↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/48

四十一話 視線の先



夏の陽射しが、王都の屋根を白く照らしていた。

昼を過ぎても暑さは衰えず、庭の木々からは蝉の声が絶え間なく響いている。


そんな日の午後。

裴家へ、王宮からいくつもの箱が届けられた。


「まあ……」


春華が、開かれた箱を覗き込むと、中には上質な絹布や髪飾り、香木、菓子などが丁寧に収められていた。

先日の祝宴で祝舞を披露した星揺、春華、鈴花への褒美だった。


本来、祝舞を務めるはずだった者が怪我をし、急遽代わりを探すことになったあの日。

幼い頃から三人で祝舞の型を習っていたことを父が話し、それを聞いた太子から頼まれ、星揺たちは舞台へ上がった。


あれから少し日が経っていた。


北東の街道で相次ぐ盗賊への対応などもあり、王宮は慌ただしい日々が続いていたという。

それでも、こうして改めて礼の品が届けられたことが嬉しかった。


「こんなに素敵な物をいただいていいの?」


星揺は髪飾りを一つ手に取り、陽の光へ透かしてみた。

小さな花を象った飾りが、きらりと光る。


「綺麗……」


「星揺、それ気に入ったの?」


鈴花が尋ねる。


「うん。普段でも使えそう」


「では、それは星揺がいただけばいいわ」


春華が微笑んだ。


「本当?姉上は?」


「私は、こちらが好き」


春華は淡い青色の絹布へ手を触れる。


「姉上らしい」


「そう?」


「うん。とても綺麗」


その隣で、鈴花が箱の奥から菓子の包みを見つけた。


「こちらも三人へ、ですって」


「お菓子?」


星揺がすぐに寄っていく。


「星揺はこういう時だけ早いわね」


「いただいたものは、ちゃんと味わわないと失礼でしょう?」


「便利な言い訳ね」


「言い訳じゃないわ」


星揺は一つ摘まみ、口へ運んだ。

柔らかな皮の中から、甘い餡の味が広がる。


「おいしい!」


もう一つ取ろうとして、春華を見る。


「姉上も食べる?」


「私はいいわ」


「え?姉上甘いもの好きでしょう?」


「さっき甘いものを食べたから、もうお腹いっぱいなの」


「そうなの?」


星揺はそれ以上気に留めることもなく、「じゃあ私が」と二つ目へ手を伸ばした。


その手を、すかさず鈴花がぴしゃりと軽く叩く。


「ちょっと、私の分まで食べないで」


「なによ?まだたくさんあるでしょう」


「星揺に任せたらなくなるもの」


「そんなに食べないわよ」


「信用できないわ」


春華は二人を見ながら、くすくすと笑った。


いつもと変わらない午後だった。

そして箱の中には、もうひとつ王と王妃から、後日三人を王宮へ招きたいという書状が入っていた。


     ◇◇


数日後。


星揺、春華、鈴花は揃って王宮を訪れていた。

通されたのは、蓮池に面した涼亭だった。


強い陽射しが庭へ降り注ぎ、池には大きな蓮の葉が広がり、その隙間から淡い桃色の花が顔を覗かせていた。

水面を渡ってきた風が、亭に下げられた薄布を静かに揺らした。


「三人とも、よく来てくれました」


王妃が柔らかく微笑むと、三人は揃って礼を取った。


「先日は、たくさんの品まで賜り、ありがとうございました」


春華が代表して礼を述べる。


「気に入ってもらえたなら何よりです」


王妃は柔らかく微笑んだ。


「それに、あの日は急な頼みだったでしょう。突然舞台へ上がってほしいと言われたのに、三人とも見事でした」


王も満足そうに頷く。


「うむ。宴に華を添えてくれた。見事な祝舞であったぞ」


「ありがとうございます」


三人はもう一度、揃って頭を下げた。


「緊張したでしょう?」


王妃に尋ねられ、鈴花が小さく笑う。


「舞台へ上がるまでは」


「全然そう見えなかったわ」


星揺が横から言った。


「星揺こそ、途中から随分楽しそうだったじゃない」


「だって、三人で舞っていたら楽しくなってきたの」


「星揺らしいわね」


その様子を見て王妃が笑い、和やかな空気が涼亭を包む。


その時だった。


「父上、母上」


いつもの聞き慣れた声に、三人が同時に振り返れば、太子、凌川が回廊から歩いてきた。


「お前も来たか」


「もちろんです」


凌川は王と王妃へ礼を取り、それから三人へ視線を向けた。


「先日は助かった」


「お役に立てて光栄です」


星揺が笑う。


「お前のことだ、断るかと思った」


「そんな、殿下のお願いを断りませんよ。それに、父上が先に『三人とも舞える』なんて言ってしまったんですから」


「星揺」


春華が小さく窘める。


「だって本当のことでしょう?」


「はは、相変わらずだな」


「それは褒め言葉と受け取って良いですか?」


「あぁ、受け取ってくれ」


「絶対違いますよね?」


いつもと変わらないやり取り。

凌川にとって、星揺がこうして遠慮なく言い返してくるのは、楽だった。

だからなのか、その変化に気づいたのは、本当に偶然だった。


暫くすると星揺の視線が、ふっと自分から外れた。

何かを見つけたのか、その大きな目が回廊の向こうへ向いた。


凌川もつられるように視線を追うと、その先にいたのは、昊然だった。


景雲を伴ってこちらへ歩いてくるところを見ると、どうやら軍務の報告に来たらしい。

その姿を見つけた瞬間、星揺の顔がぱっと明るくなった。


「龍国公様」


嬉しそうに、小さくこぼれた声に凌川は、思わず星揺を見た。


先ほどまで自分と笑って話していた。

それなのに昊然を見つけた時の笑顔は、どこか違っていた。


まるで、ずっと会いたかった人を見つけたような──。




「陛下、王妃様」


昊然と景雲は、こちらへやってくると礼を取った。


「報告か」


「はい」


昊然は王へ向き直る。


「北東街道の件ですが、明朝より兵を二手に分けます。一隊は街道沿いを巡回させ、もう一隊には宿場と関所を調べさせます」


「やはり内から荷の情報が漏れていると見るか」


「その可能性が高いかと。襲われた荷車には共通点があります」


王の表情が引き締まる。


「分かった。あとは任せる」


「御意」


昊然は短く答えた。


その間、星揺は何も言わずじっと見ていた。


昊然を。


凌川は、そんな星揺の横顔へ視線を向けたが、星揺自身は気づいていない。


──あまりにも分かりやすい。


やがて王との話を終えた昊然が、星揺たちへ静かに視線を向けた。そしてふと、黒い瞳が、星揺のところで止まった。


ほんの一瞬だけ、二人の目が合う。

星揺は嬉しそうに目を細めると、昊然の目元も、ほんのわずかだが、柔らかくなった。


ただそれだけだった、言葉すら交わしていない。


──けれど。


凌川の胸の奥には何かが引っかかった。


もう一度、星揺を見る。彼女はまだ、昊然を見ている。


──そうか。


星揺は、龍昊然を……


そこまで考えた瞬間、なぜか胸の奥が、ずきりと小さく痛んだ。

凌川はその痛みに、わずかに眉を寄せた。


──何だ、今のは。


「太子殿下?」


いつのまにかこちらを振り返った星揺が声をかけた。


「どうかなさいました?」


「……いや」


凌川はいつもの表情へ戻った。


「何でもない」


「そうですか?」


「ああ」


星揺は不思議そうに首を傾げた。

その顔だって、何度も見てきたはずなのに。

凌川はなぜか、先ほどより少しだけ目を逸らしたくなった。


     ◇◇


しばらくして、王と王妃との話が終わった。

涼亭を出たところで、ふと鈴花が足を止める。


「せっかく王宮まで来たのだから、書庫へ寄ってもいい?」


「…もしかして、また地図?」


星揺は呆れたように尋ねると、鈴花は頷く。


「西方の古い街道図があると聞いたの。少し見てみたいのよ」


「鈴花の『少し』は長いでしょ」


「なら、星揺は先に帰ればいいわ」


「冷たい」


「なら、私も寄りたいわ」


鈴花を不満そうな表情で見ていれば、隣の春華が言った。


「実は、読みたい書物があるの」


「え、姉上まで?」


「じゃあ、決定ね」


姉まで行きたいと言うのなら、星揺も仕方なく頷くしかなかった。



王宮の書庫は、涼亭から少し離れた場所にある。

三人が回廊を歩いていると、向こうから墨色の衣が見えた。


星揺の足がピタッと止まった。


「あ……」


昊然だった。


先ほど一緒だったはずの景雲の姿はなく、昊然も三人に気づくと、足を止めた。


「龍国公様」


春華と鈴花が礼を取り、星揺も慌ててそれに続いた。



「まだ王宮にいらしたのですね」


「あぁ、確認する書状が残っていた」


「そうだったんですね」


星揺の声が、ほんの少しだけ弾んでいる。

鈴花はちらりと横を見るが、星揺は昊然に夢中で気づかない。


「お前たちは?」


「鈴花が書庫へ行きたいと言うので、今向かっている所です」



二人の会話を隣で聞いていた鈴花は、何やら思いついたように、ふと春華を見る。


「行きましょう、春華姉様」


「ええ」


二人は昊然へ一礼すると、書庫へ向かって歩き出した。その様子に星揺も慌ててついて行こうとした。


「私も──」


「星揺」


しかし、鈴花が振り返る。


「何?」


「後から来れば?」


「……え?」


鈴花の視線が、星揺の後ろへ向く。


昊然、そして、再び星揺へと。


ほんの少しだけ口元が上がり、それだけで星揺には鈴花の言いたいことが伝わった。


「……あ」


春華もそのやりとりを静かに眺めていたからか、何となく察したのだろう。柔らかな微笑みを浮かべた。


「では、先に行っているわね」


「姉上まで……」


そして、二人は書庫へ向かっていった。

残された星揺は、その背中をしばらく見送った。


そして、ゆっくりと振り返ると昊然と視線が重なった。

そして、なにより二人きりだ。

そう思っただけで、口元が勝手に緩んでいく。


「……何だ」


「な、何でもありません」


「なら、なぜ笑っている」


「それは、嬉しいからです」


即答だった。


あまりにもまっすぐで素直な返事に昊然が黙る。

星揺は、少しだけ昊然へと近づいた。


「さっきは全然お話できませんでした」


「陛下の御前だからな」


「ええ、分かってます」


もう半歩。


その瞬間、昊然の眉が、ピクっとわずかに動いた。


「星揺」


「はい?」


「近い」


星揺が二人の間を見ると、確かに距離は近い。


「……すみません」


そう言って、仕方なく一歩だけ下がると昊然は小さく息を吐いた。


「私は戻る」


「え?」


「まだ仕事がある」


「も、もう行くんですか?」


「ああ」


「……そうですか」


星揺は昊然の言葉に、残念そうに頷いた。


──仕方がないことは分かっている。

昊然には軍務があり、龍家の当主としての務めもあるのだ。

会えても人前では、目が合うだけ。たとえ少し言葉を交わせても、それだけで終わってしまう。


想いが通じる前ならば、それでも十分嬉しかったはずなのに、今は会えない時間が前よりもずっと寂しい。

もっと話したい、近くにいたい、触れたい。


自分でも、こんなに欲張りになるとは思っていなかった。


しばらく黙って星揺を見ていた昊然は、「また」と短く告げて背を向けた。


星揺はその背中を見つめた。次に会えるのは、いつになるのだろう。もしかしたら、またほんの少し言葉を交わすだけで終わってしまうかもしれない。


そう思った瞬間、考えるより先に手が伸びていた。


星揺の指が、墨色の袖をぎゅっと掴む。

引かれた袖に、昊然の足がぴたりと止まった。

星揺自身も驚いたように、自分の手を見つめる。


——あ。


咄嗟に掴んでしまった。

やってしまったと思ったが、もう遅い。


ゆっくりと昊然が振り返る。

黒い瞳が、まず袖を掴んでいる星揺の指へ落ち、それから静かに星揺の顔へ戻った。


「……星揺」


「は、はい」


「何をしている」


「……」


星揺は目一杯考えた。

けれど、うまい言い訳がまったく思いつかなかった。


「……行ってほしくなくて」


口から出た言葉は、あまりにも真っ直ぐな答えだった。その言葉の意味を理解したのか、今度は昊然が黙る。


「また、いつ会えるか分からないでしょう?」


「……」


「だから、その、もう少しだけ……」


星揺は袖を掴んだまま、真っ直ぐに昊然を見上げた。

昊然は、返す言葉を探すように一拍置いた。

戦場で敵の策を読む時でさえ、これほど困ることはないだろう。


「……離せ」


「嫌です」


間髪入れずに返ってきた。

昊然の眉間に、ほんのわずかに皺が寄る。


「星揺」


「はい」


「ここは王宮だ」


「分かっています」


「分かっていて、なぜ離さない」


「離したら、行ってしまうからです」


「……」


理屈になっているようで、まったくなっていない。


昊然は黙って星揺を見る。星揺も、袖を掴んだまま真っ直ぐに見上げている。


その顔には、悪びれた様子すらない。むしろ、本当に少し寂しそうに見えた。


「……まだ、側にいたかったんです」


ぽつりと星揺が言った。

その小さな声に、昊然の目が、わずかに動く。


「……何?」


「せっかく会えたのに、すぐに離れるから……」


星揺は自分が掴んでいる袖を見る。


「この前は、手を繋いでくださったのに」


「……あれは裴家だ」


「はい」


「ここは王宮だろう」


「はい」


「……いつまで掴んでいるつもりだ」


星揺は少し考えた。そして、袖を掴んだまま首を傾げる。


「では、誰にも見えないところならいいんですか?」


「……」


星揺のあまりにも予想外の返しに、昊然は言葉を失った。それをいいことに、星揺の目が、少しだけ輝く。


「あります?」


「何がだ」


「誰にも見えないところ」


「星揺」


「はい」


「お前は……」


そこで昊然の言葉が止まった。


何と言えばいいのか。

本人は何の疑いもなく、きょとんとこちらを見上げている。


昊然は諦めたように、小さく息を吐いた。


「……いや。何でもない」


そして星揺の指を、自分の袖からそっと外した。


「あ……」


星揺の顔が、目に見えてしょんぼりする。


「やっぱり、駄目ですか……」


昊然は返事をせずに、その顔を暫く眺めた。

それから、周囲へ視線を走らせる。


書庫へ続く回廊、庭、向かい側の渡り廊下。

そして行き交う侍女と官吏。


「……来い」


しょんぼりと落ち込んでいた星揺が、顔を上げる。


「え?」


「声を抑えろ」


昊然が先に歩き出すと、星揺は一瞬、意味が分からなかった。


けれど。


昊然が向かっているのは、書庫の入口ではなく人通りの少ない、建物の裏手。

意味を理解した瞬間、星揺の顔が分かりやすくぱあっと明るくなった。


「はい!」


昊然が振り返る。


「声を抑えろと言った」


「……はい」


今度はちゃんと小声だった。

けれど、嬉しさまでは、まったく隠せていなかった。


書庫の裏手には、細い回廊が続いていた。

大きく張り出した屋根が陽射しを遮り、表側よりも幾分涼しい。


昊然は歩きながら、庭や向かいの回廊、書庫の窓へ何度も視線を走らせた。やがて太い柱と壁が重なる場所まで来ると、足を止めた。


──ここなら、庭からは見えない。


渡り廊下からも、柱が二人の姿を隠すだろう。

昊然は念のため、もう一度だけ周囲を確かめた。


その様子を、星揺は後ろからじっと見ていた。


「……何だ」


「いえ」


「なら、なぜ笑っている」


星揺はますます笑った。


「私のために、一生懸命見つからない場所を探してくださっているから」


「お前が無茶を言うからだろう」


「でも、探してくださったでしょう?」


「……」


「それが嬉しいんです」


「あまり大きな声を出すな」


「はい」


星揺は素直に小声になると、昊然を見上げる。

昊然も星揺を見つめ、二人の間にしばらく沈黙が落ちた。


星揺は待った。

けれど、いくら待ってもただ立っているだけで、何も起こらない。


「……えっと、龍国公様?」


「何だ」


「まだ、ですか?」


「何がだ」


「……あの、てっきり、抱きしめてもらえるのかと」


「誰がそう言った」


「えっ」


星揺の目が丸くなった。


「だって……」


「私は誰にも見えない場所へ来ただけだ」


「そ、そんな……」


星揺の顔が、また眉を下げ、しょんぼりすると昊然の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


けれど星揺は気づいていない。


「この前も、あと少しだったのに……」


「この前?」


「兄上が来てしまったでしょう?」


裴家の竹垣。

昊然が、星揺を引き寄せようとした、あの瞬間、景明の声に遮られた時のことだ。


「だから今日は……」


星揺は少しだけ躊躇した。

しかし、さっきまであれほど大胆だったくせに、いざ言葉にするとなると恥ずかしい。


それでも、真っ直ぐに昊然を見上げる。


「ちゃんと抱きしめてもらいたいです」


黒い瞳が、じっと星揺を見つめた。

二人の距離は近い。それに周りには誰もいない。


自分が何を言ったのかを急に実感し、胸がどくんと大きく鳴った。

昊然の返事はなかった。ただ、じっと星揺を見つめている。星揺の胸が、もう一度鳴る。


その瞬間、不意に腰へ大きな腕が回った。


「……っ」


身体がぐいっと力強く引き寄せられ、一瞬で二人の距離がなくなると、星揺の頬が昊然の胸元へ触れた。

鼻先に、微かに覚えのある香りが届き、星揺は目を瞬いた。


自分から抱きしめて欲しいと頼んだくせに、いざ抱きしめられると胸がうるさいほど高鳴り、どうしようもない。


「龍国公様……」


「これでいいのか」


耳元近くから低い声が落ちる。


「……はい」


星揺は嬉しくなって、昊然の背へ腕を回した。

細い腕が、ぎゅっと抱きつく。

今度は昊然の身体が、ほんのわずかに固まった。


「星揺」


「何ですか?」


「……いや」


まただ。


昊然はそれ以上何も言わなかった。星揺は小さく笑い、もう一度その胸元へそっと頬を寄せた。


「とても、嬉しいです」


「そうか」


「はい」


しばらく、二人はそのままでいた。


ここ数日、会えず、話せず、たとえ顔を合わせても目が合うだけで終わっていた。その間に胸の奥へ溜まっていた寂しさが、こうして抱き合っているだけで、少しずつほどけていく。


「……龍国公様」


「今度は何だ」


「すごく好きです」


昊然の腕が、わずかに止まった。

しかし星揺は構わず、胸元で小さく笑う。


「言いたくなっただけです」


「……そうか」


「龍国公様は?」


「何がだ」


星揺が顔を上げる。


「私のこと」


昊然は黙った。


「……」


「……」


「龍国公様?」


「分かっていることを聞くな」


「聞きたいんです」


「ここは王宮だ」


「それは今、関係あります?」


昊然が言葉を失い、星揺は思わず、くすっと笑った。

いつも何があっても冷静な人なのに。

自分が何か言うと、時々こうして黙ってしまう。


それが少しだけおかしくて、嬉しかった。


「……何を笑っている」


「秘密です」

  


そのとき、遠くから人の話し声が聞こえてきた。昊然の表情が瞬時に引き締まり、星揺を抱いていた腕がほどかれた。


「え……」


「人が来る」


星揺も慌てて耳を澄ます。

確かに、回廊の向こうから足音が近づいてくる。


昊然は一歩離れる。

つい先ほどまで星揺を抱いていた人とは思えないほど、いつもの静かな龍国公の顔へ戻っていた。


星揺は少しだけ唇を尖らせる。


「……早い」


「何がだ」


「離すのが」


「見つかりたいのか」


「それは嫌です」


「なら戻れ」


「はい……」


星揺はまだ名残惜しそうにしながらも、一歩進んだ。

そして、ふと振り返ると昊然がこちらを見ていた。


「龍国公様」


「何だ」


「また、すぐ会えますか?」


昊然はほんの少しだけ黙ってから答えた。


「……時間を作る」


その言葉に、星揺の目が大きくなる。

次の瞬間、花が咲いたように満面の笑みが浮かんだ。


「はい!」


「声が大きい」


「あっ……」


星揺はまた、慌てて口元を両手で押さえた。

それを見て昊然が小さく息を吐く。

けれど、その黒い瞳は、どこか柔らかかった。


星揺はその顔を見て、頬が緩んだ。

会えない時間があったからこそ、こんなにも恋しくなるのだと、初めて知った。


そしてたぶん。


次に会うまでの時間も、また長く感じるのだろう。

それでも、今度はもう少し待てる気がした。



星揺の背中が見えなくなるまで、昊然はその場に立っていた。

やがてまた、小さく息を吐いた。

今まで誰にも揺らされることのなかった男の静けさを、最近はあの娘だけが、いとも簡単に乱していく。


それを不快だと思えない自分に、昊然はまだ少しだけ慣れていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。