三十九話 会いたい人
第三十九話 会いたい人
昊然の腕が、星揺の背へ回り、引き寄せられた身体が、墨色の衣へ触れた。
「星揺」
低い声で、名を呼ばれ、星揺は昊然の胸元へ置いていた手に、わずかに力を込めた。
距離が、近い。
夜の回廊に灯る明かりが、昊然の黒い瞳の中で揺れていた。
「好きだ」
昊然の指先が、星揺の頬へと触れた。顔が、ゆっくりと近づいてくる。あと少し。ほんの少しで、唇が触れる。
星揺も目を閉じようとした。
その瞬間。
ごつん、と鈍い音が響いた。
「いった……!」
星揺は寝台の下で目を覚ました。
腰を押さえながら、ゆっくりと顔を上げると、目の前にあったのは、王宮の回廊ではなく、見慣れた自室。
薄桃色の帳。床へ落ちた夜具。
窓の向こうからは、朝の淡い光が差し込んでいた。
星揺は夜具に絡まったまま、しばらく動かなかった。
「……夢?」
頬へ手を当てるが、そこに昊然の指先はない。
けれど。
好きだと言われたことも。抱きしめられたことも。唇が触れそうになったことも。
それだけは、夢ではなかった。
昨夜、本当に起きたことだ。
星揺は思い出した途端、みるみる顔が熱くなっていった。
太子の声に遮られた、その先。
夢の中では、もう少しで触れられそうだったのに。
星揺は寝台の下へ座り込んだまま、落ちてきた夜具へ顔を埋めた。
胸はまだ、忙しなく鳴っていた。
◇◇
それから三日が過ぎた。
星揺は、あれから少し変だった。
庭に面した居間で刺繍をしていても、同じところへ何度も針を通そうとする。
侍女に声をかけられても、一度では気づかない。
読みかけの書物を開いたまま、庭で揺れる花をぼんやりと眺めていることもあった。
それなのに、やけに機嫌だけは良いのだ。
「星揺」
王宮から帰ってきた景明が、柱にもたれたまま妹を見た。
「何?」
星揺は卓へ頬杖をつきながら、ゆっくりと振り返る。
その手元では、刺繍糸が絡まっていた。
「お前は、何を作っているんだ?」
「花よ」
「どう見ても、絡まった糸だが」
星揺は手元へ視線を落とした。
しばらくじっと眺めたあと、少しだけ首を傾げる。
「……本当ね」
「今、気づいたのか」
景明は怪訝そうに眉を寄せた。
「三日前から、ずっとおかしいぞ」
「そう?」
「ああ。話しかけても返事が遅い。書物を開いたまま、同じ頁をずっと見ている」
「ちゃんと読んでるわ」
「では、どんな話だったか言えるか?」
星揺は少し考えた。
「……何だったっけ?」
景明は深く息を吐いた。
「明日は槍でも降るのではないか」
普段なら、何を馬鹿なことを言っているの、とすぐに言い返していた。
けれど星揺は、庭の空を見上げて柔らかく笑う。
「降るかもしれないわね」
その返事に景明の顔が、わずかに引きつる。
「……気持ちが悪いな」
「兄上、失礼ね」
そう言いながらも、星揺は決して怒らなかった。
口元には、まだ小さな笑みが残っている。
少し離れた場所で書物を読んでいた鈴花は、堪えきれずに小さく笑った。
景明がそちらを見る。
「鈴花。何か知っているのか?」
「いいえ」
鈴花は平然と答え、書物へ視線を戻した。
「ただ、星揺にも機嫌の良い日があると思っただけよ」
「三日も続くのは不自然だ」
「兄上」
星揺がようやく少しだけ眉を寄せる。
「私が機嫌よくしていて、何が悪いの?」
「悪くはない。……ただ、不気味だ」
「なによそれ」
いつもなら、そこから言い合いになる。
けれど星揺はすぐに力を抜き、また庭の方へ顔を向けた。
鈴花だけが、その横顔を見て静かに笑っていた。
夜宴のあと。
鈴花は星揺から、昊然に好きだと言われたことを聞いている。
だから星揺の心が今どこにあるのか、聞かなくても分かる。
景明はまだ納得していない顔で妹を見ていたが、やがて諦めたように庭へと出ていった。
その背中を見送ったあと、星揺は小さく息を吐いた。
三日。
まだ、たった三日しか経っていない。
けれど、昊然の顔を見ていない時間が、思っていたより長く感じられた。
今頃、彼は何をしているのだろう。
王宮にいるのか。
それとも、龍国公府で仕事をしているのか。
彼も、自分と同じように、あの夜のことを思い出すことはあるのだろうか。
会いたい。
その言葉が、胸の奥へ静かに浮かぶ。
星揺は絡まった刺繍糸を指先でほどきながら、また庭の向こうを見つめた。
◇◇
同じ頃。
龍国公府の書房では、昊然が景雲と暁嵐を前に、卓へ広げられた報告書へ目を通していた。
卓上には、王宮から届いた軍務の書状が幾つも並んでいる。
近頃、王都から北東へ延びる街道で、盗賊による襲撃が増えていた。
商人の荷車が狙われ、食料や薬、布まで奪われている。
「三月で七件か」
昊然が低く言う。
景雲が頷いた。
「はい。いずれも日が暮れる前後に襲われております。護衛の少ない荷車ばかりを選んでいるようです」
「同じ一団か?」
「手口は似ております。ただ、襲われた場所が離れすぎています」
昊然は街道を記した地図へ視線を落とした。
赤い印が、北東の街道に沿って点々と並んでいる。
ただ食うに困った者たちが、行き当たりばったりで襲っているようには見えなかった。
「誰かが街道の情報を流している可能性がある」
暁嵐が地図を見ながら言った。
「ああ」
昊然は短く答える。
「荷の中身も、護衛の人数も知られている。偶然ではない」
王からは、被害が広がる前に原因を探るよう命じられていた。
盗賊を捕らえるだけでは足りない。
なぜ急に増えたのか。誰が裏で動かしているのか。
北境から戻る兵や、王都へ物資を運ぶ商人まで狙われれば、国の守りにも影響が出る。
「街道沿いの宿と関所を調べろ」
昊然が言う。
「荷の行き先や護衛の数を知る者がいるはずだ。捕らえた盗賊がいるなら、王都へ移す前に話を聞け」
「承知いたしました」
景雲が頭を下げる。
「盗賊の件は、私が街道沿いの関所を調べる」
暁嵐が言った。
「岳を連れていけ」
「ああ」
昊然は次の報告書へ手を伸ばした。
外郭門の通行記録。
そして、行方の分からなくなった侍女についての報告。
秀蓮。
玄烈の別邸に仕えていた侍女。
郷へ戻った記録もなければ、正式に暇を出された証もない。
ただ、ある日を境に姿を消している。
「秀蓮について、新しい記録は」
昊然が尋ねる。
景雲は静かに首を横へ振った。
「ございません。祖母のもとへ文を送った形跡も、その後は見つかっておりません」
生きているのか。
どこかへ逃げたのか。
それすら、まだ分からない。
暁嵐が別の書状を卓へ置いた。
「玄烈が以前介抱した夫人についても調べた。周家の静蘭夫人だ」
昊然の視線が、書状へ落ちる。
「玄烈は、その後一度だけ周家を訪ねている」
介抱した相手の様子を見に行った。
そう説明されれば、不自然ではない。
それだけで玄烈を疑うことはできなかった。
ただ以前、星揺が玄烈を気にしていたと話していた。
星揺が何を見て、何に引っかかったのかまでは分からない。
それでも、何もないとは思えなかった。
「清遠は」
昊然が尋ねると、景雲が答えた。
「今も、裴家の春華様とお会いしているようです」
以前、清遠には釘を刺した。
春華を弄ぶつもりなら、今のうちにやめろ、と。
清遠はすぐに否定した。
あの時の目に、軽薄な戯れは見えなかった。
だからこそ、厄介だった。
本気なら、その先にある困難を清遠が知らないはずはない。
龍家の者と、人間の娘。
簡単に許される関係ではない。
そこまで考えて、昊然の指が止まった。
清遠だけを責めることはできなかった。
自分もまた、同じだからだ。
離れるべきだと分かっていながら、自分から星揺を抱きしめた。
あの娘へ、好きだと想いを告げた。
今も、三日会っていないだけで、その顔を何度も思い浮かべている。
「兄上?」
暁嵐の声に、昊然は顔を上げた。
「何だ」
「同じところを見ている」
昊然は書状へ視線を戻す。
「考えていただけだ」
「玄烈のことを?」
「ああ」
短く答える。
玄烈を疑うには、まだ材料が足りない。
だが、侍女の失踪も。静蘭との接点も。
清遠が裴家へ近づいていることも。
ただ見過ごすことはできなかった。
昊然は報告書を閉じる。
「秀蓮の行方を引き続き調べろ。玄烈には、まだ気づかれるな」
「承知いたしました」
景雲が頭を下げた。
仕事は、まだ幾つも残っている。
王から託された街道の安全。
消えた侍女。
玄烈の周囲で重なり始めた違和感。
どれも放っておくことはできない。
昊然は次の書状を開き、筆を取った。
けれど、その頭にはまた別の顔が浮かんでいた。
夜の回廊で、自分をまっすぐに見上げた星揺。
寂しいと告げた声。
好きだと言った時に見せた、泣きそうな笑顔。
あれから、三日。まだ三日だ。
そう思うのに、随分長く会っていないように感じられた。
会いたい。
昊然はその言葉を口にはせず、静かに筆を走らせた。




