四十一話 視線の先
夏の陽射しが、王都の屋根を白く照らしていた。
昼を過ぎても暑さは衰えず、庭の木々からは蝉の声が絶え間なく響いている。
そんな日の午後。
裴家へ、王宮からいくつもの箱が届けられた。
「まあ……」
春華が、開かれた箱を覗き込むと、中には上質な絹布や髪飾り、香木、菓子などが丁寧に収められていた。
先日の祝宴で祝舞を披露した星揺、春華、鈴花への褒美だった。
本来、祝舞を務めるはずだった者が怪我をし、急遽代わりを探すことになったあの日。
幼い頃から三人で祝舞の型を習っていたことを父が話し、それを聞いた太子から頼まれ、星揺たちは舞台へ上がった。
あれから少し日が経っていた。
北東の街道で相次ぐ盗賊への対応などもあり、王宮は慌ただしい日々が続いていたという。
それでも、こうして改めて礼の品が届けられたことが嬉しかった。
「こんなに素敵な物をいただいていいの?」
星揺は髪飾りを一つ手に取り、陽の光へ透かしてみた。
小さな花を象った飾りが、きらりと光る。
「綺麗……」
「星揺、それ気に入ったの?」
鈴花が尋ねる。
「うん。普段でも使えそう」
「では、それは星揺がいただけばいいわ」
春華が微笑んだ。
「本当?姉上は?」
「私は、こちらが好き」
春華は淡い青色の絹布へ手を触れる。
「姉上らしい」
「そう?」
「うん。とても綺麗」
その隣で、鈴花が箱の奥から菓子の包みを見つけた。
「こちらも三人へ、ですって」
「お菓子?」
星揺がすぐに寄っていく。
「星揺はこういう時だけ早いわね」
「いただいたものは、ちゃんと味わわないと失礼でしょう?」
「便利な言い訳ね」
「言い訳じゃないわ」
星揺は一つ摘まみ、口へ運んだ。
柔らかな皮の中から、甘い餡の味が広がる。
「おいしい!」
もう一つ取ろうとして、春華を見る。
「姉上も食べる?」
「私はいいわ」
「え?姉上甘いもの好きでしょう?」
「さっき甘いものを食べたから、もうお腹いっぱいなの」
「そうなの?」
星揺はそれ以上気に留めることもなく、「じゃあ私が」と二つ目へ手を伸ばした。
その手を、すかさず鈴花がぴしゃりと軽く叩く。
「ちょっと、私の分まで食べないで」
「なによ?まだたくさんあるでしょう」
「星揺に任せたらなくなるもの」
「そんなに食べないわよ」
「信用できないわ」
春華は二人を見ながら、くすくすと笑った。
いつもと変わらない午後だった。
そして箱の中には、もうひとつ王と王妃から、後日三人を王宮へ招きたいという書状が入っていた。
◇◇
数日後。
星揺、春華、鈴花は揃って王宮を訪れていた。
通されたのは、蓮池に面した涼亭だった。
強い陽射しが庭へ降り注ぎ、池には大きな蓮の葉が広がり、その隙間から淡い桃色の花が顔を覗かせていた。
水面を渡ってきた風が、亭に下げられた薄布を静かに揺らした。
「三人とも、よく来てくれました」
王妃が柔らかく微笑むと、三人は揃って礼を取った。
「先日は、たくさんの品まで賜り、ありがとうございました」
春華が代表して礼を述べる。
「気に入ってもらえたなら何よりです」
王妃は柔らかく微笑んだ。
「それに、あの日は急な頼みだったでしょう。突然舞台へ上がってほしいと言われたのに、三人とも見事でした」
王も満足そうに頷く。
「うむ。宴に華を添えてくれた。見事な祝舞であったぞ」
「ありがとうございます」
三人はもう一度、揃って頭を下げた。
「緊張したでしょう?」
王妃に尋ねられ、鈴花が小さく笑う。
「舞台へ上がるまでは」
「全然そう見えなかったわ」
星揺が横から言った。
「星揺こそ、途中から随分楽しそうだったじゃない」
「だって、三人で舞っていたら楽しくなってきたの」
「星揺らしいわね」
その様子を見て王妃が笑い、和やかな空気が涼亭を包む。
その時だった。
「父上、母上」
いつもの聞き慣れた声に、三人が同時に振り返れば、太子、凌川が回廊から歩いてきた。
「お前も来たか」
「もちろんです」
凌川は王と王妃へ礼を取り、それから三人へ視線を向けた。
「先日は助かった」
「お役に立てて光栄です」
星揺が笑う。
「お前のことだ、断るかと思った」
「そんな、殿下のお願いを断りませんよ。それに、父上が先に『三人とも舞える』なんて言ってしまったんですから」
「星揺」
春華が小さく窘める。
「だって本当のことでしょう?」
「はは、相変わらずだな」
「それは褒め言葉と受け取って良いですか?」
「あぁ、受け取ってくれ」
「絶対違いますよね?」
いつもと変わらないやり取り。
凌川にとって、星揺がこうして遠慮なく言い返してくるのは、楽だった。
だからなのか、その変化に気づいたのは、本当に偶然だった。
暫くすると星揺の視線が、ふっと自分から外れた。
何かを見つけたのか、その大きな目が回廊の向こうへ向いた。
凌川もつられるように視線を追うと、その先にいたのは、昊然だった。
景雲を伴ってこちらへ歩いてくるところを見ると、どうやら軍務の報告に来たらしい。
その姿を見つけた瞬間、星揺の顔がぱっと明るくなった。
「龍国公様」
嬉しそうに、小さくこぼれた声に凌川は、思わず星揺を見た。
先ほどまで自分と笑って話していた。
それなのに昊然を見つけた時の笑顔は、どこか違っていた。
まるで、ずっと会いたかった人を見つけたような──。
「陛下、王妃様」
昊然と景雲は、こちらへやってくると礼を取った。
「報告か」
「はい」
昊然は王へ向き直る。
「北東街道の件ですが、明朝より兵を二手に分けます。一隊は街道沿いを巡回させ、もう一隊には宿場と関所を調べさせます」
「やはり内から荷の情報が漏れていると見るか」
「その可能性が高いかと。襲われた荷車には共通点があります」
王の表情が引き締まる。
「分かった。あとは任せる」
「御意」
昊然は短く答えた。
その間、星揺は何も言わずじっと見ていた。
昊然を。
凌川は、そんな星揺の横顔へ視線を向けたが、星揺自身は気づいていない。
──あまりにも分かりやすい。
やがて王との話を終えた昊然が、星揺たちへ静かに視線を向けた。そしてふと、黒い瞳が、星揺のところで止まった。
ほんの一瞬だけ、二人の目が合う。
星揺は嬉しそうに目を細めると、昊然の目元も、ほんのわずかだが、柔らかくなった。
ただそれだけだった、言葉すら交わしていない。
──けれど。
凌川の胸の奥には何かが引っかかった。
もう一度、星揺を見る。彼女はまだ、昊然を見ている。
──そうか。
星揺は、龍昊然を……
そこまで考えた瞬間、なぜか胸の奥が、ずきりと小さく痛んだ。
凌川はその痛みに、わずかに眉を寄せた。
──何だ、今のは。
「太子殿下?」
いつのまにかこちらを振り返った星揺が声をかけた。
「どうかなさいました?」
「……いや」
凌川はいつもの表情へ戻った。
「何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
星揺は不思議そうに首を傾げた。
その顔だって、何度も見てきたはずなのに。
凌川はなぜか、先ほどより少しだけ目を逸らしたくなった。
◇◇
しばらくして、王と王妃との話が終わった。
涼亭を出たところで、ふと鈴花が足を止める。
「せっかく王宮まで来たのだから、書庫へ寄ってもいい?」
「…もしかして、また地図?」
星揺は呆れたように尋ねると、鈴花は頷く。
「西方の古い街道図があると聞いたの。少し見てみたいのよ」
「鈴花の『少し』は長いでしょ」
「なら、星揺は先に帰ればいいわ」
「冷たい」
「なら、私も寄りたいわ」
鈴花を不満そうな表情で見ていれば、隣の春華が言った。
「実は、読みたい書物があるの」
「え、姉上まで?」
「じゃあ、決定ね」
姉まで行きたいと言うのなら、星揺も仕方なく頷くしかなかった。
王宮の書庫は、涼亭から少し離れた場所にある。
三人が回廊を歩いていると、向こうから墨色の衣が見えた。
星揺の足がピタッと止まった。
「あ……」
昊然だった。
先ほど一緒だったはずの景雲の姿はなく、昊然も三人に気づくと、足を止めた。
「龍国公様」
春華と鈴花が礼を取り、星揺も慌ててそれに続いた。
「まだ王宮にいらしたのですね」
「あぁ、確認する書状が残っていた」
「そうだったんですね」
星揺の声が、ほんの少しだけ弾んでいる。
鈴花はちらりと横を見るが、星揺は昊然に夢中で気づかない。
「お前たちは?」
「鈴花が書庫へ行きたいと言うので、今向かっている所です」
二人の会話を隣で聞いていた鈴花は、何やら思いついたように、ふと春華を見る。
「行きましょう、春華姉様」
「ええ」
二人は昊然へ一礼すると、書庫へ向かって歩き出した。その様子に星揺も慌ててついて行こうとした。
「私も──」
「星揺」
しかし、鈴花が振り返る。
「何?」
「後から来れば?」
「……え?」
鈴花の視線が、星揺の後ろへ向く。
昊然、そして、再び星揺へと。
ほんの少しだけ口元が上がり、それだけで星揺には鈴花の言いたいことが伝わった。
「……あ」
春華もそのやりとりを静かに眺めていたからか、何となく察したのだろう。柔らかな微笑みを浮かべた。
「では、先に行っているわね」
「姉上まで……」
そして、二人は書庫へ向かっていった。
残された星揺は、その背中をしばらく見送った。
そして、ゆっくりと振り返ると昊然と視線が重なった。
そして、なにより二人きりだ。
そう思っただけで、口元が勝手に緩んでいく。
「……何だ」
「な、何でもありません」
「なら、なぜ笑っている」
「それは、嬉しいからです」
即答だった。
あまりにもまっすぐで素直な返事に昊然が黙る。
星揺は、少しだけ昊然へと近づいた。
「さっきは全然お話できませんでした」
「陛下の御前だからな」
「ええ、分かってます」
もう半歩。
その瞬間、昊然の眉が、ピクっとわずかに動いた。
「星揺」
「はい?」
「近い」
星揺が二人の間を見ると、確かに距離は近い。
「……すみません」
そう言って、仕方なく一歩だけ下がると昊然は小さく息を吐いた。
「私は戻る」
「え?」
「まだ仕事がある」
「も、もう行くんですか?」
「ああ」
「……そうですか」
星揺は昊然の言葉に、残念そうに頷いた。
──仕方がないことは分かっている。
昊然には軍務があり、龍家の当主としての務めもあるのだ。
会えても人前では、目が合うだけ。たとえ少し言葉を交わせても、それだけで終わってしまう。
想いが通じる前ならば、それでも十分嬉しかったはずなのに、今は会えない時間が前よりもずっと寂しい。
もっと話したい、近くにいたい、触れたい。
自分でも、こんなに欲張りになるとは思っていなかった。
しばらく黙って星揺を見ていた昊然は、「また」と短く告げて背を向けた。
星揺はその背中を見つめた。次に会えるのは、いつになるのだろう。もしかしたら、またほんの少し言葉を交わすだけで終わってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、考えるより先に手が伸びていた。
星揺の指が、墨色の袖をぎゅっと掴む。
引かれた袖に、昊然の足がぴたりと止まった。
星揺自身も驚いたように、自分の手を見つめる。
——あ。
咄嗟に掴んでしまった。
やってしまったと思ったが、もう遅い。
ゆっくりと昊然が振り返る。
黒い瞳が、まず袖を掴んでいる星揺の指へ落ち、それから静かに星揺の顔へ戻った。
「……星揺」
「は、はい」
「何をしている」
「……」
星揺は目一杯考えた。
けれど、うまい言い訳がまったく思いつかなかった。
「……行ってほしくなくて」
口から出た言葉は、あまりにも真っ直ぐな答えだった。その言葉の意味を理解したのか、今度は昊然が黙る。
「また、いつ会えるか分からないでしょう?」
「……」
「だから、その、もう少しだけ……」
星揺は袖を掴んだまま、真っ直ぐに昊然を見上げた。
昊然は、返す言葉を探すように一拍置いた。
戦場で敵の策を読む時でさえ、これほど困ることはないだろう。
「……離せ」
「嫌です」
間髪入れずに返ってきた。
昊然の眉間に、ほんのわずかに皺が寄る。
「星揺」
「はい」
「ここは王宮だ」
「分かっています」
「分かっていて、なぜ離さない」
「離したら、行ってしまうからです」
「……」
理屈になっているようで、まったくなっていない。
昊然は黙って星揺を見る。星揺も、袖を掴んだまま真っ直ぐに見上げている。
その顔には、悪びれた様子すらない。むしろ、本当に少し寂しそうに見えた。
「……まだ、側にいたかったんです」
ぽつりと星揺が言った。
その小さな声に、昊然の目が、わずかに動く。
「……何?」
「せっかく会えたのに、すぐに離れるから……」
星揺は自分が掴んでいる袖を見る。
「この前は、手を繋いでくださったのに」
「……あれは裴家だ」
「はい」
「ここは王宮だろう」
「はい」
「……いつまで掴んでいるつもりだ」
星揺は少し考えた。そして、袖を掴んだまま首を傾げる。
「では、誰にも見えないところならいいんですか?」
「……」
星揺のあまりにも予想外の返しに、昊然は言葉を失った。それをいいことに、星揺の目が、少しだけ輝く。
「あります?」
「何がだ」
「誰にも見えないところ」
「星揺」
「はい」
「お前は……」
そこで昊然の言葉が止まった。
何と言えばいいのか。
本人は何の疑いもなく、きょとんとこちらを見上げている。
昊然は諦めたように、小さく息を吐いた。
「……いや。何でもない」
そして星揺の指を、自分の袖からそっと外した。
「あ……」
星揺の顔が、目に見えてしょんぼりする。
「やっぱり、駄目ですか……」
昊然は返事をせずに、その顔を暫く眺めた。
それから、周囲へ視線を走らせる。
書庫へ続く回廊、庭、向かい側の渡り廊下。
そして行き交う侍女と官吏。
「……来い」
しょんぼりと落ち込んでいた星揺が、顔を上げる。
「え?」
「声を抑えろ」
昊然が先に歩き出すと、星揺は一瞬、意味が分からなかった。
けれど。
昊然が向かっているのは、書庫の入口ではなく人通りの少ない、建物の裏手。
意味を理解した瞬間、星揺の顔が分かりやすくぱあっと明るくなった。
「はい!」
昊然が振り返る。
「声を抑えろと言った」
「……はい」
今度はちゃんと小声だった。
けれど、嬉しさまでは、まったく隠せていなかった。
書庫の裏手には、細い回廊が続いていた。
大きく張り出した屋根が陽射しを遮り、表側よりも幾分涼しい。
昊然は歩きながら、庭や向かいの回廊、書庫の窓へ何度も視線を走らせた。やがて太い柱と壁が重なる場所まで来ると、足を止めた。
──ここなら、庭からは見えない。
渡り廊下からも、柱が二人の姿を隠すだろう。
昊然は念のため、もう一度だけ周囲を確かめた。
その様子を、星揺は後ろからじっと見ていた。
「……何だ」
「いえ」
「なら、なぜ笑っている」
星揺はますます笑った。
「私のために、一生懸命見つからない場所を探してくださっているから」
「お前が無茶を言うからだろう」
「でも、探してくださったでしょう?」
「……」
「それが嬉しいんです」
「あまり大きな声を出すな」
「はい」
星揺は素直に小声になると、昊然を見上げる。
昊然も星揺を見つめ、二人の間にしばらく沈黙が落ちた。
星揺は待った。
けれど、いくら待ってもただ立っているだけで、何も起こらない。
「……えっと、龍国公様?」
「何だ」
「まだ、ですか?」
「何がだ」
「……あの、てっきり、抱きしめてもらえるのかと」
「誰がそう言った」
「えっ」
星揺の目が丸くなった。
「だって……」
「私は誰にも見えない場所へ来ただけだ」
「そ、そんな……」
星揺の顔が、また眉を下げ、しょんぼりすると昊然の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
けれど星揺は気づいていない。
「この前も、あと少しだったのに……」
「この前?」
「兄上が来てしまったでしょう?」
裴家の竹垣。
昊然が、星揺を引き寄せようとした、あの瞬間、景明の声に遮られた時のことだ。
「だから今日は……」
星揺は少しだけ躊躇した。
しかし、さっきまであれほど大胆だったくせに、いざ言葉にするとなると恥ずかしい。
それでも、真っ直ぐに昊然を見上げる。
「ちゃんと抱きしめてもらいたいです」
黒い瞳が、じっと星揺を見つめた。
二人の距離は近い。それに周りには誰もいない。
自分が何を言ったのかを急に実感し、胸がどくんと大きく鳴った。
昊然の返事はなかった。ただ、じっと星揺を見つめている。星揺の胸が、もう一度鳴る。
その瞬間、不意に腰へ大きな腕が回った。
「……っ」
身体がぐいっと力強く引き寄せられ、一瞬で二人の距離がなくなると、星揺の頬が昊然の胸元へ触れた。
鼻先に、微かに覚えのある香りが届き、星揺は目を瞬いた。
自分から抱きしめて欲しいと頼んだくせに、いざ抱きしめられると胸がうるさいほど高鳴り、どうしようもない。
「龍国公様……」
「これでいいのか」
耳元近くから低い声が落ちる。
「……はい」
星揺は嬉しくなって、昊然の背へ腕を回した。
細い腕が、ぎゅっと抱きつく。
今度は昊然の身体が、ほんのわずかに固まった。
「星揺」
「何ですか?」
「……いや」
まただ。
昊然はそれ以上何も言わなかった。星揺は小さく笑い、もう一度その胸元へそっと頬を寄せた。
「とても、嬉しいです」
「そうか」
「はい」
しばらく、二人はそのままでいた。
ここ数日、会えず、話せず、たとえ顔を合わせても目が合うだけで終わっていた。その間に胸の奥へ溜まっていた寂しさが、こうして抱き合っているだけで、少しずつほどけていく。
「……龍国公様」
「今度は何だ」
「すごく好きです」
昊然の腕が、わずかに止まった。
しかし星揺は構わず、胸元で小さく笑う。
「言いたくなっただけです」
「……そうか」
「龍国公様は?」
「何がだ」
星揺が顔を上げる。
「私のこと」
昊然は黙った。
「……」
「……」
「龍国公様?」
「分かっていることを聞くな」
「聞きたいんです」
「ここは王宮だ」
「それは今、関係あります?」
昊然が言葉を失い、星揺は思わず、くすっと笑った。
いつも何があっても冷静な人なのに。
自分が何か言うと、時々こうして黙ってしまう。
それが少しだけおかしくて、嬉しかった。
「……何を笑っている」
「秘密です」
そのとき、遠くから人の話し声が聞こえてきた。昊然の表情が瞬時に引き締まり、星揺を抱いていた腕がほどかれた。
「え……」
「人が来る」
星揺も慌てて耳を澄ます。
確かに、回廊の向こうから足音が近づいてくる。
昊然は一歩離れる。
つい先ほどまで星揺を抱いていた人とは思えないほど、いつもの静かな龍国公の顔へ戻っていた。
星揺は少しだけ唇を尖らせる。
「……早い」
「何がだ」
「離すのが」
「見つかりたいのか」
「それは嫌です」
「なら戻れ」
「はい……」
星揺はまだ名残惜しそうにしながらも、一歩進んだ。
そして、ふと振り返ると昊然がこちらを見ていた。
「龍国公様」
「何だ」
「また、すぐ会えますか?」
昊然はほんの少しだけ黙ってから答えた。
「……時間を作る」
その言葉に、星揺の目が大きくなる。
次の瞬間、花が咲いたように満面の笑みが浮かんだ。
「はい!」
「声が大きい」
「あっ……」
星揺はまた、慌てて口元を両手で押さえた。
それを見て昊然が小さく息を吐く。
けれど、その黒い瞳は、どこか柔らかかった。
星揺はその顔を見て、頬が緩んだ。
会えない時間があったからこそ、こんなにも恋しくなるのだと、初めて知った。
そしてたぶん。
次に会うまでの時間も、また長く感じるのだろう。
それでも、今度はもう少し待てる気がした。
星揺の背中が見えなくなるまで、昊然はその場に立っていた。
やがてまた、小さく息を吐いた。
今まで誰にも揺らされることのなかった男の静けさを、最近はあの娘だけが、いとも簡単に乱していく。
それを不快だと思えない自分に、昊然はまだ少しだけ慣れていなかった。




