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四十話 隠した逢瀬


その日の午後。


裴家へ、龍将軍が訪れるとの知らせが届いた。


父が、北東の街道で増えている盗賊について、昊然と話をするのだという。

その言葉を聞いた瞬間、星揺は手にしていた刺繍枠を落としかけた。


「龍国公様が!?」


思ったよりも声が弾んだ。

少し離れた場所で書物を読んでいた鈴花が、ゆっくりと顔を上げる。


星揺は慌てて刺繍枠を持ち直した。


「でも父上とのお話だから、私には関係ないけど」


「そうね」


鈴花は静かに答えた。

けれどその目元は、わずかに笑っている。


「……何よ?」


「何も言っていないわ」


「顔が言ってるの」


「会えるといいわね」


その一言で、星揺の頬が熱くなった。


三日ぶりに、昊然に会えるのだ。

そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。

けれど、昊然は軍務のために来るだけ。


屋敷には父や兄、そして叔父もいる。


人前で浮かれた顔などは見せられない。

星揺は何度も自分へ言い聞かせた。


けれど、その直後には、どの髪紐を使うか迷っていた。


     ◇◇


しばらくして、龍国公府の馬車が裴家の門をくぐった。


昊然は、景雲を伴って現れた。

日除け笠をかぶり、墨色の衣をまとった姿は、いつもと変わらず静かで近寄りがたい。


裴将軍と陸将軍が門前まで迎えに出る。


「龍将軍。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


「王命ですから、気にする必要はありません」


昊然は短く答えた。

星揺は春華と鈴花の隣に立ち、少し離れた場所から礼を取った。


一瞬、昊然の黒い瞳が、星揺へ向いた。

その瞬間、ぱちりと、目が合った。


星揺の顔に、満面の笑みが浮かんだ。

気持ちを隠そうとするよりも、早かった。


三日ぶりに会えた。

それだけで胸の奥が一気に明るくなり、どうしても笑みを抑えられなかった。


「星揺」


隣にいた景明の肘が、こつんと腕へ当たる。


「顔」


「っ」


星揺ははっとして、慌てて口元を引き締めた。


「ちゃんとしろ」


景明が小声で言う。


「してるわ」


「今はな」


「最初からしてた」


「していない」


星揺は少しだけ眉を寄せた。

けれど、昊然が近くにいると思うと、それ以上言い返す気にはならなかった。


鈴花は何事もなかったように目を伏せている。

けれど、肩がほんのわずかに揺れていた。


昊然は裴将軍たちと共に、屋敷の奥へ入っていく。

その横顔はいつも通りだった。


ただ、星揺と目が合った一瞬だけ、黒い瞳がわずかに柔らかくなったように見えた。


     ◇◇


軍務の話は、思っていたより長かった。


北東の街道で増えている盗賊。

狙われる荷車の種類。

関所や宿から、荷の情報が漏れている可能性。


書斎では、地図と通行記録を広げ、裴将軍、陸将軍、昊然、景雲、景明が話を続けていた。


星揺には、詳しい内容までは分からない。


ただ、自分が会いたいと思っていた三日間も、昊然は国のために多くのことを背負っていたのだろう。


そう思うと、少しだけ申し訳なくなる。

けれど、姿が見えるだけでは足りなかった。


声を聞きたい。

少しでいいから、二人で話したい。


星揺は廊下の端から、何度も書斎の方を見た。

そのたびに鈴花が静かに呼ぶ。


「星揺」


「分かってるわ」


「まだ何も言っていないわよ」


「顔に出ているって言うんでしょう」


「ええ」


星揺は口を閉じた。


両思いになったからといって、何もかも自由になるわけではない。

むしろ、以前よりも気をつけなければならなかった。


誰かに知られれば、昊然を困らせる。

けれど、会いたい気持ちは少しも小さくならなかった。


やがて書斎の戸が開いた。

裴将軍と陸将軍が先に出てくる。


その後ろから、昊然、景雲、景明が続いた。


話はひとまず終わったらしい。

裴将軍は手にした記録を景雲へ示した。


「こちらの日付だけ、外郭門の記録と食い違っております」


景明も横から書状を覗き込む。


「前日の記録も確認した方がよいでしょう」


父と兄の注意が、完全に書状へ向いた。


星揺はその隙に、昊然を見た。

昊然もまた、こちらを見ていた。


ほんの一瞬。


けれど、互いに同じことを考えているのが分かった。


星揺は声をかけようとしたものの、何と言えば不自然ではないのか分からず、唇を開いたまま止まってしまう。


すると、隣にいた鈴花が静かに口を開いた。


「星揺」


「何?」


「龍国公様を、庭の方へご案内して差し上げたら?」


星揺は思わず鈴花を見る。

鈴花は何事もないような顔で続けた。


「こちらは、まだ話がかかりそうでしょう。庭の竹垣のそばなら、陽も当たりにくいわ」


「そ、そうね」


星揺は少しだけ声を弾ませたあと、慌てて表情を整えた。


それから昊然へ向き直り、丁寧に礼を取る。


「龍国公様。庭の竹垣の方に、陽の当たりにくい場所がございます。お帰りの前に、そちらで少しお待ちになりますか」


昊然は一拍置いてから答えた。


「……そうしよう」


「こちらでございます」


星揺が歩き出す直前、鈴花と目が合った。


鈴花は、星揺だけに分かるように目配せをする。


楽しんで。


そう言われているような気がして、星揺は小さく頷いた。


     ◇◇


竹垣の影は、昼の光を柔らかく遮っていた。

高く伸びた竹の葉が風に揺れ、さらさらと静かな音を立てている。


星揺は影の中へ入ると、すぐに周囲を見回した。


右を見る。


誰もいない。


左を見る。


侍女たちの姿もない。


後ろを振り返り、父たちがまだ書状を見ていることを確かめる。

さらに竹垣の向こうまで覗こうとしたところで、昊然の低い声が落ちた。


「星揺」


「はい」


「それでは、かえって怪しい」


星揺はぴたりと止まった。


「そうですか?」


「ああ」


「でも、誰かに見られたら困るでしょう?」


「だからこそ、自然にしろ」


「自然に……」


星揺は真剣な顔で頷いた。

それから、急に背筋を伸ばし、両手を身体の前で揃える。


昊然の口元が、ほんのわずかに緩みそうになる。


「それも自然ではない」


「んー…難しいです」


「普通でいい」


いつもの低い声だった。

けれど、叱っているようには聞こえなかった。


星揺は昊然を見上げる。

人前では遠かった人が、今は手を伸ばせば届く距離にいる。


「……会いたかったです」


思っていた言葉が、ついそのまま口からこぼれた。

昊然の黒い瞳が、静かに揺れた気がした。


「……三日も、お会いできませんでした」


「三日だ」


「でも、すごく長かったです」


昊然はわずかに息を吐いた。


「……私にも、長かった」


その瞬間星揺の顔が、ぱっと明るくなる。


「本当ですか?!」


「ああ」


「本当に?」


「二度も聞くな」


星揺はこらえきれずに笑った。


「ふふ、嬉しくて」


昊然はその笑顔を見つめる。

人前で見せた満面の笑み。

あれを見た瞬間、仕事のために来たはずの自分まで、胸の内がわずかにほどけた。


昊然は一度だけ周囲を確かめる。


そして、袖の陰で星揺の手を取った。

星揺の指先が、わずかに震える。

けれど、すぐにその手を握り返した。


人からは見えない竹垣の影、触れているのは、手のひらだけ。


それだけなのに、星揺の胸は温かく満たされていく。


星揺はほんの少しだけ身体を寄せた。

互いの袖が触れ、昊然の指にわずかに力が込められた。


「龍国公様」


「何だ」


「また、すぐにお会いできますか?」


「約束は、できない」


星揺の口元が少しだけ下がる。


「そう、ですよね」


「だが、機会は作る」


星揺は顔を上げた。


「本当に?」


「また二度聞くのか」


「いいえ!今のは、少し違います」


「同じだ」


星揺はまた小さく笑う。


昊然の手が、星揺の手をわずかに引いた。


「……龍国公様?」


昊然は答えなかった。

けれど、返事をする代わりにもう片方の手が、星揺の背へ回りかける。


抱き寄せられる。

そう気づいた瞬間、星揺の鼓動は強く跳ねた。


その時だった。


「──星揺?」


遠くから、景明の声が聞こえた。


星揺の肩が大きく揺れ、昊然の手がすぐに離れた。

背へ回りかけていた腕も、何事もなかったように下ろされる。


「兄上」


昊然は自然に、一歩下がった。

その顔はもう、龍国公のものへ戻っている。


静かで、近寄りがたく、誰にも情を見せない顔。

星揺だけが、胸をどきどきさせたまま取り残された。


あの夜は太子殿下で、今日は兄上。

どうして、こういう時に限って誰かが来るのだろう。


「戻れ」


昊然が低く言う。

声は、落ち着いていた。


けれど星揺には、ほんの少しだけ、昊然も惜しんでいるように聞こえた気がした。


「……はい」


星揺はしょんぼりとしながら、小さく頷いた。

袖の中の指先には、先ほど握られた手の温もりがまだ残っていた。


     ◇◇


帰り際。


昊然は裴将軍と陸将軍へ礼を返し、景雲を伴って馬車へ向かった。


星揺は春華と鈴花の隣に立っている。


人前では、何もできず、言葉も交わせない。

けれど昊然が馬車へ乗る前、ほんの一瞬だけこちらを見た。

星揺は、誰にも気づかれないように小さく視線を返す。

それだけで、しょぼくれていた胸の奥がふわりと温かくなった。


昊然の目元も、かすかに柔らかくなる。

その隣で、鈴花が小さく息を漏らした。


「ふふっ」


星揺はぎくりとして鈴花を見た。


「今、笑ったでしょう」


「いいえ」


「笑ったわ」


「気のせいよ」


鈴花は涼しい顔で答えた。


その横で、春華も静かに星揺と昊然を見比べている。

昊然を見つめた時だけ、ぱっと明るくなる顔。

目が合っただけで、こぼれそうになる笑み。


そして、その事情を知っているように笑う鈴花。


春華は少しだけ目を細めた。


──そういうことね。



けれど、決して口には出さなかった。


星揺が大切に隠そうとしているものなら、今はそっとしておいてあげたい。


春華はただ、二人を眺め、柔らかく微笑んだ。


昊然の馬車が、静かに裴家の門を出ていく。

星揺は遠ざかる馬車を見送りながら、袖の中でそっと指先を握った。


三日分の寂しさは、ほんの少しだけ満たされていた。


     ◇◇


その夜。


玄烈は別邸の奥で、一通の報告へ目を通していた。


燭台の火が、紙の上へ揺れる影を落としている。

昊然が裴家を訪れた。

表向きは、盗賊の増加について話し合うため。


王から命じられた軍務であり、それ自体に不自然なことはない。

だが、玄烈は王宮の祝宴で見た昊然の目を忘れていなかった。


裴星揺が舞っていた間。

昊然は、あの娘からほとんど目を逸らさなかった。

太子が星揺へ視線を向けた時には、わずかに空気まで変わった。


当主にも、弱みができた。


けれど、それだけでは足りない。


人間の娘へ心を寄せたというだけで、昊然を当主の座から下ろすことはできない。


長老たちを動かすには、もっと強い材料が必要だった。

昊然が情によって、一族の決まりを曲げたと示せるもの。


玄烈は報告書を卓へ置いた。


「清遠の方は、順調か」


暗がりに控えていた男が、頭を下げる。


「はい。今も、裴家の春華様とお会いしているようです」


「そうか」


玄烈は杯へ視線を落とした。


清遠が何を考えているのかまでは、まだ分からない。

ただ、命じたとおり、裴春華との関わりは続いている。


それならば、しばらく様子を見ればいい。


「引き続き、清遠を見張れ」


「承知いたしました」


「誰と会い、どこへ行き、何を持ち帰ったのか。細かなことでも報告しろ」


「はい」


「ただし、本人には気づかれるな」


男は深く頭を下げた。


まだ、決定的な材料はない。


裴星揺、裴春華、龍清遠。


今はただ、糸の先を見失わぬように追えばいい。

その先に、昊然を揺るがすものがあるかもしれない。


玄烈は杯を口元へ運んだ。


燭台の火が、静かに揺れた。

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