三十二話 信じる者
昼を過ぎた頃、一行は街道沿いの宿場で休息を取ることになった。
初夏の陽は高く、白い道の上へ眩しい光を落としている。
宿場の前では、荷車を引く男たちが汗を拭い、馬の鼻先からは、ふう、と熱を含んだ息が漏れていた。
玄烈のために、宿の奥にある陽の入らない部屋がすぐに用意された。
窓には厚い布が重ねて掛けられ、戸口にも衝立が置かれる。
玄烈は馬車を降りると、従者たちに囲まれながら、日陰となった渡り廊下を通って奥の部屋へ入っていった。
暁嵐と龍岳は表の庭へ残り、馬へ水を与えている。
老女も馬車を降り、軒下の長椅子へ腰を下ろしていた。
胸元には、秀蓮から届いた書状の束を抱えている。
何度も宿の奥へ視線を送り、そのたびに唇をきゅっと結んだ。
その様子に気づき、暁嵐が近づいた。
「具合が悪いのか」
老女ははっと顔を上げ、慌てて立ち上がろうとした。
「そのままでいい」
暁嵐が手で制する。
老女は腰を浮かせかけたまま戸惑い、やがて小さく頭を下げて座り直した。
それでも背は固く、胸元の書状をぎゅっと抱きしめている。
暁嵐は、老女の前に立った。
その視線が、書状の束へ落ちる。
「何か、言いたいことがあるのか」
老女の指先がぴくりと動いた。
一度、玄烈が入っていった部屋の方を見る。
戸は閉ざされている。
玄烈の従者が一人、離れた場所に立っていたが、こちらの話を聞ける距離ではなかった。
老女は、ごくりと小さく喉を鳴らした。
「暁嵐様」
「何だ」
「どうか……孫のことを、もう一度お調べいただけないでしょうか」
声は小さかった。
けれど、そこには抑えきれない切実さがあった。
暁嵐の目が、わずかに細くなる。
「玄烈殿から、駆け落ちしたと聞いたのではないのか」
「それは、ありえません」
老女は、すぐに首を横へ振った。
強い否定だった。
年老いた身体は小さく、声も震えている。
それでも、その言葉に迷いはなかった。
「秀蓮が、想う者と共に王都を離れたなど……私はどうしても信じられないのです」
暁嵐は宿の奥へ視線を向けた。
「その話は、玄烈殿にも伝えたのか」
「何度も申し上げました」
老女の声が、かすかに掠れた。
「馬車の中でも、秀蓮はそのようなことをする子ではないと、何度も……」
「玄烈殿は、何と?」
「私が孫のことを何も知らなかっただけだと」
老女は目を伏せた。
膝の上に置いた手へ、じわりと力が入る。
「若い者は家族へ隠し事をするものだと仰いました。恋文が見つかったのだから、秀蓮は男と逃げたのだと……」
言葉の最後が、細く途切れた。
「私が何を申し上げても、信じてはくださいませんでした」
暁嵐は答えなかった。
ただ、老女の顔をじっと見ていた。
怒りではない。
泣き崩れる弱さでもない。
そこにあったのは、何を言われても孫を信じると決めた者の目だった。
「だから、私へ話そうと思ったのか」
「はい」
老女は顔を上げた。
「玄烈様は、孫が駆け落ちしたと、もうお決めになっております」
そう言って、胸元の書状を差し出した。
「ですが、秀蓮はそのような子ではございません」
暁嵐は書状の束を受け取った。
手に取ると、思っていたよりも厚みがあった。
何通も、何通も。
離れて暮らす祖母へ、欠かさず送られてきた文だった。
「私は病ではございませんでした」
「何?」
暁嵐の眉が動いた。
「二月前も、元気に暮らしておりました。秀蓮が私の病を案じて、急いで暇を願い出る理由などなかったのです」
暁嵐の眉間に、はっきりと皺が寄る。
「玄烈殿の家令は、祖母の具合が悪いため、秀蓮が暇を願い出たと話していた」
「そのような話は、初めて聞きました」
「秀蓮へ、病だと知らせる書状を送ったこともないのか」
「ございません」
老女は、はっきりと答えた。
「少しくらい身体が痛むことはございました。ですが、あの子が仕事を休んで帰らなければならないほどではありません」
暁嵐は、手にした書状の紐を解いた。
かさり、と紙の擦れる音がする。
一番上の書状を開く。
そこには、祖母の体調を気遣う言葉と共に、仕事へ慣れてきたこと、薬代として金を送ったこと、次の休みには必ず帰るという約束が書かれていた。
さらに、次の書状を開く。
そこにも、屋敷での暮らしや仕事について、細かな出来事が記されている。
「この子は、毎月欠かさず文を送ってくれました」
老女が言った。
「仕事で叱られたことも、町で珍しい花を見つけたことも、何でも書いて寄こす子でした」
声が、次第に掠れていく。
「想う者ができたなら、きっと私へ教えてくれます」
「書状には、そのような男の話はないのか」
「一度もございません」
「だが、家族にも言えぬことはある」
暁嵐は、あえて別の可能性を口にした。
老女は小さく頷いた。
「もちろん、私の知らぬこともあったでしょう」
それでも、その目は揺らがなかった。
「ですが、あの子が幸せになれるのなら、私は反対などいたしません。相手がどのような身分の者でも、秀蓮が自分で選んだのなら、送り出しました」
老女は両手を胸元へ重ねた。
「ただ、私へ何も言わず、手紙まで途絶えさせることだけは、ありえないのです」
暁嵐は、秀蓮の書状へもう一度目を落とした。
次の休みには帰る。
祖母へ土産を持っていく。
寒くなる前に、屋根を直した方がよい。
風邪を引かぬよう、身体を大事にしてほしい。
そこには、これからも祖母と共に生きていくつもりだった娘の言葉が並んでいた。
すべてを捨て、誰にも告げずに姿を消そうとしていた者の文には見えなかった。
暁嵐は、隣に立つ龍岳へ書状を渡した。
「岳」
「はい」
「どう思う」
龍岳は書状へ目を通した。
一枚、また一枚と、丁寧に文面を追っていく。
紙をめくる音だけが、かさり、かさりと軒下に響いた。
しばらくして、龍岳が顔を上げる。
「恋文が見つかったことだけでは、秀蓮殿が差出人の想いを受け入れた証にはなりません」
「そうだな」
「男と話していたという証言も、話の内容までは分かっておりません」
龍岳は静かに続けた。
「駆け落ちと断じるには、足りぬものが多いかと存じます」
老女の目に、わずかな光が戻った。
それは、ほんの小さな希望だった。
それでも老女は、その小さな光へすがるように暁嵐を見上げた。
「どうか……どうか、孫を探してくださいませ」
声が震える。
「秀蓮は、黙って消えるような子ではございません」
暁嵐は、龍岳から書状を受け取り、元どおりに束ねて老女へ返した。
「兄上へ、すべてありのまま伝える」
「本当でございますか」
「ああ」
暁嵐は老女の目を真っすぐ見返し、ゆっくりと頷いた。
「秀蓮が自分の意思で消えたのか。それとも、何かあったのか。もう一度調べるよう、俺から頼む」
老女の目へ涙が滲んだ。
「ありがとうございます……」
その時、宿の奥で戸が開く音がした。
ぎい、と低い音がする。
老女の身体が、びくりと強張った。
暗い廊下の向こうから、玄烈の従者が姿を現す。
「玄烈様のお支度が整いました」
暁嵐は老女の変化に気づいたが、何も言わなかった。
龍岳と一度だけ視線を交わす。
老女は慌てて書状を胸元へしまい込み、静かに立ち上がった。
しばらくして、玄烈が日差しを避けるように従者の陰を歩き、馬車へ戻ってきた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
「お待たせいたしました」
「いや」
暁嵐は普段と変わらぬ声で答えた。
「そろそろ出るか」
玄烈の視線が、暁嵐から老女へ移る。
老女は目を伏せたまま、玄烈を見ようとはしなかった。
もう何を訴えても、この人は聞き入れてはくれない。
そんな諦めにも似た思いが、胸に重く沈んでいた。
それでも、胸元の書状だけは、ぎゅっと抱きしめていた。
その様子を見ても、玄烈は何も尋ねなかった。
ただ、いつものように穏やかに微笑んでいるだけだった。
「ええ。参りましょう」
玄烈が馬車へ乗り込む。
暁嵐は、その背中をじっと見送った。
日除笠の影に隠れた瞳からは、先ほどまでの軽さが消えている。
残っていたのは、静かな疑念だけだった。
◇◇
三日後。
老女は無事に郷へ送り届けられた。
暁嵐は現地の役人へ直接引き渡し、老女が確かに帰郷したことを記録させた。
さらに、老女が秀蓮の駆け落ちを強く否定していることも、役人の前で書き留めさせる。
筆が紙の上をさらさらと走る音を、老女は黙って聞いていた。
その隣で、暁嵐は役人の筆先から最後まで目を離さなかった。
玄烈は、その様子を少し離れた日陰から眺めていた。
表情は変わらない。
老女へ手を出すこともなかった。
役人の前では、自ら旅の費用と当面の生活に必要な金まで差し出した。
「秀蓮の行方が分かるまでは、龍家で責任を持ちましょう」
穏やかな声だった。
事情を知らぬ者が見れば、屋敷から消えた侍女の祖母を案じる、慈悲深い男にしか見えない。
けれど、老女は金を受け取ろうとしなかった。
「私は、金が欲しくて王都まで参ったのではございません」
両手で、秀蓮から届いた書状を抱きしめる。
「孫を、見つけていただきたいのです」
玄烈はわずかに目を細めた。
ほんの一瞬だった。
すぐに、いつもの穏やかな笑みが戻る。
「もちろんです」
最後まで、声は穏やかだった。
◇◇
王都へ戻る道。
暁嵐と龍岳は、馬を並べて進んでいた。
前方には、玄烈の黒い馬車が走っている。
車輪が乾いた街道を軋ませる音が、ぎし、ぎしと耳に残った。
「玄烈殿の説明には、証明できぬ部分が多い」
暁嵐が言った。
「はい」
龍岳が答える。
「しかし、偽りだと証明するものもございません」
暁嵐は日除笠の下で眉を寄せた。
小さく息を吐く。
「それが、一番気に入らない」
乾いた街道の上を、幾つもの車輪の跡が延びている。
その中から、二月前に秀蓮を乗せた荷車を探し出すことなど、今となっては不可能に近い。
それでも暁嵐の耳には、老女の言葉が残っていた。
――私へ何も言わず、手紙まで途絶えさせることだけは、ありえないのです。
老女の震える声。
それでも、決して揺らがなかった瞳。
暁嵐は、前を走る黒い馬車を見据えた。
「あの老女の言葉を、私は無視できない」
龍岳もまた、黒い馬車へ視線を向ける。
「昊然様へ、すべてご報告いたしましょう」
「ああ」
暁嵐の目が、わずかに鋭くなる。
「最初から、調べ直す」
風が、ざっと街道の砂を巻き上げた。
黒い馬車の輪郭が、土埃の向こうで一瞬だけ滲む。
それでも暁嵐は、目を逸らさなかった。




