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四十五話 言えないこと

数日後、春華は南市の書店の前で清遠を待っていた。


店先に積まれた本の頁が風に煽られ、ぱらぱらと音を立てるたび、店主が重しを置き直していた。


春華はその様子を眺めながら、無意識に腹部へ手を添えかけ、途中で気づいてそっと手を下ろした。

医師から懐妊を告げられて以来、何度も同じことをしている。


まだ、見た目に変化はない。


それでも、そこに清遠との小さな命がいるのだと思うだけで、昨日までと同じ身体ではないような気がした。

今日こそは、ちゃんと話すのだと、朝から何度もそう決めていた。


誰よりも先に知ってほしいのは、やはり清遠だった。


「春華」


聞き慣れた声に顔を上げれば、人混みの向こうから、清遠がこちらへ歩いてくるところだった。


「清遠」


自然と笑みが浮かぶ。

けれど、近くまで来た彼の顔を見た春華は、すぐに少し眉を寄せた。


「……お疲れですか?」


「え?」


「少し、お顔が」


清遠は自分の頬へ手をやると、困ったように笑った。


「大丈夫です。少し立て込んでいただけですから」


「龍家のお仕事?」


尋ねた瞬間、清遠の目がほんの僅かに揺れた。


「……ええ。まあ」


やはり、それ以上は話さない。


近頃、こういうことが増えている。何かを抱えているのは分かるのに、その中身までは教えてくれない。


寂しくないと言えば嘘になる。けれど今日は、自分にも清遠へ伝えなければならないことがあった。


二人は並んで通りを歩き始めた。


「あの、実は今日はお話が――」


そう切り出したところで、前から荷車がやってきた。

清遠はすぐに春華の腕へ手を添え、道の端へ寄せる。


「気をつけて」


「あ……ありがとう」


話が、途切れた。

もう一度言おうとしたが、今度は通りの商人に道を尋ねられ、さらに人の波に押されるように歩くことになってしまった。


今日に限って、どうしてこうも間が悪いのだろう。

春華は少し可笑しくなりながら、清遠とともに近くの茶店へ入った。


窓際の席に腰を下ろすと、ほどなくして温かな茶と菓子が運ばれてくる。


暫くして清遠は春華の前へ菓子の皿を寄せた。


「今日は、あまり召し上がりませんね」


春華は目を瞬いた。


「分かるの?」


「いつもなら、もう一つくらい召し上がるでしょう」


そんなところまで見ていたのかと思うと、胸が少し温かくなる。


「最近、少し食欲がなくて」


口にした途端、今なら言える気がした。春華は膝の上で重ねた指へ力を込め、清遠を見つめる。


「清遠、実は私――」


「清遠様」


店の入口から男の声がした。二人そろって振り向く。


龍家の者らしい男が立っていた。


男は清遠を見つけると近づいてきたが、春華の姿に気づくなり口を閉じ、そのまま清遠の耳元へ何かを告げる。


何を言われたのかは聞こえなかった。


ただ、清遠の顔から先ほどまでの柔らかさが消え、眉間に皺が寄った。


「……分かった。すぐ戻る」


男が先に店を出ていく。清遠は申し訳なさそうに春華へ向き直った。


「すみません。急ぎ戻らなくてはならなくなりました」


「ええ。大丈夫です」


「せっかくお会いできたのに」


本当に残念そうに言われれば、責める気にはなれない。


「お仕事なら仕方ありません」


春華が微笑むと、清遠は立ち上がりかけてから思い出したように動きを止めた。


「そういえば、先ほど何かお話があると」


春華の指が止まった。


──今、言ってしまおうか。


ほんの一言、あなたの子を授かったの──と。


けれど、店の外では先ほどの男が待っている。清遠も急いでいるのだろう。こんな慌ただしい中で伝える事ではない。


春華は少し迷った末、柔らかい笑みを浮かべた。


「……また今度、お会いした時に」


「よろしいのですか?」


「はい。今度は、ゆっくり聞いてください」


清遠はまだ気にしている様子だったが、やがて頷いた。


「分かりました。では、必ず」


「約束ですよ」


「ええ」


店を出ていく清遠の背中を、春華は窓越しに見送った。

姿が人混みの向こうへ消えてから、そっと腹部へ手を添える。


「……言えなかったわ」


困ったように微笑んだ。


けれど次はきっと、今度会った時には、ちゃんと伝えよう。


◇◇


その日の夕刻。


龍家の一室では、玄烈が部下から報告を受けていた。


「裴家へ医師が?」


書簡に向けられていた目が、ゆっくり男へ移る。


「はい。数日前の午後、馬車が一台、裏門から入っております。乗っていたのは、以前から裴家へ出入りしている医師でした」


「誰を診た」


「そこまでは分かっておりません」


「滞在は?」


「それほど長くはございません。診察を終えた後と思われますが、同じ裏門から出ております」


玄烈は何も答えず、指先で卓を一度叩いた。


裴家ほどの家なら、医師を呼ぶこと自体は珍しくない。家族も使用人も多いのだ。誰かが体調を崩していたとしても、何ら不思議ではない。


だが、なぜ裏門なのか。


「他に変わった様子は?」


「今のところは。ただ、二人が会う回数は以前より増えております」


玄烈は椅子へ背を預け、目を伏せた。



「引き続き見ておけ」


「はい」


「裴家も、清遠もだ。気づかれるな」


男は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


扉が閉じたあとも、玄烈はしばらく動かなかった。


やがて書簡へ目を戻したものの、その目は文字を追うことなく止まっていた。


◇◇


数日後。


昼を少し過ぎた頃、裴家の馬車が龍家の屋敷へ到着した。本来なら今日ここを訪れるのは、父と景明だけのはずだった。


盗賊騒ぎそのものは落ち着きを見せ始めていたものの、街道の警備や兵の配置、奪われた物資の行方など、まだ話し合わなければならないことが残っているらしい。


朝から二人が龍家へ向かう支度をしていると知った星揺は、自分も連れていってほしいと言って聞かなかった。


「遊びに行くわけではないんだぞ」


馬車へ乗る前から、景明は呆れた顔をしていた。


「分かってるわよ」


「なら家で待っていればいいだろう」


「邪魔はしないから。ちゃんと大人しくするから」


「お前の“大人しくする”ほど信用できないものもないな」


「兄上!」


父はそんな二人を見ながら、仕方がないとでも言いたげに笑っていた。末娘には甘いのだ。結局、星揺も同行することになった。


もっとも、龍家へ行けば昊然に会えるかもしれない──それが一番の理由であることは、景明には黙っている。


屋敷へ入ると、案内されたのは奥にある広い書斎だった。卓には何枚もの地図や書簡が広げられ、その前には既に昊然が立っていた。


「龍将軍、本日はお時間をいただきありがとうございます」


父が頭を下げると、昊然も礼を返した。


「いいえ。こちらこそお越しいただきありがとうございます」


景明とも挨拶を交わしたあと、昊然の視線が最後に星揺へ向く。


その目が一瞬だけ止まった。


「……星揺、来たのか」


「はい」


星揺の顔がぱっと明るくなる。景明が横から口を挟んだ。


「どうしても同行したいと申しまして、聞かなかったもので」


「兄上、それは言わなくてもいいでしょう」


「事実だろう」


むっとして兄を睨む星揺を見て、昊然の口元がほんの僅かに緩んだ。星揺もそれに気づいて、つられるように笑う。


父は持参した書簡を卓へ置いた。


「こちらが先日お話しした街道の記録です」


「ありがとうございます。こちらでも、兵の巡回について少し変更を考えております」


昊然が地図を広げ直すと、星揺は邪魔をしないよう、少し離れた椅子へ腰を下ろした。


最初のうちは、大人しく話を聞いていた。


北東の街道。宿場。関所。物資を運び込む日取り。盗賊の残党が山へ潜んでいる可能性。

聞き慣れない地名や兵の数が、三人の間を次々と行き交っていく。


「こちらへ兵を置きすぎますと、反対側の守りが薄くなります」


昊然が地図の一点を指した。景明も身を乗り出す。


「ですが、ここを空ければ再び物資を狙われる可能性があるのではありませんか?」


「ええ。ですので、兵を増やすのではなく巡回の仕方を変えようと考えております」


「間隔を短くされるのでしょうか」


「はい。ただし時間は一定にいたしません。決まった刻に兵が通ると知られれば、隙を読まれますので」


父が地図へ目を落とし、顎へ手を添えた。


「なるほど。相手にこちらの動きを読ませないためですな」


「ええ。その方がよろしいかと」


三人の顔は真剣だった。星揺はしばらく昊然の横顔を眺めていた。自分と話している時とは少し違う。


地図へ向ける眼差しは鋭く、父や景明から意見を求められれば迷わず答える。意見が違えば、その理由も丁寧に説明していた。


──格好いい。


最初はそんなことを思っていた。けれど話が長くなるにつれ、だんだん内容が分からなくなってきた。


どこの街道の話をしているのかさえ怪しい。星揺はそっと膝の上へ目を落とした。


──完全に場違いね。


一緒に来ると言ったのは自分だが、ここに座っていたところで何の役にも立たない。星揺は三人の話を遮らないよう静かに立ち上がり、そっと書斎を出た。


庭へ下りれば、先ほどまでの張りつめた空気が嘘のようだった。


秋の陽射しが柔らかく庭へ降り注ぎ、池の水面が細かく光っている。木々には赤や黄色に変わり始めた葉が混じり、その足元では淡い紫色の小さな花が風に揺れていた。


星揺はその前で立ち止まり、腰を少し屈めて花を覗き込む。


「かわいい……」


やはり軍の話より、こちらの方が自分には合っている。

花弁に触れないよう指先を近づけていると、背後から聞き慣れた声がした。


「星揺」


ぱっと勢いよく振り返ると、回廊に昊然が立っていた。


「龍国公様」


思わず声まで弾む。


「お話は終わったんですか?」


「まだだ。書類を取りに行く」


「そうなんですね」


昊然は星揺を見ると、こちらへ来いというように軽く顎を動かした。星揺は迷わずその後についていった。


連れていかれたのは昊然の私室だった。

部屋の中は想像していた通り、余計な飾りがほとんどない。壁際には書棚が並び、卓の上には書簡や本が整えて置かれている。


そして奥には、一つの寝台。


星揺の目が自然とそちらへ向いた。


──ここで、いつも寝ていらっしゃるのね。


そう思った途端、妙に意識してしまい、慌てて別のところへ視線を移した。


昊然はそんな様子には気づかず、書棚へ向かう。


「軍の話は退屈だっただろう」


「……少しだけ」


昊然が振り返る。


「少しか?」


「途中から、何を話しているのか全然分からなくなりました」


「だろうな」


「だから庭へ行ったんです」


「勝手にいなくなるな」


責めるほど強い声ではない。星揺は少し唇を尖らせた。


「ちゃんと近くにいました」


「探した」


星揺の目が動く。


「……私を?」


「ああ」


昊然は当然のように答え、棚から書類を取り出した。

その背中を見つめているうちに、じわじわと嬉しさが込み上げてきた。


自分がいなくなったことに気づいてくれて、探してくれた。今日、無理を言ってついてきたのだって、本当は少しでも会いたかったからだ。


「龍国公様」


昊然が振り返る。


星揺は一歩近づいた。そしてもう一歩。そのまま、昊然の胸へぎゅっと抱きついた。


彼の身体が僅かに止まる。けれど離されることはなく、少し遅れて大きな手が星揺の背中へ回った。


「……どうした」


低い声が頭の上から落ちてくる。星揺は胸元へ頬を寄せた。


「少しだけ」


「……」



昊然はそれ以上聞かなかった。ただ、背中へ回された手がゆっくり動くと、星揺は安心したように身体を預けた。


「お忙しいですね」


「ああ」


「ちゃんと眠っていますか?」


「眠っている」


「本当に?」


「お前は私を何だと思っている」


星揺は顔を上げた。


「無理をする人です」


昊然の眉が僅かに動く。


「……」


「見ていれば分かります」


昊然は呆れたように息を吐いた。

少しして星揺が腕を緩めると、昊然も背中へ回していた手を下ろした。


「私は戻る」


「はい」


「お前はどうする」


「また庭にいます」


昊然は少し考えたあと、部屋の奥へ目を向けた。


「ここにいるか?」


「え?」


「まだ話はかかる。眠いなら寝ていていい」


星揺もつられて寝台を見る。


──ここで?


整えられた寝具と枕。当然、毎晩そこで昊然が眠っている。そう考えた瞬間、頬がじわじわと熱くなった。


「……ここで寝てもいいんですか?」


「ああ」


「龍国公様の……」


「私の寝台以外に何がある」


昊然は本気で意味が分からないらしい。


「い、いえ。何でもありません」


「変な奴だな」


昊然は書類を手に扉へ向かった。


「ここにいろ」


「はい」


「今度は勝手にどこかへ行くな」


「行きません」


「本当だな」


「本当です」


昊然が部屋を出る。


扉が閉じ、辺りが静かになった。星揺はしばらくその場に立っていた。


ちらり。


寝台を見る。


「……」


もう一度見る。


誰もいない。


星揺はすたすたと寝台へ向かった。端へ腰を下ろし、手をついてみる。


柔らかい。


そのまま、ころんと横になった。


「わ……」


枕へ頭を乗せ、横向きになり頬を少し埋めた瞬間、ふわりと馴染みのある香りがした。


強い香ではない。


木のような、衣に残った香のような、いつも昊然の傍で感じる匂いだった。


星揺の口元が緩む。


「……龍国公様の匂い」


枕へもう少し頬を寄せる。


「ふふ……」


我ながら何をしているのだろうと思う。


けれど嬉しい。


先ほど抱きついた時と同じ匂いがして、星揺は寝具を胸元へ引き寄せた。ほんの少しだけ休むつもりだった。


秋の日差しは暖かく、庭から聞こえる葉擦れの音も心地いい。やがて星揺の瞬きがゆっくりとなり、そのまま瞼が閉じていった。


◇◇


どれほど時間が経ったのか、部屋の扉が再び開いた。


昊然が中へ入り、その後ろから景雲も続いてくる。話し合いで使った書類を戻すため、一緒に来たらしい。


「こちらへ置いてよろしいでしょうか」


「ああ。頼む」


景雲が卓へ書類を置く間、昊然は寝台へ目を向けた。

そこには、本当に眠ってしまった星揺がいた。


寝具を胸元まで抱き込み、枕へ頬を寄せ、長い髪が寝台へ広がり、僅かな寝息が聞こえていた。


昊然はピタリと足を止めた。


「……本当に寝たのか」


景雲もその視線を追い、星揺に気づく。


「随分とよくお休みですね」


昊然は寝台の傍へ歩み寄った。


「星揺」


返事はない。肩へ手を置きもう一度声をかけた。


「起きろ」


星揺は僅かに眉を動かしただけだった。


「裴将軍が待っているぞ」


それでも目を覚まさない星揺に、昊然が小さく息を吐く。その様子を見ていた景雲が一歩前へ出た。


「私がお連れいたしましょうか?」


昊然は景雲へ一度、目を向けた。


「いや」


しかし、返事は短かった。


「私が連れていく」


「……承知いたしました」


景雲は素直に一歩下がった。

ただ、その目元にはほんの僅かに笑いが滲んでいる。

昊然は気づかないのか、それとも気づいていて無視したのか、何も言わずに寝具を外した。


星揺の背中と膝の下へ腕を差し入れ、その身体を抱き上げれば、星揺の眉が僅かに動いた。

けれど目は覚めず、むしろ安心したように昊然の胸元へ頬を寄せた。


昊然の動きが一瞬止まる。


「……星揺」


呆れたような声だったが、その腕は星揺を抱き直し、しっかりと支えていた。


景雲がたまらず、一瞬口元を押さえた。それを昊然は見逃さなかった。



「何だ」


「いえ。何でもございません」


「……そうか」


景雲は平然とした顔へ戻ったものの、昊然が背を向けたあと、その口元にはまた僅かな笑みが戻っていた。


昊然は星揺を抱いたまま部屋を出ると、回廊には夕方の柔らかな光が差し込み、長い影が床へ伸びていた。


腕の中の星揺は、まだ眠っている。

途中ですれ違った使用人が二人の姿を見て目を見開いたものの、すぐに頭を下げた。


ここは自分の屋敷であり、仕える者たちが主の私事を軽々しく外へ漏らすことはない。少なくとも、昊然はそう信じていた。


昊然は構わず、星揺の父と景明が待つ部屋へ向かった。



その時、別の回廊から一人の女が姿を現した。


──桃天だった。


今日は昊然へ用があり、屋敷を訪ねてきたところだった。しかし角を曲がった先に見えた光景に、その足が止まる。


昊然が誰かを抱いて歩いている。


それだけでも珍しい。


桃天は少し目を凝らし、腕の中で眠っている娘が誰なのか気づくと、僅かに目を見開いた。


――星揺様……?


星揺は完全に眠っていた。

頬を昊然の胸へ寄せ、警戒する様子もなく身体を預けている。そして昊然も、それを嫌がるどころか、起こそうとする様子さえない。


桃天は声を掛けなかった。


少し離れた場所に立ったまま、二人が回廊の向こうへ消えていくのを見送る。以前から、昊然が星揺を気にかけていることには気づいていた。


星揺もまた、昊然を見つけると分かりやすいほど表情が明るくなる。


けれど――どうやら、自分が思っていたよりもずっと親しいらしい。


桃天は手にしていた文へ目を落とした。今、わざわざ声を掛ける必要はないだろう。


「……また出直しましょう」


誰に聞かせるでもなく呟き、踵を返す。

屋敷の外へ向かいながらも、先ほどの光景が頭に残った。


昊然の腕の中で眠る星揺。


そして、それを当然のように自ら抱いて歩いていた昊然。二人がどのような関係なのか、桃天は知らない。


ただ、あの姿を多くの龍家の者に見られるのは、あまり良いことではない。


桃天は歩きながら僅かに眉を寄せた。


その日は昊然へ会うことなく、桃天は静かに龍家の屋敷を後にした。

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