二話 家族の温もり
韓家の屋敷を出た頃には、春の日もすでに西へ傾き始めていた。
高い塀の向こうへ沈みかけた陽が、王都に連なる瓦屋根を薄い橙色に染めている。
韓家の門前には、宴を終えた客人たちの馬車が何台も並んでいた。
それぞれの家紋が入った旗が夕風にはためき、馬のいななきや、御者たちが手綱を整える声が行き交っている。
裴家の馬車は、門から少し離れた場所に止められていた。
深い茶色の車体には、派手ではないが丁寧な彫刻が施されている。
景明が先に乗り込み、続いて春華が星揺へ手を差し出した。
「足元に気をつけて」
「このくらい、一人で乗れるわ」
「今日は信用できません」
「姉上まで……」
言い返しながらも、星揺は素直にその手を借りた。
頬の傷には、春華が韓家で借りた白い布が当てられている。
傷そのものは深くない。
けれど、布の下はまだじんじんと熱を持っていた。
星揺が座ると、鈴花も衣の裾を持ち上げて乗り込んでくる。
御者が手綱を鳴らす。
馬が低く鼻を鳴らし、蹄が石畳を打った。
かつ、かつ、と規則正しい音が響く。
やがて馬車は、夕暮れの王都をゆっくりと進み始めた。
車輪が石の継ぎ目を越えるたび、がたん、と車体が小さく揺れる。
通りには、店仕舞いを始める商人たちの声があった。
軒先に吊るされた布が風に揺れ、果物を売る屋台からは熟した果実の甘い香りが漂ってくる。
籠を背負った人々や、荷車を引く商人たちが馬車の脇を行き交う。
それらの音も、馬車が大通りを離れるにつれて次第に遠くなっていった。
馬車の中には、重たい沈黙が落ちていた。
星揺は窓際へ身を寄せ、白い布に包まれた銀の簪を、両手で大切に抱えていた。
向かいには景明と春華。
隣には鈴花が座っている。
誰も、なかなか口を開かなかった。
馬の蹄が鳴る。
時折、御者が短く声をかけ、手綱の金具がしゃらりと鳴った。
「……ごめんなさい」
星揺が小さく言った。
春華の眉が、わずかに動く。
「何を謝っているの?」
「美玉姉様の大切な宴を、台無しにしたこと」
「星揺だけのせいではないわ」
「でも、最初に飛びかかったのは私よ」
「先に簪を池へ捨てたのは向こうよ」
鈴花がすぐに言い返した。
「それに、私の簪を取り返そうとしてくれたのも星揺だもの。星揺が悪いなんて言わせないわ」
「鈴花」
「本当のことでしょう?」
鈴花はまだ怒りが収まらないらしく、膝の上で拳を握っていた。
景明は腕を組んだまま、窓の外を見ている。
普段なら、とっくに星揺を叱っていてもおかしくない。
それなのに何も言わないことが、かえって星揺を落ち着かなくさせた。
「兄上も、何か言ってよ」
「何を言ってほしい」
「今日は何もするなと言っただろう、とか」
「言ったところで、もうした後だ」
「それはそうだけど……」
景明がようやく星揺へ目を向けた。
その顔は怒っているというより、険しかった。
「なぜ、一人で耐えた」
星揺は目を瞬いた。
「え?」
「母上のことまで侮辱されたのだろう」
景明の声は低かった。
馬車が石の段差を越え、車体が少し大きく揺れる。
星揺は簪を落とさないよう、胸元へ抱き寄せた。
「姉上や俺を呼べばよかった」
「だって、二人とも忙しそうだったし……」
「だからといって、膝をつく必要はない」
星揺は、白い布に包まれた簪へ視線を落とした。
「でも、あの簪を落とされたくなかったの」
声にすると、胸の奥がまた痛んだ。
「あれだけは、絶対に嫌だった」
景明は何も言わなかった。
代わりに春華が、そっと星揺の手へ自分の手を重ねた。
「分かっているわ」
「姉上」
「あなたが母上の簪を大切にしていることも。母上のためなら、いくらでも頭を下げられると思ったことも」
春華の声は優しかった。
けれど、その目は少しだけ潤んでいる。
「でも、星揺。あなたまで傷ついたら、母上が悲しむわ」
「……うん」
「簪は大切よ。けれど、あなたはもっと大切なの」
星揺は俯いた。
叱られると思っていた。
家の名を汚したと、厳しく言われると思っていた。
けれど、誰もそんなことは言わない。
そのことが、かえって苦しかった。
「ごめんなさい」
今度は、少しだけ声が震えた。
春華は星揺の頭へ手を伸ばし、乱れた髪をゆっくり撫でた。
「だから、謝る相手が違うでしょう」
「美玉姉様には、ちゃんと謝るわ」
「それも必要だけれど、まずは自分を大切にしなさい」
隣で鈴花が、こくこくと何度も頷く。
景明は短く息を吐いた。
「次に同じことがあれば、殴る前に俺を呼べ」
「兄上が殴るの?」
「そうは言っていない」
「今、少し殴りそうな顔をしていたわ」
「気のせいだ」
そう言いながら、景明は再び窓の外へ顔を向けた。
けれど、その横顔はまだ険しい。
星揺は少しだけ笑った。
その時、鈴花が何かを思い出したように身を乗り出す。
「そういえば、龍国公様の噂は聞いていたけれど、あんなに綺麗な方だとは思わなかったわ」
「今、その話をするの?」
「だって、気になるでしょう?」
「綺麗だけど、近寄りがたい美しさね」
「龍将軍は、恐ろしいだけではないぞ。ちゃんと人を見ている」
景明が静かに言った。
「そうね。それは今日、よく分かったわ」
星揺は、白い布に包まれた簪へ目を落とした。
それから馬車の中に、ようやくいつもの声が戻った。
◇◇
裴家の屋敷へ着いた頃には、空は薄い藍色へ変わっていた。
門の左右には灯籠が灯され、柔らかな光が石畳を照らしている。
屋敷の奥からは、夕餉の支度をする音が聞こえていた。
包丁がまな板を打つ音。
湯が沸く音。
使用人たちが行き交う足音。
庭では、昼間まで咲いていた花々が夜露を含み、甘い香りを漂わせている。
馬車が止まる。
御者が扉を開くと、外の涼しい空気が流れ込んできた。
星揺が降りるより先に、屋敷の中から叔母が出てきた。
鈴花の母であり、星揺の父の妹にあたる人だ。
淡い灰青色の衣の上から、急いで羽織ったらしい薄い上着をまとっている。
いつもは穏やかな顔に、心配が浮かんでいた。
「星揺」
叔母は、星揺の頬に当てられた白い布を見るなり、足を速めた。
「怪我をしたの?」
「大したことないわ」
「大したことがあるかどうかは、あなたが決めることじゃないでしょう」
優しい声だったが、言い切るところは春華とよく似ている。
叔母は星揺の顔を覗き込み、傷へ触れないよう注意しながら、布の端を確認した。
「痛む?」
「少しだけ」
「そう」
それだけ言うと、叔母は星揺を責めなかった。
屋敷には、すでに韓家から使いが来ていたのだろう。
叔母は、星揺が傷を負ったことと、大まかな事情だけは知っているようだった。
叔父は、星揺の父と共に戦へ出ている。
裴家の男たちが家を空ける間、叔母は自分の家族だけでなく、裴家の子どもたちや屋敷のことまで守ってきた。
父と叔父が遠い戦地にいる今、屋敷で最も年長の大人は叔母だった。
本来なら、家の面目を損ねたと厳しく叱ってもおかしくない。
それでも叔母は、星揺の髪へそっと触れただけだった。
「中へ入りましょう。夜風に当たると、傷が痛むわ」
「叔母上……怒らないの?」
叔母は少しだけ目を細めた。
「怒ってほしいの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、怒らない」
「でも、私……」
「詳しい話は春華から聞くわ」
「……うん」
星揺は小さく頷いた。
星揺の母と叔母は、義理の姉妹でありながら仲が良かった。
母が病に伏した頃、枕元で何度も話し相手になってくれたのも叔母だった。
叔母はその後は、何も言わず、星揺の肩を抱いて屋敷の中へ入った。
夕餉の席では、いつもより会話が少なかった。
卓には、魚の蒸し物や青菜の炒め物、湯気の立つ汁物が並んでいる。
けれど星揺は、碗の中の飯を箸で少し崩しただけで、ほとんど口へ運ばなかった。
春華も景明も、それを無理に咎めなかった。
鈴花だけは何度か心配そうに星揺を見たが、何も言わず、いつもより静かに食事を終えた。
食後、春華は星揺を自室へ連れていった。
水盆へ清水を満たし、銀の簪についた泥を柔らかな布で少しずつ拭い取る。
白い花の細工の隙間に入り込んだ泥まで、細い筆を使って丁寧に落としていった。
やがて簪は元の銀色を取り戻した。
けれど、白い花の根元には、以前にはなかった細い傷が残っている。
春華はその傷を見つめたあと、何も言わず星揺へ簪を返した。
「もう大丈夫よ」
「ありがとう、姉上」
「今日は早く休みなさい」
「うん」
春華は星揺の頬の布を新しいものへ取り替えると、何度も振り返りながら部屋を出ていった。
◇◇
屋敷が静まり始めた頃。
星揺は自室の鏡台の前へ座っていた。
窓の外では、風が庭の竹を揺らしている。
さらさらと葉が擦れ合う音が、夜の静けさの中へ細く響いていた。
遠くの廊下では、見回りをする使用人の足音が聞こえる。
卓の上には、きれいになった銀の簪が置かれていた。
泥はすっかり落ち、元の輝きを取り戻している。
けれど、よく見ると白い花の根元に、細い傷が増えていた。
星揺は指先で、そっとその傷をなぞった。
「ごめんね、母上」
返事はない、分かっている。
それでも、何となく謝りたかった。
大切にすると決めていたのに。
星揺は簪を小箱へ戻そうとして、手を止めた。
昼間のことが、頭へ浮かぶ。
池へ沈んでいく銀色。
広がる波紋。
そして、その向こうから現れた黒い日傘。
「龍昊然…」
ぽつりと名前を呟く。
あの男は、見た事実を告げただけ。
簪を探させたのも、事件を収めるため。
けれど、あの時、彼がいなければ、今頃どうなっていたことか。
そう思うと、胸の奥に改めて感謝が込み上げた。
その時、廊下から控えめな足音が近づいてきた。
とん、とん。
戸が小さく叩かれる。
「星揺、起きてる?」
叔母の声だった。
「起きてるわ」
戸が静かに開く。
叔母は片手に、小さな盆を持っていた。
盆の上には、湯気の立つ甘い汁物と、二つに切られた菓子が載っている。
白玉の入った甘い蓮の実の羹と、蜂蜜を練り込んだ柔らかな糕だった。
「夕餉、ほとんど食べてなかったでしょう」
「見てたの?」
「あなたが箸を動かしてなかったら、嫌でも分かるわよ」
叔母は鏡台の隣へ盆を置いた。
甘い香りが、ふわりと部屋へ広がる。
「夜に甘いものを食べたら、太るわ」
「今日くらいいいの」
「春華姉上に叱られるかも」
「私が持ってきたって言えばいいわ」
「叔母上が怒られるんじゃない?」
「その時は、あなたと一緒に怒られる」
叔母はそう言って、柔らかく笑った。
星揺は少しだけ目を丸くしたあと、つられるように笑った。
叔母は星揺の隣へ腰を下ろす。
「父上と叔父上には、まだ知らせないわ」
「え?」
「戦の最中に知らせたら、二人とも余計な心配をするでしょう」
星揺は想像した。
父が報せを読み、険しい顔をする姿。
隣で叔父が、鈴花の簪まで奪われたと知って怒る姿。
「父上なら、すぐ帰ってくるって言いそう」
「帰って来られる状況じゃないのに、帰るって言い出すでしょうね」
「叔父上も?」
「あなたの父上を止めるふりをして、一緒に馬へ乗るわよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
叔母は、白玉の入った碗を星揺へ差し出した。
「ほら、食べなさい」
星揺は匙を取る。
温かな甘さが口の中へ広がった。
張り詰めていた胸の奥が、少しずつほどけていく。
「叔母上」
「何?」
「怒ってないの?」
叔母はすぐには答えなかった。
星揺の手の中にある匙を見つめ、それから静かに言った。
「怒ってるわよ」
星揺の肩がわずかに縮こまる。
「杜家の令嬢にね」
星揺は顔を上げた。
叔母の表情は穏やかなままだった。
けれど、その目には静かな怒りがあった。
「あなたたちが大切にしてるものを、わざと傷つけたんでしょう」
「……私が飛びかかったことは?」
「褒められたことじゃないわ」
「やっぱり」
「でも、私がその場にいたら」
叔母は少し考えたあと、ため息交じりに続けた。
「あなたより先に、あの令嬢の手を掴んでたかもしれないわね」
星揺は驚いて叔母を見る。
「叔母上も?」
「母親だもの」
叔母は穏やかに笑った。
「自分の娘や、義姉の忘れ形見を傷つけられて、何も思わないほど大人じゃないわ」
星揺の目の奥が熱くなった。
泣かないつもりだった。
昼間も、帰りの馬車でも、ずっと堪えた。
けれど、叔母の言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
叔母は何も言わず、星揺の頭を自分の肩へ寄せた。
「今日は、よく耐えたわね」
「……最後は耐えられなかったわ」
「それでも、最初は耐えたんでしょう?」
「うん」
「なら、少しずつ覚えればいいの」
星揺は叔母の肩へ額を預けた。
母とは違う香りだった。
けれど、どこか懐かしく、安心する温かさがあった。
遠い戦地にいる父と叔父。
家を守る兄と姉。
いつも隣にいる鈴花。
そして、自分を叱らず、甘いものを運んでくれる叔母。
星揺は、自分が多くの人に守られていることを、改めて感じた。
「叔母上」
「何?」
「ありがとう」
叔母はその顔を見て、ようやく安心したように笑った。
◇◇
同じ頃。
龍国公家の屋敷は、裴家とはまるで違う静けさに包まれていた。
広い屋敷の廊下には、灯りがほとんどない。
ところどころに置かれた燭台が、黒い柱や磨かれた石床を淡く照らしている。
庭には白い月明かりが落ちていたが、厚い帳を下ろした部屋の中へ、その光が届くことはなかった。
人の気配も少ない。
時折、遠くを歩く警護の者の足音が響き、すぐにまた静寂へ溶けていく。
龍昊然は、灯りの少ない書斎で一人、机へ向かっていた。
卓上には、軍から届いた報告書が何枚も積まれている。
窓は閉じられ、厚い帳が外の月明かりを遮っていた。
昊然は一枚の報告書へ目を通したあと、筆を置いた。
その指が、わずかに止まる。
鼻の奥に、昼間の匂いが残っていた。
水と泥。
花の香り。
そして、僅かな血の匂い。
裴家の娘の頬から流れていたものだ。
人の血の匂いなど、珍しくもない。
戦場では、嫌というほど嗅いできた。
龍家の者にとって、血の匂いは常に飢えと結びついている。
けれど、あの娘の血は違った。
甘いわけではない。
強く惹かれたわけでもない。
ただ、不思議なほど記憶へ残った。
昊然は無意識に眉を寄せた。
扉の外から、控えめな声がする。
「入れ」
景雲が静かに入ってきた。
手には新しい報告書を持っている。
「韓家から、昼間の件について詫び状が届きました」
「置いておけ」
「杜家からもです」
「同じだ」
景雲は卓の端へ書状を置いた。
すぐに下がるかと思われたが、その場に留まる。
「何だ」
「いえ」
景雲は、ほんのわずかに笑った。
「裴家のご令嬢のことを、考えておられたのかと思いまして」
昊然の視線が、静かに上がる。
「なぜそう思う」
「昼間から、同じ報告書を三度読んでおられます」
書斎に、短い沈黙が落ちた。
昊然は手元の紙へ目を向ける。
確かに、すでに読んだはずの内容だった。
「疲れているだけだ」
「左様でございますか」
景雲はそれ以上何も言わなかった。
景雲は静かに一礼し、書斎を出ていった。
扉が閉じたあと、再び静寂が戻る。
昊然は筆を取り直した。
けれど、白い紙の上へ落ちた墨は、一文字目を書く前に止まった。
裴星揺。
昼間、景雲から聞いた名が、なぜか耳の奥へ残っている。
昊然は僅かに目を細めた。
それから何事もなかったように、報告書へ筆を走らせた。




