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一話 銀の簪と黒い日傘



昔、人と神が同じ空を見上げていた頃。

人間の男エンディは、女神ミルミールと恋に落ちた。

老いることのない女神は、愛する男との別れを恐れ、父神ドラゴの許しを得ぬまま、エンディへ神の力を分け与えた。


二人の間に生まれた子どもたちは、人を超える力と美しさを持っていた。

しかし、娘の行いを知った父神は激怒し、その子孫へ呪いをかけた。


 ――血を飲まなければ、生きられぬ身体となれ。


嘆き悲しんだミルミールは、子らが人の世で生き延びられるよう、三つの恵みを残した。


傷を癒やす力。

人を超える身体。

そして、長い命と、衰えにくい若さ。


それが、吸血鬼の始まりだと伝えられている。


女神の愛から生まれた者たちは、やがて人の世へ紛れ、正体を隠して生きるようになった。


その末裔の一族の一つが――龍家である。


     ◇◇


小鳥の声が響く、穏やかな春の朝だった。


開け放たれた窓から柔らかな風が吹き込み、薄い帳をふわりと持ち上げる。香炉から漂う白檀の香りが、部屋の中へ静かに広がっていた。


「星揺!それは、私の簪よ!」


少なくとも、陸鈴花リク・リンカが怒鳴るまでは。


鏡の前に座っていた裴星揺ハイ・セイヨウは、髪に挿した桃の花の簪へ目を向けた。


「置いてあったから借りただけよ」


「私の鏡台に置いてあったのよ!」


「帰ってきたら返すわ」


「だめよ、今すぐ返して」


鈴花が手を伸ばす。


星揺は椅子ごと横へずれ、その手を軽くかわした。


「やめてよ。せっかく整えた髪が崩れるでしょう」


「誰の簪で整えた髪よ!」


「昨日、私のお菓子を勝手に食べたでしょう?これでおあいこね」


「あれは、母上が皆で食べなさいって置いてくれたのよ」


「へえ?私の部屋に?」


「それは……たまたまよ!」


「なら、この簪も、たまたま私の髪に挿さったのね」


「そんなわけないでしょ!」


鈴花が背後へ回り込もうとし、星揺は椅子から立ち上がって寝台の反対側へ逃げた。

二人が部屋の中を追いかけ回し始めた、その時だった。


「二人とも、朝から何をしているの!」


ぴしゃりとした声に、二人は同時に足を止めた。

戸口には、星揺の姉、裴春華ハイ・シュンカが立っている。

淡い若草色の衣をきちんと着こなし、長い黒髪も一筋の乱れなく結い上げていた。

母が病で亡くなった後、春華は幼かった星揺の母親代わりとなってきた。

今では、星揺が騒ぎを起こすたびに頭を抱えることにも、すっかり慣れている。


「今日は韓家の定親宴なのよ。家を出る前から喧嘩なんてしないで」


定親宴とは、婚約が決まった男女を祝い、親族や親しい者たちへ披露する宴のことだ。


「姉上、先に怒鳴ったのは鈴花よ」


「先に簪を取ったのは星揺でしょう!」


「どちらが先でも同じです」


「同じじゃない!」


二人の声がぴたりと重なり、春華はこめかみを押さえた。


「とにかく、今日は絶対に騒ぎを起こさないこと」


「起こさないわ」


春華は少しも安心していない顔で、星揺を見た。


「星揺。あなたは三月前にも同じことを言ったでしょう」


「あれは、向こうが先に喧嘩を売ったの」


「その前は?」


「あれも向こうが悪いの」


「その前も?」


「……たぶん、向こう」


「でしょうね」


星揺は、決して大人しい娘ではなかった。


父は武将として皇帝に仕え、戦や王命によって家を空けることが多い。母を亡くしてからは、父の妹である叔母夫婦が裴家の屋敷で暮らし、三兄妹の面倒を見てくれていた。

家族から大切に育てられた末娘だが、大切に育てられることと、大人しく育つことは別らしい。


「星揺。その簪は鈴花へ返して、自分のものを使いなさい」


「……はい」


星揺はしぶしぶ桃の簪を抜き、鈴花へ差し出した。

鈴花はそれを受け取ると、ふん、と小さく鼻を鳴らす。


「最初から返せばいいのに」


「少しくらい貸してくれてもいいでしょ?」


「貸してって言えば貸すわよ」


「言ったら嫌だって言うくせに」


「言うわね」


「ほら!」


「二人とも!」


春華に睨まれ、二人はようやく口を閉じた。

星揺は鏡台の前へ戻り、木製の小箱を開けた。

中には、飾り気の少ない銀の簪が一本だけ入っている。先端には、小さな白い花が彫られていた。


亡き母が使っていたものだ。


銀は古く、細かな傷もある。

決して高価ではない。

けれど星揺にとっては、どんな宝石よりも大切だった。


幼い頃、この簪は毎朝、母の黒髪に挿されていた。


『星揺には、まだ少し大きいわね』


『でも、これがほしい』


『ふふ。大きくなったら、あなたにあげるわ』


その約束どおり、簪は今、星揺の手元にある。

けれど、母自身の手から受け取ることはできなかった。

母が亡くなった後、泣き腫らした目をした春華が、小箱に入れて渡してくれたのだ。

それ以来、星揺は大切な日にだけ、この簪を使っていた。


母の指が触れたものだから。

母の声と温もりが、まだ残っているように思えるから。


星揺が髪へ銀の簪を挿すと、鏡越しに見ていた鈴花が、ぽつりと言った。


「それ、似合っているじゃない」


「でしょう?」


     ◇◇


韓家の定親宴は、屋敷の奥にある内庭で開かれていた。


庭の中央には大きな池があり、水面には桃色と白の花びらが浮かんでいる。

池へ張り出すように建てられた水亭には薄い絹の帳が下がり、春風が吹くたび、池から反射した光とともに揺れていた。


卓の上には菓子や果物が並び、衣擦れの音や、杯へ茶を注ぐ細い水音に、令嬢たちの笑い声が重なっている。


今日の主役は、韓家の長女である韓美玉カン・ビギョク

父親同士が同じ軍に仕える間柄で、美玉も幼い頃から裴家の兄妹を可愛がってくれていた。


「星揺、来てくれたのね」


華やかな紅色の衣をまとった美玉が、嬉しそうに微笑む。


「おめでとう、美玉姉様。今日は本当に綺麗ね」


「あら。星揺が素直に褒めてくれるなんて。明日は雪かしら」


「……皆、私を何だと思っているの?」


「騒ぎを呼ぶ裴家の末娘」


横から、兄の裴景明ハイ・ケイメイが淡々と答えた。


「兄上までひどい」


「間違ってはいないでしょう」


春華まで頷く。


「今日は騒ぎを起こすなよ」


「起こさないってば」


「本当だろうな」


「兄上は、私を五歳くらいだと思っていない?」


「五歳の頃から、あまり変わっていないからな」


景明と春華が、挨拶のため、水亭を離れていく。

星揺は鈴花の隣へ寄ると、小さな声で言った。


「兄上って、本当に失礼よね」


「普段の行いのせいでしょう」


「鈴花まで」


「私はいつも正しいもの」


「どこが?」


二人が言い合いを始めたところで、近くから小さな笑い声が聞こえた。


「本当に騒がしいのね。裴家の娘たちは」


振り向くと、華やかな衣をまとった令嬢たちが立っていた。

中心にいるのは、高官の娘である杜明霞ト・メイカ

星揺より二つほど年上で、家柄を鼻にかけることで知られている。


「客人の前で口喧嘩なんて。武人の家では、娘に礼儀を教えないのかしら」


星揺が眉を寄せた。


「私たちは別に――」


「星揺」


鈴花が低い声で、その言葉を遮った。

星揺が隣を見ると、鈴花は小さく首を横へ振っている。

今日は美玉の祝いの日だ。

ここで言い返せば、また騒ぎになり、美玉の大切な宴を台無しにしてしまう。


星揺は言いかけた言葉を飲み込み、明霞へ向き直った。


「お騒がせして申し訳ありません」


しかし明霞は、星揺が大人しく引いたことが気に入らないらしい。


「あなたが裴家の末娘?」


「はい」


「噂どおりね。家からほとんど出してもらえないそうじゃない」


周囲の令嬢たちが、扇で口元を隠して笑う。


「父親は娘の躾より戦が大切。母親はいない。姉君ばかりに苦労をかけて、末娘は好き放題――そう聞いたわ」


星揺の指先が止まった。

鈴花の表情からも、すっと笑みが消える。


「私の礼儀が悪いのは認めます」


星揺は明霞をまっすぐに見た。


「でも、父や母、姉上のことまで、あなたに言われる筋合いはないわ」


「あら、怒ったの? 本当のことを言っただけよ。母親がいない娘は、やはり品がないのね」


「言いすぎではありませんか」


今度は鈴花が、はっきりと声を上げた。

明霞が鈴花へ視線を移す。


「何ですって?」


「今日は美玉姉様のお祝いですから、私たちは騒ぎを起こしたくないだけです。何を言われても黙っていると思わないでください」


鈴花は丁寧な口調を崩さなかった。

けれど、その目には鋭い怒りが浮かんでいる。

普段は星揺を止める鈴花だが、家族への侮辱まで笑って流すような娘ではない。


明霞の隣にいた令嬢たちも、次々と口を開いた。


「叔母一家まで同じ屋敷に住んでいるのでしょう?」


「まるで親戚を集めた宿屋ね」


「兄君と姉君はまともだと聞いたけれど、末の娘だけは失敗だったのかしら」


「父君も、家へ帰りたくないから戦場に残っているのではなくて?」


「亡くなった母君も、あの世で嘆いているでしょうね」


星揺の胸が、かっと熱くなった。

隣では、鈴花も強く拳を握りしめている。


「あなたたち――」


鈴花が前へ出ようとした。

しかし今度は星揺が、その腕をそっと掴んだ。


「鈴花」


「でも、星揺」


「大丈夫」


ここで怒鳴れば、相手の思うつぼだ。

せめて、美玉の宴だけは壊したくない。

星揺は明霞へ向き直った。


「ずいぶん、裴家の事情に詳しいのね」


明霞が扇を止める。


「何が言いたいの?」


「父がどこで何をして、叔母一家がどこで暮らしているかまで知っているなんて」


星揺は、にこりと笑った。


「もしかして、うちの兄上に興味があるとか?」


「な、何を言っているの!」


「違うの?うちのことが気になって仕方ないみたいだから」


周囲から、今度は明霞へ向けた笑いが漏れた。


「あら、そういうこと?」


誰かが小さく呟く。

明霞の顔が赤くなった。


「自分が誰に口を利いているか分かっているの?」


「杜家のご令嬢でしょう。皆が何度もお名前を呼んでいるもの」


隣で鈴花が吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。


明霞はそれに気づき、鈴花を睨む。


「あなたも笑ったわね」


「いいえ。笑っておりません」


「嘘をつかないで!」


「笑われるようなことをおっしゃったのは、そちらではありませんか」


鈴花は表情を崩さずに答えた。


明霞の視線が、鈴花の髪へ移る。


「その簪、随分と安っぽいのね」


鈴花の髪には、今朝星揺が借りていた桃の花の簪が挿されている。


「…これは、母上が買ってくださったものです」


鈴花の声が低くなる。


「武人の妹が選ぶものなんて、たかが知れているでしょう」


「今…母上のことまで侮辱なさいましたか?」


鈴花が一歩前へ出る。


「人の大切な品を笑うのは、おやめください。それこそ、礼儀に欠けるのではありませんか」


明霞の顔が歪んだ。


「何ですって?」


明霞は荒い足取りで近づき、鈴花の髪へ手を伸ばした。

星揺が止めようとしたが、明霞はその手をかわし、鈴花が避けるより早く桃の簪を引き抜いた。


「返してください!」


鈴花がすぐに手を伸ばす。


明霞は簪を高く掲げた。


「近くで見ると、本当に粗末ね」


「人のものを勝手に取らないでください!」


「嫌よ」


鈴花が詰め寄ろうとする。

星揺はその腕を掴み、代わりに明霞の前へ立った。


「鈴花。私が取り返すから」


「だけど――」


「大丈夫」


星揺は明霞へ手を差し出した。


「返して」


明霞が眉を上げる。


「随分と偉そうね」


「先に人のものを奪ったのは、そっちでしょう」


「嫌だと言ったら?」


「返してもらうまで、ここにいるわ」


「姉君に、騒ぎを起こすなと言われていたのではなくて?」


「だから我慢しているのよ」


明霞は、面白くなさそうに口元を歪めた。

その視線が、星揺の髪へ移る。

小さな白い花が彫られた、銀の簪へ。


「あら、…あなたの簪は、もっとみすぼらしいわね」


明霞が手を伸ばす。

星揺は低い声で告げた。


「触らないで」


先ほどまでとは違う、張り詰めた声だった。


「それは、母の形見よ」


鈴花も星揺の隣へ立った。


「それには、お触れにならないでください」


「亡くなった方の?」


明霞は鼻で笑う。


「亡くなった人が使っていたものを、いつまでも身につけているなんて、縁起が悪いのではなくて?」


「いい加減になさってください!」


鈴花が声を荒らげた。


「形見を大切にすることの、何が悪いのですか!」


星揺の胸が鋭く痛んだ。


「いいから、鈴花の簪を返して」


明霞はしばらく二人を見つめた後、星揺の手のひらへ桃の簪を返した。

星揺はほっと息を吐き、鈴花へ渡そうとする。


だが次の瞬間、明霞の指はすでに星揺の髪へ伸びていた。


「だめよっ!」


星揺と鈴花の声が重なった。

冷たい指が、銀の簪を掴む。

強く引き抜かれ、まとめていた黒髪が一気に肩へ崩れ落ちた。


星揺は、明霞の指に挟まれた銀の簪を見つめた。


「返して」


自分でも分かるほど、声が震えていた。


「お返しください!」


鈴花も明霞へ手を伸ばした。

だが明霞は後ろへ下がり、簪を遠ざける。


「お母様の形見なら、屋敷へしまっておけばいいでしょう」


「返してと言っているの」


母の声が、耳の奥に蘇った。

髪へ触れてくれた指先。

抱き上げられた時の、薬草と花の混じった香り。

母が亡くなった後も、この簪があれば、母をすべて失ったわけではないと思えた。


母の温もりが、本当にあったのだと教えてくれるもの。

それが、この銀の簪だった。


明霞は簪を手にしたまま、水亭の端へ歩いていく。

その先には池がある。

彼女が何をしようとしているのかに気づき、星揺の顔から血の気が引いた。


「やめて」


「何を?」


「それを返して」


「謝ったら考えてあげるわ」


銀の簪が、水面の上へ掲げられた。

春の日差しを受け、小さな白い花が光る。


「私へ無礼な口を利いたことを、今ここで謝りなさい」


明霞は水亭の床へ視線を落とした。


「ここへ膝をついて」


「そんなことする必要はないわ!」


鈴花が声を上げた。

星揺には、鈴花の声が遠く聞こえた。

目に映っているのは、明霞の指に挟まれた簪だけだった。


少しでも逆らえば、あの指が開くかもしれない。

それだけは絶対に嫌だった。


「……分かったわ」


「星揺!」


星揺は、ゆっくりと膝をついた。

鈴花が慌てて肩を掴む。


「星揺が頭を下げることないのよ!」


「簪を取り戻したいの」


「だからって――」


「お願い」


震える声で言われ、鈴花は手を離すしかなかった。

星揺は床へついた指先に、ぎゅっと力を込めた。

周囲の令嬢たちから、小さな笑い声が漏れる。


鈴花が鋭く振り返った。


「何がおかしいのですか」


令嬢たちは笑いを止め、気まずそうに目をそらす。

星揺は明霞から目を離さなかった。

今にも走って簪を取り返したい。

けれど、大事になれば美玉や家族に迷惑がかかる。


それだけは避けたかった。


「先ほどは、失礼なことを申し上げました」


「聞こえないわ」


「申し訳、ありませんでした」


唇を強く噛み締める。

悔しかった。

けれど、あの簪さえ取り戻せるならば、耐えられた。

母のために膝をつくのだと思えば、いくらでも頭を下げられる。


「返して」


明霞は満足そうに笑った。


「最初から、そうしていればよかったのよ」


そして――迷うことなく指を開いた。


「だめよ!」


鈴花の叫び声が響く。

銀色の光が、星揺の目の前から離れていく。

星揺は立ち上がり、必死に手を伸ばした。


けれど、届かなかった。


 ぽちゃん。


小さな音が、妙にはっきりと耳へ残った。

水面に丸い波紋が広がっていく。


一つ。


二つ。


浮かんでいた桃色の花びらが波に押しのけられ、銀色の光は水の底へ沈んだ。


やがて、跡形もなく見えなくなる。

星揺は、息をすることさえ忘れていた。

胸の奥に、ぽっかりと穴が開く。

まるで、母が亡くなった日と同じ感覚だった。


声をかけても返事がない。

手を伸ばしても、もう届かない。

母を、もう一度失った。


「……あら」


明霞の声が、遠くから聞こえる。


「手が滑ってしまったわ」


周りで、誰かが笑った。


「酷いわ!」


鈴花の低い声が響いた。

笑っていた令嬢たちは、気まずそうに目をそらす。

鈴花は星揺へ駆け寄った。


「星揺……」


けれど、星揺は動かなかった。

ただ、簪が消えた水面を見つめている。


「形見なら、自分で拾えばいいでしょう」


明霞が扇を開いた。


「武人の娘なら、池へ入るくらい平気なのではなくて?」


星揺は、ゆっくりと顔を上げた。

目に涙はなかった。

けれど、その目を見た鈴花が息を呑む。


「拾って」


「何ですって?」


「今すぐ、拾いなさい!」


「嫌よ」


気づいた時には、星揺は明霞へ飛びかかっていた。


「きゃっ!」


両肩を掴み、そのまま床へ押し倒す。


令嬢たちの悲鳴が、水亭へ響いた。


「星揺、待って!」


鈴花が止めようと手を伸ばす。

だが、星揺の怒りを責めることはできなかった。


「簪を拾って!」


「知らないわよ!」


「許さない!」


明霞の爪が、星揺の頬を引っかいた。

鋭い痛みが走り、細い血が頬を伝う。

それでも星揺は手を離さなかった。

明霞が星揺の髪を掴み、星揺も明霞の腕を押さえる。


二人は床の上で取っ組み合いになり、近くの卓へぶつかった。

杯や皿が落ち、甲高い音を立てて割れる。


「星揺!」


聞き慣れた声が響いた。

春華だった。

騒ぎを聞きつけた大人たちが、水亭へ駆け込んでくる。


「何をしているの! 離れなさい!」


春華が星揺の身体を強く引き離した。

明霞も、周囲の令嬢たちに抱き起こされる。

そこへ韓家の女主人、美玉、招待客の母親たちが次々と集まってきた。


「これは一体、何の騒ぎです!」


「明霞!」


杜夫人が、床へ座り込んだ娘へ駆け寄る。

明霞は母親の姿を見るなり、大げさに涙を流した。


「母上……裴家の娘が、突然私へ襲いかかってきたのです」


「突然?」


星揺が言い返そうとしたが、春華が腕を掴んだ。


「今は黙って」


「でも、姉上――」


「星揺」


姉の声は厳しかった。

けれど、乱れた髪と血の滲んだ頬を見る春華の目には、怒りよりも心配が浮かんでいる。


「韓家のお祝いの席で、何という無礼を!」


杜夫人が星揺を睨む。


「裴家には、きちんと責任を取っていただきます!」


周囲の令嬢たちも、一斉に明霞へ味方した。


「私たちも見ていました」


「裴家の娘が、突然つかみかかったのです」


「明霞様は何もしていません」


「嘘です!」


鈴花が声を張り上げた。

怒りで、肩が震えている。


「先に私の簪を奪ったのは明霞様です。星揺のお母様の簪まで勝手に抜き、謝らせた後に池へ捨てたのです!」


「鈴花」


星揺が小さく従姉妹を呼ぶ。

だが鈴花は引かなかった。


「本当のことです!」


鈴花は星揺の隣へ立ち、明霞たちを睨んだ。


「星揺は最初、お祝いの席を壊したくないから謝りました。それなのに、家族を侮辱し、お母様の形見まで捨てたのは明霞様です」


春華が池へ目を向ける。


「母上の簪を……?」


星揺は唇を噛み、小さく頷いた。

それだけで、再び胸が締めつけられる。


「だからといって、他家の令嬢へ暴力を振るってよい理由にはなりません!」


杜夫人の声が水亭へ響く。


「そもそも、娘が簪を捨てたという証拠がどこにあるのです。裴家には、母親のいない娘を躾ける者もいないのですか!」


春華の顔色が変わった。

星揺も再び前へ出ようとする。

だが、その前に鈴花が口を開いた。


「母親がいないことと、今日のことに何の関係があるのですか」


鈴花は杜夫人をまっすぐに見た。


「明霞様がなさったことを認めたくないからと、亡くなった方を悪くおっしゃるのは卑怯です」


普段は星揺の行きすぎを止める。

けれど、理不尽なことにまで黙って耐えるつもりはなかった。

韓家の女主人は、困り果てたように両家を見比べている。

祝いの席で、高官の娘と武人の娘が取っ組み合いを始めたのだ。


どちらか一方だけを責めれば、家同士の争いになりかねない。


「先に非礼を働いたのは、その娘ではない」


低く静かな声が、騒ぎを断ち切った。

池を渡っていた風が、ふいに向きを変える。

水亭に下げられた薄い帳が大きく膨らみ、庭の木々が一斉に葉を鳴らした。


一人、また一人と口を閉ざしていく。


先ほどまで激しい言葉が飛び交っていた水亭が、波が引くように静まり返った。


星揺は顔を上げた。


池の向こう側、東の回廊へ続く石畳に、黒い影が落ちている。


最初に見えたのは、黒い日傘だった。

陽の光を吸い込むような、深い黒。


傘は、木々と回廊が落とす影の中を選ぶように、ゆっくりと近づいてくる。

その下に、墨色の衣をまとった男がいた。


広い袖が風に揺れ、銀糸で縫われた龍の紋が、傘の下の薄闇で淡く光る。

男が一歩進むたび、周囲から音が消えていった。


誰かが息を呑んだ。

誰かが慌てて扇を閉じた。


水亭にいた令嬢たちは、それまでの騒ぎさえ忘れたように、その姿を見つめている。


龍昊然リュウ・コウゼン


龍家の若き当主。

先代亡きあと、その爵位を継いだ現・龍国公。


皇帝の懐刀であり、戦場では「夜の龍」と恐れられる武将。


その名を、星揺も噂では知っていた。

けれど、実際に姿を見るのは初めてだった。

黒い日傘の影から覗く肌は、陽の光を知らないかのように白い。

長い黒髪は黒銀の冠でまとめられ、切れ長の目には、感情らしいものがほとんど浮かんでいない。


やけに整いすぎた顔立ち。


美しい。


けれど、その美しさは人を寄せつけなかった。


雪の積もった深い山や、夜の静かな湖のように、目を離せないのに、足を踏み入れてはいけないと本能が告げている。


なんだか、怖い。

星揺が最初に抱いたのは、それだった。

昊然の半歩後ろには、もう一人の青年が付き従っていた。


龍景雲リュウ・ケイウン


昊然より柔らかな目元をしているが、白い肌と整った顔立ちは、やはりどこか人間離れしている。

ただ後ろを歩くだけの従者ではない。


景雲の視線は、水亭へ入る前から、割れた器、倒れた卓、星揺の乱れた髪、池に残る波紋を順に捉えていた。


やがて昊然が、水亭の前で足を止める。

黒い日傘がわずかに傾き、その先が明霞へ向けられた。


「先に簪を奪ったのは、そっちだ」


低い声だった。

大きな声ではない。

それなのに、池の水音まで止まったように感じられた。


明霞の顔が強張る。


「で、ですが、龍国公様。私はただ、少し見せてもらおうと――」


「君が、亡くなった母親を侮辱した」


昊然は短く遮った。


「髪から簪を抜き、謝罪させた後、池へ落とした」


「手が滑っただけです!」


「自分で指を開いたように見えたが」


それだけだった。

声を荒らげることも、責め立てることもない。

ただ、見た事実だけを告げる。


明霞の唇が震えた。


昊然が水亭の屋根の下へ入ると、景雲が自然な動作で前へ進み、主人の黒い日傘を受け取った。


自分の日傘も片手で閉じる。


ぱさり、と。


二つの黒い傘が閉じる乾いた音が、静まり返った水亭へ響いた。


「しかし、龍国公様」


杜夫人は娘を抱き寄せながら、なおも星揺を睨んだ。


「娘は衣を汚され、傷まで負っております。たとえ簪のことで行き違いがあったとしても、他家の令嬢へ襲いかかるなど――」


昊然は答えない。


「それに、龍国公様が騒ぎのすべてをご覧になっていたという証もございません」


水亭の空気が、さらに冷えた。


景雲が、ほんのわずかに杜夫人へ視線を向ける。

柔らかく見えた目から、一瞬で温度が消えた。

周りにいた者たちも息を潜めたが、杜夫人は娘を庇うことに必死で気づかない。


「ほかの令嬢たちは、裴家の娘が突然襲いかかったと申しております。一人の証言だけで、娘ばかりが悪いと決めつけられるのは――」


「私が、最初から見ていた」


昊然が告げた。


それでも認めたくない杜夫人は声を上げる。


「ですが――」


「まだ疑うのなら」


昊然の視線が、隣に立つ景雲へ静かに移った。

景雲はその視線に気づき、小さく頷く。


「我が隊を入れる」


そこで、杜夫人の言葉が止まった。

令嬢たちの顔から、さっと血の気が引いていく。


「ここにいた者を、一人ずつ調べる」


昊然の声には、怒りも苛立ちもなかった。

だからこそ、本当に実行するのだと、誰もが理解した。


「簪が落ちた位置。割れた器。卓が倒れた向きも確認させる」


昊然が景雲を見る。


「呼べ」


「承知いたしました」


景雲はためらわなかった。

二本の日傘を近くの従者へ渡し、そのまま回廊へ足を向ける。


「お、お待ちください!」


やっと、ことの重大さを理解した杜夫人が慌てて声を上げた。


景雲は足を止めたが、振り返らない。

昊然は何も言わず、杜夫人を見る。


その冷たい視線だけで、彼女はぐっと言葉を詰まらせた。


「そこまでしていただかなくとも……子ども同士の、ほんの小さないさかいでございます」


「私の証言では足りないのだろう」


「そのような意味ではございません!」


「では、何だ?」


杜夫人は答えられなかった。


風が、水亭の中を通り抜ける。

帳が揺れ、池の上を花びらが流れていく。

木々の葉が擦れる音だけが響いた。


昊然の隊が韓家へ入れば、この騒ぎは、もはや令嬢同士の小さな喧嘩では済まない。

娘が亡くなった母親を侮辱し、その形見を池へ捨てたことも。


明霞を庇い、嘘をついた令嬢たちの名も。

軍によって、一つ残らず調べられる。


「……娘も、気が動転していたのでしょう」


杜夫人は、ようやくそこで絞り出した。


「裴家のご令嬢だけが悪いとは、申しておりません」


「母上!」


「あなたは黙っていなさい」


明霞を制する杜夫人の声は、先ほどよりずっと小さかった。


昊然が景雲へ視線を送る。


「いい」


「はい」


景雲はすぐに踵を返し、昊然の隣へ戻った。

星揺は、そのやり取りを呆然と見ていた。

その間、昊然は一度も怒鳴らなかった。

杜家を脅す言葉も、決して使っていない。


ただ、本当に軍を呼び、事実を調べようとしただけだ。


だからこそ、誰も彼に逆らえなかった。


 ――この人、怒鳴る人より怖い。


星揺は心の中で、龍昊然への警戒を一段階引き上げた。

昊然は、母の簪が沈んだ池へ視線を向ける。


「簪を探せ」


韓家の女主人が、その声を聞いてはっと頷いた。


「すぐに人を向かわせます」


使用人たちが慌てて、長い網や竹竿を取りに走る。

景雲も池の端へ進み、水面を見下ろした。

春の風は、落ちた花びらを南側へ運んでいる。

景雲はしばらく水面の流れを目で追った後、池の一角を指した。


「落ちたのは、あの辺りです」


近づいてきた使用人へ、落ち着いた声で指示を出す。


「網を二つ。表面ではなく、底の泥をゆっくりさらってください。簪を傷つけないように」


「は、はい」


「こちら側から入れば、影が水面へ映りません。見つけやすいでしょう」


使用人たちは景雲の指示に従い、池の縁へ降りていく。

昊然が命じ、景雲がその命令を形にする。

二人の間には、言葉を重ねなくても通じ合うものがあるようだった。


星揺は、母の簪が沈んだ辺りを見つめた。

水面には、もう波紋すら残っていない。

もし、見つからなかったら。

泥の底へ沈んだまま、二度と戻ってこなかったら。

そう考えるだけで、胸の奥が締めつけられた。


鈴花が、星揺の手を握る。


「きっと見つかるわ」


先ほどまで明霞へ向けていた硬い声が、今は星揺を支えるように柔らかかった。


「絶対に見つかるから」


「……うん」


星揺は鈴花の手を握り返した。


「ありました!」


しばらくして、池へ入った使用人の一人が声を上げた。

泥のついた銀の簪が、網の上に載せられている。


星揺の胸が大きく鳴った。

駆け寄ろうとしたが、足がうまく動かない。

代わりに景雲が池の縁へ身を屈め、使用人から簪を受け取った。

折れていないか確かめるように、慎重に指先で持ち上げる。


近くにあった清水で泥を流し、懐から出した白い布で、銀の表面をそっと拭った。


「折れてはいません」


景雲が星揺へ歩み寄る。


先ほどまで軍を呼ぼうとしていた時とは違い、その声にはわずかな柔らかさがあった。

白い布に包んだ簪を、星揺へ差し出す。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


星揺は震える両手で、簪を受け取った。


銀細工の白い花。

表面には、新しい傷がついている。

それでも、母の簪は確かに戻ってきた。


「よかった……」


声にした途端、張り詰めていたものが切れた。

目の奥が熱くなる。

けれど、あの令嬢たちの前では泣きたくなかった。

鈴花が隣で、ほっと息を吐く。


「本当に、よかった……」


星揺が簪を掌へ包み込んだ瞬間、母の笑う顔が浮かんだ。


『きっと、あなたに似合うわ』


母の声が、耳の奥で蘇る。

星揺は俯き、唇を強く噛んだ。

零れそうになった涙を、どうにか堪える。

春華が隣へ来て、星揺の肩を抱いた。


「あとで、きちんと洗いましょう」


「……うん」


星揺は簪を胸元へ抱きしめたまま、顔を上げる。

少し離れた場所に、昊然が立っていた。


何も言わない。

表情も変わらない。


けれど、母の簪が見つかるまで、彼はその場を離れなかった。


星揺は乱れた黒髪を直す余裕もないまま、覚えている限りで最も丁寧な礼を取った。


「龍国公様。ご証言いただき、ありがとうございました」


緊張で、声がわずかに上ずる。

昊然の視線が、星揺の頬へ向いた。

明霞に引っかかれた傷から、細い血が滲んでいる。


「傷を見てもらえ」


低い声で、それだけ告げた。


「この程度なら、大丈夫でございます」


昊然は答えなかった。

星揺を一度見た後、景雲へ視線を向ける。


「行くぞ」


「はい」


景雲は星揺と鈴花へ軽く一礼すると、預けていた日傘を受け取った。


昊然へ差し出し、その後を追う。

二つの黒い傘が、春の日差しの下へ並んだ。

昊然と景雲は陽の当たる場所を避けるように、回廊が落とす影の中を進んでいく。


周囲の令嬢たちは、二人の背中が見えなくなるまで、誰一人として口を開かなかった。

星揺も、簪を胸元へ抱いたまま、その姿を見送った。


鈴花が隣へ来て、小さな声で尋ねる。


「どうしたの?」


「……怖かった」


「今さら?」


噂では、敵兵を前にしても表情一つ変えない男だと聞いていた。

冷たく、恐ろしく、皇帝の命令なら誰であろうと容赦しない。


実際に会った龍昊然は、噂に違わず怖かった。

口数も少ない。

表情もほとんど変わらない。


けれど、身分の高い令嬢の嘘に合わせることなく、見たままの事実を告げてくれた。

母の簪を探すよう命じ、見つかるまでその場を離れなかった。


「怖いけど……悪い人ではなさそうね」


「助けていただいたのだから、もう少し良い言い方はないの?」


「ちゃんと感謝しているわ」


星揺は、昊然たちが消えた回廊を見つめた。


怖い。

それでも、彼が恩人であることに変わりはない。


「もし、またお会いすることがあったら」


「何?」


「今度は、もう少しきちんとお礼を言わないとね」


鈴花は少しだけ目を丸くした後、柔らかく笑った。


「そうね。騒ぎを起こしていない時に」


「一言余計よ」


星揺は口を尖らせた。


けれど、その手は母の簪を大切そうに包み込んでいた。


     ◇◇


水亭を離れた龍昊然と龍景雲は、池に沿って延びる屋根付きの回廊を歩いていた。

黒い傘はすでに閉じられ、景雲が二本とも片手に持っている。


「本当に隊を入れることになるかと思いました」


景雲が軽く言った。


「必要なら入れた」


「ええ。ですから、皆あれほど怯えたのでしょう」


昊然は答えない。


回廊の外では、春の風に押された花びらが、池の水面を流れている。


景雲は少しだけ振り返った。

水亭の中では、髪を下ろした娘が、見つかったばかりの銀の簪を胸へ抱いている。


「裴家の末娘だそうです」


昊然は足を止めない。


「裴星揺殿。父君は裴将軍です」


「そうか」


それだけだった。


景雲も、それ以上は何も言わなかった。

やがて二人の姿は、春の光と回廊の影の向こうへ消えていった。


星揺はまだ知らなかった。


母の簪が池へ沈んだ今日が、彼女と龍昊然の運命を結ぶ、始まりの日になることを。

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