三十五話 美しい人
翌日。
裴家の屋敷では、朝からどこか慌ただしい空気が流れていた。
景明が王宮へ出向く支度をしており、父もまた軍務の者と話し込んでいる。
星揺は回廊の柱に寄りかかりながら、それをぼんやりと眺めていた。
昨日の茶会で、空卯麗から聞かされた言葉は、まだ胸の奥に残っている。
――龍国公様には、とうに決められた方がいらっしゃるのよ。
思い出すたび、胸の奥が小さく痛んだ。
決められた方。
その人は、どんな人なのだろう。
家格も、血筋も、教養も。
そしてきっと、龍国公様の隣に立つのにふさわしい人なのだ。
そう考えると、胸の奥がきゅっと沈む。
それでも、龍国公様に会いたい。
昨日、自分の気持ちに名前をつけてしまってから、その思いは前よりもずっとはっきりしていた。
会って、声を聞きたい。
いつものように、少し呆れた顔をされたい。
名を呼ばれたい。
そう思ってしまう自分が恥ずかしくて、星揺は扇で口元を隠した。
その時だった。
「この書状を、龍国公府へ届けさせてくれ」
景明の声が聞こえた。
星揺は、はっと顔を上げる。
見ると、景明が下男の一人へ、封をした書状の束を渡そうとしていた。
龍国公府。
その言葉を聞いた瞬間、星揺の胸が跳ねた。
気づけば、声が出ていた。
「私が行くわ!」
景明の手が止まる。
下男も驚いたように星揺を見た。
星揺は、自分が思った以上に大きな声を出していたことに気づき、慌てて咳払いをする。
「……ちょうど、外の空気を吸いたかったの」
景明は無言で星揺を見る。
「何よ」
「いや」
「今、何か思ったでしょう」
「何も」
「嘘」
景明は小さく息を吐いた。
「急ぎではないが、今日中に届いた方がいい。父上から龍将軍へ渡すものだ」
「分かったわ。私が届ける」
星揺は景明の手から書状を受け取った。
胸の奥がそわそわして、落ち着かない。
龍国公府へ行く。
もしかしたら、龍国公様に会えるかもしれない。
そう思っただけで、頬が熱くなる。
「別に、ただ届けるだけよ」
誰に言うでもなく呟くと、景明の眉がわずかに上がった。
「何も聞いていないぞ」
「聞いてないなら、その顔をやめて」
「どの顔だ」
「全部分かっているような顔」
景明は少しだけ笑った。
その様子を見ていた侍女の一人が、小さく頬を染めながら目を伏せる。
星揺はそれに気づき、眉をひそめた。
兄は、こういうところがずるい。
無愛想ではない。
けれど、必要以上に愛想を振りまくこともない。
それなのに、落ち着いた物腰と端正な顔立ちのせいで、黙っているだけでも周囲の娘たちの視線を集める。
昨日の茶会で令嬢たちが頬を染めていた理由も、分からなくはなかった。
分かりたくはないけれど。
景明は星揺へ視線を戻し、念を押すように言った。
「直接、龍将軍か景雲様へ渡してくれ」
「分かったわ」
「それから、侍女を一人連れて行け」
「もちろん」
星揺は少しむっとして答えた。
「私だって、一人で出歩くほど無茶はしないわ」
景明の目が、わずかに疑わしげになる。
「……本当か?」
「兄上」
「心配しているだけだ」
「その心配の仕方が失礼なの」
星揺はそう言いながら、近くに控えていた侍女へ声をかけた。
「ねぇ、一緒に来てくれる?」
「はい、お嬢様」
侍女はすぐに礼をした。
景明はそれを見届けてから、さらに言った。
「途中で余計なことに首を突っ込むなよ」
「兄上、私を何だと思っているの」
「心配しているだけだ」
さらりと言われ、星揺は一瞬言葉に詰まった。
景明はそれ以上何も言わず、支度を整えて王宮へ向かってしまう。
星揺は書状を胸に抱え、小さく息を吸った。
「余計なことなんて、しないわよ」
そう呟いた声は、自分でも少し浮かれて聞こえた。
侍女が隣で、そっと微笑む。
「お嬢様、日差しが強うございます。日傘をお持ちいたしますね」
「うん、お願い」
星揺は頷いた。
龍国公府へ行く。
ただ書状を届けるだけ。
そう分かっているのに、胸は落ち着かなかった。
◇◇
龍国公府は、いつ訪れても静かだった。
裴家の馬車が大きな門をくぐると、外の喧騒が遠ざかっていく。
庭には濃い緑の木々が並び、陽の当たる場所と影になる場所がはっきりと分かれていた。
日差しの強い道には、厚い布の日除けが渡されている。
龍家の者たちが、いかに陽を避けて暮らしているのか。
星揺にも、少しずつ分かるようになってきていた。
車寄せで馬車を降りると、龍家の侍女がすぐに出迎えた。
星揺は裴家から連れてきた侍女とともに、奥の客間へ通される。
しばらくして、景雲が現れた。
「裴星揺様」
「景雲様」
星揺は礼をした。
「兄の代わりに参りました。父から龍国公様へお渡しするようにと」
「承知いたしました」
景雲が書状を受け取ろうとした時、奥の戸が静かに開いた。
その姿を見た瞬間、星揺の胸は勝手に高鳴った。
龍昊然だった。
室内にいるため、厚い布で日差しを遮った窓のそばに立っている。
黒い衣。静かな瞳。整った横顔。
星揺は思わず背筋を伸ばした。
「龍国公様」
昊然の視線が星揺へ向く。
「星揺」
名を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
いけない。
昨日、自分の気持ちを認めたばかりだからだろうか。
今までなら、もっと普通に話せていたはずなのに。
昊然を前にすると、何を言えばいいのか分からなくなる。
星揺は慌てて書状を差し出した。
「兄の代わりに参りました。父からです」
「ああ」
昊然は書状を受け取った。
その指先がほんの一瞬、星揺の指に触れた。
たったそれだけなのに、星揺の頬へ熱がのぼる。
昊然はすぐに手を離した。
「景明は王宮か」
「はい。父も軍務の者と話しておりまして」
「そうか」
昊然の声はいつも通り静かだった。
けれど、その目はどこか柔らかい。
星揺はそれに気づいて、余計に落ち着かなくなった。
昊然は景雲へ目を向けた。
景雲が静かに近づき、封を確認する。
「問題ございません」
昊然は頷き、その場で封を切った。
星揺は、その横顔を見つめないようにした。
けれど、どうしても見てしまう。
伏せた目元。紙面を追う指先。わずかに寄せられた眉。
ただ書状を読んでいるだけなのに、なぜこんなに目を引くのだろう。
星揺は内心で慌てて視線を逸らした。
「昨日、裴家で茶会があったと聞いた」
書状から目を上げず、昊然が言った。
星揺ははっとする。
「はい。兄の婚姻相手候補の方々がいらしていました」
「疲れたか」
「少し」
星揺は正直に答えた。
「令嬢方は皆、にこにこしているのに、目だけは笑っていませんでした」
昊然の口元が、わずかに緩む。
「お前も笑っていなかったのではないか」
「私は正直者なので」
「それは自慢か」
「はい」
昊然が小さく息を吐いた。
呆れたようでいて、どこか楽しそうだった。
星揺はその表情を見て、胸が少しだけ温かくなる。
やっぱり、好きだと思った。
この人の隣にいると、緊張するのに、安心する。
怖い人だと思っていたはずなのに、今は近くにいられるだけで嬉しい。
「返書を整える」
昊然が景雲へ書状を渡す。
「少し待て」
「はい」
星揺は頷いた。
その時だった。
廊下の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
案内の侍女が、誰かを連れている。
星揺は何気なくそちらを見た。
そして、息をのんだ。
腰を越えるほど長い黒髪は、歩くたび静かに揺れる。
その黒髪は、光を受けると銀色の艶を帯び、夜の水面のように滑らかだった。
白い肌。薄紫を含んだ灰色の瞳。
華やかに着飾っているわけではない。
けれど、そこに立つだけで、周囲の空気がすっと整う。
春華の美しさが百合の花のような清らかさなら、この人は月明かりに浮かぶ蘭のようだった。
静かで、凛としていて、近づきがたい。
星揺は思わず見つめてしまった。
女も星揺へ視線を向ける。
薄紫を含んだ灰色の瞳が、静かに星揺を映した。
その目には、敵意も好意もない。
ただ、知らないものを見るような静かな観察があるだけだった。
昊然の足が止まる。
「桃天」
その名を聞いた瞬間、星揺の胸がどくんと鳴った。
桃天。
同時に昨日、卯麗が言っていた言葉が蘇る。
――龍国公様には、とうに決められた方がいらっしゃるのよ。
もしかして、この人が。
星揺は、そう思った。
本人に確かめたわけではない。
けれど、名を聞いた瞬間、胸の奥で何かがつながってしまった。
桃天は昊然へ向き直り、静かに礼をする。
「お久しぶりでございます、昊然様」
「ああ」
昊然の声は短い。
「王都へ戻ったのか」
「はい。昨日、北の別邸より」
「夏に戻るつもりはないと聞いていたが」
「そのつもりでございました」
桃天は淡々と答えた。
「夏の王都は、私には少々騒がしく、陽も強うございますので。冬まで北に留まるつもりでした」
「ならば、なぜ戻った」
「長老方が、どうしてもとうるさく」
その言い方は静かだったが、わずかに面倒そうでもあった。
「私の名で勝手に話を進められても困りますので」
昊然の黒い瞳が、わずかに冷える。
「また、その話か」
「ええ」
桃天はそこで、初めて星揺へ視線を移した。
「こちらの方は?」
星揺は慌てて礼をした。
「裴家の星揺と申します。本日は兄の代わりに、父からの書状を届けに参りました」
「裴家の」
桃天は小さく繰り返す。
「龍桃天と申します」
その声は涼やかだった。
星揺はもう一度、礼をする。
「桃天様」
名を口にしただけで、胸が少し痛んだ。
この人が、龍国公様の隣に立つかもしれない人。
だとしたら、勝てない。
何に勝つつもりなのかも分からないのに、そう思ってしまう。
家格も、血筋も、教養も。
そして、あの揺らがない佇まいさえも。
昊然の隣に立つ人がいるなら、この人ほど自然に見える人はいないのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
昊然は星揺へ視線を向ける。
「星揺」
「はい」
「返書が整うまで、控えの間で待て」
星揺は一瞬だけ固まった。
「あ……はい」
昊然は近くに控えていた侍女へ命じる。
「裴星揺を控えの間へ」
「承知いたしました」
星揺は、もう一度昊然と桃天へ礼をした。
「失礼いたします」
昊然が星揺を見ている。
ほんの一瞬だけ。
その視線は、いつものように静かで、けれどどこか心配するような色があった。
星揺はそれに気づいた。
そして、桃天もまた、その視線に気づいていた。
◇◇
龍家の侍女に案内され、星揺は控えの間へ向かった。
裴家から連れてきた侍女も、少し後ろを静かについてくる。
その途中、曲がり角の向こうから、別の侍女たちの声がかすかに聞こえてきた。
「桃天様がお戻りになられたのね」
「ええ。長老方が、どうしてもとお呼びしたそうよ」
「お似合いだわ」
「やはり、龍国公様の……」
そこまで言って、侍女ははっとしたように口を閉ざした。
星揺たちが近づいていることに気づいたのだろう。
もう一人の侍女が、小さく咳払いをする。
案内の侍女は何も聞こえなかったように歩みを進め、控えの間の前で足を止めた。
「こちらでお待ちくださいませ」
星揺は何も聞かなかったふりをして、控えの間へ入った。
裴家の侍女が心配そうに星揺を見る。
「お嬢様」
「何でもないわ」
星揺はそう答えた。
けれど、胸の中は静かではいられなかった。
――やはり、龍国公様の。
その続きを、星揺は聞いていない。
聞いていないのに、分かってしまう気がした。
婚約者。あるいは、奥方になる方。
卯麗の言葉と、侍女の途切れた声が、胸の奥で重なっていく。
さっきまで、昊然と話せたことが嬉しかった。
名を呼ばれ、少し笑ってもらえて、胸が温かくなった。
それなのに今は、その温かさが遠くなっていく。
星揺は椅子に腰を下ろし、膝の上で手を握った。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
あまりにも、凛とした人だった。
昊然と並んだ姿を思い出す。
黒い衣の昊然と、銀の艶を帯びた黒髪の桃天。
二人とも、俗世の騒がしさから少し離れた場所にいるようだった。
静かで、整っていて、少しも揺らがない。
並んで立つ姿が、あまりにも自然だった。
その光景を思い出すたび、胸の奥がきゅうっと痛む。
星揺は胸元を押さえた。
龍国公様は、桃天様のことをどう思っているのだろう。
好きなのだろうか。
いずれ婚姻するつもりなのだろうか。
そう考えた瞬間、心の中に小さな石がすとんと落ちたような気がした。
「……馬鹿みたい」
小さく呟く。
まだ何も確かめていない。
桃天が本当に卯麗の言っていた相手なのかも分からない。
それなのに、たった一度見ただけで、こんなに胸がざわついている。
星揺は膝の上で手を握った。
自分とは、何もかも違う。
自分はすぐ顔に出る。
怒れば声が大きくなるし、嬉しければ隠しきれない。
あの二人に自分が入り込む隙など、どこにもないように思えた。
星揺は慌てて首を振った。
「だから、何を考えているのよ」
自分で自分を叱る。
別に、昊然の隣に立つと決まったわけではない。
そもそも、自分は昊然に何かを言われたわけでもない。
好きだと気づいたばかりで、勝手に傷ついて、勝手に比べている。
本当に、どうしようもない。
けれど、胸の奥の痛みは消えなかった。
◇◇
その頃、昊然は桃天を客間へ通していた。
桃天は茶碗へ口をつけることなく、静かに置いた。
「夏の王都は、相変わらず息苦しゅうございますね」
「ならば、北へ戻ればいい」
「戻れるものなら、そうしております」
桃天は淡々と返す。
「長老方が、私を戻すことにずいぶん熱心でいらっしゃいましたので」
「私に言われても困る」
「存じております」
桃天は顔色を変えない。
「あなたがこの話を望んでいないことくらいは、分かっております」
昊然は桃天を見た。
「ならば、なぜ来た」
「私の名を使って、私のいないところで話を進められるのは不愉快だからです」
静かな声だった。
「私は飾りではありません。長老方の都合よく置かれるだけの駒になるつもりもございません」
昊然は黙った。
桃天は、昊然個人へ恋慕しているわけではない。
それは昊然にも分かっている。
彼女が見ているのは、龍国公の妻という立場。
龍家の血筋。一族の秩序。
そして、その席へ座るのは自分が最もふさわしいという、揺るぎない自負だった。
「ですが」
桃天は静かに続ける。
「私が龍国公の妻として推されること自体は、当然の流れだと思っております」
昊然の黒い瞳が冷える。
「私は、お前と婚姻するつもりはない」
「あなたが拒むことも、存じております」
桃天は少しも動じなかった。
「けれど、長老方は簡単には退きません。私も、退くつもりはございません」
「桃天」
「家格、血の濃さ、教養。どれを取っても、今の龍家で私以上に龍国公の妻にふさわしい者はおりません」
その声に、誇りはあった。
けれど甘さはない。
恋する女の言葉でもない。
自分の価値と立場を知る者の言葉だった。
「ところで」
「何だ」
「先ほどの娘」
昊然の空気が、わずかに変わった。
桃天はそれを見逃さない。
「裴家の星揺様、と仰いましたね」
「そうだ」
「ずいぶん、あの娘に熱心なのですね」
客間の空気が、静かに張りつめた。
昊然の黒い瞳が桃天へ向く。
「何が言いたい」
「見れば分かります」
桃天は穏やかに答えた。
「あの娘を見る時だけ、あなたの目が少し違う」
「客人に失礼のないようにしただけだ」
「他の客人へも、同じ目を向けますか」
昊然は答えなかった。
桃天は責めるような声ではなかった。
ただ、見たままを静かに告げている。
「私は、あなたがどなたを気にかけようと、構いません」
桃天は言った。
「ですが、あなたは龍家の当主です」
「……」
「当主の情は、時に一族の弱点になります」
昊然の目がさらに鋭くなる。
桃天は気にせず淡々と続けた。
「あの娘が、あなたにとって特別だと周囲に知られたらどうなりますか」
「何が言いたい」
「あなたに恨みを持つ者。龍国公の座を揺るがしたい者。龍家の秩序を変えたい者」
桃天の声は静かだった。
「そういう者たちが、あの娘に目をつけたらどうなるか。あなたなら、お分かりになるはずです」
昊然は答えなかった。
桃天は容赦なく続ける。
「あなたを傷つけるために、あの娘が狙われる。あなたを動かすために、あの娘が利用される。あるいは、あなたを試すために、あの娘の命が天秤にかけられる」
客間の空気が、しんと沈んだ。
「それでも、今の距離のままでいられますか」
昊然の指先が、わずかに動いた。
桃天は、星揺を貶めているわけではなかった。
ただ、当主が見なければならない現実を突きつけている。
「星揺を侮るな」
思わず出た言葉だった。
桃天の薄紫を含んだ灰色の瞳が、わずかに動く。
「侮ってはおりません」
「……」
「あの娘には、不思議な明るさがありました。人間の娘らしい、陽だまりのような温かさも」
桃天は静かに言った。
「だからこそ、危ういのです」
昊然は黙った。
桃天の言葉は厳しい。
けれど、間違ってはいなかった。
「あなたが本当にあの娘を守りたいのなら、距離を置くべきです」
桃天は告げる。
「優しくすることだけが、守ることではありません」
その言葉は、昊然の胸へ重く落ちた。
そんなことは、とうに分かっている。
それでも、星揺が近くにいると、手を伸ばしてしまう。
傷つけば助けたくなる。
泣けば、涙を拭いたくなる。
危うい場所へ向かえば、日傘の中へ入れて守りたくなる。
それがすでに弱点なのだと、昊然自身も気づいていた。
「桃天」
昊然は低く言った。
「この話は終わりだ」
「終わりにしたいのは、あなただけです」
桃天は静かに立ち上がった。
「私は、私の立場を譲るつもりはありません」
昊然はしばらく桃天を見ていた。
「……勝手にしろ」
「ええ」
桃天は深く礼をする。
「そのつもりでございます」
そう言って、桃天は静かに客間を出ていった。
◇◇
返書が整った頃、景雲が控えの間へやって来た。
「お待たせいたしました」
星揺ははっとして立ち上がる。
「いえ。ありがとうございます」
景雲は書状を差し出した。
「こちらを裴将軍へ」
「承りました」
星揺は両手で受け取る。
そのまま帰るのだと思うと、胸の奥が少し沈んだ。
昊然には、もう会えないのだろうか。
けれど会ったところで、何を話すつもりなのだろう。
分からない。
けれど、会えないと思うと寂しかった。
「馬車までお送りいたします」
景雲が静かに言った。
星揺は驚いて顔を上げる。
「景雲様が?」
「はい。昊然様のご命令です」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛む。
馬車まで送ってくれるのはありがたい。
景雲に不満があるわけではない。
けれど。
先ほどまで昊然と話せていたぶん、もう会えないのだと思うと、胸の奥がすうっと沈んでいくようだった。
「ありがとうございます」
星揺は礼をした。
景雲は何も言わず、静かに先へ立つ。
裴家の侍女も、星揺の後ろに控えたままついてきた。
控えの間を出て、車寄せへ向かう回廊を進む。
外へ出る手前で、控えていた侍従が黒い日傘を差し出した。
景雲はそれを受け取ると、慣れた仕草で頭上へ掲げる。
夏の光が、日傘の縁で遮られた。
薄い影が、景雲の肩と横顔を覆う。
星揺はそれを見て、龍家の者なのだと改めて思った。
昊然だけではない。
景雲もまた、龍家の者なのだ。
龍家の者は皆、陽の下ではこうして身を守っている。
そう思うと、昊然の黒い日傘の姿が、また胸の奥に浮かんだ。
裴家から乗ってきた馬車は、車寄せに用意されていた。
御者が手綱を整え、星揺たちを待っている。
景雲は馬車のそばで足を止めた。
「どうぞ、お気をつけてお戻りください」
「はい」
星揺は頷いた。
けれど、そのまま馬車へ乗り込むことができなかった。
どうしても、気になってしまう。
龍桃天。
昊然が名を呼んだ時の、自然な響き。
それが胸の中で何度も繰り返される。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
星揺は返書の包みを胸の前でぎゅっと握った。
「あの、景雲様」
景雲が静かに視線を向ける。
「はい」
「桃天様は……」
そこまで言って、星揺は言葉に詰まった。
聞いていいことなのだろうか。
こんなことを尋ねたら、自分の気持ちまで見透かされてしまうのではないか。
けれど、聞かずにはいられなかった。
星揺は少しだけ声を落とす。
「あの方は、龍家の侍女の方が話していた……その、龍国公様の婚約者の方、なのですか」
最後の方は、消え入りそうな声になった。
景雲は一瞬、答える言葉を選ぶように間を置いた。
日傘の影が、彼の表情をわずかに暗くしている。
「正式な婚約者ではございません」
星揺は顔を上げる。
「そうなのですか」
「はい」
景雲ははっきりと言った。
「少なくとも、昊然様がその話をお受けになった事実はございません」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
けれど、完全には晴れない。
星揺は小さく息を吐いた。
「では……どういう方なのですか」
「龍家の古い分家の方です」
「分家……」
「はい。昊然様の父方の遠縁にあたります。血筋も家格も高く、礼法や学問にも通じておられる方です」
星揺は唇を結んだ。
聞かなければよかった。
そう思うのに、耳は続きを待ってしまう。
景雲は静かに続けた。
「長老方からは、龍国公様の奥方にふさわしい方だと見られています」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
卯麗の言葉と、侍女の声と、今の景雲の言葉がつながる。
決められた方。
やっぱり、そうなのかもしれない。
星揺は無理に笑った。
「そうなのですね」
景雲はその表情を見て、少しだけ眉を動かした。
「ですが、先ほど申し上げた通り、正式な婚約者ではございません」
「はい」
「昊然様が、その話をお受けになった事実もございません」
景雲はもう一度、静かに告げた。
まるで、星揺を安心させるように。
「……そうなのですね」
星揺は小さく礼を言った。
けれど、胸の奥に残った痛みは消えなかった。
正式な婚約者ではない。
でも、長老たちがふさわしいと考えている人。
龍家の者たちが認める人。
それだけで、星揺には十分すぎるほど遠い存在だった。
星揺は馬車へ乗り込む。
裴家の侍女も続いて乗り、御者が静かに手綱を取った。
馬車がゆっくりと動き出す。
星揺は小さな窓から、龍国公府の門の方を振り返った。
黒い日傘を差した景雲が、車寄せに立っている。
その姿が少しずつ遠ざかっていく。
ことん、ことん、と車輪が石畳を越える音がした。
来る時は、あんなに胸が弾んでいたのに。
今は、胸の奥がしんと沈んでいる。
車輪の音に合わせるように、桃天の姿が何度もまぶたの裏に浮かんだ。
銀の艶を帯びた黒髪。薄紫を含んだ灰色の瞳。
昊然の隣に立っても、少しも違和感のない姿。
星揺は返書の包みを胸に抱えたまま、そっと目を伏せた。
帰りの馬車の中では、桃天の凛とした姿ばかりが、まぶたの裏に残っていた。
◇◇
龍国公府の書房で、昊然は一人、灯の下に座っていた。
卓の上には、玄烈の別邸に関する調査の書状が並んでいる。
秀蓮。周静蘭。清遠。
玄烈の周囲には、まだ形にならない不穏な影がいくつもあった。
本来なら、それだけを見ていなければならない。
それなのに、昼間に見た星揺の顔が頭から離れなかった。
桃天を見た時の、驚いた顔。
名を聞いた瞬間、わずかに揺れた瞳。
もしかしたら傷つけたかもしれない。
けれど近づけば、もっと危うくなる。
桃天の言葉が蘇る。
――あなたに恨みを持つ者が、あの娘に目をつけたらどうなるか。
昊然は目を閉じた。
星揺を守りたい。
危険な目には遭わせたくない。
それだけなのに。
守るために遠ざけることが、これほど苦しいとは思わなかった。
戸の外から、景雲の声がした。
「昊然様」
「入れ」
景雲が静かに入室する。
「星揺様を、無事に馬車までお送りいたしました」
「ああ」
昊然は短く答えた。
景雲は少しだけ迷ったあと、口を開く。
「星揺様は、桃天様のことをお尋ねになりました」
昊然の指が止まる。
「いつだ」
「馬車までお送りした際にございます」
「何と答えた」
「正式な婚約者ではないこと。昊然様がその話をお受けになった事実はないこと。それから、桃天様が龍家の古い分家の方で、血筋も家格も高く、長老方から奥方にふさわしい方だと見られていることを」
昊然は目を伏せた。
「そうか」
景雲はさらに続ける。
「星揺様は、気にしておられました」
昊然は何も言わない。
景雲は頭を下げる。
「差し出がましいことを申し上げました」
「いや」
昊然は低く答えた。
「分かっている」
昊然は窓の外を見た。
厚い布に覆われた向こう側で、夜が静かに深まっている。
星揺の笑顔を思い出す。
陽だまりのように、まっすぐで温かい笑顔。
龍家の暗い屋敷にはない光。
その光を失いたくないからこそ、昊然は手を伸ばせなかった。
「景雲」
「はい」
「しばらく、星揺に関わる私的なやり取りは、お前が間に入れ」
景雲はわずかに目を伏せた。
「承知いたしました」
昊然はそれ以上何も言わなかった。
灯の火が、小さく揺れる。
玄烈が王都を離れている、わずかな三日間。
ほんの少し自由になったはずの時間の中で、星揺と昊然の距離は、静かに離れ始めていた。




