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三十四話 令嬢の忠告



春華が屋敷へ戻ったのは、夕暮れを少し過ぎた頃だった。


雨はすでに上がっていたが、庭の石畳にはまだ水が残っている。

草木の葉先から雫が落ち、初夏の湿った風が回廊を通り抜けていた。


星揺は自室へ戻る途中で、春華の姿を見つけた。


「姉上」


春華は足を止める。


薄桃色の外衣は、裾のあたりがまだ少し濡れていた。

髪も完全には乾いておらず、頬には雨に濡れたせいだけではない淡い赤みが残っている。


「雨に降られたの?」


「ええ。急に降り出してしまって」


春華はいつものように穏やかに微笑んだ。

けれど、その笑みが少し違う。


星揺は、じっと姉を見つめる。


「……姉上」


「なあに?」


「何か、いいことがあった?」


春華の睫毛が、わずかに揺れた。

それから、困ったように目を伏せる。


「雨が止んで、ほっとしているだけよ」


星揺は黙った。


それがすべてではないことくらい、分かっていた。

けれど、春華が話さないのなら、今は聞かない方がいい。


そう思い、星揺は小さく息を吐いた。

そして姉の袖を、そっと摘まむ。


「風邪をひいてしまうわ。早く着替えないと」


「ええ」


春華は少し笑って頷いた。

その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。


     ◇◇


翌日。


裴家の庭では、景明の婚姻相手候補を招いた茶会が開かれていた。


夏の陽は強く、庭の中央には大きな布の日除けが張られている。

その下に円卓が置かれ、涼しげな青磁の器と、季節の菓子が並べられていた。


薄い衣をまとった令嬢たちが、扇を手に微笑み合っている。

けれど、笑顔の奥では、それぞれが相手を見定めていた。


家柄。容姿。立ち居振る舞い。


そして、景明の視線が誰へ向くのか。


星揺は鈴花と並んで、少し離れた場所からその様子を見ていた。


「婚姻相手を選ぶ茶会って、もっと穏やかなものだと思ってたわ」


星揺が小声で言うと、鈴花は苦笑した。


「十分穏やかに見えるけど」


「表だけよ」


星揺は扇の陰から、令嬢たちを見る。


「皆、目が全然笑ってないじゃない」


「星揺も人のことは言えないわ」


「私は笑ってないもの」


「そこは威張るところではないと思う」


鈴花が静かに返す。


その時、庭の入口に一人の令嬢が現れた。


涼やかな薄紫の衣。

高く結い上げた髪には、銀の簪が差されている。

整った顔立ちに、隙のない微笑み。


空卯麗だった。


彼女を見た瞬間、星揺の眉がぴくりと動く。


「来た」


「顔に出ているわ、星揺」


鈴花が小さく注意する。


「出してるの」


「空家から正式な詫びが入ったとはいえ、あなたにとっては簡単に笑って迎えられる相手ではないものね」


「ええ。謝れば何でもなかったことになるわけじゃないわ」


星揺はむっとしたまま、卯麗を見た。


「それなのに、どうして兄上の茶会に来るのよ」


「家同士のこととなると、完全に無視するわけにもいかないのでしょう」


「面倒ね」


「顔に出ているわよ」


「出してるの」


星揺がもう一度言うと、鈴花は小さく笑った。


卯麗は庭へ入ると、景明へ丁寧に礼をした。


その所作は美しい。

悔しいが、礼儀作法に隙はなかった。


景明も穏やかに応じる。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます」


「お招きにあずかり、光栄にございます」


卯麗はそう答え、涼しい顔で席へ向かった。

以前、星揺に酒を浴びせた時の荒さは、今は少しも見えない。


星揺はむっとした。


「猫をかぶってる」


「声が大きい」


鈴花が囁く。


卯麗は席についたあと、一度だけ星揺へ視線を向けた。


目が合う。


にこり。


卯麗は美しく微笑んだ。

星揺も、負けじとにこりと笑い返した。


もちろん、目はまったく笑っていなかった。


     ◇◇


茶会は、表向きは穏やかに進んだ。


景明は令嬢たちへ公平に言葉をかけ、誰か一人へ特別な関心を示すことはなかった。

それでも令嬢たちは、わずかな声の調子や視線の長さを見逃すまいとしている。


星揺は途中から、少し疲れてきた。


「兄上も大変ね」


「そうね」


鈴花が頷く。


「でも、景明兄様は落ち着いていらっしゃるわ」


「昔からそうでしょ。腹が立つくらい落ち着いているのよ」


「そこは褒めるところじゃない?」


「褒めてるでしょ」


星揺がそう言った時、後ろから声がした。


「相変わらず、随分と気の強いお口ですこと」


星揺が振り返ると、そこに卯麗が立っていた。


手には扇。

口元は隠しているが、目だけはまっすぐ星揺を見ている。


鈴花が一歩、星揺の隣へ寄った。


「空様」


星揺は礼をする。


「先日はどうも」


卯麗の眉が、わずかに動いた。

酒を浴びせた件を思い出したのだろう。


卯麗は扇を少し下げ、星揺を見た。


「……あの時のことは、悪かったわ」


星揺は目を瞬かせる。


「お酒をかけたことですか」


「ええ」


卯麗はわずかに視線を逸らした。


「感情的になったとはいえ、人前であのような真似をしたのは、私も浅はかでした。そこは謝ります」


星揺はしばらく卯麗を見つめた。


素直に許すと言うには、まだ腹立たしい。

けれど、謝罪を無視するほど子どもでもない。


「……謝罪は受け取ります」


卯麗は小さく頷いた。

けれど、その表情が柔らかくなることはなかった。


「……罪滅ぼしと言っては何ですけれど、貴方に一つ忠告して差し上げます」


「忠告?」


星揺の眉が、わずかに寄る。

卯麗は周囲へ視線を流した。


「人に聞かれない方が、貴方のためだと思うのだけど」


「……二人で、ということですか?」


星揺の声には、明らかな警戒が滲んでいた。

その顔を見て、卯麗は一瞬だけ目を細める。


「何もしないわ」


「そう言われると、余計に不安です」


鈴花が扇の陰で、こらえるように小さく息を吐いた。


星揺はしばらく卯麗を見つめていたが、やがて肩の力を抜いた。


「聞かれて困るお話なら、なおさら聞きたくありません」


卯麗はしばらく星揺を見つめたあと、ふっと笑った。


「本当に、用心深い方ですこと」


「以前のことがありますので」


「……それについては謝ったわ」


「謝罪は受け取りました。警戒を解くとは言っていません」


卯麗は言葉を詰まらせた。

鈴花が今度こそ、扇の陰で小さく笑いかける。

卯麗は少しだけ顔を背け、気を取り直すように扇を開いた。


「では、少しだけで結構です」


星揺は鈴花を見た。

鈴花は心配そうにしていたが、星揺が頷くと、それ以上止めなかった。


二人は日除けの外れ、庭の池のそばへ移動した。

夏の陽が水面に反射し、白く眩しい光を揺らしている。

卯麗は池へ視線を落としたまま、静かに口を開いた。


「貴方、龍国公様とずいぶん親しくなさっているそうね」


星揺の胸が、どくんと鳴った。

扇を握る指先に、ぎゅっと力が入る。


「誰からそのようなことを?」


「噂は流れるものです」


卯麗は星揺を見る。


「黒い日傘の方に助けられたとか。王宮で言葉を交わしたとか。公主殿下の見送りでも、そばにいらしたとか」


星揺は、すぐには答えなかった。


言い返すことならできる。

けれど卯麗の口から昊然のことが出た瞬間、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなっていた。


「それが何か」


ようやく出した声は、思ったよりも硬かった。

卯麗は美しい顔に、薄い笑みを浮かべた。


「罪滅ぼしのつもりで忠告しているの。貴方が恥をかく前に」


星揺の目がすっと細くなる。

卯麗は、まるで世間話でもするような声で続けた。


「龍国公様には、とうに決められた方がいらっしゃるのよ」


星揺は、一瞬、息をすることを忘れた。


それまで聞こえていた周囲の音も、すっと遠のいていく。


令嬢たちの笑い声も。

器が触れ合う澄んだ音も。

風に揺れる葉擦れの音も。


すべてが薄い膜の向こうへ行ってしまったようだった。


「……決められた方?」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


卯麗は頷いた。


「龍家には龍家の決まりがあります。龍国公様ほどのお方なら、なおさら。どこの娘とも好きに縁を結べるわけではありません」


「それは……どなたのことですか」


星揺は尋ねた。

平静を装ったつもりだった。


けれど、声の端がわずかに震えていた。


「名までは存じません」


少しだけ悔しそうに目を伏せる。


「けれど、空家から縁談を願い出た時、龍家には龍家の事情があると、遠回しに断られました」


星揺は唇を結んだ。


龍家の事情。


その言葉が、胸の奥へ冷たい水のように落ちていく。


卯麗は、昊然を見ていたのだ。

そう気づいた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。


卯麗は星揺の表情を見逃さなかった。


「私でさえ、手が届かなかった方です」


その声は静かだった。

けれど、鋭い針のように星揺へ刺さる。


「裴家の末娘が少し優しくされたくらいで、勘違いなさらない方がよろしいわ」


いつもなら、すぐに言い返せた。


何を勝手なことを。私の何を知っているの。


そう言えるはずだった。


けれど、喉の奥がきゅっと詰まり、声が出ない。

頭に浮かぶのは、黒い日傘の下に立つ昊然の姿だった。


母の簪を拾い上げてくれた手。

「一人で歩くな」と低く告げた声。

昭華を見送った日、涙を拭ってくれた指先。


――泣くなら、下を向くな。


あの時の声が、胸の奥で何度も響いた。


その昊然の隣に、自分ではない誰かが立つかもしれない。


自分よりずっと昊然にふさわしい女性。

昊然が、その人へ日傘を傾ける。

その人の涙を拭う。

その人の名を、静かな声で呼ぶ。


想像しただけで、胸がぎゅっと苦しくなった。


嫌だった。


昊然の隣に、自分ではない誰かが立つことが。

昊然が、その人を見て微笑むことが。

自分の知らない場所で、誰かのものになることが。


嫌で、苦しくて、胸が痛かった。


なぜ。


どうして、こんなに苦しいのだろう。


ただ助けられただけ。

少し言葉を交わしただけ。

心配してもらっただけ。


それだけのはずだった。


それなのに、もう、それだけでは済まなくなっていた。


卯麗は、星揺が黙ったのを見て、扇をぱちりと閉じ、軽く顎を上げる。


「貴方のために申し上げたの。龍国公様は、憧れだけで近づいてよいお方ではありません」


星揺は、ゆっくりと息を吸った。

胸はまだ痛い。

けれど、ここで俯くのは嫌だった。


泣くなら、下を向くな。


昊然の声が、こんな時に胸の奥に蘇る。


星揺は顔を上げた。


「ご忠告、ありがとうございます」


卯麗の目がわずかに動く。

星揺は、まっすぐ卯麗を見返した。


「ただ、私が誰をどう想うかは、私が決めます」


卯麗の笑みがスッと消えた。


「裴星揺様」


「龍国公様に、決められた方がいらっしゃるかどうかを、私はご本人から聞いておりません」


星揺の声は、もう震えていなかった。


「ですから、ご心配なさらないでください」


卯麗は一瞬、言葉を詰まらせた。

星揺は丁寧に礼をする。


「茶会へ戻ります。兄とお話しになるおつもりでしたら、どうぞお早めに」


そう言って、星揺は踵を返した。


背筋は伸ばしたまま。

けれど、胸の中は嵐のようだった。

どくどくと鳴る鼓動が、まだ耳の奥に響いている。


昊然の隣に誰かが立つ。

その想像だけで、こんなにも苦しくて落ち着かない。


それが何なのか、星揺はもう気づきかけていた。


     ◇◇


茶会が終わる頃には、星揺はすっかり疲れていた。


令嬢たちはそれぞれ帰り支度をし、景明は父と共に見送りへ出ている。

卯麗も最後まで美しい礼を崩さず、裴家を去っていった。


星揺は回廊の柱にもたれ、小さく息を吐いた。


「星揺」


鈴花が隣へ来る。


「大丈夫?」


「うん?」


「空様と話してから、様子が変だったわ」


星揺は扇を閉じたり開いたりした。

ぱちん、ぱちん、と乾いた音が、やけに耳につく。


まったく落ち着かない。

胸の奥がまだざわついている。


「別に」


「別に、という顔ではないわ」


鈴花は静かに言った。


星揺はしばらく黙っていた。


庭では、茶会で使った器が片づけられている。

夏の陽は少し傾き、木々の影が長く伸びていた。


やがて星揺はぽつりと言った。


「龍国公様には、決められた方がいるんですって」


鈴花の目が、わずかに見開かれる。


「誰が、そう言ったの」


「空卯麗様」


「それは、本当なの?」


「知らない」


星揺は首を横へ振る。


「でも、空家から縁談を出したら、龍家には龍家の事情があると、遠回しに断られたと言っていたわ」


鈴花は少し考え込む。


「龍家の事情は、私たちには分からないわね」


「そうね」


「でも、それを聞いて、あなたは傷ついたのね」


星揺はすぐに否定しようとした。


「違うわ」


言ってから、胸がずきりと痛んだ。


違う。


本当に違うのだろうか。


卯麗に言われた瞬間、息ができなくなった。

昊然の隣に誰かがいる想像だけで、胸が苦しくなった。


それを、ただの感謝や憧れと呼ぶには、もう無理があった。


鈴花は急かさず、隣で待っていた。


星揺は扇を握りしめる。

ぱちん、と骨が小さく鳴った。


「……違わない」


小さな声だった。


鈴花が星揺を見る。

星揺は庭の向こうへ視線を向けたまま、もう一度言った。


「違わないわ」


胸の奥へ落ちていたものが、ようやく形を持った。


怖いほど、はっきりと。


「私……龍国公様が好き」


言葉にした瞬間、顔がかっと熱くなった。


けれど、不思議と胸の中は少しだけ軽くなった。

ずっと分からないふりをしていたものに、ようやく名前をつけられた気がした。


鈴花は、驚いたように目を瞬かせたあと、柔らかく微笑んだ。


「そう」


「驚かないの?」


「少し前から、そうじゃないかと思っていたから」


「……嘘でしょう」


「本当よ」


星揺は恥ずかしさで扇を顔へ押し当てた。


「私、そんなに分かりやすい?」


「龍国公様のお名前が出るたび、少しだけ顔が変わってたわ」


「変わってない」


「変わってた」


鈴花が穏やかに言う。

星揺は何も言い返せなくなった。


しばらくして、扇の陰から小さく呟く。


「……でも、龍国公様には決められた方がいるかもしれないって」


「それは、本人に確かめたわけではないでしょ」


「そう、だけど」


「なら、今すぐ諦める必要はないわ」


星揺は扇を少し下げた。


「ただし、無茶はしないで」


鈴花は真面目な顔で続ける。


「龍家には、私たちには分からないことが多いから」


「……うん」


「星揺はまず、自分の気持ちを大事にしたらいいと思う」


星揺は黙って頷いた。


自分の気持ち。

ようやく見つけてしまったもの。


見つけた瞬間から、苦しくて、怖くて、でも手放したくないもの。


「私、どうすればいいの」


星揺が呟く。

鈴花は少し考え、真面目な顔で言った。


「まずは、龍国公様と普通にお話しできる機会を増やすとか」


「普通に?」


「ええ」


「普通って、どうすればいいの」


鈴花は少し黙った。

そして、なぜか視線をそらす。


「……恋に関する本を、いくつか読んだことがあるわ」


星揺はぱっと顔を上げた。


「持っているの?」


「私のではないわよ?」


「貸して」


「まだ何も言っていないわ」


「貸して」


星揺の目が真剣になった。

鈴花はその勢いに押され、困ったように笑う。


「分かったわ。ただし、書いてあることを全部そのまま実行してはいけないわよ」


「どうして?」


「たぶん、星揺がやると少し大変なことになるから」


「失礼ね」


星揺はむっとした。


けれど、先ほどまでの沈んだ顔ではなかった。

鈴花はそれを見て、少しだけ安心する。


星揺はもう一度、庭の向こうを見た。

夕方の光が、葉の隙間からこぼれている。


龍国公様には、決められた方がいる。


卯麗の言葉は、まだ胸の奥に刺さっていた。

けれど、それ以上に強く、星揺の中で新しい想いが息づいている。


会いたい。話したい。

あの人の隣に、誰かが立つのを想像したくない。


その気持ちを、もうなかったことにはできなかった。


星揺は扇を閉じる。


「鈴花」


「何?」


「私、諦めるのは嫌」


鈴花は静かに頷いた。


「うん」


星揺は顔を上げた。


夏の風が、回廊を吹き抜ける。

その風の向こうに、黒い日傘の影が浮かんだ。


自分の胸がまた高鳴るのを感じながら、星揺は小さく息を吸った。


もう、違うとは言えなかった。

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