四十四話 変わりゆくもの
翌日の午後、裴家の裏門に一台の小さな馬車が入っていった。
降りてきたのは、長く裴家に出入りしている医師だった。五十を過ぎた穏やかな男で、春華が幼い頃から何度も診てもらっている。
春華は自室で医師を待ちながら、膝の上で重ねた指を何度も握り直していた。
昨夜から数え直しても、やはり同じだった。
月のものが来ていないのは、もうひと月どころではない。最近は身体も疲れやすく、食欲にもむらがある。
思い当たることは、一つしかない。
医師が向かいへ座り、いくつか症状を尋ねたあと、春華の手首へそっと指を添える。
開けた窓から秋の風が入り、簾をかすかに揺らした。
その小さな音さえ耳につくほど、待っている時間が長く感じられる。
やがて医師が手を離した。
「まだ、ごく初めの頃と思われますが……ご懐妊でございましょう」
春華は瞬きを忘れたように医師を見つめた。
「……本当に?」
「はい。お子を授かっておられます」
その言葉が胸へ届いた途端、張りつめていたものがほどけるように息が漏れた。
同時に、驚きと、不安。
それもそのはず、まだ清遠とは婚姻していない。
父や叔母にどう話せばいいのかも分からないし、清遠自身にも、自分には話せない何かがある。
だけど──
「……嬉しい」
声にした途端、目の奥がじんと熱くなった。春華はそっと腹部へ手を添えてみる。見た目はまだ何も変わっていない。けれど、ここに清遠との子がいるのだ。
もし違っていたら、と考えた時に感じた寂しさの理由が、今になって分かった気がした。
いつの間にか、自分はこの小さな命を望んでいた。
医師は春華が未婚であることを知っていたが、何も尋ねなかった。ただ、無理をせず、食べられるものを少しずつ口にすること、重いものを持たず身体を冷やさない様にと、それだけを言い残して部屋を出ていった。
一人になった春華は、しばらく窓辺に座っていた。
清遠に伝えたい。誰よりも先に、このことを知ってほしい。けれど、その顔を思い浮かべると、喜びと一緒に小さな不安が胸をよぎった。
近頃の清遠は、何かを言いかけては飲み込むことがある。龍家のことを尋ねても、困ったように笑うだけで、話してくれないことも多かった。
それでも今だけは、この喜びを余計な不安で曇らせたくなかった。
春華は腹部へ添えた手をゆっくり動かした。
「……きっと、大丈夫よ」
自分へ言ったのか、まだ見ぬ子へ言ったのかは、春華自身にも分からなかった。
◇◇
その日の午後、王宮には穏やかな秋の風が吹いていた。
鈴花は星揺から預かった一通の文を懐へ忍ばせ、景雲を探して歩いていた。今日は昊然が王宮へ来ていないためか、いつもならその傍にいる景雲の姿もなかなか見つからない。
「どこにいらっしゃるのかしら……」
人通りの少ない回廊へ足を向けた時、不意に女の甘い声が聞こえた。
「景雲様」
ちょうど探していた名に足を止め、鈴花は回廊の角からそっと顔を覗かせた。
少し先の朱塗りの柱のそばに、景雲がいた。
けれど、一人ではない。
その腕には王宮に仕える高位女官、碧珠がぴたりと身を寄せていた。
艶やかな黒髪を高く結い、碧色の玉をあしらった簪を挿した美しい女だった。白い肌には紅を引いた唇がよく映え、細く整った目元には大人びた色香がある。
そして何より、二人の距離が近い。
碧珠は景雲の腕へ自分の腕を絡ませ、豊かな胸元までぴたりと寄せていた。
鈴花の眉が思わず上がる。
「今日は龍国公様がいらっしゃらないのでしょう?では、少しくらい、私にお時間をくださってもよろしいのに」
「申し訳ございません。務めがございますので」
景雲はいつもの穏やかな口調を崩していなかったが、絡められた腕へ一度視線を落とした。
碧珠はそれを見て、むしろ楽しそうに笑った。
「相変わらず真面目ですこと」
さらに身体を寄せられ、景雲がわずかに身を引く。けれど、すぐ後ろには柱があり、背がそこへ触れてしまった。碧珠は白い指を伸ばすと、その指先を景雲の唇へそっと当てた。
「……碧珠様」
低く名を呼ばれても、碧珠は離れない。その様子を見ていた鈴花の目は、思わず輝いた。
──わぁ……
見てはいけない気がする。
しかし、いつも落ち着いている景雲が、女性にここまで迫られているところなど、見たことがない。
鈴花は近くにあった大きな青銅の香炉の陰へ身を滑り込ませ、その場へ素早くしゃがみ込んだ。
少しだけ、ほんの少しだけ見たら離れよう。
そう思っていたのに、大きな香炉が邪魔をして肝心の景雲の顔がよく見えない。鈴花は首を伸ばした。
それでも見えない。
少し迷った末、香炉へ手を添えてそろそろと腰を上げた。ようやく景雲の顔が見えた──と、思った瞬間、碧珠から顔を逸らした景雲と、ぴたりと目が合った。
「……」
鈴花は中腰のままその場で固まった。
景雲の目も僅かに見開かれ、鈴花から青銅の香炉へ、それからもう一度鈴花へと動いた。
「……鈴花様?」
──どうしよう。
完全にばれてしまった。
これは、ただ通りかかっただけではすまない。
わざわざ香炉の陰にしゃがみ、そこから立ち上がって覗いていた所まで見られてしまったのだ。
恥ずかしさと気まずさで、頬が一気に熱くなっていくけれど、ここで慌てて逃げれば余計に怪しい。
鈴花は何事もなかったようにゆっくりと背筋を伸ばし、香炉の陰から出ると、景雲でも碧珠でもなく庭へと顔を向けた。
「……いい景色ですね」
秋風に揺れる木々を、さも初めから眺めていたかのように見つめた。
しかし、返事はない。
そっと横目を向けると、景雲は眉を僅かに寄せ、明らかに何か言いたそうな顔でこちらを見ていた。碧珠まで不思議そうに鈴花を見ている。
──全然、誤魔化せてない。
「……では、私はこれで」
鈴花はさっと頭を下げ、そのまま踵を返した。明らかに普段より速い足取りで回廊を進んでいく。
咄嗟に出たとはいえ、いい景色ですねって、何なの。
先程口にした言葉を思い返すだけで恥ずかしくなる。
しかも、本来の目的だった文まで渡していない。
けど、あの流れで文を渡すのもおかしい。また会った時にでも渡せばいい。
そう決めた直後だった。
「鈴花様!」
背後から景雲の声が飛んできた。鈴花の肩が思わずびくりと跳ねる。恐る恐る振り返れば、景雲がこちらへ向かって歩いてきていた。
──どうして追いかけてくるのよ!
さっきのことなら、そのまま忘れてくれればいい。今は、とにかく顔を合わせづらい。
鈴花は思わず歩調を速めたが、後ろから聞こえる足音も止まる様子がない。
「鈴花様」
もう一度名前を呼ばれ、鈴花は辺りを見回した。すると、すぐそばに大きな白磁の壺が置かれている。考えるより先に、その陰へと身を滑り込ませた。
隠れてから、自分でも何をしているのだろうと思ったものの、今さらここから出るのも恥ずかしい。
やがて足音が近づき、壺のすぐ向こうでピタリと止まった。
「……鈴花様」
鈴花はしばらく壺の陰で息を潜めていたが、さすがに無理があると、観念して、そろりと顔を覗かせた。
目の前には、景雲が何とも言えない顔で立っている。
鈴花はその顔を見るなり目を逸らし、隣の白磁の壺を見上げた。
「……綺麗な壺ですね」
景雲の眉が僅かに動いた。
「先ほどは景色をご覧になっていましたね」
「……今日は、いろいろ目につくんです」
自分でも随分苦しい言い訳だと思う。
景雲は何か言いたげだったが、それ以上は追及せず、困ったように息を吐いた。
その顔を見ているうちに、鈴花はだんだん可笑しくなってきた。
「……すみません。少しだけ、見ていました」
「少し、ですか?」
「腕を組まれているところから……」
「ほとんど最初からではありませんか」
鈴花は気まずそうに眉を下げる。
「だって、あんなところを見てしまったら気になるじゃないですか」
「香炉の陰に隠れてまで?」
「最初は隠れるつもりではなかったんです。出るに出られなくなってしまって……」
「それで、立ち上がってまでご覧になったのですね」
「……見えにくかったので」
景雲が言葉を失った。
その顔を見た途端、鈴花はもう堪えきれずに吹き出した。
「……すみません。でも、景雲様があんなに困っていらっしゃるところ、初めて見ました」
「できれば忘れていただきたいのですが」
「それは……少し難しいかもしれません」
「鈴花様」
困った声で名を呼ばれ、鈴花はまた笑った。
「でも、景雲様って随分おモテになるんですね」
「その話は、もうよろしいでしょう」
「あの方とは、恋仲なのですか?」
「違います」
あまりにも早く返ってきたので、鈴花は目を瞬いた。
「……ずいぶん早いですね」
「違いますので」
「そうなんですか」
妙にきっぱりと言われ、鈴花は少し首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
そこでようやく、本来の用事を思い出す。
「あ。そうでした。私、景雲様を探していたんです」
「私を?」
「はい」
鈴花は周囲に人がいないことを確かめると、懐から一通の文を取り出して差し出した。
「これをお願いしたくて」
景雲は受け取った文の差出人を見ると、それだけで事情を察したらしい。
「承知しました。確かにお預かりします」
「お願いします」
ようやく用事を済ませた鈴花は軽く頭を下げ、今度こそ景雲と別れた。
けれど帰り道、思い出すたびに口元が緩んだ。
碧珠に柱際まで追い詰められていた景雲の顔を思い出し、鈴花はまた笑いそうになった。けれど、それ以上に可笑しいのは、香炉の陰からそろそろと立ち上がった自分と、景雲の目がぴたりと合った瞬間だった。
◇◇
裴家へ戻った鈴花は──
星揺の部屋を訪ねるなり、どこか楽しそうな顔で扉を閉めた。
「星揺、今日ね、ちょっと面白いものを見てしまったの」
「面白いもの?」
星揺がすぐに顔を上げる。
「景雲様が、女の方にものすごく迫られていて……」
「えっ?」
予想通り、星揺は身を乗り出した。
鈴花は碧珠が景雲の腕へ絡みついていたことから、身体を寄せ、とうとう唇へ指まで触れたことを話した。
「それで景雲様、後ろへ下がっていったら柱に当たってしまって」
「それで?!どうなったの?」
「それでね、私も気になって近くの香炉の陰にしゃがんで見ていたの」
「うん」
「途中で香炉が邪魔になって見えなくなったから、ちょっと立ち上がったんだけど」
「え、立ち上がったの?」
「そうしたら、景雲様と目が合ってしまって……」
星揺は数秒、鈴花を見つめた。やがて肩が震え始める。
「鈴花……っ、なんで立ち上がったの?」
「だって見えなかったんだもの」
「それじゃ見つかるに決まってるじゃない!」
「ええ、分かってるわよ。だから恥ずかしかったの」
「それで、どうしたの?」
「何を言えばいいか分からなくなって……」
鈴花は少し言いづらそうに口をすぼめた。
「いい景色ですね、って」
「……景色?」
星揺は一瞬ぽかんとしたあと、盛大に吹き出した。
「ちょっと、笑わないでよ」
「だって……鈴花、香炉の陰から出てきて、景色って……!」
星揺はとうとう卓へ伏せるようにして笑い始めた。
つられて鈴花まで笑い出す。
「仕方なかったの。二人ともこっちを見ているし……!」
「だめ……お腹痛い……」
しばらく二人の笑い声が部屋に響いた。
やがて星揺は目尻を指で拭いながら顔を上げた。
「私も見たかったわ」
今度は鈴花が吹き出した。
「そう言うと思った」
二人は顔を見合わせると、また同時に笑い出した。




