」


「承知いたしました」


「罪が確定した者は、若い者へ回せ」


景雲の眉が僅かに寄る。


「昊然様と私の分は」


「俺たちは王都へ戻る」


「ですが、傷が治っただけです。枯渇は――」


「若い者の方が消耗している」


周囲には、初陣を終えたばかりの龍家の兵士がいた。

青白い顔で地面へ座り込み、手を震わせている者もいる。


「先に飲ませろ」


景雲はしばらく昊然を見つめた。

やがて、諦めたように小さく息を吐く。


「先代様も、よく同じことを仰っておられました」


「父上の話を出しても変わらない」


「存じております」


「日が昇る前に、すべて終わらせろ」


「はい」


龍家は、血を飲み終えた後の身体を決して残さない。 


牙の痕も。

血を抜かれた身体も。

人ではないものが関わった証拠も。


すべて炎の中へ消す。


龍家の陣には、すでに深い穴が掘られていた。

底には薪と油が敷かれている。

生きたまま運ばれた罪人たちは、裁きの後、そこで血を飲まれる。


残った身体は衣服や持ち物ごと焼かれ、骨も細かく砕かれる。

そして戦で亡くなった者たちの灰と共に埋められる。

誰が龍家の血となったのか。

その痕跡を、外の人間が知ることはない。


     ◇◇


昊然と景雲が王都へ戻ったのは、翌日の夕刻だった。

冷たい雨が降り始めていた。

城門をくぐる馬の蹄が、濡れた石畳を強く打つ。


大通りでは商人たちが慌ただしく店仕舞いを始め、人々が雨を避けて軒下へ駆け込んでいる。

二人は兵たちを軍営へ戻すと、そのまま龍家の屋敷へ帰った。

門をくぐった昊然の前へ、年老いた家令が急いで歩み寄る。


「お帰りなさいませ」


「変わりはないか」


「はい。ですが、王宮から使いが参りました」


家令が、黒い封筒を差し出した。

封には王家の紋が押されている。

通常の命令書に使われる赤い封蝋ではない。


黒い封蝋。


王と龍家の間だけで使われる、秘密の呼び出しだった。

昊然が封を切る。

中には王の直筆で、僅か一行だけ記されていた。


今夜、旧書庫へ来るように。


「陛下は、もうご存じのようですね」


景雲が言った。


「軍から報告が届いたんだろう」


「十分な血を得ずに戻られたことまで、見抜いておられるのではありませんか」


「報告には書かれていないはずだ」


「陛下でございますから」


昊然は封書を畳んだ。

王は、昊然が幼い頃から知っている。

昊然の亡き父と共に剣を学び、同じ戦場へ立ち、幾度も互いの命を救い合った男だった。


父が亡くなった後も、王は龍家を変わらず大切にしている。

亡き友の一族だからというだけではない。

龍家を、この国を守る民の一つとして認めている。


「着替える」


「先に少しお休みになっては」


「陛下を待たせるわけにはいかない」


「では、せめて身体を温めてください」


「お前もだ」


「私は後で構いません」


「一緒に来い」


景雲が僅かに笑う。


「承知いたしました」


二人は砂と血に汚れた軍装を脱ぎ、身体を清めた。

傷は血薬によって塞がっている。

けれど、二人の肌は普段以上に白く、唇にもほとんど色がなかった。


日が完全に沈んだ頃。

昊然は墨色の衣へ着替え、景雲と共に再び屋敷を出た。


    



夜の王宮には、冷たい雨が降り続いていた。


黒く濡れた瓦を雨粒が細かく打ち、軒先から落ちる雫が石畳の上で弾けている。

昼間であれば、官吏や女官が忙しなく行き交う宮中も、夜が更けた今は静まり返っていた。


昊然と景雲は、人気のない回廊を歩いていく。

二人を案内する者はいない。

今夜向かう場所を知る人間は、王宮の中でも王ただ一人だった。


王妃も。


王子も。


国を動かす重臣たちさえ、龍家の真実を知らない。

王家と龍家の間で、何百年にもわたり守られてきた秘密だった。

二人が足を止めたのは、王宮の北側にある古い書庫の前だった。


長く使われていないように見える建物で、扉の金具には薄く錆が浮いている。

昊然が鍵を差し込み、扉を開けた。

中には古い書棚が並び、湿った紙と木の匂いが漂っている。


景雲が扉を閉めた。

昊然は一番奥の書棚へ歩み寄り、側面へ彫られた小さな龍の目を押す。


かちり、と。


金具の外れる音がした。


重い書棚が、ゆっくりと横へ動き始める。

その向こうに現れたのは、地下へ続く細い石段だった。

景雲が壁の燭台へ火を灯す。

湿った冷気が、地下から二人の足元へ這い上がってきた。


昊然は迷うことなく、階段を下りていく。

一段。

また一段。


地上の雨音が、次第に遠ざかる。


代わりに聞こえてきたのは、鉄の鎖が石床を擦る音だった。

荒い呼吸。 


誰かが、小さな声で神へ祈る声。

階段を下りきった先には、黒い石で造られた広間があった。

壁際に置かれた燭台の火が、冷たい石床を鈍く照らしている。

広間の中央には、王が一人で立っていた。


王冠も、華美な衣も身につけてはいない。

深い紺色の衣に、黒い外套を羽織っている。

そして広間の右側には、六人の罪人が横一列に並べられていた。


全員が石壁を背にして座らされ、両手と両足を太い鎖でつながれている。


軍服の名残を身につけた者。


かつて高い官位にいた者。


裕福な商人だった者。


年齢も身分も異なるが、共通していることが一つだけある。

六人とも、すでに国法によって死罪を言い渡されていた。

昼間のうちに目隠しをされ、極秘の刑を執行するということだけを告げられ、この地下へ運ばれている。


彼らを壁へつないだ兵士たちは、すでに地上へ戻されていた。

今、この地下にいるのは王と昊然、景雲。

そして、六人の死刑囚だけだった。


「陛下。お待たせいたしました」


昊然は王の前へ進み、片膝をついた。

景雲も隣で深く頭を下げる。


「よい。立て」


「はい」


昊然が立ち上がると、王はその顔をじっと見た。


「また随分と、酷い顔色だな」


「元より、このような肌の色でございます」


「お前が幼い頃から、何度その顔を見てきたと思っている」


王の視線が、昊然の脇腹へ移る。


「傷はどうした」


「景雲の血で塞ぎました」


「血薬を使わなければならぬほど、枯渇していたのか」


「敵軍の罪人は、若い者へ回しましたので」


王の眉間へ、深い皺が寄った。


「また、自分の分を譲ったのだな」


「彼らも戦っておりました」


「お前も戦っていただろう」


「はい」


「ならば、お前も必要な分を飲め」


「申し訳ございません」


「謝罪を聞きたいのではない」


王の声には、怒りよりも心配が滲んでいた。


「お前の父も、同じことばかりしていた」


亡き父の話が出ると、昊然の目元が僅かに和らいだ。


「父上も、陛下から叱られていたのでしょうか」


「一度や二度ではない」


王は呆れたように息を吐いた。


「若い者が先だ。自分はまだ動ける。戦が終わってからで構わない。いつも同じことを言っていた」


「父上らしいお話でございます」


「似なくてよいところばかり、よく似ている」


王は次に景雲を見る。


「景雲。お前も足りていないな」


「はい。一人からは頂きましたが、十分ではございません」


「二人揃って、何をしている」


景雲は穏やかに頭を下げた。


「申し訳ございません」


「謝るところまで似なくてよい」


六人の罪人たちは、不安げにその会話を聞いていた。


血薬。


枯渇。


若い者へ譲った。


一人から頂いた。


何の話をしているのか、誰一人として理解できない。

一番端にいた男が、鎖を鳴らしながら口を開いた。


「陛下……」


王が男を見る。


「我々は、ここで処刑されるのでしょうか」


「そうだ」


王は淡々と答えた。


「ですが、刑吏が見当たりません」


「必要ない」


「では……龍将軍が、我々の首を刎ねるのですか」


王は答えなかった。


広間の中央に置かれた卓へ歩み寄り、六人の罪状が記された巻物を開く。


「周岳」


軍服の名残を身につけた男の肩が、大きく跳ねた。


「軍の進路、兵数、兵糧の輸送経路を敵国へ売り、百二十七名の兵を死なせた罪。死罪」


「お待ちください!」


周岳が鎖を激しく鳴らした。


「私は脅されていたのです! 家族を守るために、仕方なく!」


「お前の家族は、一度も脅されていない」


王の声が冷たくなる。


「敵国から金を受け取り、その金で他国へ逃げる準備をしていたことも分かっている」


周岳の顔から血の気が引いた。


「妻子に罪はない。連座はさせぬ」


「では、私にもお慈悲を!」


「お前の裏切りで死んだ者たちにも、家族がいた」


王は巻物を閉じる。


「刑を執行する」


王の目が、昊然へ向けられた。


「昊然」


「はい」


「始めろ」


昊然は胸元へ片手を添え、王へ深く一礼した。


「謹んで頂戴いたします」


周岳の表情が強張る。


「何を……頂戴するというのだ」


昊然は答えなかった。

周岳へ向かい、ゆっくりと歩き出す。

靴底が石床を打つ音が、一歩ずつ近づいてくる。


「龍将軍……」


周岳は、王都でも名を知られた昊然の顔を知っていた。

若くして軍を率い、王の右腕と呼ばれる男。

だが、なぜその男が自分へ近づいてくるのか、理解できない。


「私の首を刎ねるのか」


昊然が、周岳の前で足を止めた。


その黒い瞳の奥へ、赤い色が滲み始める。


「……え?」


周岳の目が大きく見開かれた。

墨を流し込んだようだった昊然の瞳が、内側からゆっくりと深紅へ染まっていく。

燭台の炎を映した赤い目が、暗闇の中で妖しく光った。


「何だ……その目は」


昊然の唇の奥から、鋭い牙が覗く。

隣に並ぶ五人の罪人たちからも、息を呑む音が聞こえた。


「人間ではないのか……?」


誰かが、震える声で呟く。

昊然が周岳へ手を伸ばす。

周岳は壁へ背を押しつけ、鎖を激しく鳴らした。


「待て!」


顎を掴まれ、人間では抗うことのできない力で顔を横へ向けられる。


「何をする気だ!」


周岳が王を見る。


「陛下!これは、どういう刑なのです!」


王は答えない。


ただ、昊然を信じる静かな目で見ている。


「この男は、一体何なのですか!」


昊然が周岳の首筋へ顔を寄せる。

冷たい息が肌へ触れた。

周岳の身体が大きく震える。


「やめろ……」


白い牙が、目の前へ迫る。


「やめてくれ!」


昊然は躊躇わなかった。

牙を、周岳の首筋へ深く突き立てる。


「ああああっ!」


絶叫が地下へ響き渡った。

周岳の身体が激しく跳ねる。

両手足の鎖が石床を打ち、甲高い音を立てた。

昊然はその身体を片腕で押さえ、流れ込んでくる生きた血を飲み込む。


一度。


二度。


喉が、ゆっくりと動く。 


冷え切っていた身体へ、温かな血が巡っていった。

指先に感覚が戻り、弱っていた鼓動が力を取り戻していく。

周岳の叫びは、次第に掠れていった。

激しく暴れていた身体から、少しずつ力が抜けていく。


それでも昊然は口を離さない。

生きた心臓が送り出す血を、最後まで飲み干す。

やがて、周岳の鼓動が止まった。

昊然がゆっくりと顔を上げる。


深紅に染まった瞳。

白い頬へ落ちた、鮮やかな血。

周岳の首筋には、二つの牙の痕だけが残っていた。

残された五人は、声も出せずにその姿を見つめている。


「化け物……」


男の一人が、震える声で呟いた。

昊然は、その男へ視線を向ける。


「今さら命が惜しいか」


低く、静かな声だった。


男は喉を鳴らし、すぐに目を逸らした。

景雲が周岳の鎖を外し、色を失った身体を広間の端へ横たえる。

王は、二人目の罪状を読み上げた。


「呉承。幼い子どもを攫い、他国へ売った罪。逃亡の際、目撃した親子三名を殺害した罪。死罪」


痩せた男が、激しく首を振る。


「違う!私は殺していない!」


「証拠も、共犯者の証言も揃っている」


景雲が男の前へ歩み寄った。

呉承の顔が引きつる。


「来るな!」


景雲の瞳にも、ゆっくりと赤が滲み始めた。

普段は黒に近い紺色をしていた目が、燭台の火を映して深紅に輝く。


「お前も……同じなのか」


景雲が男の肩を掴んだ。


「刑を執行する」


「待ってくれ! 私は人間だぞ!」


「お前に殺された者たちも、人間だ」


景雲の声から、普段の柔らかさが消えていた。


「違う、私は――」


最後まで言い終える前に、景雲の牙が首筋へ沈む。

二度目の悲鳴が、地下へ響き渡った。

残された四人が、一斉に身体を縮める。


景雲もまた、血を飲むことをためらわない。

生きた血を一滴も無駄にせず、男の鼓動が止まるまで飲み続けた。

やがて二つ目の身体が、周岳の隣へ並べられる。

王は三人目の罪状を読み上げた。


「宋林。官位を利用して民から不当に税を奪い、告発しようとした七名を殺害した罪。死罪」


「お待ちください!」


太った男が、石床へ額を擦りつけるように頭を下げた。


「首を刎ねてください!毒でも、火でも構いません!」


涙と汗で顔を濡らしながら、必死に叫ぶ。


「あれだけは……あれだけはお許しください!」


王は冷たく男を見下ろした。


「お前が殺した者たちに、死に方を選ぶ権利はあったのか」


男は答えられなかった。

昊然が、その前へ立つ。


「来るな!」


男は鎖を引きずりながら逃げようとする。

だが、すぐに昊然の手に捕まった。


「私は死にたくない!」


「お前に殺された者たちも同じだ」


昊然はそれだけ告げ、男の首筋へ牙を立てた。

三人目の叫び声が響く。

やがて、それも止まった。


四人目。


商いの競争相手を殺すために宿へ火を放ち、そこにいた二十一名を焼き殺した男。


五人目。


敵国から金を受け取り、王族の食事へ毒を混ぜようとした元料理人。


六人目。


私兵を率いて村を襲い、女や子どもまで殺害した元武官。


一人ずつ、王によって罪状が読み上げられる。

一人ずつ、自分だけは助けてほしいと命を乞う。


仕方がなかった。

命令されただけだ。

金が必要だった。

家族がいる。

死にたくない。


六人はそれぞれ違う言葉を並べながら、同じように命を求めた。

けれど、すでに裁きは下されている。

昊然と景雲は交互に、その生きた血を飲み干していった。


牙が首筋へ沈む。

鎖が鳴る。

悲鳴が響く。


そして、次第に静かになる。


一人。

また一人。


血を失い、色の抜けた身体が、広間の端へ並べられていく。

最後の罪人の鼓動が止まった頃には、六つの身体が静かに横たわっていた。

昊然と景雲は、それぞれ三人分の血を飲み干している。


二人の身体から、枯渇による冷たさは消えていた。

指先まで熱が戻り、青白かった唇にも僅かな色が差している。


二人の瞳には、まだ深い赤が残っていた。

王はその姿を見ても、怯えなかった。

怪物を見る目ではない。

幼い頃から知る、大切な者を見る目だった。

王は卓上に置かれていた白い布を二人へ差し出す。


「もう足りたか」


昊然は布を受け取り、口元の血を拭った。


「はい。十分に頂戴いたしました」


景雲も隣で頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼を言う必要はない」


王は静かに答えた。


「お前たちが国と民を守るように、王家にも龍家の命を守る責任がある」


昊然は顔を上げる。

その言葉に偽りがないことを、よく知っていた。

父が生きていた頃から、王は変わらない。

龍家を兵器とも、怪物とも扱わなかった。


「父上も、同じことを申しておりました」


「何と」


「陛下は口では厳しいことを仰るが、龍家の誰よりも龍家を案じてくださる方だと」


王は一瞬、言葉を失った。

それから、苦いような、懐かしいような笑みを浮かべる。


「最後まで、余計なことばかり言う男だった」


「陛下のお話をされる時の父上は、いつも楽しそうでございました」


王の目が、僅かに細められた。

亡き友を思い出しているのだろう。


「お前の父とは、長い付き合いだった」


王が、広間の奥へ歩み出す。


「私がまだ王太子だった頃から、あの男は私の隣にいた」


二人は共に剣を学んだ。

同じ戦場へ立った。

王位を巡る争いの中で、昊然の父は幾度も王の命を救った。


だが王もまた、龍家の秘密を知った者たちが一族を排除しようとした時、自らの立場を賭けて龍家を守った。

どちらか一方だけが、恩を与え続けた関係ではない。

互いに背中を預け、互いの命を守ってきた。


「昊然」


「はい」


「私は、お前を亡き友の息子だから傍へ置いているのではない」


王はまっすぐに昊然を見る。


「お前自身を信じている」


昊然は胸元へ手を添え、深く頭を下げた。


「光栄にございます」


「だからこそ、自分を粗末にするな」


「心得ております」


「心得ている者は、枯渇しない」


昊然は黙った。

景雲が僅かに視線を伏せる。

笑いを堪えているらしい。


昊然は横目で景雲を見る。


「景雲」


「申し訳ございません」


王の口元にも、僅かな笑みが浮かんだ。


     ◇◇


王は広間の奥に置かれた黒檀の箱へ歩み寄った。

腰元から鍵を取り出し、古い錠を開く。

箱の中には、一巻の古びた書が納められていた。

紙は茶色く変色し、端も傷んでいる。

けれど末尾には、今も二つの印が鮮明に残されていた。


一つは、この国を興した初代王の印。

もう一つは、血で描かれた龍の紋。


「王家と龍家が、最初に交わした誓約だ」


王は書を卓上へ広げた。

龍家の者は、その内容を幼い頃から教えられている。

だが誓約書そのものを見ることのできる者は、時の王と、龍家のごく限られた者だけだった。


「神の呪いを受けた龍家は、長い間、人の世を追われていた」


王が古い文字を指でなぞる。


「血を飲まねば生きられない。だが血を飲めば、怪物として狩られる」


村を焼かれたこともあった。


幼い子どもまで、怪物の血を引いているという理由で殺された。

龍家は人目を避け、各地を転々としながら生きていた。

そんな龍家を、初めて一つの民として受け入れたのが、この国を興した初代王だった。


罪のない者を襲わないのであれば、龍家もこの国で生きる権利を持つ。

初代王は、そう宣言した。

龍家は王家へ誓った。


無実の者から血を奪わない。

正当な裁きなく、人の命を奪わない。

その力を私欲のために使わない。

王家と国を守り、戦や反乱から民を守る。


王家もまた、龍家へ誓った。

龍家の正体を守る。

生きるために必要な血を、法に従って与える。

龍家を道具や家畜として扱わない。

迫害や濡れ衣から、一族を守る。


そして、龍家の子どもたちにも、人と同じように生きる権利を認める。


龍家が国を守る。

王家が龍家の命を守る。


どちらか一方だけが従う契約ではない。

互いに生きるために結ばれた、血の誓いだった。


戦のある時代。


軍に属する龍家の者たちは、捕らえた敵の中から、死罪に値する者の生きた血を得る。

戦のない時には、死罪が確定した罪人が、記録上は刑を執行されたものとして龍家へ引き渡される。


夜更け。


黒い幌で覆われた馬車が、龍家の裏門へ入る。

護送する兵士たちは、罪人がその後どのような刑を受けるのかを知らない。

封をされた王命と共に身柄を引き渡し、そのまま屋敷を去る。


龍家では命令書と罪状を確認したあと、生きたまま血を受け取る。

そして、飲み終えた身体は必ず焼く。


死体を残さない。

牙の痕を残さない。


異形の存在を疑わせる証拠を、外へ一つも出さない。

それもまた、王家との契約を守り、一族の秘密を保つために欠かせない掟だった。


今夜のように、王が自ら地下へ降り、刑を見届けることの方が珍しい。


昊然と景雲が戦から戻ったばかりであること。

二人とも、血が枯渇しかけていたこと。


そして王自身が、二人の無事をその目で確かめたいと考えたためだった。

王は誓約書を巻き直すと、黒檀の箱へ戻した。


「この秘密を知る人間は、時の王だけだ」


「はい」


「次に王位を継ぐ者であっても、即位する日までは知らされない」


王妃も、王子も、重臣たちも知らない。


国の者たちは、龍家を不思議なほど強く、傷の治りが早い武門の一族だと思っているだけだった。


王家が秘密を守る。


龍家も誓いを守る。


その信頼が崩れない限り、龍家は人の世で生きていくことができる。


王は昊然を見た。


「お前の父は、最期までこの誓いを守った」


「父上は、陛下を信じておりました」


「私も、あの男を信じていた」


王の声に、僅かな寂しさが混じる。

長く共に戦った友は、もうこの世にはいない。

それでも、王が龍家へ向ける信頼は、父の死によって揺らぐことはなかった。


「そして今は、お前を信じている」


昊然は、まっすぐに王を見返した。


「そのご信頼を、裏切ることはございません」


王は静かに頷いた。


     ◇◇


広間の奥には、鉄で作られた小さな扉があった。

景雲がそれを開くと、熱い空気が流れ込んでくる。

扉の向こうには、深い焼却炉が造られていた。

底では薪と炭が赤く燃え、油の匂いが漂っている。


昊然と景雲は、六人の身体を一つずつ炉の中へ入れていった。

最後の身体が落とされる。

景雲が油を注ぎ、昊然が燭台の火を投げ入れた。


ごうっ――。


炎が勢いよく燃え上がった。


黒い煙が、王宮の外へは漏れないよう造られた煙道へ吸い込まれていく。


衣も。

鎖の跡も。

首筋に残された二つの牙の痕も。


すべてが、炎の中へ消えていく。


王は燃え上がる火を見つめながら、静かに告げた。


「今夜ここで見たものは、誰の記録にも残らぬ」


「はい」



炎が六人の身体を飲み込み、骨さえも形を失っていく。


王家が龍家へ命を与える。

龍家が王家と国を守る。


互いを恐れて遠ざけるのではなく、互いを信じることで生きてきた。

それが何百年も前に結ばれ、今なお守られている――血の契約だった。

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