四十二話 絡む糸
龍国公府の庭には濃い影が落ち、木々の間からは絶え間なく蝉の声が響いている。
開け放たれた書斎の窓から風が入り、卓上に広げられた紙の端を揺らした。
昊然は、その一枚を指先で押さえる。
北東街道で相次いでいる盗賊被害についての報告書だった。
「また穀物か」
向かいに座る暁嵐が呟く。
「ああ」
「これで三度目だったか?」
「四度だ」
暁嵐が顔を上げた。
「……よく覚えているな」
「お前が覚えていなさすぎる」
「兄上が細かすぎるんだ」
昊然は取り合わず、次の報告書へ目を移した。
襲われたのは、王都へ向かう荷車。奪われたのは穀物、干し肉、薬草、鉄。
奇妙なのは、金目のものにはほとんど手をつけていないことだった。
暁嵐も紙面を追ううちに、普段の軽い表情を消していく。
「……盗賊が食いつなぐためにしては、量が多すぎるな」
「ああ」
「物資を集めているようにも見える」
さらに不可解なのは、襲撃の正確さだった。
どの荷が、いつ、どの街道を通るのか。
まるで事前に知っていたかのように、狙い澄まして襲われている。
昊然は街道図を見下ろした。紙を一枚めくった、その時。墨色の袖を掴んでいた小さな手が、脳裏によみがえる。
──行ってほしくなくて。
指先の動きが止まった。
──また、すぐ会えますか?
『……時間を作る』
自分で答えた言葉まで鮮明に思い出す。
「……」
「兄上」
返事はない。
「兄上?」
「何だ」
ようやく顔を上げると、暁嵐が妙なものでも見るようにこちらを眺めていた。
「何だ、その顔は」
「いや……」
暁嵐の口元に、面白がるような色が浮かぶ。
「今、笑っていただろう?」
「笑っていない」
「いや、笑っていた」
「見間違いだ」
「子供の頃から兄上の顔を見ているんだ。さすがにそれくらいは分かる」
昊然の眉間に皺が寄る。
「仕事をしろ」
「している。それに、兄上の珍しい顔を見つけるのも弟の務めだろう?」
「そんな務めを与えた覚えはない」
「では、何を思い出していた?」
「暁嵐」
低く名を呼ばれ、暁嵐は仕方なく肩を竦めた。
「分かった、分かった。もう聞かない」
そう言いながら、どう見ても納得した顔ではない。
昊然は冷ややかな一瞥を向けたものの、暁嵐は慣れた様子で受け流し、手元から一枚の紙を抜き取った。
「それより、こっちだ」
「何だ」
「こちらも少し気になる」
紙が卓上を滑る。
そこに記されていた名は──
周静蘭。
「周家を調べたのか」
「ああ。兄上に言われた通りにな」
「妙なことは?」
「それが、何もない」
「何も?」
暁嵐は肘を卓につきかけ、昊然に睨まれて慌てて戻した。
「……何も出ないから怪しいんだ」
昊然の眉が動く。
「周静蘭本人も、あの日は気分が悪くなったところを玄烈に介抱されたと話している。周家の者も同じだ。誰に聞いても、話が綺麗に揃っている」
「……」
「揃いすぎている気がしないか?」
「ああ」
どれも、妙に引っかかる。
それに、龍家に仕えていた侍女のこともある。
駆け落ちしたとされながら、王都を出た記録のない女。
昊然は指先で周静蘭の名をなぞった。
「玄烈については、引き続き調べろ」
「ああ」
「ただし、悟られるな」
「分かっている」
暁嵐は答えたあと、不満そうに鼻を鳴らした。
「兄上」
「何だ」
「俺だって、そこまで間抜けではないぞ」
昊然は一拍置いた。
「知っている」
暁嵐が目を瞬く。
「……珍しいな。兄上に褒められた」
「褒めてはいない」
「そういうことにしておく」
昊然は呆れたように報告書へ意識を戻した。まだ、すべては細い糸だった。盗賊、秀蓮、周静蘭、そして、玄烈。
それらが本当に一本へ繋がっているのかは分からない。だが、どの糸も途中で手放してはならない。昊然には、そう思えてならなかった。
◇◇
同じ頃。
春華は南市の小さな書肆を訪れていた。
店の奥には古い書物が天井近くまで積み上げられ、乾いた紙と墨の匂いが漂っている。
「裴家のお嬢様。ございましたよ」
店主が嬉しそうに声をかけた。
「本当ですか?」
「ええ。こちらです」
棚の奥から、布に包まれた一冊が取り出される。
春華の顔がぱっと明るくなった。以前から探していた詩集の続巻だった。
「随分古いものですので、傷みはございますが」
「構いません」
春華は両手で大切そうに受け取った。頁を開けば、紙は少し黄ばんでいた。それでも文字はまだ十分に読むことができる。
「ありがとうございます。ずっと探していたんです」
代金を払い、書肆を出た途端、夏の陽射しが眩しく降り注ぎ、春華は片手を額の前へかざした。
その時だった。
通りの向こう。軒先の影に、見覚えのある日除け笠があった。
「清遠」
小さく呼んだ声に応えるように、男がこちらを向いた。
人の往来が途切れるのを待ち、春華は道を渡る。
「来ていたのですね」
「ええ」
「いつから?」
「それほど前ではありません」
春華は答えを確かめるように清遠の顔を見る。
「本当に?」
「……少し前からです」
「暑かったでしょう?」
「私は平気です」
「でも──」
「春華」
柔らかな声で名を呼ばれ、続きの言葉を飲み込む。
「そんな顔をしないでください。あなたに会いたかっただけですから」
春華は一瞬、何も言えなくなった。
やがて照れを隠すように、胸元の本へ目を向ける。
「……そういうことを、急に仰るんですね」
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いいえ」
本を抱く腕に、少し力が入った。
「嬉しかっただけです」
清遠の張っていた表情が、ふっと和らぐ。
「それで、良い本は見つかったんですか?」
「はい」
春華は嬉しそうに詩集を差し出した。
「以前、一緒に読んだものの続きです」
「あぁ、探していたものですね」
「覚えていてくださったんですか?」
「もちろんです」
あまりにも当然のように答えられ、春華の顔にまた笑みが広がった。
「では、今度……また一緒に読んでくださいますか?」
「ええ。喜んで」
「本当?」
「あなたからのお誘いを、私が断ると思いますか?」
春華は頬に熱が集まるのを感じ、詩集の端を指先で撫でた。
「……思いません」
「でしょう?」
清遠の声にも笑いが混じる。二人はそのまま並んで歩き始めた。人通りの多い南市。二人の距離は以前よりずっと近かった。
歩調が重なり、時折衣の袖が触れそうになる。
春華はそのたびに隣を意識したが、清遠もまた距離を広げようとはしなかった。
「清遠」
「はい?」
「今日、お忙しくなかったんですか?」
「少しだけ」
「でしたら、無理をして来なくてもよかったのに」
「来たかったんです」
春華の足取りが僅かに緩む。清遠は前を向いたまま続けた。
「あなたに会いたかったので」
まただ。
どうしてこの人は、こんなことを何でもないことのように言えるのだろう。
「清遠は、時々ずるいです」
「私が?」
「はい」
「なぜです?」
「そういうことを、平然と仰るからです」
「本当のことですが」
「それがずるいんです」
清遠はしばらく考え込む。
「では、言わない方がいいですか?」
春華はすぐに顔を向けた。
「……それは嫌です」
清遠の喉から、小さな笑いがこぼれる。
「では、これからも言います」
「もう……」
春華もつられるように笑った。その横顔を見ながら、清遠の胸には別の思いが込み上げていた。
最初は、こんなはずではなかった。玄烈に命じられ、裴家の娘へ近づき、その信頼を得る。
ただ、それだけのはずだった。
だから彼女に近づいた。
優しくしたのも、心を許させるためだった。
──けれど、あの夜春華を抱いた。
もう、任務だから、命令だからと言い訳などできない。
そんなものは、とっくに意味を失っている。
もう、自分はこの人を──
「清遠?」
春華の声で、意識が現実へ引き戻された。
「どうかなさいました?」
「……いいえ」
「また難しいお顔をしていらっしゃる」
春華が少し顔を覗き込んでくる。
「何か悩んでいるのでしょう?」
「そう見えますか?」
「はい」
「困りましたね」
「何がです?」
清遠は苦笑した。
「春華には、隠し事ができなくなりそうです」
「そうですか?」
春華は少し考えたあと、穏やかな声で言った。
「無理に話してくださらなくても構いません」
清遠が春華を見る。
「でも……ひとりで抱え込まないでくださいね」
「……」
「私でよければ、いつでも聞きますから」
その言葉には、何の疑いもなかった。いつだって、この人はそうだ。だからこそ、苦しくなる。
本当なら、全部を話してしまいたい。
自分がなぜあなたに近づいたのか、玄烈から何を命じられていたのか。どれほど卑怯な始まりだったのか。
そして──今は、心からあなたを愛しているのだと。
だが、それをすべて口にすれば、この人まで巻き込んでしまう。自分が本気で春華を愛していると玄烈に知られれば──
「……清遠?」
「ありがとうございます」
清遠は、それ以上の言葉を飲み込むように微笑んだ。
春華は少し不思議そうにしていたが、やがて何も尋ねずに頷いた。
二人は再び歩き出す。
ちょうどその時、少し離れた果物屋の軒先。
積まれた果実の向こうから、一人の男が二人の姿を窺っていた。粗末な衣に、深く被った布帽子。人混みに紛れてしまえば、誰も気に留めないような男だった。
二人が通り過ぎるまで見送ると、男は果物を眺めていた客を装いながら踵を返した。
春華も清遠も、その存在には気づかなかった。
◇◇
夜。
玄烈の別邸には、蝋燭の火だけが揺れていた。卓の上には酒。その向かいに、一人の男が膝をついている。
昼間、南市にいた男だった。
「それで?」
玄烈は杯を傾ける。
「本日も清遠様は、裴春華様とお会いになっております」
「どこでだ」
「南市です」
「何をしていた」
「書肆を出た春華様と合流し、その後、しばらく二人で歩かれておりました」
玄烈は酒を一口含んだ。
「それだけか」
「はい」
「何か渡したか」
「いいえ」
「裴家について探る様子は?」
男が答えるまで、わずかな間が空く。
「……ございませんでした」
玄烈は杯を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めた。
「何?」
「お二人で話をされていただけです」
「何を」
「距離があり、そこまでは……」
玄烈はゆっくりと杯を卓へ戻す。
「使えない奴だ」
「申し訳ございません」
男が額がつくほど深く頭を下げても、玄烈は返事をしなかった。清遠へ命じたのは、裴家の娘へ近づき、その懐へ入り込むことだ。
必要ならば好意を利用しても構わない。
そう命じた。だが、最近耳に入る清遠の行動には、妙なものが増えている。
詩集、散歩、花。
裴家を探るためとは思えぬことばかりだ。
まるで──会うことそのものが目的になっている。
玄烈は杯の縁を親指でゆっくりとなぞった。
「……随分、楽しんでいるようだな」
低く落ちた声に、男は身を固くした。あの清遠が、人間の女などに──。
浮かんだ考えを、玄烈は鼻で笑い飛ばす。
「くだらん」
しかし、その声に笑いはなかった。
「見張りを増やせ」
「は?」
「清遠だ」
玄烈は杯を置いた。
「誰と会うか。どこへ行くか。何を話すか。すべて報告しろ」
「承知いたしました」
「それから」
男が顔を上げる。
「裴春華のことも調べろ」
「……春華様を?」
「ああ」
家を出る時刻。会う者。よく行く場所。何を買い、何を好むのか。
「すべてだ」
男の顔から、わずかに血の気が引いた。
「清遠が、あの娘にどこまで入れ込んでいるのか──」
玄烈の唇に薄い笑みが刻まれる。
「確かめておいた方がよさそうだ」
「御意」
男は深く頭を下げ、そのまま部屋を後にした。
戸が閉じる音が響き、一人残された玄烈は、何事もなかったように酒を口へ運んだ。
まだ、確証はない。
だが、ここ最近の清遠の変化を考えれば、見当違いとも言い切れない。
もし、龍家の者でありながら、清遠が本気で人間の女などを愛したのなら──。
それは玄烈にとって、決して見過ごせることではなかった。




