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四十三話 小さな兆し



北東街道を騒がせていた盗賊の一件は、それからしばらくして、ようやく落ち着きを見せ始めていた。


街道沿いだけではなく、宿場や関所にまで兵を回したことで、いくつかの拠点が見つかったのだ。

捕らえられた者たちから話を聞き、奪われた荷の一部も取り戻された。


王都へ届く知らせだけを見れば、事件は収束へ向かっているように思えた。


けれど――。


その裏で、誰にも気づかれぬまま笑っている男がいた。


龍玄烈だった。


玄烈にとって盗賊など、どうでもよかった。

必要だったのは、昊然の目を一時でも龍家の外へ向けること。


軍を動かし、街道を調べ、王宮へ何度も足を運ばせる。

ほんの少し、それだけ時間が稼げればよかった。


そして、その間に玄烈は誰にも悟られぬよう、次の手を打っていた。


     ◇◇


夜。


龍家の屋敷には、昼間とは違う静けさが降りていた。

灯籠の明かりが長い回廊を淡く照らし、庭からは虫の声が聞こえてくる。


清遠が自室へ戻ろうとしていた時だった。


「清遠」


ここにいるはずのない低い声が背後から落ち、清遠の足が止まった。


振り返ると、薄暗い回廊の向こうに玄烈が立っている。


「……玄烈様」


清遠は頭を下げた。


玄烈はすぐには何も言わなかった。

ただ、何かを見定めるように清遠を眺めていた。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「随分と裴家へ通っているそうだな」


その言葉に、清遠の呼吸が一瞬だけ止まった。


それでも、表情は変えない。


「はい」


「何をしている」


わずかな沈黙が落ちた。


「……春華様に、お会いしています」


玄烈の顔から、ふっと表情が消える。


「私がお前に近づけと言ったのは、あの娘と情を交わせという意味ではない」


清遠は答えなかった。


「忘れるな、清遠。お前が何者で、あの娘が何者なのかを」


清遠は玄烈を見た。


「……承知しております」


「ならばいい」


玄烈はそれ以上何も言わず、清遠の横を通り過ぎていく。


けれど、すれ違う寸前。


「深入りするな」


低く落とされた言葉に、清遠は無意識に手を握りしめた。玄烈の足音が回廊の向こうへ遠ざかっていく。

清遠は振り返らなかった。

その音が完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐く。


――深入り。


その言葉に、苦い笑いが込み上げた。


もう、とうに戻れないところまで来ている。


今さら春華を手放せと言われても、自分にそんなことができるとは思えなかった。


     ◇◇


それから、季節はゆっくりと夏から秋へ移り変わった。


庭を埋めていた蝉の声はいつの間にか消え、朝夕には涼しい風が吹くようになっている。

木々の葉も少しずつ色づき始めていた。



星揺と昊然が想いを確かめ合ってから、二か月ほどが過ぎていた。

だからといって、二人が毎日のように会えるようになったわけではない。


むしろ、会えない日の方がずっと多かった。


それでも、会える日は確かにあった。約束通り、昊然は時間を作って裴家を訪れた。父や景明との要件を終え、庭へ出てきた昊然の姿を見つけた星揺は、考えるより先に駆け出していた。


「龍国公様ー!」


昊然が振り返る。


「走るな。転ぶぞ」


「転びません」


「以前もそう言って転んだだろう」


ぴたりと、星揺の足が止まった。


「……覚えていたんですか?」


「忘れると思うか」


何でもないことのように言われた。


けれど、星揺にはそれが嬉しかった。

自分でも忘れかけていたようなことを、昊然はちゃんと覚えていたのだ。


「……ふふ」


「何だ」


「何でもありません」


星揺は嬉しさを隠さないまま、昊然の隣へ並んだ。


庭に新しく咲いた花のこと。鈴花がまた地図を買ったこと。王宮から賜った髪飾りを使ってみたこと。


本当に、取り留めのない話ばかりだった。

それなのに昊然は急かすこともなく、星揺が話し終えるまで聞いていた。


その横顔を見ながら、星揺は思う。


想いを伝える前よりも、今の方がずっとこの人を好きになっている。


そうして少しずつ、二人だけの時間が増えていった。

会えない日には文を交わした。

鈴花が王宮の書庫へ行く際には、決まって景雲へ渡してもらうよう頼んだ。


最近では、鈴花も星揺が文を持っているだけで、誰宛てなのか分かるようになっていた。


「龍国公様ね?」


「うん」


「また長そうね」


「だって、話したいことがたくさんあるんだもの」



文には、美味しかった菓子のことや、姉や鈴花と交わした話など、星揺の日々がそのまま詰め込まれていた。そして最後には、素直な気持ちも隠さず書いた。


『愛しいです』


昊然から返ってくる文は、いつも星揺のものよりずっと短かった。


けれど、返事がなかったことは一度もない。


ある日、景雲から鈴花へ、そして鈴花から星揺へと渡された文を開いた星揺は、最後の一文で手を止めた。


『近いうちにそちらへ行く』


「……」


星揺はその一文をじっと見つめ、もう一度読み返した。


『近いうちにそちらへ行く』


たった、それだけ。

会いたいとも、恋しいとも書かれていない。


けれど。


「……ふふ」


自然と頬が緩んだ。


自分が「会いたい」と書いた。

その返事が、これなのだ。


――そちらへ行く。


忙しい昊然が、自分に会うために時間を作ってくれる。

星揺は文を大切そうに折り直し、胸の前へそっと抱いた。


会えば嬉しい、会えなければ恋しい。

そして、ようやく会えたというのに、別れた途端また会いたくなる。


好きになるとは、こんなにも忙しいものなのだろうか。


そんなことを思いながら、二人の時間はゆっくりと積み重なっていった。


     ◇◇


そんなある日の午後。


裴家の一室では、叔母と春華が話をしていた。


開け放たれた窓からは秋の風が入り、卓上の香炉から立ち上る細い煙を揺らしている。


いつもと変わらない香りだった。春華も、初めは気に留めなかった。


けれど。


「……っ」


突然、胃のあたりから不快なものが込み上げ、春華は咄嗟に口元を押さえた。


「春華?」


叔母の声がする。


「どうしたの?」


「いえ……」


大丈夫です。


そう答えようとした途端、また強い吐き気に襲われた。


「……っ」


「春華様」


控えていた侍女が慌てて駆け寄る。


「申し訳ありません、叔母様。少し……外の空気を……」


侍女に支えられながら部屋を出た。


香の匂いが遠ざかり、回廊へ出ると、春華は柱へ手をついて何度か深く息を吸った。

しばらくすると、先ほどまでの気分の悪さが少しずつ治まっていく。


「お嬢様、お部屋でお休みになった方が……」


「大丈夫よ」


春華は心配させまいと笑った。


「昨日、遅くまで本を読んでいたせい――」


そこまで言いかけて、言葉が止まる。


何かが引っかかった。本当に、それだけだろうか。


春華の表情から笑みが消えた。


――そういえば。


月のもの。


最後に来たのは、いつだっただろう。周囲の音が、ふっと遠くなったように感じた。庭を渡る風も、そばにいる侍女の声も耳に入らない。


春華は頭の中で日を数え始める。


ひと月――いや、それよりも、前……?


「……」


指先から少しずつ熱が失われていく。


そんなはずはない、そう思った。けれど、思い当たる夜があった。忘れられるはずがない夜。


清遠の腕の中にいた。

優しく名を呼ばれた声も、触れた指先も、今も消えずに残っている。


春華は息を呑んだ。


「春華様?」


侍女が心配そうに顔を覗き込む。けれど、春華は答えられなかった。気づけば、自分の手がそっと腹へ触れている。


今はまだ何も変わらず、腹が膨らんでいるわけでもない。そこに何かがあると分かるはずもないのに、心臓だけが早鐘のように鳴っていた。


――まさか。


そんなはずはないと思う。


けれど否定しようとするたびに、頭の中で数えた日々が、一つの答えへと近づいていく。


もし、本当に。


ここに、清遠との子がいるのだとしたら――。


その考えが浮かんだ瞬間、不安とは別の感情が胸いっぱいに広がった。


愛しさだった。


まだ何も分からない。

本当に子を宿しているのかさえ分からないというのに。

それでも春華は、腹に添えた手を離すことができなかった。


「春華様、もしかして……?」


侍女の声に、はっと我に返る。春華は慌てて手を離した。


「このこと……」


自分でも驚くほど、声が震えていた。

侍女が目を瞬く。


「誰にも言わないで」


「ですが、お身体が――」


「お願い」


春華は侍女の手を取った。


不安だった、戸惑ってもいた。

それなのに、その奥にはどうしても消すことのできない小さな喜びがある。

いくつもの感情が入り混じり、うまく言葉にならなかった。


侍女は春華の顔をしばらく見つめたあと、やがて頭を下げた。


「……承知いたしました」


「ありがとう」


その後、自室へ戻った春華は扉を閉めると、そこへ背を預けた。


どくん、どくんと胸が鳴っている。しばらく、そのまま動くことができなかった。やがて春華は自分の腹を見下ろした。


そしてもう一度だけ、今度は誰にも見られないように、そっと腹へ手を添えた。


「……清遠」


その名が、小さく零れた。

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