四十七話 玄烈の目的
月明かりの差す庭で、昊然は清遠を見据えた。
夜はすでに深い。正門を通らず、気配を殺して屋敷へ忍び込んできたことからして、ただ事ではなかった。
「入れ」
昊然は清遠を部屋へ招き入れた。卓上には読みかけの書簡が広げられていた。灯りを一つ増やし、扉が閉じたのを確かめてから向き直る。
「それで、何があった」
清遠は拳を握った。
この一言を告げれば、もう後戻りはできない。
玄烈に背くことになる。
裴家へ近づいた本当の理由も、春華を欺いていたことも明るみに出る。それでも、春華と、その腹に宿った小さな命を思えば、黙ってはいられなかった。
「……玄烈様のことで、お伝えしたいことがございます」
昊然の目つきが変わった。
秀蓮の失踪。周夫人を巡る違和感。盗賊たちの不可解な動き。どれも確かな証拠はなく、それらすべてが玄烈へ繋がっているのかも分からない。
それでも昊然は以前から、玄烈について調べを続けさせていた。
「話せ」
「私は以前から、玄烈様の命を受けて動いておりました」
「何を命じられていた」
「裴家へ近づくことです」
清遠は顔を上げた。
「春華様の信頼を得て、屋敷の様子を探ること。それから……星揺様が、昊然様にとってどのような存在なのかを確かめるよう命じられておりました」
星揺の名が出た瞬間、昊然の眼差しが鋭くなった。
「それはいつからだ」
「私が春華様へ近づく前からです」
自分と星揺の関係が今のようになるよりも、ずっと前から、玄烈は星揺に目をつけていたことになる。
「なぜ星揺を」
「そこまでは聞かされておりません。ただ、昊然様が人の娘へ何度か手を差し伸べたことを、玄烈様は気にしておられました」
普段の昊然は、必要以上に人へ関心を向けることがない。玄烈はそこに何かを感じ取ったのだろう。
「玄烈へ、裴家のことは報告したのか」
「いいえ。まだ屋敷の者たちから十分な信頼を得られていないと偽り、詳しい報告を先延ばしにしておりました」
「星揺のこともか」
「はい。何も掴めていないと伝えております」
「なぜだ」
「最初は、命じられた通りにするつもりでした。ですが、春華様と会ううちに……任務だけではなくなりました」
清遠は昊然を真っ直ぐに見た。
「今は玄烈様の命令とは関係なく、春華様をお慕いしております」
一度言葉を切り、清遠は続けた。
「玄烈様からは、深入りするなと釘を刺されております。私が命じられた以上に春華様へ関わっていることには、気づかれているのだと思います」
「玄烈は何をするつもりだ」
「申し訳ありません。私にも、まだ分かりません」
当主の座が狙いで失脚させたいのか。それとも、別の目的があるのか。
ただ、玄烈が昊然の周囲を探り、星揺まで調べさせていたことだけは、もう疑いではなかった。
「話は、それだけか」
清遠の表情が強張った。
「いえ……もう一つは、春華様のことです」
一度、息を整える。
「春華様は……私の子を身籠っております」
昊然の目が僅かに見開かれた。
「……子?」
「はい。まだ身籠ったばかりです」
龍家の者と人との婚姻は認められていない。まして、その間に子を成すことは長く禁じられてきた。
本来なら、当主として見過ごせることではない。だが、昊然の脳裏には星揺の顔が浮かんだ。
人の娘を想ったという一点だけで、清遠を責めることなどできない。自分もまた、すでに同じ場所へ立っているのだから。
「玄烈は知っているのか」
「いいえ。……ですが最近、私につく見張りが増えました」
「今夜は」
「屋敷の周囲に二人おりました。明かりを残し、眠っているように見せて抜けて参りました」
玄烈が何を疑っているのかは分からない。清遠が命令から外れ始めたことか。それとも、春華との関係か。
「しばらく春華殿には会うな」
清遠が顔を上げた。
「……ですが、昊然様」
「今のお前が裴家へ出入りすれば、玄烈の目をそちらへ向ける」
「しかし、春華様は今、体調も──」
「分かっている。だからこそだ」
清遠は唇を噛んだ。
「……承知いたしました」
それでも、清遠はすぐには動こうとしなかった。
「昊然様……玄烈様の命であっても、裴家を探っていたことや、人との間に子をもうけたことは、掟に背く行為です。死を命じられても、受け入れるつもりでおります」
「馬鹿を言うな」
清遠が目を見開いた。
「お前が死ねば、玄烈のことを知る者が一人減る。それこそ奴の思う壺だ。それに、今のお前には、死ぬより先にすることがあるだろう」
春華と、まだ見ぬ子。
清遠の脳裏にも、その二人の姿が浮かんだのだろう。張りつめていた表情が僅かに揺れた。
「今回は処罰を免じる。自らここへ来て、すべてを話したことも考慮する。だが、お前のしたことが消えるわけではない」
「……はい」
「これからの行動で示せ」
清遠は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。今夜ここへ来たことも、話したことも、玄烈には悟らせるな」
「承知いたしました」
清遠が去ったあと、昊然はしばらく動かなかった。
以前から玄烈を疑っていたが、今夜、その疑いの一つが初めて事実になった。玄烈は確かに、裴家へ手を伸ばしている。
そして、その手は星揺にまで伸びていた。
◇◇
それからほどなくして、夜はさらに深まり、龍国公府も静まり返っていた。
「こんな夜中に何だ、兄上」
書斎へ呼び出された暁嵐が、入るなり言った。後ろから景雲と岳も入ってきた。
「これから話すことは、口外するな」
昊然の表情を見て、暁嵐からも笑みが消えた。昊然は先ほど清遠から聞いたことを三人へ話した。
玄烈の命を受けて裴家へ近づき、春華の信頼を得ながら屋敷を探っていたこと。そして、星揺が昊然にとってどのような存在なのかまで確かめるよう命じられていたこと。
暁嵐は腕を組んだ。
「……あの頃から星揺殿に目をつけていたのか」
「ああ」
「俺でさえ、あの頃には兄上と星揺殿のことが気になったくらいだ。玄烈も同じところに気づいたのか」
「何の話だ」
「忘れたのか? 清遠に、自分が何をしているのか考えろと言った時、兄上も気をつけた方がいいんじゃないかと、俺が言っただろう」
「……あれか」
「裴星揺のことは関係ないと、随分きっぱり否定された覚えがあるが」
昊然がじろりと睨んだ。
──怒るなよ。結局、俺の勘は当たっていたのだから仕方ないだろう。
暁嵐は口には出さなかった。
景雲が続けた。
「玄烈様が星揺様へ目を向けられたきっかけも、おそらく同じ頃かと存じます。昊然様が星揺様を何度かお助けになったことは、王宮でも話題になっておりましたので」
「最初から確信がおありだったわけではないのでしょう。星揺様が昊然様にとって特別な存在になり得るのではないかと疑い、清遠様を使って確かめようとなさったのかと」
「兄上の弱みを先に探していた、ということか」
「その可能性はある」
空気が重くなりかけたところで、暁嵐が笑った。
「しかし、祝舞を舞ったあの三人は美しいと評判だからな。龍家の男を惑わせる何かでもあるんじゃないか?」
昊然の視線が刺さった。
「くだらないことを言うな」
「冗談だろう?そう怒るなよ」
岳が真面目な顔で言った。
「では、暁嵐様もお気をつけください」
「俺か?」
「陸鈴花殿とは、よくお話をされているではありませんか」
「ああ、鈴花のことか。鈴花とは友人だ。地図の話ができる相手は貴重だからな」
その瞬間、景雲の眉が僅かに動いた。
「ほら。俺には何も問題ない。やはり危ないのは兄上の──」
「暁嵐」
「……分かった、分かった」
僅かに緩んだ空気を、昊然の次の一言が消した。
「もう一つある。春華殿が、清遠の子を身籠っている」
誰も動かなかった。
暁嵐が目を見開いた。
「……待て。今、子と言ったか?」
「ああ」
「清遠の?」
「ああ」
「春華殿との?」
「そうだ」
暁嵐はしばらく黙り込み、やがて口を開いた。
「ということは……したのか?」
沈黙。
昊然、景雲、岳の三人が揃って暁嵐を見た。
「いや、子ができたなら、そういうことだろう?」
誰も答えなかった。
「……あ、言わなくてよかったな」
「黙れ」
「すまん」
だが、暁嵐の顔からすぐに軽さが消えた。
「……いや、本当にまずいぞ。春華殿を好きになっただけなら、俺は何も言わない。人を想うことまで掟で縛れるものじゃない。だが、子を成したとなれば別だ。人との婚姻は禁じられている。その上、子まで……長老たちが知れば黙っていない」
「清遠様への処罰を求められるでしょう」
岳が言った。
「それだけで済めばよいのですが」
景雲の言葉に、暁嵐が振り返った。
「人との間に子を成したとなれば、長老たちが問題になさるのは清遠様だけではないでしょう」
「……春華殿か」
「はい。そのお腹の子も」
部屋が静まり返った。
「長老たちには、まだ知られていないんだな」
「ああ」
景雲が尋ねた。
「それで、昊然様はどのように?」
「今回は処罰を免じた」
岳が驚いたように顔を上げた。
「自らすべてを話しに来たことも考慮した。だが、罪が消えたわけではない。これからの行動で示させる。清遠は玄烈から直接命を受けていた。今ここで失うわけにはいかない」
昊然は一度言葉を切った。
「それに、春華殿と子を残して死なせるつもりもない」
暁嵐は兄を見た。
ふと、星揺の姿が頭をよぎった。事情は違っても、兄が清遠をただ掟だけで裁けなかった理由を、なんとなく理解した。
「……待てよ」
「今度は何だ」
「清遠の話が本当なら、玄烈が裴家を探らせていたことは確かなんだよな」
「ああ」
「なら──秀蓮の件は?」
岳と景雲の表情も変わった。
景雲が続けた。
「秀蓮の寝台の下から若い男の恋文が見つかったことも、荷運び人らしき男と話していたという証言もございます。ですが、男の身元はいまだ掴めておりません。秀蓮本人が王都を出た記録もない」
「なら、その恋文や証言そのものが、駆け落ちに見せるために用意された可能性もあるわけか」
「否定はできません」
岳は拳を強く握った。
「もし玄烈様がご自身に都合が悪いという理由で秀蓮を消したのであれば、明確な掟破りです。事実なら、誰であろうと厳罰に処すべきです」
「岳」
昊然が遮った。
「まだ玄烈が秀蓮を殺したと決まったわけではない。疑うことと、裁くことは別だ」
岳が口を閉じた。
「今、確かなのは、玄烈が清遠を使い、裴家を探らせていたことだけだ。秀蓮の件も、盗賊の件も、玄烈へ繋がっているようには見えるが──今は、見えるだけだ」
暁嵐が頷いた。
「証拠が必要だな」
「ああ」
「秀蓮の件も、改めて調べ直します」
「頼む」
「陛下には?」
「……明朝、報告する」
◇◇
翌朝。
昊然は景雲を伴って王宮へ向かった。人払いされた部屋で、昨夜のことを順に報告した。
玄烈が清遠を使って裴家へ入り込ませていたこと。星揺と昊然の関係を探らせていたこと。清遠への監視が強まっていること。
そして──。
「裴春華殿が、清遠の子を身籠っております」
王の眉が動いた。
「……人との間に子を成したか」
「はい」
「裴家の者たちは、龍家のことを何も知らぬのだな」
「はい」
「子を宿している裴春華もか」
「何も知りません」
王は長く黙ったあと、深く息を吐いた。
「本来ならば、龍家の真実を外へ明かすことは許されぬ。王宮でさえ、この真実を知る者は私だけだ」
王妃も、王子も、重臣たちも知らない。それほどまでに守られてきた秘密だった。
「だが、今回は別だ。私が許す」
王は昊然を見据えた。
「すでに裴家は龍家の問題へ巻き込まれている。その上、春華は何も知らぬまま龍家の子を宿した。これ以上、知らぬままにはしておけぬ」
そして、はっきりと告げた。
「裴家と、共に暮らす陸家へ伝えよ」
「……すべてを、でしょうか」
「ああ。清遠が何者なのか。龍家が何を隠してきたのか。そして、裴家がすでにその問題へ巻き込まれていることもだ」
必要なことだと、昊然にも分かっていた。
それでも、星揺に知られることだけは怖かった。自分が人ではないと知った時、星揺はどんな顔をするのだろう。
「ただし、秘密を知る以上、裴家にも陸家にも、相応の覚悟を求める」
王の声が重くなった。
「龍家の秘密は、生涯、外へ漏らしてはならぬ。親族であろうと友であろうと同じだ。もし漏れれば、誰が口を滑らせたかにかかわらず──両家一門すべてに、死をもって償わせる」
そこには当然、星揺も含まれる。
昊然は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」




