三十八話 祝宴の舞
それから数日。
昊然は、できる限り星揺と距離を保とうとしていた。
軍務で裴家の者と会うことは避けられない。
裴将軍や景明と交わす文、王宮での報告、外郭門の記録。
それらは当主として、将として、当然処理しなければならなかった。
けれど、星揺に関わる私的なやり取りだけは、できる限り景雲に任せた。
王宮の回廊で星揺の姿を見かけても、必要な言葉だけを交わし、足を止めすぎないようにした。
星揺を避けたいわけではない。
むしろ逆だった。
顔を見れば、目を留めてしまう。
声を聞けば、もう一言返したくなる。
危なっかしい足取りを見れば、手を伸ばしたくなる。
だからこそ、距離を置くしかなかった。
◇◇
一方、星揺は前のように下を向かなかった。
桃天を見たあの日。
池の水面に映る自分の顔を見て、胸が苦しくなった。
けれど鈴花に言われたのだ。
理由を知らないまま諦めるのは、星揺らしくない、と。
ならば、遠くから悩んでいるだけではいられない。
星揺は、鈴花から借りた恋の指南書を何度も読み返していた。
目が合ったなら、三呼吸ほど見つめること。
想う方の前では、笑みを忘れぬこと。
深追いしすぎず、されど完全に引かぬこと。
案じる言葉は短く、心を込めること。
そして、まだ試していなかった項目もあった。
想う方の疲れを案じるなら、小さき甘味を添えるべし。
去り際には、名残を残すべし。
星揺は、その一文をじっと見つめた。
「……甘味」
それなら、できるかもしれない。
見つめるのは難しい。
笑むのも、まだぎこちない。
近づきすぎず、引きすぎず、という加減はいまだによく分からない。
けれど、小さな菓子を渡すくらいならできる。
そう思った星揺は、その日の午後、鈴花と王宮へ向かう前に、桂花の香りをつけた小ぶりな餅菓子を包ませた。
甘すぎず、口に残りにくい。
忙しい方にもよいと店の者が言っていた。
鈴花が王宮の書庫で古い地誌を確かめている間、星揺は回廊で昊然の姿を探していた。
そして、昊然を見つけた星揺は、袖の中の包みをぎゅっと握った。
昊然は、景雲を伴って歩いていた。
こちらに気づくと、ほんのわずかに足を緩める。
けれど、すぐに歩みを戻した。
星揺は一歩、前へ出た。
「龍国公様」
昊然は足を止めた。
「裴星揺」
その声だけで、胸が跳ねる。
けれど、今日は下を向かなかった。
星揺は袖の中から小さな包みを取り出す。
「これを、受け取っていただけますか」
昊然の視線が、ゆっくりと包みに落ちる。
「何だ」
「お菓子です。桂花の餅菓子で、甘すぎないものを選びました」
後ろに控えていた景雲の視線が、ほんの少し動いた。
星揺は気づいた。
けれど、気づかなかったことにした。
昊然はしばらく包みを見ていた。
受け取るべきではないと、そう考えているようにも見えた。
けれど星揺は、包みを引っ込めなかった。
昊然は結局、手を伸ばした。
星揺の指先に触れないよう、慎重に包みを受け取る。
「……受け取っておく」
「はい」
星揺の胸が、ぱっと明るくなった。
一つ目は、成功。
ここで終わってはいけない。
渡したのち、三つ数える間、静かに見つめるべし。
星揺は昊然を見上げた。
一つ。
黒い日除け笠の影の下で、昊然の目がわずかに細まる。
二つ。
胸が高鳴る。
三つ。
顔が熱い。
四つ。
そこで星揺は、はっとした。数えすぎたのだ。
昊然が低く問う。
「どうした」
「な、何でもありません」
星揺は慌てて首を横に振った。
すると景雲が静かに目を伏せる。
今、絶対に笑ったように見えた。
けれど、まだ終わりではない。
去り際には、名残を残すべし。
星揺はきちんと礼をした。
「では、私はこれで失礼いたします」
そう言って、二歩ほど歩く。
振り返るなら、今。
星揺はそっと振り返った。
勢いよく振り返ってはならない。
名残。
名残を残すのだ。
まだそこにいる昊然と目が合う。
星揺は胸を高鳴らせながら、小さく笑った。
「……ご無理は、なさらないでください」
昊然の目が、ほんのわずかに揺れる。
「ああ」
たったそれだけだった。
けれど星揺には、十分だった。
少し離れたところまで歩いてから、星揺は袖の中で手を握りしめる。
甘味を贈ることには成功。
三つ数える間、見つめることもなんとか成功した。
ただし、数えすぎ注意だ。
去り際に名残を残すことも、たぶん成功。
星揺が回廊の角を曲がったあと、景雲は静かに目を伏せたままだった。
昊然は手の中の小さな包みを見下ろす。
桂花の香りが、薄紙からかすかに漂っていた。
「……何か言いたいことがあるのか」
昊然が横目で景雲を見る。
景雲はいつもの涼しい顔で答えた。
「いいえ。何も」
その声はいつも通りだった。
だが、ほんのわずかに笑みを含んでいるように聞こえた。
昊然はそれ以上問わなかった。
ただ、受け取った菓子の包みを袖の内へしまう。
距離を置かなければならないのに、星揺はまっすぐ近づいてくる。
以前のように傷ついて引くのではなく、少しずつ。
昊然は袖の内の小さな包みの重みを感じながら、静かに息を吐いた。
◇◇
その数日後。
王の生誕を祝う大宴が、日が沈んだのち、王宮の大殿で開かれた。
朱塗りの柱には金の房飾りが揺れ、梁から吊るされた灯籠が、磨き上げられた床に淡い光を落としている。
沈香の煙が細く立ちのぼり、夜気に混じって、花と酒の香が大殿を満たしていた。
王と王妃、そして太子。
王都の重臣や、高位の家々の者たちも顔をそろえている。
龍家からは、龍国公である昊然と、その弟の暁嵐が参じていた。
墨色の衣をまとった昊然の姿は、灯火の陰影の中で、いっそう近寄りがたく見える。
景雲はその後ろに静かに控え、暁嵐の後ろには龍岳が控えていた。
少し下がった龍家の控え席には、清遠や玄烈の姿もある。
今宵、龍家を代表する席にいるのは昊然と暁嵐である。
清遠や玄烈は表立つ席には出ず、一族の者たちと共に、灯籠の光が届くか届かないかの場所に座していた。
玄烈は杯を手に、穏やかな顔で宴を眺めている。
その目だけが、どこか冷めていた。
裴家と陸家からは、本来なら裴将軍と陸将軍が祝いの品を献上するだけでよかった。
けれど今宵は王妃も同席する華やかな祝宴であり、各家の婦人や令嬢たちも控えの席に招かれていた。
星揺たちもまた、裴家と陸家の娘として、その場に控えていたにすぎない。
少なくとも、最初はそのはずだった。
宴が進み、祝いの品々が献上される。
裴将軍は、王の長寿と国の安寧を願い、良質の弓を献上した。
陸将軍もまた、北境で得た珍しい玉石を飾った短刀を捧げる。
王は機嫌よく頷き、王妃も穏やかに微笑んでいた。
その時だった。
祝舞を披露するはずだった舞姫の一人が、控えの間で足を痛めたという知らせが入った。
大殿の奥が、にわかにざわめく。
今宵の舞は、ただの余興ではない。
王の長寿と、国の安寧を願う祝舞である。
舞の型も、立ち位置も、袖の流れも、すべて決まっている。
欠けたまま舞わせるわけにはいかない。
太子が奥へ下がり、短く事情を聞く。
その場にいた裴将軍と陸将軍も、顔を見合わせた。
やがて裴将軍が一歩進み出る。
「太子殿下」
太子が振り返った。
「何か」
「もし祝舞の型でよろしければ、我が娘たちが幼い頃より学んでおります」
太子の目がわずかに動く。
「裴家の令嬢たちが?」
「春華も星揺も、一通りは身につけております」
陸将軍も静かに頭を下げた。
「鈴花も同じく。裴家の娘たちと共に習っておりました」
太子は少し驚いたように三人を見た。
春華は静かに目を伏せ、鈴花は落ち着いた顔で背筋を伸ばしている。
星揺だけが、一瞬、目を丸くした。
「……私たちが?」
小さく呟いた声に、鈴花が横からそっと囁く。
「星揺。顔」
「わ、分かってるわ」
分かっていなかった。
太子はそんな三人を見て、わずかに笑った。
けれど、その声は礼を失わぬものだった。
「無理にとは言わない。だが、引き受けてくれるなら助かる。父上も母上も喜ばれるだろう」
春華が静かに頭を下げた。
「お役に立てるのであれば」
鈴花も続く。
「務めさせていただきます」
星揺は一拍遅れて、慌てて頭を下げた。
「わ、私も務めます」
太子の目に、面白そうな光が浮かぶ。
「頼もしいな」
こうして、星揺たちは急きょ、王の前で祝舞を舞うことになった。
控えの間へ向かう途中、星揺は袖の内で手を握りしめた。
「どうしよう。急に言われると、型が全部逃げていきそう」
「逃げないわよ」
鈴花が落ち着いた声で言う。
「幼い頃から、何度も習ったじゃない」
「それはそうだけど、陛下の前よ?」
「だからこそ、下を向かないの」
春華が柔らかく言うと、星揺は姉を見た。
春華は白と薄青の衣へ着替えながら、穏やかに微笑んでいた。
「星揺は星揺らしく舞えばいいのよ」
「私らしく?」
「ええ」
春華はそっと星揺の髪に白花の飾りを挿した。
やがて、楽の音が大殿の夜気を震わせた。
灯籠の光の中、三人の令嬢が舞の場へ進み出る。
春華は、白と薄青の衣をまとっていた。
袖は水面に落ちる月影のように柔らかく、歩み出るたびに静かに揺れる。
星揺は、淡い薄紅色の衣だった。
袖が広がるたび、夜の灯火を含んだ花びらが舞うように見える。
髪には、春華が挿してくれた小さな白花の飾りが揺れていた。
鈴花は、青緑の衣をまとっていた。
派手さはない。
けれど背筋はまっすぐで、足運びにも指先にも迷いがない。
三人が並ぶと、白、薄紅、青緑の色が、灯籠の光の中で静かに浮かび上がった。
大殿の視線が、一斉に三人へ集まる。
星揺は一瞬だけ息を止めた。
王。王妃。太子。
そして、龍家や重臣たち。
そのすべてが目に入った瞬間、足がすくみそうになる。
けれど、下は向かなかった。
星揺らしく舞えばいい。
春華の言葉を胸の奥で繰り返し、星揺は扇を開いた。
最初の一歩を踏み出す。
薄紅色の袖が、ふわりと灯火の中へ広がった。
昊然は、杯を持つ手を止めた。
星揺を見て、今初めて心が動いたわけではない。
あの銀の簪を握りしめていた日から、ずっと目が離せなかった。
泣きそうになりながらも下を向かず、怖いはずの自分をまっすぐ見上げてきた娘。
危なっかしくて、負けず嫌いで、こちらが決めた距離をいつも踏み越えてくる娘。
その星揺が今、王の前で舞っている。
薄紅の袖を翻し、白花の髪飾りを揺らし、灯籠の光を受けて前を向いている。
昊然は、目を逸らせなかった。
逸らせるはずがなかった。
あの娘から目を逸らせたことなど、最初から一度もない。
◇◇
龍家の控え席では、清遠もまた春華を見ていた。
春華の白い袖が、楽の音に合わせて静かに流れる。
柔らかく、清らかで、けれど決して弱くない舞だった。
清遠は杯を持つ指に力を込める。
春華はいつもそうだ。
穏やかで、優しくて、けれど芯の奥に揺るがぬものを持っている。
自分が近づいていい人ではなかった。
それでも、目は春華を追ってしまう。
清遠は、はっとした。側に玄烈がいる。
ここで悟られてはならない。
清遠はゆっくりと杯を口元へ運び、何事もなかったように目を伏せた。
ただ、杯を支える指先だけが、わずかに強ばっていた。
少し離れた場所で、玄烈はその仕草を見ていた。
清遠が視線を隠したことにも、気づいていた。
だが玄烈は、すぐに清遠から視線を外した。
今宵、玄烈がより注意を向けていたのは、龍国公の席。
昊然は、星揺を見ていた。
ただ、見物するために眺めているのではない。
礼として、舞を見ているだけでもない。
あの娘から目を逸らせずにいる。
玄烈は杯を傾けながら、口元にほんのわずかな笑みを浮かべた。
なるほど。
当主にも、ようやく弱みができたか。
◇◇
その頃、暁嵐は純粋に舞を楽しんでいた。
「裴家と陸家の令嬢は、武家の娘でありながら舞までこなすのか。たいしたものだな」
暁嵐の声には、素直な感心だけがあった。
星揺も、春華も、鈴花も、それぞれ見事だと思っている。
鈴花は友人であり、地図の話をすれば目を輝かせる娘だ。
その鈴花が、今は青緑の衣で凛と舞っている。
暁嵐にとっては、それは意外で、ただ素直に感心する姿だった。
龍岳も静かに頷き、余計な言葉は挟まなかった。
景雲は、昊然の後ろに控えたまま、鈴花の舞を見ていた。
鈴花が扇を返す。
青緑の袖が弧を描き、指先が迷いなく空を切る。
姿勢はまっすぐで、足運びは軽やかなのに、どこか揺るがない。
普段の鈴花は、星揺を止める時も、地図を語る時も、落ち着いた目をしている。
その鈴花が今、何も言わず、舞だけで場に立っていた。
景雲は一瞬だけ息を忘れた。
けれど、すぐに目を伏せる。
ただ胸の奥に、静かな余韻だけが残った。
◇◇
舞が半ばに差しかかった頃、星揺は扇を胸元へ引き寄せ、身を返した。
袖がふわりと広がる。
その一瞬、星揺の目が龍家の席へ向いた。
昊然と目が合った。
けれど、星揺は目を逸らさなかった。
指南書の教えを思い出したからではない。
ただ、昊然が見てくれていることが嬉しかった。
星揺は、ほんの小さく笑った。
決して作った笑みではなかった。
胸の奥から、思わずこぼれた笑みだった。
昊然は、その笑みを真正面から受け止めた。
息が止まる。
その瞬間、昊然は視界の端で、別の視線に気づいた。
太子だった。
太子もまた、星揺を見ている。
王の祝舞を見る目としては、少し長い。
感心だけではない。
舞の動きに合わせて、星揺を追っている。
昊然はそれを見逃さなかった。
胸の奥に、低く熱いものが走る。
守るために遠ざけるべきだ。
星揺を近くに置けば、一族の目に留まる。
当主である自分の私情が、星揺に危険を呼ぶ。
何度もそう言い聞かせてきた。
それなのに、他の誰かが星揺を見ることまでは、耐えがたかった。
あの笑みを、他の男に向けてほしくない。
あの手を、他の誰かに取らせたくない。
当主として正しくない。
掟にも背く。
それでも、誰にも渡したくない。
楽の音が高まり、三人の袖が重なる。
白。薄紅。青緑。
三つの色が灯火の中で花のように開き、やがて静かに閉じた。
最後の音が、大殿に溶けていく。
一拍の静寂。
その後、王が大きく頷いた。
「見事であった」
大殿に安堵の空気が広がる。
王妃もまた、穏やかに微笑んだ。
「急な務めであったというのに、見事でした。三人とも、よく心を合わせましたね」
春華、星揺、鈴花はそろって頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
太子も笑みを浮かべた。
「今宵の祝いにふさわしい舞であった。裴将軍、陸将軍。良い娘たちを持ったな」
裴将軍と陸将軍は、深く礼を取った。
星揺は下がる時、胸の奥がまだ熱かった。
無事にやり遂げた。
春華と鈴花と目が合うと、三人は小さく笑い合った。
◇◇
控えの間へ戻る途中、星揺は少しだけ夜風に当たりたくなり、回廊へ出た。
大殿の外は、少し静かだった。
灯籠が等間隔に掛けられ、朱塗りの柱の影が床に長く伸びている。
遠くではまだ宴の楽が続いていた。
星揺は袖の内で扇を握りしめた。
舞の熱が、まだ体に残っている。
その時、背後から低い声がした。
「星揺」
心臓が跳ねた。
振り返ると、昊然がそこにいた。
星揺は慌てて礼を取る。
「龍国公様」
昊然は星揺の前で足を止めた。
ほんの少しの沈黙の後、低く言う。
「見事だった」
たったそれだけだった。
けれど、星揺の胸はいっぱいになった。
「ありがとうございます」
声が震えないように、星揺は必死に抑えた。
昊然はしばらく星揺を見ていた。
何かを言いかけたように見えた。
けれど、次に口にした言葉は短かった。
「戻れ。裴将軍たちが心配する」
その瞬間、星揺の胸の奥がきゅっと縮んだ。
また、遠い。
褒めてくれた。
ちゃんと見てくれていた。
それなのに、またすぐに離れようとする。
星揺は袖を握りしめた。
指南書の言葉が頭をよぎる。
深追いせず。
されど、完全に引かず。
想う方の前では、笑みを忘れぬこと。
けれど、もう無理だった。
今、ここで言わなければ、この人はまた遠くへ行ってしまう。
「龍国公様」
「……何だ」
星揺は一歩、踏み出した。
「どうして、避けるのですか」
昊然の目がわずかに揺れた。
「避けているわけではない」
「避けています」
星揺の声は震えていた。
それでも、止められなかった。
「私が近づくと、龍国公様は離れます。心配してくださるのに、何も言ってはくださいません。……それが、ずっと寂しかったのです」
昊然は答えなかった。
星揺は唇を結ぶ。
「迷惑……ですか」
「星揺」
「私のことが、嫌いですか」
「それは違う」
即座に返った声だった。
低く、強い。
その強さに、星揺の胸が震えた。
「では、どうしてですか」
星揺はさらに一歩近づいた。
「どうして、そんなに遠いのですか」
言った瞬間、目の奥が熱くなった。
泣きたくなんてなかった。
泣けば昊然を困らせると分かっていた。
けれど、ずっと我慢していた寂しさは、本人を前にしてはもう止められなかった。
「私は……龍国公様が好きです」
声が震える。
それでも、星揺は言った。
「好きだから、遠いと寂しいです。近くにいるのに、遠いのはつらいです」
涙が一粒、頬を伝う。
昊然の表情が、わずかに変わった。
星揺は涙に濡れた目で、昊然を見上げる。
「龍国公様は、私のことをどう思っていらっしゃるのですか」
昊然は答えなかった。
長い沈黙が落ちる。
その沈黙に、星揺の胸が冷えていく。
思いたくないことが、頭に浮かんだ。
「……桃天様が、お好きなのですか」
昊然の目が、はっきりと揺れた。
「桃天?」
「はい」
星揺は袖を握りしめた。
「桃天様は、美しくて、落ち着いていて……龍国公様の隣に立っても、誰にも咎められない方です」
言葉にするほど、胸が苦しくなっていく。
「だから、私が龍国公様をお慕いすることは、迷惑なのかと……」
「違う」
昊然の返事は早かった。
星揺は息を止める。
昊然は星揺の目を見たまま、はっきりと言った。
「桃天を妻に迎えるつもりはない」
星揺の目が、大きく揺れた。
「……本当ですか」
「ああ」
「桃天様が望んでいても?」
「私が望んでいない」
短い言葉だった。
けれど、それは星揺の胸にまっすぐ届いた。
張りつめていた不安が、少しだけほどける。
けれど、まだ分からない。
桃天ではないのなら。
嫌いでも、迷惑でもないのなら。
どうして、この人は遠ざかろうとするのか。
「では……どうしてですか」
昊然は静かに息を吐いた。
「そなたを守るためだ」
「私を、守る……?」
「龍家には掟がある。長く続いてきた決まりも、古くから一族を支えてきた者たちの目もある」
昊然の声は低かった。
「当主である私が、私情でそれを乱すわけにはいかない」
「私情……」
星揺は小さく繰り返した。
昊然は続ける。
「私に近い者を、よく思わぬ者もいる。私が誰かを特別に思っていると知られれば、その者がどこへ目を向けるか分からない」
そこで一度、昊然は言葉を切った。
そして、はっきりと言った。
「星揺に危険が及ぶ」
星揺は黙った。
龍家の掟。当主の立場。自分に及ぶかもしれない危険。
どれも、簡単に笑い飛ばせるものではなかった。
けれど、星揺の胸に一番強く残ったのは、別の言葉だった。
「……特別」
昊然の目が、わずかに揺れた。
星揺は顔を上げる。
「それは、私のことを特別に思っているということですか?」
昊然は答えなかった。
その沈黙に、星揺の胸が大きく鳴る。
「龍国公様は、私のことが好きだということですか?」
自分で言ってから、顔が熱くなった。
けれど、もう引けなかった。
ここを曖昧にされたら、また遠くなる。
また、理由も分からないまま置いていかれる。
「……違うなら、違うと言ってください」
昊然の眉が苦しげに寄った。
違う。そう言えばいい。
そうすれば、星揺は傷つくだろう。
けれど、遠ざけることはできる。
掟も、一族の目も、当主としての責務も、まだ守れる。
昊然には分かっていた。
それなのに、その一言が言えなかった。
昊然は低く息を吐く。
「……ああ」
星揺の目が、大きく揺れた。
もう、昊然は逃げなかった。
「好きだ」
短い言葉だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
星揺の胸の奥で、ずっと張りつめていたものが、ほどけていく。
「本当に……?」
「ああ」
昊然の声は低かった。
けれど、もう隠してはいなかった。
「だが、簡単に口にしてよい想いではない」
星揺は昊然を見つめた。
昊然の表情は甘くはなかった。
好きだと告げたはずなのに、その目にはまだ苦しさが残っている。
「私は龍家の当主だ。そなたを近くに置けば、そなたに危険が及ぶ」
星揺は唇を結んだ。
好きだと言われた。
けれど、それだけでは終わらない。
昊然が遠ざかろうとした理由も、少しだけ分かった。
それでも。
「でも」
星揺は涙をこらえながら言った。
「何も知らないまま遠ざけられる方が、私はつらいです」
昊然の目が揺れる。
「危ないなら、危ないと言ってください。掟があるなら、そう言ってください。私には全部は分からないかもしれません。でも、何も知らされずに遠くへ置かれるのは嫌です」
昊然は、しばらく何も言わなかった。
ただ、涙に濡れた星揺の顔を見ていた。
守るために遠ざけた。
だが、その遠ざけ方が、星揺を傷つけていた。
彼女を泣かせたかったわけではない。
苦しませたかったわけでもない。
昊然は静かに星揺の名を呼んだ。
「星揺」
その声は、少しかすれていた。
次の瞬間、星揺の体は昊然の胸元へ引き寄せられていた。
薄紅色の袖が、墨色の衣に重なる。
星揺は驚いて息をのむ。けれど、逃げなかった。
昊然の腕が、星揺の背に回る。
強く閉じ込めるようではない。
けれど、確かに離さない抱き方だった。
「泣くな」
昊然の声が、髪の上に落ちた。
「泣かせるために、好きだと言ったのではない」
星揺は、昊然の胸元に額を寄せたまま、しばらく動けなかった。
嬉しい。
胸の奥から込み上げた想いに押されるように、星揺はそっと昊然の衣を掴んだ。
それだけでは足りなくて、震える手を昊然の背へ回す。
ぎゅっと抱きしめ返すと、昊然の体がわずかに強ばった。
星揺は昊然の胸元で、小さく言った。
「嬉しいんです」
昊然は何も言わなかった。
ただ、星揺を抱く腕に少しだけ力がこもった。
遠かったはずの人の鼓動が、今はすぐ近くで聞こえている。
星揺はその音を聞きながら、もう一度、昊然をぎゅっと抱きしめた。
昊然は何も言わず、ただ星揺を離さなかった。
「星揺」
低く名を呼ばれて、星揺は顔を上げた。
すぐ近くに、昊然の顔があった。
思っていたよりも近くて、星揺は息を止める。
昊然の指が、星揺の頬に触れた。
涙の残る頬に触れたまま、その指先は離れなかった。
「……泣くなと言った」
低い声だった。
けれど、責める響きはなかった。
星揺は小さく首を振った。
「これは……嬉しいからです」
その言葉に、昊然の目が揺れた。
言葉が途切れる。
遠くの宴の楽だけが、かすかに聞こえていた。
近い。近すぎる。
けれど、離れようとは思わなかった。
星揺は昊然の衣を握ったまま、ほんの少しだけ顔を上げた。
昊然の手が、星揺の頬に添えられたまま止まる。
その距離が、ゆっくりと縮まった。
どちらから近づいたのか、星揺には分からなかった。
昊然が引き寄せたのか。
自分が顔を上げたのか。
ただ、気づいた時には、互いの息が触れそうなほど近くにいた。
昊然の目が、わずかに伏せられる。
星揺も、つられるようにまぶたを震わせた。
あと少し。
ほんの少しで、触れてしまう。
その瞬間だった。
「裴星揺は、こちらへ来ていないか」
回廊の向こうから、太子の声がした。
星揺はびくりと肩を震わせた。
「太子殿下……?」
昊然の動きも止まった。
一瞬だけ、二人の間に、触れられなかった距離が残る。
星揺は息をすることさえ忘れていた。
今、何が起きそうだったのかを考えた瞬間、顔に熱が集まる。
昊然は、ほんのわずかに息を吐いた。
理性を取り戻したように、目の色が変わる。
太子が星揺を探している。
それだけなら、何もおかしくはない。
けれど昊然は、舞の間の太子の視線を見ていた。
だからこそ、星揺を太子と二人にしたくない。
そう思った瞬間、昊然の手は考えるより先に動いていた。
「こっちだ」
「え?」
昊然は星揺の手を取り、回廊の柱陰へ引き寄せた。
「っ、龍国公様……!」
声を上げかけた星揺の唇の前に、昊然の指がそっと添えられる。
「静かに」
低い声が、耳元に落ちた。
星揺は息を止めた。
柱と昊然の間に、ほとんど閉じ込められるような形になっている。
近い。
回廊の向こうでは、太子の声が続いていた。
「先ほどの祝舞のことで、ひと言伝えたいと思ったのだ。春華と鈴花には会えたが、裴星揺の姿が見えぬ」
侍女の声が答える。
「こちらでは、まだお見かけしておりません」
「そうか。ならば、大殿の方へ戻っているのかもしれんな」
足音が、少しずつ遠ざかっていく。
太子の足音が完全に遠ざかっても、昊然はすぐには星揺を離さなかった。
星揺もまた、動けなかった。
まだ胸の奥が熱いまま、昊然を見上げる。
「……もう、行かれたようです」
「ああ」
昊然は答えた。
けれど、声は少し掠れていた。
「どうして、隠れたのですか」
昊然はすぐには答えなかった。
星揺は、じっと昊然を見る。
「私が泣いていたからですか」
「……それもある」
それだけではない。
そう分かってしまうほど、昊然の腕はまだ星揺を離していなかった。
遠くでは、まだ宴の楽が続いている。
王宮の灯籠が、朱塗りの柱の影を長く床へ落としていた。
夜の回廊で、二人はしばらくそのまま動かなかった。
星揺は、昊然の鼓動を聞いていた。
もう少しだけ。
この距離にいてもいいのだと、そう思いながら。




