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四十六話 これからのために

四十六話




裴家を訪ねてきた清遠の手には、小さな包みがあった。

春華がここ数日、体調を崩していると耳にし、見舞いに来たのだという。


応対に出た星揺は、清遠の姿を見るなり少し驚いた顔をした。


「姉上のお見舞いですか?」


「はい。具合が優れないと伺いましたので」


「まだあまり食べられないみたいなんです。熱はないんですけど……」


星揺は心配そうに屋敷の奥へ目を向けた。

季節の変わり目だから風邪でも引いたのだろう、と家の者たちは思っている。


春華自身も、少し休めば大丈夫だと言うばかりで、詳しいことは誰にも話していなかった。


そこへ鈴花もやってきた。


「清遠様」


「鈴花様」


互いに挨拶を交わす。


「姉上のお部屋まで案内しますね」


星揺が先に歩き出し、鈴花もその隣へ並んだ。


三人で廊下を進んでいくその間、星揺は何度か清遠を振り返っていた。


手には見舞いの品。

具合が悪いと聞いただけで、わざわざ訪ねてきた。以前から二人がよく会っていることも知っている。

しばらく考えていた星揺だったが、とうとう我慢できなくなったらしい。


「清遠様」


「はい?」


「姉上のこと、お好きなんですか?」


清遠の足が止まった。同時に、鈴花が勢いよく星揺を見た。


「星揺!」


「なに?」


「なに、じゃあないでしょう。いきなり何を聞いてるの」


「だって気になったんだもの」


「だからって、そんなことを直接……」


鈴花が星揺の袖を引く。


「すみません、清遠様。この子、思ったことをすぐ口にしてしまうので」


「鈴花だって気にならない?」


「気になっても聞かないの!」


きっぱり言われ、星揺は少し不満そうな顔をした。そんな二人を見ていた清遠が、たまらず小さく笑った。


「お慕いしてますよ」


星揺と鈴花が同時に黙った。その答えには、少しの迷いもなかった。


その瞬間、星揺の目がぱっと輝いた。


「やっぱり!」


「星揺」


また鈴花に袖を引かれる。だが清遠は困った様子もなく、続けた。


「春華様を大切に思っています」


穏やかな声だったが、そこに冗談めいたところはなかった。星揺もそれを感じ取ったのか、先ほどまでの面白がるような表情が少し変わった。


「……それなら、よかったです」


「何がよかったの?」


鈴花が尋ねる。


「姉上のことをちゃんと好きな方なら、私は嬉しいの」


あっさりそう答え、星揺は再び歩き出す。鈴花は呆れながらそのあとを追った。やがて春華の部屋へ着くと、星揺が扉を叩いた。


「姉上、清遠様がお見舞いに来てくださったわ」


室内から、少し驚いた春華の声が返ってきた。扉を開けると、寝台の上には薄い上着を羽織った春華が座っていた。


清遠を見た途端、その顔に驚きと嬉しさが混じる。


「清遠……」


「具合はいかがですか?」


「大丈夫です。少し休んでいれば」


星揺は二人を交互に見たあと、鈴花の腕を引いた。


「じゃあ、私たちは行きましょう」


「ええ」


「姉上、何かあったら呼んでね」


「ありがとう」


扉が閉じる。


部屋に二人きりになると、先ほどまであった話し声も遠のいた。清遠は寝台の傍へ歩み寄り、持ってきた包みを卓へ置く。


「食べやすいものを少し持ってきました」


「ありがとうございます」


「本当に大丈夫ですか?」


「はい」


春華はそう答えたものの、清遠は心配そうに彼女の顔を見ていた。


顔色が普段より悪い、食欲もないと聞いた。


「医師には診ていただいたのですか?」


その言葉に、春華の指先が止まった。


清遠はすぐに気づいた。


「……春華?」


この前、茶店で伝えようとした。けれど、あの日は結局言えなかった。だから──。


「清遠」


「はい」


「この前、お話ししたかったことがあると言ったでしょう?」


清遠は頷く。

春華は膝の上で重ねていた手を、ゆっくり腹部へ添えた。


「私……子を授かりました」


清遠の表情がふっと止まった。

言葉の意味がすぐには届かなかったかのように、ただ春華を見つめている。


「少し前に医師に来てもらったんです。まだ、ごく初めの頃らしいんですけど……」


春華は不安そうに清遠の顔を窺った。


「清遠?」


清遠の目が、彼女の腹部へ向かう。


「……子を?」


「はい」


「私の……?」


「ほかに誰がいるんですか」


その言葉で、ようやく清遠の表情が崩れた。寝台の傍へ膝をつき、春華の手を取る。


「本当に?」


「本当です」


春華が微笑むとその手を包んだまま、清遠は何も言えなくなった。


ただ、ただ嬉しかった。胸の内へ広がっていくものは、疑いようもなく喜びだった。


春華と自分の子。


その小さな命が、今、この人の中にいる。けれど同時に、別の感情が喜びのすぐ傍へ忍び寄った。


それは、恐れだった。


清遠の指先へ、知らずのうちに力が入る。春華がその顔を覗き込んだ。


「……嬉しくないですか?」


「違います」


清遠はすぐに顔を上げた。


「嬉しいです」


迷うことなく言った。


「本当に、嬉しいです」


春華の顔がほっと和らぐ。清遠はもう一度、その腹部へ目を向けた。


守りたいと、そう思った。けれど、どうすれば守れるのか。それだけが分からなかった。


◇◇


夜になっても、清遠は眠れなかった。


部屋の中には灯りが一つ。卓の前に座ったまま、何度も今日の春華の言葉を思い返していた。


──子を授かりました。


嬉しかった。

それだけなら、今すぐにでも春華のもとへ戻りたいほどだった。

だが、その子が生まれるということは、自分と春華の関係をいつまでも隠しておけないということでもある。


玄烈に知られたら。


清遠の顔から、ゆっくりと表情が消える。最初に春華へ近づいたのは、玄烈の命令だった。


裴家へ近づき、内情を探るため、信頼を得ることも、そのためだった。


それなのに、自分は春華を好きになった。

命令とは関係なく会うようになり、彼女が笑えば嬉しくなり、帰り際には次に会える日を考えるようになった。


そして今、子までいる。

このことが玄烈に知られればどうなるか。春華だけではない、裴家そのものが目をつけられるかもしれない。


清遠は額へ手を当てた。では、黙っていればいいのか。


それも違う。


もう自分一人で抱え込める問題ではない。

長い間考え続けているうちに、頭に浮かんだのは、龍家の当主――昊然だった。



自分がこれまで玄烈の命令で動いていたことを知られれば、決してただでは済まないかもしれない。


それでも──。


清遠はゆっくりと手を下ろした。昊然ならば、少なくとも、玄烈より先に知れば、裴家を守ろうとするのではないか。


そう、思えた。


理由は一つだった。


星揺。


清遠は以前から気づいていた、昊然が星揺を見る時だけ、目が違う。それはほんの僅かな変化だった。


誰にでも分かるものではないだろう。けれど清遠には分かった。なぜなら、自分も同じ目で春華を見ているからだ。


大切な者を見る目。傷つけたくないと願い、傍にいてほしいと思う目。


── 昊然様なら。


星揺を大切に思っているのなら、その家族まで危険に晒すことを望むはずがない。


ならば、玄烈に知られる前に話す。


清遠はようやく立ち上がった。決意した途端、今度は別の問題が頭をよぎる。


窓の外へ目を向けると、何者かの気配がある。


昼間から感じていた、いや、今日だけではない。最近、屋敷の周囲に人の気配が増えている。


清遠は灯りを消さず、そのまま窓辺へ寄り、簾の隙間から外を見る。通りの端、暗がりに紛れるように、一人。


反対側にも、もう一人。


──やはり、玄烈の手の者だろう。


このまま正面から出れば、どこへ向かったのか知られる。


清遠は少し考えた。それから何事もなかったように部屋の奥へ戻り、灯りもそのままにした。

寝台の脇を通り、裏手の小窓を僅かに開ける。


外の気配に変化はない、見張りは正面と通りへ意識を向けている。


清遠の目つきが変わった。次の瞬間、その姿が窓辺から消えた。


窓枠を蹴り、音もなく屋根へ降り立つ。


いや、降り立ったというより、影が一つ移ったようにしか見えない。瓦を蹴り、そのまま隣の屋根へ飛ぶ。


人の脚では届かない距離だった。


一つ、さらに一つ。


屋根と屋根の間を軽々と越え、夜の街を駆け抜けていく。


昼間の穏やかな清遠とはまるで違う、地上を歩く者には追えない速さで、家々の上を進む。


一度、大きく方向を変えた。

さらに別の屋根へ移り、そこから細い路地へ降りる。数歩だけ地を走り、今度は高い塀を蹴って再び屋根へ。


背後の気配はない。

見張りは、自分が屋敷を出たことにさえ気づいていないだろう。清遠はそのまま龍国公府へ向かった。


夜の王都を抜け、やがて昊然の屋敷が見えてくる。


正門へは近づかない。塀の陰へ入り、周囲の気配を確かめ、誰もいないことを確認すると清遠は地を蹴った。


高い塀へ一息で上がり、そのまま屋敷の内側へ降りる。

足が地面へ触れた、その瞬間だった。


屋敷の奥。


自室で書簡を読んでいた昊然が、顔を上げた。


目つきが変わる。


庭へ降りた清遠も、その場で動きを止めた。気配を殺して入ったつもりだった。


──だが、すぐに気づかれた。


間もなく、奥の扉が開き月明かりの差す回廊へ昊然が姿を現す。その視線は、迷うことなく清遠のいる闇へ向いていた。


「誰だ」


低い声が夜の庭へ響く。清遠は小さく息を吐くと、影の中から一歩進み出た。


「……清遠です」


昊然の眉がぐっと寄った。

こんな時間に、正門も通らず何の知らせもなく現れた清遠を、鋭い目で見据えていた。


清遠はその視線を受け止める。ここまで来た以上、もう引き返すつもりはない。


「昊然様」


清遠は深く頭を下げた。


「お話があります」

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