三十七話 恋の指南書
星揺がその本を読み終えたのは、昨夜のことだった。
薄紅色の表紙を閉じたあと、星揺はしばらく黙っていた。
書かれていることの半分くらいは、妙にもっともらしかった。
相手の好きなものを知ること。
己の良さを忘れぬこと。
避けられているように見えても、深追いしすぎず、けれど完全に引かぬこと。
最後は、己の心に嘘をつかぬこと。
「……心に嘘」
星揺は寝台の上で、本をじっと見つめた。
こんなに恥ずかしい題の本なのに。
もう少し笑える内容なら、思い切り馬鹿にできたのに。
ところどころ、胸に刺さることが書かれている。
しかし五つ目。
相手が避ける時は、深追いせず、されど完全に引かぬこと。
何度読んでも、これだけは意味が分からない。
深追いしない。でも、完全に引かない。
近づくのか。近づかないのか。
いったい、どちらなのだ。
星揺は本を胸元へ抱え、寝台に転がった。
「半歩だけ近づけばいいの?それとも一歩下がって、目だけ向けるの?」
言葉にすると、さらに分からない。
星揺は布団をかぶった。
もう寝よう。
考えすぎると、また眠れなくなる。
けれど、目を閉じても、黒い日除け笠の影はなかなか消えてくれなかった。
落ちるぞ。足元に気をつけろ。
池のそばで聞いた昊然の声が、何度も耳の奥によみがえる。
あの時、気にかけてくれた。
けれど、近づいては来なかった。
あの一歩を止めた昊然の横顔を思い出すたび、胸の奥がきゅっと痛む。
星揺は布団の中で、本を抱きしめた。
「深追いせず……でも、引かない」
小さく呟く。
答えはまだ分からない。
けれど、もうただ落ち込んでいるだけではいたくなかった。
◇◇
翌日。
星揺は、兄の景明について龍国公府を訪れていた。
裴将軍から預かった軍務の文を届けるため、景明が龍国公府へ向かうことになったのだ。
星揺は、ただの付き添いである。
――ということにしている。
本当は、少しだけ期待していた。
龍国公府へ行けば、昊然に会えるかもしれない。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
「星揺」
隣を歩く景明が、ふと目を向けた。
「やけに静かだな」
「そう?」
「何か企んでいる時のお前は、静かだ」
「兄上、ひどいわ」
「違うのか?」
星揺はぷいっと横を向いた。
「ぜんぜん違う。何も企んでなんかいないわ」
景明は少しだけ笑った。
「では、そういうことにしておこう」
その言い方が、何もかも見透かしているようで腹立たしい。
けれど、景明はそれ以上は何も言わなかった。
龍国公府へ着くと、景明と星揺は客間へ通された。
侍女が茶を置いて下がって間もなく、昊然が姿を現した。
黒い衣をまとい、静かな足取りで入ってくる。
昨日と違い、笠の影に隠れていない顔が、まっすぐ星揺の目に入った。
星揺の胸が、どくんと鳴る。
長い睫毛。すっと整った眉。
日差しを避けているせいか、肌は白く、けれど弱々しさは少しもない。
むしろ、墨色の衣に包まれた姿は凛としていて、静かな刃のようだった。
口元はいつものように引き結ばれている。
感情を簡単に見せない人。
けれど、その目がこちらを向くたび、星揺の胸は勝手に騒いでしまう。
昨日まで遠く感じていた人が、今は同じ部屋にいる。
それだけで、指先まで落ち着かない。
「龍将軍」
景明が立ち上がり、礼をする。
星揺も慌ててそれに続いた。
「龍国公様」
昊然の視線が、ほんの一瞬だけ星揺へ向く。
昊然の目に、一瞬だけ驚きがよぎった。
星揺が共に来るとは、聞かされていなかったのかもしれない。
「裴景明殿。裴星揺」
名を呼ばれただけで、星揺は背筋が伸びた。
昊然は景明の向かいへ腰を下ろす。
卓の上に文が置かれた。
そこからは、軍務の話だった。
北の街道。外郭門の通行記録。
裴将軍から預かった報告の確認。
景明と昊然の声は落ち着いていて、内容は星揺にも少しは分かった。
けれど、口を挟める話ではない。
星揺は静かに座っていた。
座っていた、はずだった。
昊然が文へ目を落とす。
長い睫毛の影が、頬に薄く落ちる。
筆を取る指先も、文へ視線を走らせる横顔も、無駄な動きがない。
話している声は低く、静かで、けれど言葉のひとつひとつに揺らぎがなかった。
星揺は、いつの間にかその横顔をじっと見ていた。
瞬きするのも忘れて。
胸の奥がふわふわして、息を吸うタイミングさえ分からなくなる。
昊然がふと顔を上げた。その瞬間、目が合った。
星揺は息をのんだ。
黒い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
責めているわけではない。
けれど、星揺に見つめられていると気づいたのか、昊然の眉がごくわずかに動いた。
何か問いたげな、静かな表情。
星揺は逸らすべきだと思った。
でも、すぐ逸らしすぎるのもよくないと、本には書いてあった。
三呼吸。
いや、今はまだ実践する時ではない。
そもそも軍務の席だ。
そう思うのに、目だけがどうしても動かない。
昊然の目が、ほんの少し細められる。
その瞬間、隣で景明が小さく咳払いをした。
「こほん」
星揺ははっとした。
それでもまだ視線を戻しきれずにいると、今度は景明の肘が、こつんと星揺の腕をつついた。
星揺はようやく我に返り、慌てて視線を伏せる。
景明は何も言わない。
言わないが、横顔が明らかに「見すぎだ」と言っていた。
星揺は膝の上で手を握った。
やけに頬が熱い。恥ずかしい。
けれど、好きな人が目の前にいたら視線が行ってしまうのだから仕方がない。
昊然もほんのひと呼吸だけ星揺を見ていたが、何も言わず、また文へ視線を戻した。
その時表情がほんの少しだけ柔らかくなったように見えたのは、星揺の気のせいだったのかもしれない。
その後も景明と昊然の話は続いた。
星揺はなるべく大人しくしていたが、時間が経つにつれ、どうにも落ち着かなくなってくる。
昊然が目の前にいる。それだけで胸が騒ぐ。
しかも、懐には昨夜から気になって仕方のない薄紅色の本がある。
相手が避ける時は、深追いせず、されど完全に引かぬこと。
あの一文の意味が、どうしても分からない。
今すぐもう一度読みたい。
でも、昊然の前で開けるはずがない。
絶対に無理だ。
星揺は膝の上で指を握り、しばらく迷った。
やがて、小さく景明へ声をかける。
「兄上」
景明が顔を向ける。
「どうした」
「私、少し外の席で待っていてもいい?」
景明は星揺を見たあと、昊然へ視線を向けた。
「軍務の話が続きますので、妹には少し退がらせてもよろしいでしょうか」
昊然の視線が、星揺へ移る。
星揺はなぜか、少しだけ緊張した。
「構わない」
それから、少し間を置いて続けた。
「遠くへ行くな」
星揺の胸が、また小さく跳ねた。
昨日と同じだ。近づいてはこない。
けれど、気にかけてはくれる。
「はい。すぐそこの回廊で待っています」
星揺は礼をして、客間を出た。
回廊の端には、小さな腰掛けがあった。
客間の戸も見える。
そこまで離れすぎてはいない。
けれど、客間の中からは見えにくい。
星揺は腰掛けに座ると、そっと懐から薄紅色の本を取り出した。
表紙を見ただけで、また顔が熱くなる。
『恋情指南 初めて想いを寄せる娘のために』
「……読むだけ」
小さく呟き、星揺は頁を開いた。
何度読んでも、やはり五つ目の項目で止まってしまう。
相手が避ける時は、深追いせず、されど完全に引かぬこと。
星揺は眉を寄せた。
「ここ、やっぱり理解できない……」
本を膝に置き、両手で頭を抱える。
「深追いしない。でも引かない。つまり、どうすればいいのよ」
本は当然、答えてくれない。
星揺はさらに頁を睨んだ。
「近づきすぎるなと言うなら分かるわ。でも、完全に引くなって何?半歩だけ近づくの?それとも一歩下がって、目だけ向けるの?」
考えれば考えるほど、分からなくなる。
その時、近くで足音がした。
「星揺様」
景雲の声だった。
けれど星揺は、本の文字に意識を奪われたまま、反射的に頁の一部を指で示してしまった。
「ここ、絶対変じゃない?」
「そうですね。少々、難しいかと」
落ち着いた声が返ってきた。
星揺は深く頷いた。
「でしょう?やっぱり変よね」
「これは、なかなか高度ですね」
「近づきすぎず、引きすぎずなんて、私には無理……」
そこまで言って、ぴたりと止まった。
今、誰が答えた。
鈴花でも、春華でもない。もちろん、本でもない。
星揺はゆっくり顔を上げた。
目の前に、景雲が立っていた。
いつものように静かに控え、何事もなかったような顔でこちらを見ている。
「け、景雲様!」
星揺は飛び上がるように本を閉じ、胸元へ抱え込んだ。
しかし、遅かった。
開かれていた頁。その端に見える、薄紅色の表紙。
閉じかけた拍子に、金糸で縁取られた題がちらりと覗いた。
『恋情指南 初めて想いを寄せる娘のために』
景雲の視線は、確かに一度そこへ落ちていた。
星揺の顔が、一気に熱くなる。
しまった。見られた。
しかも、よりによって景雲に。
ただ、ただ、恥ずかしい。
星揺は本を胸元へ抱えたまま、しばらく言葉を探した。
景雲なら、軽々しく誰かに言いふらすことはない。
それは分かっている。
分かっているのに、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「い、いつからそこに?」
「つい先ほどでございます」
「何か見ました?」
景雲は一拍置いた。
その一拍が、すでに答えだった。
「……少しだけ」
「少しだけとは、どのくらいですか」
「開かれていた頁の一部を」
「それは、少しとは言いません……!」
星揺は思わず本をさらに強く抱えた。
景雲は表情を変えない。
けれど、いつもよりほんの少しだけ目元が柔らかい。
それが余計に恥ずかしかった。
「それに今、普通に答えましたよね」
「はい」
「なぜ答えるのですか」
「問われたものかと」
「本に聞いていたのです」
「それは失礼いたしました」
景雲は静かに頭を下げた。
謝られると、余計に何も言えない。
星揺は口を開きかけ、閉じた。
景雲は、真面目な顔をしている。
けれど、その口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「景雲様」
「はい」
「今、笑いました?」
「……失礼いたしました」
「笑いましたね」
景雲は目を伏せた。
「星揺様が、あまりに真剣でいらしたので」
「真剣だったから余計に恥ずかしいのです!」
その瞬間、景雲の口元から、ふっと小さな息が漏れた。
声というほど大きくはない。
けれど、笑った。確かに笑った。
星揺は顔を真っ赤にする。
「景雲様!」
「申し訳ございません」
「今のは、申し訳ございませんで済む笑い方ではありませんでした」
「失礼いたしました。……ただ」
「ただ?」
景雲は少しだけ視線を逸らした。
「星揺様は、面白いお方だと」
星揺は固まった。
「面白い……」
「いえ、悪い意味ではございません」
星揺は言葉に詰まった。
星揺は本を抱えたまま、しばらく何も言えなかった。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
いや、庭石の陰でもいい。
けれど、隠れたところで、この場がなかったことになるわけではない。
景雲はようやく表情を整えると、いつもの声に戻った。
「お話が一区切りつきましたので、お呼びに参りました」
「そ、そうでしたか」
「はい」
景雲の視線が、もう一度だけ星揺の胸元の本へ落ちる。
星揺は慌てて本を袖の陰へ隠した。
「龍国公様には、言わないでください」
景雲は静かに瞬きをする。
「何を、でございますか」
「その本のことです!」
「承知いたしました」
星揺はほっと息をつきかけた。
だが、景雲は続ける。
「ただし、龍国公様より星揺様のご様子を尋ねられた場合、虚偽は申し上げられません」
星揺は固まった。
「つまり?」
「本を読まれていたこと自体は、申し上げる可能性がございます」
「中身は?」
「尋ねられなければ」
「尋ねられたら答えるのですか?」
景雲は少しだけ視線を逸らした。
「……題までは、拝見したと」
「それは絶対にだめです!」
星揺は悲鳴のような声を上げた。
景雲は小さく頭を下げる。
「申し訳ございません」
星揺は顔を真っ赤にしたまま、本を袖の中へ押し込んだ。
その時、客間の戸が静かに開いた。
星揺の背筋がぴんと伸びる。
現れたのは、昊然だった。
墨色の衣をまとい、手には封をされた返書を持っている。
先ほどまで景明と話していたためだろう。
表情はまだ少し真剣で、声も落ち着いていた。
「まだ戻らないのか」
昊然は景雲へ静かに言った。
どうやら、景雲が呼びに来たまま戻らないため、様子を見に来たらしい。
景雲は一礼する。
「申し訳ございません。星揺様へお声をかけたところでございました」
昊然の視線が、星揺へ移る。
「星揺」
名を呼ばれた瞬間、星揺の頭の中に、本の言葉がよみがえった。
目が合った時は、すぐに逸らしすぎず、されど見つめすぎず。
三呼吸だけ見つめ、それ以上は伏せること。
三呼吸。
星揺は息をのむ。
一。
昊然の目を見る。
二。
思ったより近い。
三。
そこで伏せる、はずだった。
けれど、数えることに必死になりすぎて、星揺は妙に真剣な顔で昊然を見つめてしまった。
昊然がわずかに眉を動かす。
「どうした」
「な、何でもありません」
星揺は慌てて視線を伏せた。
伏せすぎた。ほとんど床を見ている。
これでは不自然だ。
星揺は少しだけ顔を上げようとして、また本の言葉を思い出した。
想う方の前では、笑みを絶やさぬこと。
星揺は顔を上げ、無理に微笑んだ。
その笑みは、自分でも分かるほどぎこちなかった。
昊然の眉間に、さらにうっすら皺が寄る。
「……本当にどうした」
「何でもありません!」
声が大きくなった。
はしゃぎすぎてはならぬこと。
しまった。
星揺は慌てて口を押さえた。
昊然は完全に不審そうな顔をして見ている。
その横で、景雲が静かに目を伏せていた。
昊然が景雲を見る。
「景雲、どうした」
景雲は静かに咳払いをした。
「いえ。星揺様が、大変熱心に学ばれているご様子でしたので」
「学ぶ?」
昊然の視線が星揺へ戻る。
星揺は袖の中の本を、さらに強く押さえた。
「な、何でもありません」
「先ほどから、そればかりだな」
昊然が静かに言う。
責めているわけではない。
けれど、その声にいつもの昊然らしさが少し戻っていて、星揺の胸がまた鳴った。
昨日より、ほんの少しだけ近い。
そう思った途端、嬉しくなってしまう。
けれど、ここで浮かれてはいけない。
深追いせず、されど完全に引かぬこと。
星揺は背筋を伸ばした。
「龍国公様」
「何だ」
「……今日も、お忙しいのですか?」
言ってから、自分でも驚いた。
こんなことを聞くつもりではなかった。
昊然も少し意外そうに星揺を見る。
だが、すぐに静かに答えた。
「少しな」
「そうですか」
そこで終わりにしそうになって、星揺は慌てて言葉を探した。
完全に引いてはいけない。
でも深追いもいけない。
では、何を言えばいいのか。
星揺は必死に考えた末に、ぽつりと言った。
「……無理は、なさらないでください」
昊然の目が、わずかに揺れた。
景雲も一瞬だけ、星揺を見る。
星揺は自分の言葉に少し驚いていた。
指南書の真似をするつもりだったのに。
けれど、出てきたのは、ただの本心だった。
昊然はしばらく星揺を見ていた。
そして、ほんのわずかに目を伏せる。
「ああ」
短い返事だった。
けれど昨日のように、すぐ遠ざかる声ではなかった。
星揺の胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「戻るぞ」
「はい」
星揺は袖の奥に押し込んだ本を押さえながら、慌てて立ち上がった。
昊然が先に歩き出す。
景雲は星揺の少し後ろへ控えた。
客間へ向かう短い回廊を、三人で歩く。
星揺は前を向いていた。
だが、背後から、ふ、と小さな笑い声が漏れた。
星揺はぴたりと足を止めかける。
聞こえた。今、確かに聞こえた。
振り返ると、景雲が何事もなかったような顔で控えている。
「景雲様」
「失礼いたしました」
「もう……!」
前を歩いていた昊然が、わずかに振り返る。
「何を笑っている」
「何でもございません」
景雲が静かに答える。
星揺は小さく睨んだ。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
星揺は袖の奥の本を押さえたまま、客間へ続く回廊を歩いていった。
昨日よりは、少しだけ前へ進めた気がした。




