三十六話 遠ざかる黒い笠
翌朝。
星揺は、いつもより少し早く目を覚ました。
鳥の声も、侍女たちが廊下を行き来する足音も、いつもと変わらない。
けれど、星揺の胸の奥には、昨日見た光景がまだ残っていた。
昊然の隣に立っていた、凛とした人。
銀の艶を帯びた黒髪。
薄紫を含んだ灰色の瞳。
少しも揺らがない、静かな佇まい。
龍桃天。
名前を思い出すだけで、胸の奥が小さくざわついた。
「……正式な婚約者ではないって、景雲様も言っていたし」
星揺は布団の中で、誰に言うでもなく呟いた。
正式な婚約者ではない。
少なくとも、昊然がその話を受けた事実はない。
分かっている、分かっているのに。
桃天が昊然の隣に立った時の、あの自然さが頭から離れなかった。
同じ龍家の者。同じ静かな影の中に立つ人たち。
二人が並ぶと、まるでそこだけ、ほかの音が遠ざかるようだった。
星揺は布団を蹴るようにして起き上がる。
「私ったら、考えすぎよ」
声に出して、自分に言い聞かせる。
朝からこんなことを考えているなんて、馬鹿みたいだ。
立ちあがろうとした時、戸の向こうから春華の声がした。
「星揺、起きている?」
「うん。起きてるわ」
星揺が返事をすると、戸が静かに開いた。
春華が顔を覗かせる。
今日の春華は、淡い白の衣を着ていた。
柔らかく結われた髪。
穏やかな目元。
白い百合の花のように、静かで優しい美しさ。
星揺は、思わずじっと見てしまった。
昨日、桃天を見たせいだろうか。
あの凛とした美しさを思い出したあとだからこそ、春華の美しさにも、改めて目がいった。
姉上は、やっぱり綺麗だ。
桃天のように、月明かりをまとったような美しさではない。
春華はもっと柔らかい。
朝の光の中で、白い百合が静かに咲いているような人だった。
「朝餉が冷めてしまうわ」
春華が微笑む。
「今行く」
「星揺、髪が少し乱れているわ」
春華は星揺のそばへ来ると、寝乱れた一房をそっと直してくれた。
その仕草まで、いちいち綺麗で思わず小さくため息をついた。
「……羨ましい」
「え?」
春華が目を瞬かせる。
星揺は、はっとして顔を上げた。
「な、なんでもないっ!」
「今、何か言ったでしょう」
「言ってない」
「言ったわ」
春華が少し笑う。
星揺はぷいっと横を向いた。
「ただ……姉上が綺麗って思っただけよ」
言ってしまってから、星揺は自分で顔が熱くなるのを感じた。
朝から何を言っているのだろう。
しかも姉に。
春華は少し驚いたあと、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう。星揺も可愛いわ」
「それ、子どもに言うやつじゃない」
「そんなことないわ」
「ある。私が言ってるのは、そういう可愛いじゃなくて」
星揺は言いながら、うまく言葉にできずに唇を尖らせる。
「姉上は、百合の花みたいでしょう。昨日お会いした桃天様も……すごく、凛としていたし」
「桃天様?」
「龍家の方よ。綺麗というか……そこにいるだけで、周りの空気が整うような方だったの」
星揺は昨日の桃天を思い出して、少しだけ肩を落とした。
「髪も、姿勢も、何もかも揺らがなくて。龍国公様の隣に立っても、少しも不自然じゃなかった」
春華は静かに聞いていた。
星揺は自分の髪の先を指に絡める。
「それに比べて私は、すぐ顔に出るし、怒ると声も大きいし……綺麗というより、落ち着きがないもの」
「そう?星揺は、星揺のままで素敵よ」
「姉上は身内だからそう思うの」
「身内だから、よく知っているの」
春華は星揺の頬にそっと触れた。
「あなたが笑うと、周りが明るくなるわ。私は、そういう星揺が好きよ」
星揺はますます顔を赤くした。
「もうっ、朝からそういうこと言わないで」
「どうして?本当のことだもの」
「いいから!朝餉が冷めるって言いに来たんでしょう?」
星揺は逃げるように立ち上がった。
けれど、戸口へ向かう途中で、春華の声が背中に届いた。
「星揺」
「うん?」
「誰かの隣に立つために、誰かと同じ美しさにならなくてもいいのよ」
星揺はぴたりと足を止めた。
胸の奥が、少しだけくすぐったくて、少しだけ痛い。
「……うん」
そう答えて、星揺は振り返らずに部屋を出た。
分かっている。分かっているけれど。
それでも、綺麗な人を見ると、少しくらい羨ましくなるのだ。
◇◇
その日の午後。
星揺と鈴花は、王宮へ上がっていた。
王に呼ばれたわけではない。
鈴花が調べている古い街道図について、王宮の書庫に関連する地誌が残っているかもしれないと聞いたためだった。
とはいえ、王宮の書庫へ誰もが自由に入れるわけではない。
今回は、陸将軍が書庫を預かる役人へ口添えの文を書いてくれたため、その文を届け、調べたい記録があるか尋ねることになっていた。
星揺は、その付き添いである。
鈴花は古い街道図の写しを筒に入れ、大事そうに抱えていた。
「本当に嬉しそうね」
星揺が言うと、鈴花は少しだけ目を輝かせた。
「だって、王宮の書庫よ。北の古い街道に関する記録があるかもしれないもの」
「いつか本当に地図師になりそうね」
「それも悪くないわね」
「冗談で言ったのに」
二人がそんな話をしながら、書庫へ続く回廊を歩いていた時だった。
前方から、日除け笠をかぶった男が歩いてくる。
その後ろには、同じく日除け笠をかぶった龍岳が控えていた。
「暁嵐様……?」
鈴花が小さく呟いた。
ここ数日、王都を離れていると聞いていた龍暁嵐だった。
日除け笠の影の下、少し疲れた様子ではあったが、歩みはしっかりしている。
暁嵐も二人に気づき、足を止めた。
「鈴花、星揺」
星揺と鈴花は礼をする。
「暁嵐様。お久しぶりでございます」
鈴花が言うと、暁嵐は軽く笑った。
「ああ。少し用があって、数日ほど王都を離れていた」
「お戻りになったばかりなのですか?」
星揺が尋ねると、暁嵐は肩をすくめた。
「そうだ。兄上には休めと言われたが、じっとしている方が落ち着かなくてな」
その後ろで、龍岳は黙って控えている。
表情はほとんど変わらない。
けれど、ほんのわずかに伏せられた目元が、まったくその通りです、と言っているようだった。
星揺はそれに気づいて、思わず小さく笑いそうになる。
暁嵐は鈴花の抱えている筒へ視線を向けた。
「ところで、その筒は地図か?」
鈴花の表情が、ぱっと明るくなる。
「はい。北へ続く旧道の写しです。以前、叔父の書庫で見つけまして」
「北の旧道?」
暁嵐の目が、わずかに興味を帯びた。
「それは面白いな。今の道とは川筋が違うはずだ」
「やはりそうなのですね」
鈴花の声が弾む。
「このあたりの川筋は、昔はもっと東へ寄っていたのですか?」
「おそらくな。北へ向かう荷の流れも、それで変わった」
「では、この旧道が使われなくなったのは、川の流れが変わったからでしょうか」
「その可能性が高い」
二人はそのまま、自然と地図の話を始めてしまった。
「鈴花、ここを見てみろ」
暁嵐が筒から出された写しの一部を指で示す。
「このあたりに古い橋の跡があるはずだ。道が使われなくなったあとも、しばらく荷の中継には使われていたかもしれない」
鈴花は身を乗り出した。
「では、旧道そのものは途絶えても、途中までは使われていた可能性があるのですね」
「ああ。そう考える方が自然だ」
地図を挟んだ二人の距離は、先ほどより少し近くなっていた。
星揺は少し離れたところで、その様子を見ていた。
鈴花は楽しそうだった。
地図や本の話をしている時の鈴花は、いつもより少しだけ表情が柔らかくなる。
暁嵐もまた、思ったより真剣に話を聞いていた。
その後ろで、龍岳は黙って控えている。
鈴花と暁嵐の話は、まだ続いている。
星揺は邪魔をしないように、そっとその場を離れようとした。
「裴星揺様」
声をかけたのは、龍岳だった。
星揺が振り返ると、龍岳は静かに一礼する。
「お一人で行かれるのですか?よろしければ、お供いたします」
「ありがとうございます。でも、すぐ近くの庭を見るだけですから」
星揺は少し笑って答えた。
「鈴花もそこにいますし、大丈夫です」
龍岳は一瞬、星揺を見た。
それから、無理に引き止めることはせず、静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
星揺も軽く礼を返し、庭の方へ歩いた。
近くの庭には、小さな池が見える。
白い石橋がかかり、水面には薄い緑の葉が浮いていた。
◇◇
王宮の庭は、回廊より少しだけ静かだった。
星揺は池のほとりに立ち、ぼんやりと水面を見つめる。
水面には、揺れる空と、自分の顔が映っていた。
悪い顔ではない。
そう思う。
美人だった母に似ていると、何度か言われたことがある。
姉上も、鈴花も、可愛いとは言ってくれるし、正直自分でも、見目が悪いとは思っていない。
けれど。
あの桃天の姿を思い出すと、その小さな自信まで、少しだけ揺らいでしまう。
桃天は、昊然の隣に立っても、まるで初めからそこが自分の場所だったかのように自然だった。
水面の中の星揺が、ゆらりと揺れる。
可愛らしい、と言われる顔。
けれど、桃天のように凛としているわけではない。
春華のように清らかでも、鈴花のように落ち着いてもいない。
すぐ顔に出る。すぐ声が大きくなる。
怒る時も、笑う時も、隠せない。
「……何考えてるのよ、私」
小さく呟く。
比べたところで、桃天になれるわけではない。
なりたいわけでもない。
そう思いたいのに、胸の奥はざわざわと落ち着かなかった。
星揺は水面を覗き込む。
揺れる水の中で、自分の顔が少し歪んだ。
「そこまで身を乗り出すと、落ちるぞ」
不意に、聞き慣れた声がした。
星揺ははっとして振り返る。
回廊の影に、昊然が立っていた。
黒い日除け笠の下、いつもの静かな瞳でこちらを見ている。
その少し後ろには、景雲の姿もあった。
星揺の胸が跳ねた。
「龍国公様……」
声が少し上ずった。
昊然が、自分に声をかけてくれた。
それだけで、胸の奥が少しだけ明るくなる。
けれど、その隣に立つ人を見て、星揺の息は小さく止まった。
桃天だった。
桃天もまた日除け笠をかぶり、昊然の隣に静かに立っている。
銀の艶を帯びた黒髪が、笠の影からなめらかに流れていた。
薄紫を含んだ灰色の瞳が、静かに星揺を見る。
星揺は慌てて礼をした。
「桃天様」
「裴星揺様」
桃天は穏やかに礼を返す。
その所作は、昨日と同じように隙がなかった。
昊然は一歩、池の方へ踏み出しかけた。
だが、その隣で桃天の視線が静かに昊然へ向く。
責めるような目ではない。
ただ、何も言わずに見ているだけだった。
昊然の足が止まる。
星揺はその小さな変化に気づいた。
今、こちらへ来ようとしてくれた。
けれど、来なかった。
昊然は、ほんのわずかに視線を伏せる。
「足元に気をつけろ」
それだけだった。
以前なら、その言葉だけでも嬉しかった。
今も、もちろん嬉しい。
けれど、胸の奥は同時に、ずきりと痛んだ。
桃天が静かに言う。
「昊然様。陛下がお待ちです」
「ああ」
昊然は短く答えた。
それから、もう一度だけ星揺に視線を送る。
何かを言いたげな目だった。
けれど、言葉にはならなかった。
「失礼する」
「はい……」
星揺は礼をした。
昊然と桃天は、そのまま王の待つ殿の方へ歩いていく。
景雲もまた、静かにその後へ続いた。
黒い日除け笠の影が、回廊の奥へ遠ざかる。
星揺は、その背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。
別に、冷たくされたわけではない。
むしろ、心配してくれた。
落ちるぞ、と。
足元に気をつけろ、と。
それはいつもの昊然の言葉だった。
けれど、前とは違う。
声は近かったのに、遠かった。
まるで、見えない線が二人の間に引かれているようだった。
◇◇
回廊の奥へ進みながら、昊然は一度だけ足を止めた。
桃天は王の待つ殿へ向かうため、少し先を歩いている。
昊然の手は、袖の中で静かに握られていた。
本当は、池のそばまで行きたかった。
水面を覗き込む星揺の横に立ち、何を考えている、といつものように尋ねたかった。
あの不安げな顔を、少しでも晴らしてやりたかった。
けれど、それをしてしまえば、また近づいてしまう。
自分の情が、周囲に見えてしまう。
桃天の言葉が、胸の奥に重く残っていた。
――あの娘が、あなたにとって特別だと周囲に知られたらどうなりますか。
昊然は唇を引き結んだ。
その横で、景雲が静かに口を開く。
「……よいのですか」
昊然は答えなかった。
ただ、わずかに目を伏せる。
庭の方へ戻れば、星揺はまだ池のそばにいるだろう。
今なら、まだ声をかけられる。
それでも、足は動かなかった。
「行くぞ」
昊然が低く言う。
景雲は一瞬だけ目を伏せた。
「はい」
昊然はもう一度だけ、庭の方を振り返った。
けれど、そこへは向かわなかった。
黒い日除け笠の影の中で、昊然は静かに息を吐く。
そして、何も言わずに歩き出した。
◇◇
星揺が鈴花のもとへ戻ると、地図の話はまだ続いていた。
暁嵐は、鈴花の広げた図を覗き込みながら言った。
「このあたりの川筋は、やはり昔はもっと東へ寄っていたはずだ」
「やはりそうなのですね」
鈴花の声が少し弾む。
「では、この旧道が使われなくなったのは、川の流れが変わったからでしょうか」
「おそらくな。北へ向かう荷の流れも、それで変わったんだろう」
鈴花は目を輝かせて頷いている。
龍岳はその後ろで、相変わらず黙って控えていた。
けれど、その目元だけが、主がしばらく動かないことをすでに悟っているようだった。
星揺はその顔を見て、また少しだけ笑ってしまう。
その後、書庫の役人から、該当する地誌を後日確認してくれるとの返事を受けた。
やがて王宮での用も済み、星揺と鈴花は暁嵐たちへ礼をして、裴家へ戻ることになった。
帰りの馬車の中で、鈴花は持ってきた地図を膝に置き、暁嵐と話した旧道のことを楽しそうに続けていた。
星揺も相槌を打っていた。
けれど心のどこかでは、黒い日除け笠の影が消えないままだった。
◇◇
裴家へ戻ったあと、星揺はしばらく庭の石段に座っていた。
鈴花は黙って隣に座る。
庭には夕暮れの光が落ちている。
昼の明るさが少しずつ薄れ、木々の影が長く伸びていた。
星揺は膝の上で手を握る。
「龍国公様が、なんだか……前と違う気がするの」
ぽつりと、声が落ちた。
鈴花は驚かず、静かに聞いていた。
「冷たくされたわけじゃないの。声をかけてくれたし、心配もしてくれたんだと思う」
「ええ」
「でも、前とは違うの」
胸の奥がズキズキと痛い。
「近くにいるのに、遠いの」
池のそばで聞いた声を思い出す。
落ちるぞ、足元に気をつけろ、と。
それは、いつもの昊然の言葉だった。
けれど、昊然は近づいては来なかった。
一歩踏み出しかけたのに、止まった。
あの時の小さな変化が、星揺の胸に残っている。
春の日の見送りを思い出す。
昭華を見送った日。
昊然は、泣いていた星揺の涙を拭ってくれた。
黒い日傘の影へ入れてくれた。
泣くなら下を向くな、と言ってくれた。
あの時の距離を、星揺は覚えている。
近かった。
驚くほど近くて、でも安心した。
それなのに今は、同じ黒い影が遠ざかっていく。
「私が、近づきすぎたのかな」
星揺は小さく言った。
「もしかしたら龍国公様を、困らせてしまったのかもしれない」
「星揺……」
「桃天様みたいな方がいるなら、私なんて……」
言いかけたところで、鈴花がぴたりと星揺を見た。
「星揺」
いつもより少し強い声だった。
星揺は思わず口を閉じる。
鈴花は眉を寄せたまま、まっすぐ星揺を見ていた。
「今の言葉、星揺らしくないわ」
「え……」
「私なんて、なんて。あなたがそんなことを言うの、珍しい」
星揺は言葉に詰まった。
鈴花の声は責めるものではなかった。
けれど、静かで、はっきりしていた。
「星揺は、悔しい時は悔しいと言うでしょう。納得できない時は、ちゃんと顔に出るでしょう。怖くても、分からないまま逃げるのは嫌いでしょう」
「……」
「それなのに、今は桃天様と比べて、自分から小さくなろうとしている」
胸の奥を見透かされたようで、星揺は目を伏せた。
鈴花は少しだけ声を柔らかくする。
「桃天様が綺麗な方なのは、私も分かるわ。あの方が龍国公様の隣にいて不自然ではないことも」
星揺の指先が、きゅっと衣を握る。
「でも、だからといって、星揺が自分を下げる理由にはならないでしょう」
「鈴花……」
「あなたは桃天様にはなれないわ」
鈴花は静かに言った。
「でも、桃天様も星揺にはなれない」
星揺は顔を上げた。
鈴花の目は、いつも通り落ち着いていた。
けれど、その奥には星揺を心配する色がある。
「龍国公様があなたに声をかけたのは、危ないと思ったから。ちゃんと、あなたを見ていたからよ」
その言葉に、星揺の胸が小さく震えた。
昊然は見ていた。
桃天が隣にいても、星揺に気づいて、声をかけてくれた。
それは確かだった。
「それでも、遠かったの」
星揺は小さく言った。
「来ようとしてくださったのに、来なかった。何かを言いたげだったのに、言わなかった」
「なら、なおさら」
鈴花は星揺の手に、そっと自分の手を重ねた。
「理由も知らないまま、私なんて、で終わらせるのは星揺らしくないわ」
星揺は目を伏せる。
「……私らしくない」
「ええ。とても」
鈴花は少しだけ口元を緩めた。
「いつもの星揺なら、悩みながらでも、どうしてなのか知ろうとするでしょう」
「私、そんなに強くないわ」
「強いわけじゃないのかもしれない。でも、星揺は諦める前に確かめる人よ」
「確かめる人って……」
「そうでしょう?」
鈴花が真面目な顔で言うものだから、星揺は思わず小さく笑ってしまった。
鈴花もつられるように、ほんの少し笑う。
その笑いで、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
「……そうね」
星揺は小さく息を吐いた。
「私なんて、なんて言っている場合じゃないわね」
「ええ」
「理由も聞かずに落ち込むだけなんて、私らしくない」
「そう思うわ」
鈴花は頷いた。
「それに、落ち込むなら落ち込んでもいいけど、自分を小さくする言い方は似合わないわ」
星揺は少しだけ目を丸くしたあと、苦笑した。
「鈴花、今日は手厳しい」
「たまには必要でしょう」
「……うん」
星揺は膝の上の手を、ゆっくりほどいた。
胸の痛みは、まだ消えない。
けれど、さっきまでのように、ただ沈んでいく感じではなかった。
怖い。
苦しい。
でも、知りたい。
昊然がなぜ遠ざかろうとしているのか。
自分の想いは、どこへ向かうのか。
鈴花はしばらく星揺を見ていた。
それから、袖へ手を入れる。
「星揺」
「うん?」
鈴花は一冊の小さな書物を取り出した。
薄紅色の表紙。
金糸で縁取られた、やけに可愛らしい本だった。
星揺はそれを見て、眉をひそめる。
「……それ何?」
「この前、話していた本よ」
星揺は一瞬、何のことか分からず瞬きをした。
「本?」
「この前、恋に関する本の話をしたでしょう。あなたが、貸してと言ったから」
「……持ってきてくれたの?」
「ええ」
鈴花は、その本を星揺の膝の上にそっと置いた。
「貸すわ」
星揺は本を見下ろした。
表紙には、流れるような字でこう書かれている。
『恋情指南 初めて想いを寄せる娘のために』
文字を読んだ瞬間、星揺の顔が一気に熱くなった。
「こ、恋……っ」
「親戚の姉が嫁ぐ前に持っていたものよ。役に立つかは分からないけど、何もしないで落ち込んでいるよりはいいでしょう」
「いいって、そういう問題じゃ……」
「読むだけでもいいわ。笑ってもいいし、怒ってもいい。けれど、私なんて、と言って下を向くよりは、ずっと星揺らしいと思う」
星揺は言い返そうとして、言葉に詰まった。
薄紅色の表紙から、なぜか目が離せない。
恋の指南書なんて、馬鹿みたい。
それでも。
何も分からないまま、遠ざかっていくのを見ているだけなのは、もっと嫌だった。
「……これ、鈴花は読んだの?」
星揺が尋ねると、鈴花は少しだけ目を逸らした。
「少しだけ」
「少しだけ?」
「ええ。最初の方を少し読んだだけよ。だから、内容について詳しく聞かれても困るわ」
星揺は呆れたように鈴花を見る。
それから、どうしようもなく小さく笑った。
久しぶりに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
星揺は本をそっと両手で持つ。
「……ありがとう」
鈴花の表情が、少し柔らかくなった。
「どういたしまして」
「読むわ」
星揺は小さく言った。
「ええ。読んでみて」
その笑顔につられて、星揺も少しだけ笑ってしまう。
けれど、笑いが消えたあとも、胸の奥の痛みは残っていた。
「ねえ、鈴花」
「何?」
「もし、龍国公様が本当に私との距離を置こうとしているのだとしたら」
声が少し震えた。
「それでも、近づこうとしていいと思う?」
鈴花はすぐには答えなかった。
夕暮れの庭に、静かな風が吹く。
やがて鈴花は、星揺の手にそっと自分の手を重ねた。
「理由を知らないまま諦めるのは、星揺らしくないと思う」
星揺は目を伏せる。
「そうね」
その言葉は、小さかった。
けれど、さっきよりは少しだけ力があった。
「私らしくないわ」
怖い。
けれど、知りたい。
昊然の心を。
そして、自分の想いの行き先を。
星揺は、ゆっくりとその本を開いた。
夕暮れの光が、薄紅色の表紙を淡く照らしていた。




