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三十三話 進む想い



玄烈が王都を離れて、一日が過ぎた。


秀蓮の祖母を郷へ送り届けるため、玄烈は数日ほど王都を空けている。


その不在は、清遠にとって思いがけない隙となった。


春華へ近づくことは、もともと玄烈に命じられた役目だった。

裴家の娘へ近づき、信頼を得る。

春華が清遠へ心を許せば許すほど、裴家へ入り込む糸は強くなる。


それは、玄烈にとって都合のよいことだった。


けれど今、清遠の想いは、もう任務ではなくなっていた。


春華へ向ける目。言葉を選ぶ間。

文を受け取った時の、わずかな表情の揺れ。


玄烈がそれに気づかぬはずがない。


近頃は、清遠の周囲にも、さりげなく人の目が置かれていた。


廊下ですれ違う従者。

外出先で、少し離れて歩く龍家の者。


清遠がどこまで春華へ傾くのか。

玄烈は静かに見極めようとしていた。


だが今は、その目がわずかに薄い。

この機を逃せば、次にいつ春華へ会えるか分からない。


夜明け前。


清遠は静かに筆を執った。

長い言葉は書けなかった。


会いたい。


本当は、その一言で十分だった。


けれど、その一言だけでは、胸の内をすべてさらけ出してしまうようで、どうしても書けなかった。


清遠は筆先を止め、しばらく白い紙を見つめた。


やがて、短く書く。


――明日、東の白橋にて。少しだけ、お会いできませんか。


それが、今の清遠に書ける精一杯だった。

文を折り、信頼できる下男へ託す。

戸が閉まる音を聞いたあと、清遠は深く息を吐いた。

もう、自分の心を知らないふりはできなかった。


春華に会いたい。


ただ、それだけだった。


     ◇◇


翌日。


東の白橋には、一頭の馬が静かに佇んでいた。


白い石で造られた橋の下を、細い川が流れている。

薄雲越しの光を受けた川面はきらきらと揺れ、橋のたもとでは柳の葉が風にさらさらと音を立てていた。


清遠は馬のそばに立ち、橋の向こうへ視線を向けていた。


日除け笠の影が、その横顔を淡く隠している。

手綱を持つ手には、黒い手袋が嵌められていた。


やがて、淡い色の衣が見える。


春華だった。


春華も清遠の姿に気づくと、歩みを少しだけ速めた。

乱れないようにしているのに、足取りの軽さだけは隠しきれていない。


「清遠様」


春華が静かに名を呼ぶ。


「春華様」


清遠も礼を返した。


ほんの数日会わなかっただけなのに、顔を見た瞬間、胸の奥に絡んでいたものがほどけていく気がした。


春華も同じだったのか、清遠を見上げる目元が、いつもより柔らかい。


清遠はその表情を見て、言葉を失いかけた。


会いたかった。


そう言いそうになって、かろうじて飲み込む。


「遠くまで歩かせてしまいましたね」


「いいえ」


春華は小さく首を横へ振った。


「清遠様にお会いできると思えば、少しも遠くありませんでした」


清遠の瞳が、わずかに揺れる。

その一言だけで、胸の奥に押し込めていた想いが溢れそうになる。


けれど彼は、静かに手を差し出した。


「少し、川沿いを進みませんか」


春華は馬を見て、それから清遠の手を見た。


「一頭で、ですか」


「はい」


清遠の声が、少しだけ低くなる。


「私が後ろにおります。怖ければ、すぐに戻ります」


春華の頬に、淡い赤みが差した。

けれど、逃げるような仕草はなかった。


「……お願いいたします」


春華は、そっと清遠の手に自分の手を重ねた。


黒い手袋越しに触れた清遠の手は、温かかった。

その温もりに、春華の胸がそっと揺れる。


けれど、春華を支える力は確かだった。


清遠は先に馬へ跨がり、春華を前へ乗せた。

春華は背を伸ばし、両手を控えめに前へ置く。

清遠はその背後で手綱を握った。


馬がゆっくりと歩き出す。


ぱから、ぱから。


蹄の音が、静かな川沿いの道へ響く。


馬が揺れるたび、春華の肩がかすかに清遠の腕へ触れた。

そのたびに、春華の耳がほんのり赤くなる。


清遠は気づかぬふりをした。

だが、手綱を握る手袋の指先には、知らず力がこもっていた。


     ◇◇


川沿いの道は、王都の喧騒から少しずつ離れていった。


遠くに見えていた屋根の連なりは低くなり、代わりに青い草と、風に揺れる柳が目に入るようになる。


春華は前を向いたまま、そっと息を吐いた。


「静かな場所ですね」


「人目が少ない方が、落ち着くかと思いまして」


「清遠様が選んでくださったのですか」


「はい」


春華は小さく微笑んだ。


「嬉しいです」


ただそれだけの言葉だった。

けれど、清遠の胸には深く響いた。


春華は、清遠の想いを知らないわけではない。

けれど、すべてを知っているわけでもなかった。


それでも、今この瞬間、彼女は清遠のそばにいることを喜んでくれている。


清遠はその事実に、どうしようもなく救われていた。


道端には、小さな白い花がいくつも咲いていた。

春華はそれを見つけ、そっと目を細める。


「綺麗ですね」


「白い花がお好きなのですね」


「ええ」


春華の声は柔らかかった。


「傷があっても、泥がついていても、花は花ですから」


清遠は目を伏せた。


以前、南市で春華が売れ残った白い花を買い取った日のことを思い出していた。


傷がついていても。泥がついていても。

春華は、それを捨てられるものとは思わない。


「……あなたは、なぜそれほど優しくいられるのですか」


春華は不思議そうに首を傾げた。


「優しいでしょうか」


「はい」


「私は、ただ……目の前で傷ついているものを、見なかったことにしたくないだけです」


その言葉は、静かに清遠の胸へ刺さった。

自分は、見なかったことにしてきたものが多すぎる。


命じられたから。

逆らえなかったから。

仕方がなかったから。


そう言い聞かせて、何度も目を逸らしてきた。


けれど春華は違う。


弱いものを、弱いまま置き去りにしない。

その眩しさに、清遠はどうしようもなく惹かれていた。


馬が緩やかに歩く。

春華の背はすぐ目の前にある。


細い肩。

結い上げた髪。

雨の前の湿った風に、かすかに揺れる衣の袖。


清遠は、何度も手を伸ばしそうになっては、手綱を握り直した。


普段なら、春華へ触れることなどできなかった。

礼を守り、距離を保ち、穏やかな言葉だけを選んできた。


けれど今は、その距離があまりにも近い。

春華もまた、何かを感じているのか、少しだけ身じろぎをした。


その瞬間、馬が小さく揺れた。


「きゃ……」


春華の体が後ろへ傾いた。

清遠は反射的に腕を回し、春華を支える。


「大丈夫ですか」


春華は清遠の腕の中で、息を止めていた。


「はい……」


小さな声だった。


清遠の腕は、春華のすぐそばにある。

ほんの少し力を込めれば、そのまま抱き寄せてしまえそうだった。


けれど清遠は、ゆっくりと腕を戻した。


「申し訳ありません。馬の歩みを少し緩めます」


「いいえ」


春華は前を向いたまま、耳まで赤くして答えた。


「私が、少し驚いただけです」


清遠は何も言わなかった。

ただ、胸の奥で何かが静かに熱を持っていくのを感じていた。


     ◇◇


しばらく進むと、川沿いの道は小さな草原へ出た。


近くの畑では、農家の者が作業をしている。

清遠は馬を止めると、先に地面へ降り、春華へ手を差し出した。


春華は少し迷ったあと、その手を取る。


黒い手袋越しでも、清遠の手がしっかりと自分を支えているのが分かった。

地面へ降りた瞬間、春華の足元がわずかに揺れた。


「大丈夫ですか」


「はい」


春華は小さく笑った。

その笑みを見て、清遠もつられるように笑った。



清遠は馬を近くの農家へ預けると、春華を木陰へ促した。


二人は並んで、それから腰を下ろした。

川から吹く風が、草の匂いを運んできた。


春華が小さな包みを開くと、中には白く丸い菓子が入っていた。


「屋敷を出る前に、少し持ってきました」


「私のために?」


「はい」


春華は一つを清遠へ差し出した。

清遠はそれを受け取ろうとする。


その時、手袋越しに、互いの指先がかすかに触れた。


ぴくり、と春華の指が震える。


ほんの布一枚を隔てているだけなのに、その触れ合いは妙にはっきりと残った。


清遠の手も止まる。

二人は同時に相手を見て、すぐに目を伏せた。


どちらも何も言わなかった。

けれど、沈黙だけが少し長くなる。


清遠は菓子を受け取り、しばらく見つめた。


「どうかされましたか」


「いえ」


清遠は小さく首を振った。


「このようなものを、誰かと分けて食べるのは久しぶりです」


春華は少し寂しそうに目を細めた。


「では、これからは時々分けましょう」


清遠は菓子を持つ手を止める。


「これから」


「はい」


春華は穏やかに笑った。


「また、会えた時に」


また会えるのか。

次もこうして穏やかに話せるのか。


清遠には分からなかった。


けれど春華は「また」と言ってくれた。

それだけで、胸が痛むほど嬉しかった。


清遠は菓子を口へ運ぶ。

ほのかな甘さが広がる。


「美味しいです」


「よかった」


春華は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、清遠はふと思った。

今日が終わらなければいい。

このまま、何も起こらず、ただ日が暮れていけばいい。


春華がそばにいて。

川の音がして。

甘い菓子を分け合って。


そんな何でもない時間が、清遠にはひどく眩しかった。


けれど、空の色は少しずつ変わり始めていた。


     ◇◇


やがて、風が変わった。


昼過ぎまで晴れていた空に、いつの間にか濃い雲が広がっている。


遠くで、低く雷が鳴った。


春華が空を見上げる。


「降りそうですね」


「戻りましょう」


清遠はすぐに立ち上がった。


川沿いの道を急いだ。

しかし雨は、思ったより早く来た。


大粒の雨が一つ、春華の手の甲へ落ちる。

続いて、二つ、三つ。


あっという間に、雨は地面を叩き始めた。

ざあっと音を立てて、景色が白く霞む。


「こちらへ」


清遠は春華の手を取った。

今度は迷わなかった。


春華も、その手を強く握り返す。

二人は近くの林へ向かって走った。


雷が鳴る。


馬車道はぬかるみ、足元が滑る。

春華の衣の裾が雨を吸い、重くなっていく。


「春華様、足元を」


「はい」


林の奥に、古びた小屋が見えた。

狩りの時に使われるものなのか、今は人の気配がない。


清遠は戸を押し開け、中へ春華を入れた。


小屋の中は薄暗く、古い木と乾いた草の匂いがする。

外では雨が屋根を激しく叩いていた。


清遠は濡れた日除け笠を外し、戸のそばへ置く。


それだけで、彼の顔が小屋の薄闇の中にはっきりと見えた。


清遠は春華へ向き直った。


「濡れてしまいましたね」


春華は少し息を切らしながら、清遠を見上げた。

髪にも衣にも雨粒がついている。


それでも、彼女は笑った。


「でも、無事です」


清遠はその笑みに、胸の奥を強く掴まれたような気がした。


雨音が、二人を外の世界から切り離していく。


玄烈も。龍家も。裴家も。

今だけは、遠かった。


清遠は春華の濡れた髪へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


その手には、まだ黒い手袋が嵌められている。

普段なら、それでよかった。


龍家の者として、人と距離を置くためにも。

触れてはならないものへ触れぬためにも。


けれど、今は違った。


春華はもう、清遠の想いを知らない娘ではない。

清遠もまた、自分の心を知らないふりなどできなかった。


清遠はゆっくりと片方の手袋を外した。


春華の瞳が、わずかに揺れる。

清遠の素手は、雨に濡れた薄闇の中で、ひどく白く見えた。


「春華様」


「はい」


清遠はためらうように、その指先で春華の頬へ触れた。

素肌に触れた瞬間、春華の睫毛が震える。


「寒くはありませんか」


春華は少しだけ迷ったあと、小さく頷いた。


「……少し」


清遠は外した手袋を握りしめたまま、自分の外衣を脱ぎ、春華の肩へかけた。


春華はその衣を両手で押さえる。

清遠の香が、雨の匂いに混じってかすかに漂った。


春華はそれに気づき、頬を染める。

雨音だけが、二人の間に落ちていた。


清遠は目を伏せる。


「私は、あなたに会うたび、戻れなくなります」


春華は清遠を見上げた。

雨に濡れた睫毛の先で、小さな雫がきらりと光る。


「戻らなくても、よいのではありませんか」


清遠の息が止まった。


「春華様」


「私は、今日ここへ来たことを後悔いたしません」


春華の指が、清遠の外衣をそっと掴む。


「清遠様に会いたかったから、来たのです」


その言葉に、清遠の理性は静かに揺らいだ。


「……春華」


敬称のない名が落ちる。


春華の頬が、雨の冷たさとは違う色に染まった。


「はい」


清遠はその返事に導かれるように、春華を抱き寄せた。


手袋を外した指先が、春華の頬から髪へ滑る。

その触れ方は、壊れやすいものを確かめるように優しかった。


最初の口づけは、触れるだけのものだった。

けれど、離れた瞬間、互いの瞳がもう一度重なる。


春華は逃げなかった。

清遠も、もう目を逸らせなかった。


もう一度、唇が重なる。


さきほどよりも長く、深く。


春華の指が、清遠の衣を掴む。

清遠はその手の震えに気づき、一度唇を離した。


「怖いですか」


春華は小さく息を整えながら、首を横に振った。


「怖くはありません」


「本当に、よいのですか」


清遠の声は掠れていた。


春華は恥ずかしそうに目を伏せる。

それでも、清遠の衣を掴む指は離れなかった。


「あなたとなら……」


その一言が、清遠の最後の迷いをほどいた。


「春華」


もう一度、名を呼ぶ。


今度は、先ほどよりも甘く、切実な声だった。

春華は清遠の胸へ身を寄せた。


「清遠様……」


外では雨が、ざあざあと屋根を打ちつけている。

雨音は二人の囁きも、震える息も、すべて優しく包み込んでいった。


小さな小屋には、互いの名を呼ぶ声だけが静かに落ちる。


戻れないと知っていた。

許されないかもしれないと分かっていた。

それでも、その瞬間だけは、互いを選ぶことを恐れなかった。


雨がすべての音を包み込む中、二人は初めて、夫婦となる約束を交わすように、互いを受け入れた。


     ◇◇


その頃、裴家では景明の婚姻相手候補を招いた茶会の準備が進んでいた。


星揺は鈴花と並び、届いた招待客の名を書いた紙を覗き込んでいる。


空卯麗クウ・ウーレイ……」


その名を見つけた瞬間、星揺の眉がぴくりと動いた。

鈴花も小さく息を呑む。


「以前、宴であなたに酒を浴びせた令嬢ね」


「忘れたくても忘れられないわ」


星揺はむっとした顔で紙を見つめた。


「どうして兄上の茶会に来るのよ」


「景明兄様の婚姻相手候補なのでしょう」


「兄上の趣味を疑うわ」


鈴花は苦笑した。


その時、ちょうど廊下の向こうから景明が通りかかった。


「聞こえているぞ」


星揺は、一瞬だけ肩をすくめ、それから兄を見た。


「聞こえるように言ったの」


「星揺」


景明は呆れたように名を呼んだ。

そのまま紙へ視線を落とし、静かに言う。


「空家は家格は悪くない。あの時の謝罪を受け入れた以上、父上も一度会ってみるだけならと仰っている」


「会うだけならね」


星揺はまだ納得していない顔だった。

景明はそんな妹を見て、小さく笑う。


「お前の気持ちもわかるが、茶会で余計なことは言うなよ」


「兄上こそ、見る目を曇らせないでよ」


「分かってる」


景明は苦笑し、そのまま歩いていった。


星揺はもう一度、空卯麗の名を見る。

胸の奥に、小さな嫌な予感が落ちた。


あの令嬢は、きっとただ茶を飲みに来るだけではない。


そんな気がした。


そしてその予感は、ほどなく当たることになる。

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