三十一話 偽りの恋文
その日の夕刻。
龍国公府の書房には、いつもより早く灯火がともされていた。
開け放たれた格子窓から、昼間の熱をわずかに残した風が入り込み、卓上に積まれた帳面の端を、かさりと揺らしている。
卓の上に並べられていたのは、王都を囲む四つの外郭門から集められた通行記録だった。
龍景雲はそのうちの一冊を開き、帳面の端へ指を添えた。
向かいに座る龍昊然は、黙って景雲の報告を待っていた。
「ふた月前の十六日」
景雲が口を開いた。
「その前後三日を含め、東西南北、すべての外郭門を調べました」
昊然の視線が、開かれた帳面へ落ちる。
「秀蓮という名は、ございません」
昊然の眉間に、細い皺が寄った。
「偽名を使った可能性は」
「年齢や身なり、一人で旅をする若い女性という条件でも調べております」
景雲は別の帳面を開いた。
紙が、ぱらりと鳴る。
「該当する者は数名おりましたが、いずれも商家や親族の保証がございます。秀蓮と考えられる女は、見つかりませんでした」
「荷車に紛れた可能性は」
「ございます」
景雲は否定しなかった。
「ただ、龍家の別邸から正式に暇を与えられ、郷へ戻るのであれば、そのような危険を冒す理由は薄いかと」
昊然は答えなかった。
秀蓮は祖母の病を案じ、正式に暇を願い出た。
給金も精算されている。
別邸の記録には、そう残されていた。
それならば、堂々と門を通ればよい。
たとえ通行証を持たぬ身分であっても、龍家の屋敷に仕えていた証明があれば、王都を出ることは難しくない。
それなのに、秀蓮が門を通った記録はなかった。
昊然は卓に指先を置き、一度だけ、とん、と黒塗りの卓を鳴らした。
「玄烈を呼べ」
「承知いたしました」
景雲が静かに頭を下げた。
◇◇
龍玄烈が書房へ姿を現した時には、外はすでに暗くなっていた。
急な呼び出しにもかかわらず、玄烈は何一つ取り乱していなかった。
「お呼びと伺いました」
玄烈が深く頭を下げると、昊然は卓上の帳面から静かに目を上げた。
「秀蓮についてだ」
玄烈のまつ毛が、ゆっくりと伏せられる。
「何か分かりましたか」
「王都を出た記録が一切ない」
玄烈は、すぐには返事をしなかった。
ただ、視線だけが卓上に積まれた帳面へ移る。
景雲は昊然の半歩後ろに立ち、玄烈の横顔を静かに見つめていた。
表情に明らかな動揺はない。
だが、右手の親指が、左手の指の節へ一度だけ触れた。
「どの門にも、秀蓮の名はなかった」
昊然が淡々と続ける。
「本当に郷へ帰ったのか」
玄烈は、ゆっくりと息を吐いた。
「……実は」
声が、ほんのわずかに低くなった。
「申し上げにくいことがございました」
灯火の芯が、ぱちりと小さく鳴った。
昊然の黒い瞳が、まっすぐ玄烈へ定まる。
「言え」
玄烈は一度、目を伏せた。
「秀蓮は、祖母のもとへ帰るために屋敷を出たのではなかった可能性がございます」
「どういう意味だ」
「男と駆け落ちしたのではないかと」
その一言で、書房の空気が止まった。
景雲の眉が、わずかに動く。
けれど昊然は、ぴくりとも反応することなく、表情一つ変えなかった。
「前は、そのような話をしていなかったな」
「確かなことではなかったからでございます」
玄烈は静かに答えた。
「それに、若い娘の名誉に関わる話です。祖母の具合を案じて暇を願い出たということにしておく方が、本人のためにもよいと考えました」
「何を根拠に、駆け落ちだと思った」
玄烈は袖の内側から、一通の折り畳まれた紙を取り出した。
かさりと音を立てて卓の上へ置いた。
「秀蓮が去ったあと、寝台の下から見つかりました」
景雲が紙を取り、昊然の前へ広げる。
それは、若い男から女へ宛てた恋文だった。
共に王都を離れよう。
誰にも知られず、南門近くの古い倉の前で待つ。
次の満月の日に。
幾分乱れた筆跡で、そのようなことが書かれていた。
「差出人は」
昊然が尋ねる。
「名はございません」
「相手に心当たりは」
「屋敷の下働きが、秀蓮が若い男と話しているところを何度か見ております」
玄烈は迷いなく答えた。
「王都南部で働く荷運び人だと聞きました。しかし、名までは分かりません」
昊然の眉間の皺が、わずかに深くなる。
「なぜ家令は、祖母が病だと話した」
「私が、そのように伝えるよう命じました」
玄烈はあっさりと認めた。
「駆け落ちであれば、正式な通行証は使わず、荷車や商隊に紛れたのでしょう。娘のしたことを祖母へ知られれば、あまりにも酷かと」
説明には筋が通っていた。
門の記録がないことも。
祖母のもとへ戻らなかったことも。
すべて、駆け落ちだったとすれば説明がつく。
あまりにも、都合よく。
「秀蓮が屋敷を出た時、お前は会ったと言ったな」
「はい」
「祖母の具合を案じていたと」
「本人は、そう申しておりました」
玄烈は昊然の目を見た。
その目に、揺らぎはなかった。
「私も、その時は信じておりました。恋文が見つかったのは、秀蓮が去ったあとです」
「なら、なぜ最初にそれを言わなかった」
昊然の声が低くなる。
玄烈の笑みが、わずかに薄くなった。
「昊然様が、この件をどこまでお調べになるおつもりか、分からなかったからでございます」
「隠すつもりだったのか」
「守るつもりでした」
玄烈は静かに答えた。
「秀蓮の名と、祖母の心を」
書房に、沈黙が落ちた。
灯火がゆらりと揺れ、恋文の上へ玄烈の影が細く伸びる。
景雲は、紙面へ視線を落としたまま動かなかった。
紙は古びている。
墨も新しくは見えない。
偽りだと示すものは、今のところ何もなかった。
「祖母は、今も王都におりますね」
玄烈が尋ねた。
昊然の目が、わずかに細められる。
「ああ」
「このことは、私からお伝えいたしましょう」
「……お前が?」
「私の屋敷で働いていた娘でございます」
玄烈は深く頭を下げた。
「帰郷したと偽った責任も、私にございます。祖母へ事情をお話しし、郷までお送りいたします」
昊然は、すぐには答えなかった。
長く龍家を支えてきた男。
若い侍女の名誉を守るため、あえて駆け落ちを隠した。
そう考えれば、玄烈の行動は決して不自然ではない。
だが、星揺が感じた恐れ。
王都を出た記録のない秀蓮。
最初とは変わった説明。
そのすべてが、胸の奥へ小さく引っかかっていた。
恋文まで示された今、形のない違和感だけで玄烈を問い詰めれば、こちらが何を疑っているのかを悟らせるだけだった。
「分かった」
昊然は、ほんのわずかに頷いた。
「ただし、郷へ着いたあと、向こうの役人から報告を上げさせろ」
「承知いたしました」
玄烈はいつものように、深く頭を下げた。
「明朝、宿へ迎えを出します」
◇◇
玄烈が書房を去ったあと。
閉じられた戸の向こうで、足音が廊下の奥へ静かに消えていった。
景雲は、しばらくその戸へ視線を向けていた。
「説明には、筋が通っております」
「ああ」
「ですが、あまりにも整いすぎているようにも思えます」
昊然は、卓上の恋文へ視線を落とした。
恋文が偽物だという証拠はない。
秀蓮が本当に駆け落ちした可能性も、完全には否定できなかった。
だが、玄烈は一度、事実を伏せた。
その一点だけは、消えなかった。
◇◇
翌朝。
秀蓮の祖母が泊まっている宿へ、龍家の馬車が迎えに来た。
黒い車体。
銀の紋。
厚い黒布で覆われた窓。
車輪が宿の前で、ごとりと止まった。
従者は、老女へ丁寧に頭を下げた。
「玄烈様が、秀蓮様のことを直接お話しになるそうです」
老女の顔に、不安と期待が同時に浮かぶ。
「孫は……見つかったのでしょうか」
「詳しいことは、馬車の中でお聞きください」
老女は胸元で両手を組み、何度も頷いた。
わずかな荷物と、秀蓮から届いた書状の束を抱え、馬車へ乗り込む。
車内には、すでに玄烈が待っていた。
黒い簾が強い陽を遮り、朝であるにもかかわらず、中は薄暗い。
「龍玄烈様……」
老女は驚き、すぐに頭を下げようとした。
しかし玄烈は、片手を上げてそれを止めた。
「楽になさい」
声は穏やかだった。
「秀蓮のことで、お話がございます」
老女の目が大きくなる。
「孫は……無事でございますか?」
玄烈は、すぐには答えなかった。
わずかに目を伏せる。
まるで、悲しい知らせを伝えに来た者のように。
「秀蓮は、想う男と共に王都を離れたようです」
老女の表情が、一瞬で固まった。
「男……?」
「はい」
「そのような者がいるとは、一度も……」
「あなたを心配させたくなかったのでしょう」
「いいえ」
老女は、すぐに首を横へ振った。
「秀蓮が、私へ何も言わずに行くはずがございません」
玄烈は袖から恋文を取り出し、老女の前へ置いた。
その時、紙がかさりと小さく鳴る。
「秀蓮の部屋から見つかりました」
老女は震える手で紙を受け取り、何度も文字を追う。
けれど、次第に眉が寄っていった。
「これは、秀蓮の字ではございません」
「男からの文です」
「差出人の名もございません」
「人目を忍ぶ仲だったのでしょう」
老女はもう一度、紙を見つめた。
それでも納得する様子はなかった。
「このような紙一枚で、あの子が駆け落ちした証になるのでしょうか」
玄烈の黒い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「秀蓮が男と話しているところを見た者もおります」
「男の顔は?」
「詳しくは覚えていないと」
老女は恋文を膝の上へ置いた。
「何も、分からないではありませんか」
弱々しかった声に、初めて強さが混じった。
「私は、信じません」
玄烈の目が止まる。
「秀蓮は、小さな頃から何でも私へ話す子でした。仕事で叱られたことも、町で珍しい花を見つけたことも、すべて文へ書いて送ってくれました」
老女は胸元へ抱いた書状の束を、両手で強く握った。
書状の束が、くしゃりと鳴る。
「想う者ができたなら、きっと私へ教えてくれます」
「けれど、離れて暮らすあなたが、秀蓮のすべてをご存じだったとは限りません」
「いいえ」
老女は、玄烈の目をまっすぐに見た。
「少なくとも、私を置いて黙って消えるような子ではございません」
「若い者は、時に家族へ隠し事をするものです」
「それでも、秀蓮はいたしません」
玄烈は答えなかった。
何を言われても、老女は同じ言葉を繰り返した。
秀蓮は駆け落ちなどしない。
自分へ黙って消えることなどない。
孫のことを誰よりも知っているのは、自分だと。
玄烈は、簾の外へ耳を澄ませた。
車輪が、ごとごとと乾いた音を立てて進んでいる。
馬車は大通りを抜け、王都の南門へ近づいていた。
老女を殺すこと、それ自体が目的ではない。
必要なのは、秀蓮の失踪を疑う者をなくし、この件を完全に終わらせることだった。
この老女を生かしたまま郷へ戻せば、これからも孫を捜してほしいと訴え続けるだろう。
駆け落ちなどする娘ではないと、役人にも、村の者にも話す。
いつか再び王都を訪れ、龍家の門を叩くかもしれない。
それでは、秀蓮の失踪は終わらない。
王都を出れば、人家の少ない林道が続く。
そこで馬車を止め、従者に老女を外へ連れ出させる。
秀蓮の書状も荷も、遺体とともに燃やしてしまえばよい。
玄烈自身が、陽の下へ降りる必要もない。
だが、それだけでは昊然の命を果たしたことにはならなかった。
郷へ着いたあと、向こうの役人から報告を上げさせろ。
昊然は、そう命じている。
それも、玄烈にとっては問題ではなかった。
昨夜のうちに、年格好の似た老女を一人、用意させてある。
秀蓮の祖母の名。
生まれ育った村。
娘夫婦を亡くした時期。
秀蓮を引き取った経緯。
役人から尋ねられそうなことは、すべて覚えさせていた。
郷を管轄する役所の役人の一人にも、龍家の使いを通じてすでに話をつけてある。
提出する書付も整えてあった。
替え玉の老女を秀蓮の祖母として役人の前へ立たせ、龍家の者が身元を保証する。
本人が無事に帰郷したと認めれば、役所から龍国公府へ報告が届く。
実際に村の家まで送り届ける必要はない。
報告書へ役所の印さえ押されれば、昊然の命は果たされたことになる。
替え玉の老女が、秀蓮を捜してほしいと訴えることもない。
駆け落ちなどする娘ではないと、繰り返すこともない。
玄烈は、残せば火種となるものを消し、そのあとに生じる綻びまで塞ぐ。
ただ、それだけだった。
門番が龍家の紋を確かめると、やがて重い門が、ぎい、と開いた。
車輪が、石畳から乾いた土の道へ移る。
ごとり、と揺れが変わった。
王都を出た。
玄烈の視線が、老女の細い手首へ落ちる。
老女は秀蓮の書状を胸へ抱きしめたまま、窓の簾を見ていた。
この先に、助けを求められる者はひとりもいない。
あと半刻も進めば、道は木々の茂る林へ入る。
玄烈の手が、膝の上でわずかに動いた。
その時だった。
後方から、複数の馬蹄の音が近づいてきた。
蹄が土を蹴る音が、馬車を追うように迫ってくる。
玄烈の指が、ぴたりと止まった。
簾の外から、御者の戸惑った声が聞こえる。
「玄烈様……」
馬車が速度を落とした。
玄烈は日が当たらない程度に、簾をわずかに持ち上げた。
眩しい陽の下。
二頭の黒い馬が、土煙を上げながら近づいてくる。
先を走る男は、広い日除笠を深く被り、両手には黒い手袋を着けていた。
深い藍色の衣の裾が、馬の動きに合わせて風に翻る。
龍暁嵐。
その少し後ろには、側近の龍岳が続いていた。
玄烈の指が、ほんの一瞬だけ簾の端で止まる。
なぜ、ここにいる。
黒い瞳の奥に、明らかな疑問が浮かんだ。
けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
暁嵐が馬を寄せる。
「玄烈殿」
「暁嵐様。どちらへお出かけですか」
「この馬車へ同行する」
玄烈の目が、ほんのわずかに細くなった。
「同行を?」
「ああ。兄上の命だ」
暁嵐は馬上から馬車へ目を向けた。
「その者を郷まで確実に送り届け、向こうの役人から報告を受け取るように言われた」
龍岳も馬上で静かに頭を下げる。
「道中の護衛は、我々が務めます」
馬車の中に、短い沈黙が落ちた。
老女は、驚いたように玄烈を見ていた。
玄烈は、簾の向こうにいる暁嵐へゆっくりと微笑んだ。
「それは心強い」
声には、一切乱れがなかった。
「ご高齢の方を長い道のりへお連れするのですから、護衛は多い方が安心でしょう」
「兄上も、同じことを言っていた」
暁嵐は、あっさりと答えた。
「では、出発しよう」
「ええ」
玄烈は静かに簾を下ろした。
簾が、すっと下りた。
車内は、再び薄暗くなった。
向かいの老女は、先ほどよりもわずかに肩の力を抜いていた。
玄烈は、何も言わずに老女を見た。
今、手を出せば暁嵐と龍岳がすぐに気づく。
そうなれば、疑いは真っ先に自分へ向くだろう。
用意していた替え玉も、役人への根回しも、今は使えない。
玄烈は袖の内側へ、ゆっくりと手を戻した。
今は動けない。
だが、この件を終わらせる方法は、まだある。
馬車は何事もなかったかのように再び動き出し、郷への道を進み始めた。
車輪が、ごとごとと乾いた道を刻んでいく。
その音だけが、しばらく薄暗い車内に響いていた。




