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三十話 思い違い



裴家の庭には、初夏の柔らかな風が吹き、枝いっぱいに咲いていた白い花は、すでにほとんど散っていた。

代わりに青々とした葉が茂り、石畳の端や池の水面には、春の名残のような花びらがわずかに残っている。


裴星揺ハイ・セイヨウは、庭へ面した居間で、一つの箱を前にしていた。


淡い香木で作られた、小ぶりな箱だった。


蓋には白い蘭の花が彫られ、銀色の細い紐で丁寧に結ばれている。

箱の脇には、一通の書状が添えられていた。


星揺は書状を開き、もう一度、初めから読み返した。


――先日は、取り乱した私をお助けくださり、ありがとうございました。


――あの時、裴様がお声をかけてくださらなければ、私は一人で立ち上がることもできなかったでしょう。


――ささやかな品ではございますが、お受け取りくださいませ。


差出人は、周静蘭シュウ・セイラン


王宮で開かれた香合わせの折、人気のない回廊で具合を悪くしていた夫人だった。


箱の中には、白い蘭を刺繍した薄絹の手巾と、心を落ち着かせる香の入った白磁の小壺が収められていた。

どちらも細かな細工が施された、星揺が気軽に受け取るには少し上等すぎる品だった。


「何もしてないのに」


星揺は困ったように呟いた。


向かいに座っていた陸鈴花リク・リンカが、香の入った小壺を手に取る。

蓋は開けず、側面に描かれた白い蘭の模様へ目を向けた。


「静蘭様へ声をかけて、侍女を呼んだんでしょう?」


「それだけよ?」


「人は、具合が悪い時に声をかけられたら、それだけでも安心するのよ」


鈴花は小壺を元の場所へ戻した。

星揺は返事をせず、書状へ視線を落とす。


丁寧に整えられた文字。

感謝の言葉。

身体はもう回復しているという報告。


星揺はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。


「そっか。じゃあ、お礼をしに行かなきゃ」


鈴花が顔を上げる。


「いただいた品のお礼?」


「うん。それと……」


星揺は少し迷った。

鈴花の静かな黒い瞳が、急かすことなく続きを待っている。


「やっぱり、あの日のことがまだ少し気になってるの」


「あの日って…玄烈様のことね」


星揺は頷いた。


「静蘭様は、何もなかったと言っていたけど、どうしてもあの時の様子が気になって」


「それで、もう一度尋ねるの?」


「うん。ただの私の思い違いだったら、それでいいから」


星揺は書状を丁寧に畳んだ。


「静蘭様が本当にお元気で、何もなかったならそれが一番でしょう?」


鈴花はしばらく星揺の顔を見つめていた。


一度気になったら、そのままにできないのが星揺の性分だった。

けれど、今回ばかりは単なる好奇心ではないことも分かっていた。


「じゃあ、私も一緒に行くわ」


鈴花の一言で、星揺の顔が明るくなった。


「ついてきてくれるの?ありがとう、鈴花」


「ええ。ただし、無理に聞き出しては駄目」


「うん。分かってるわ」


「本当に?」


「静蘭様が話したくないなら、それ以上は聞かない」


鈴花は星揺の目を見た。

少なくとも、星揺のその言葉に嘘はなかった。


「分かったわ。なら、まずは母上へお願いしましょう」


     ◇◇


その日の午後。


星揺は叔母へ頼み、鈴花と共に周家を訪れていた。


周家の屋敷は華美ではないが、隅々までよく整えられていた。

白い壁の内側には小さな池と竹林があり、風が吹くたび、濃い緑を帯びた竹の葉が擦れ合って乾いた音を立てる。


二人は、庭へ面した客間へ通された。

しばらくして、周静蘭が侍女を伴って入ってくる。


「裴様。陸様」


静蘭は穏やかに微笑み、丁寧に頭を下げた。


「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」


星揺と鈴花も礼を返した。


静蘭の顔色は、香合わせの日とは違い、すっかり戻っているように見えた。

淡い灰桜色の衣をまとい、艶やかな黒髪も隙なく結い上げられている。

口元に浮かぶ笑みも自然だった。


「こちらこそ、立派なお品をありがとうございました」


星揺は、持参した菓子の箱を卓の脇へ置いた。


「ですが、本当に私は何もしておりません。あれほど上等なものをいただくのは、とても申し訳なくて」


「いいえ」


静蘭は柔らかく首を横へ振った。


「裴様が声をかけてくださらなければ、私はあのまま一人で座り込んでいたかもしれません」


侍女が茶を運び、三人の前へ置いた。


静蘭は落ち着いた手つきで茶碗を取り、立ち上る香りに、わずかに目を細めた。

その様子は、あの日、震えていた姿とはまるで別人のようだった。


「もう、お身体は大丈夫なのですか?」


星揺が尋ねた。


「はい。ご心配をおかけいたしました」


静蘭は笑った。


「あの日は月のものが来ていたこともあり、香の匂いに酔ってしまったようで」


「それで、急に立っていられなくなったのですか?」


「ええ」


静蘭は迷うことなく頷いた。


「気分が悪くなったことで、少し気が動転していたのでしょう」


星揺は、あの日の静蘭の姿を思い出した。

壁際に立ち、自分の肩を抱いて、何度も回廊の奥を振り返っていた。


けれど、今の静蘭からは、その時の怯えは少しも感じられない。


「……あの時、玄烈様もいらっしゃいましたよね?」


星揺は慎重に尋ねた。


「はい」


静蘭は、玄烈の名前を聞いても変わらぬ笑みで答えた。


「私が倒れそうになったところを、支えてくださったのです」


「けれど、あの時、静蘭様の手首に赤い痕が残っていました。あれは……」


「ああ、こちらですね」


静蘭は左の袖口を少し持ち上げた。

しかし、あの時と違い、白い手首にはもう痕は残っていない。


「私は昔から、痕の残りやすい体質なのです。主人にもよく驚かれます。少し強く腕に触れられただけでも、すぐに赤くなってしまうものですから」


あまりにも自然な説明だった。


静蘭の声も、まったく震えていない。

玄烈の名を口にしても、表情は変わらなかった。


鈴花が静蘭の顔を見つめる。


「静蘭様。本当に何もなかったのですね?」


「ええ」


静蘭は真っすぐに鈴花を見返した。

その瞳は、決して嘘をついているようには見えない。


「ご心配をおかけしてしまったようですね」


「あ、いえ……」


鈴花はわずかに目を伏せた。


さすがに疑っている方が失礼なのではないか。

そう思わせるほど、静蘭の言葉と表情は穏やかだった。


「玄烈様には、とても失礼なことをしてしまいました」


静蘭は眉を下げ、申し訳なさそうに笑った。


「具合の悪い私を助けてくださったのに、あのような姿を誰かに見られれば、妙な誤解を招くかもしれませんもの」


星揺はしばらく静蘭を見つめ、それから少しだけ肩の力を抜いた。


「では、私の考えすぎだったのですね」


「何か、気になることがございましたか?」


静蘭は不思議そうに首を傾げる。


「あの日、静蘭様が少し怖がっているように見えたので……」


「まあ」


静蘭は小さく目を見開いたあと、恥ずかしそうに笑った。


「あの時は気分が悪くて、余裕がなかったのだと思います」


その返事にも、違和感はなかった。


鈴花が星揺へ視線を向ける。

星揺も鈴花を見返した。


もしかすると、本当に自分が考えすぎていただけなのかもしれない。


あの時一瞬だけ赤く見えた玄烈の瞳も。

静蘭の震えも。


陽の当たらない薄暗い回廊と、濃い香のせいで、そう見えただけだったのかもしれない。


「お元気になられて、本当によかったです」


星揺は笑った。


「ありがとうございます」


静蘭も、穏やかに微笑み返した。


その後は、王宮の香合わせや、最近の王都の話をして過ごした。

その間も、静蘭は終始落ち着いていた。


     ◇◇


周家を辞したあと。


帰りの馬車の中で、星揺は小さく息を吐いた。


「何も、なかったみたい」


「そうね」


鈴花も頷いた。


「玄烈様は、本当に静蘭様を介抱していただけなのね」


星揺は窓の外へ視線を向けた。

道の両側では、初夏の風に柳の枝が揺れている。


「私、少し疑いすぎてたのかも……」


「星揺が見た時には、静蘭様も気分が悪くて混乱していたのかもしれないわね」


「そうよね」


星揺は、あの日のことをもう一度思い返した。


けれど、先ほどの静蘭の落ち着いた表情を思い出すと、胸に残っていた違和感も少しずつ薄れていく。


「やっぱり、私の思い違いだったのかも」


鈴花は小さく笑った。


「まあ、何もなかったのなら、それが一番でしょう?」


「うん」


星揺も笑った。


「本当に、そうね」


馬車は、初夏の光が降り注ぐ通りを、裴家へ向かって進んでいった。


     ◇◇


二人を見送ったあと。


静蘭は、門が閉じられるまで、その場に立っていた。


星揺たちの馬車が見えなくなり、車輪の音も、やがて聞こえなくなる。


「奥様?」


侍女が声をかけると静蘭は、ゆっくりと振り返った。


「少し、一人にしてくれる?」


「ですが――」


「大丈夫だから」


先ほどまでと変わらぬ、とても穏やかな声だった。


侍女は心配そうに静蘭を見たが、やがて深く頭を下げ、その場を離れた。


静蘭は一人で客間へ戻り、そっと戸を閉じた。


その音が響いた瞬間、ずるりと膝から力が抜ける。

静蘭は卓へ手をつき、崩れるように椅子へ腰を下ろした。


指先が震え、呼吸が浅い。


星揺たちの前では、あれほど自然に笑えていたのに、今は茶碗を持ち上げることさえできなかった。


静蘭は両腕で自分の身体を抱きしめた。

左手首へ、強く掴まれた感触が蘇る。


首筋へ触れた息づかい。

逃げようとした身体を、壁へ押し戻した力強い腕。


そして、今朝、玄烈がこの部屋に座っていた時のことを思い出した。


     ◇◇


玄烈が周家を訪れたのは、星揺たちが来るより少し前のことだった。


夫は仕事へ出ており、屋敷には静蘭と侍女たちしかいなかった。

客間へ通された玄烈は、卓を挟んだ向かいに座っていた。


紫黒の衣。

わずかに白いものの混じる、長い黒髪。

口元には、いつもと変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。


「裴家の娘が、こちらへ来るそうですね」


その瞬間、静蘭の肩がわずかに跳ねた。


「なぜ……それをご存じなのですか」


「さあ。なぜでしょうね」


彼の声は、決して怒っているような響きではなかった。

むしろ、世間話をするような柔らかな声だった。


「裴家から、訪問したいという知らせが届いたと聞きました」


玄烈は静かに茶碗へ手を伸ばした。

蓋を少しずらし、立ち上る香りを確かめるように目を細める。


「律儀な娘ですね」


静蘭は、何も答えられなかった。


玄烈は茶を一口飲む。

指先にも、目元にも、何一つ乱れはない。


「何を、話すつもりですか?」


茶碗を置いたあと、玄烈は静かに尋ねた。

静蘭の唇が、わずかに震える。


「あ、あの日のことは……」


「何も、ありませんでした」


彼女の言葉へ、玄烈が言葉を重ねた。


「そうでしょう?」


静蘭の喉が、小さく鳴った。


「私は、具合の悪くなったあなたを介抱した。それだけです」


「けれど……」


「けれど?」


玄烈の笑みは消えなかった。

ただ、黒い瞳だけが静蘭へ真っすぐに向けられる。


その瞬間、静蘭の左手首が、あの時の古い痛みを思い出したように疼いた。


強く掴まれた指。

逃げようとした身体を、壁へ押し戻した腕。

首筋へ触れた、息づかい。


静蘭の呼吸が浅くなる。


玄烈は、その変化を楽しむようにじっと眺めていた。


「あなたの夫君は、来月にも昇進の話があるそうですね」


静蘭の目が、大きく見開かれた。


「どうして、それを……」


「王都にいれば、自然と耳に入るものです」


玄烈は穏やかに答えた。


「誠実な方だと伺っております。上役からの信頼も、とても厚い」


一拍。


静蘭の背が、少しずつ強張っていく。


「そのような方が、妻の不名誉な噂によって立場を失うのは、お気の毒ですね」


「ふ、不名誉な……」


「ええ。人気のない回廊で、龍家の男と二人きりでいたのですから」


玄烈の声は、最後まで静かだった。


「事情を知らぬ者が聞けば、どのように思うでしょうか」


「わ、私は、そんなつもりは――」


「ええ。私は、知っています」


玄烈はわずかに身体を前へ傾けた。


「ですが、世間がすべてを正しく聞いてくれるとは限りません」


静蘭の目に、恐怖が浮かんだ。

玄烈の視線が、彼女の顔から、膝の上で握られた手へゆっくりと落ちる。


「それと……あなたには、ご実家に幼い弟君もいらしたはずですね」


静蘭の指が、一瞬で止まった。


「ど、どうして……家族のことまで」


「心配には及びません」


玄烈は目を細め、柔らかく笑った。


「何もなければ、誰にも何も起こりません」


その言葉が、静蘭の胸に冷たい刃のように突き刺さった。


何もなければ。


つまり、自分が何も話さなければ。


「裴家の娘へは、こう話しなさい」


玄烈の低い声が、香の満ちた客間に落ちる。


「あの日は、あなたが気を失いかけ、気が動転していた」


静蘭の指の震えは止まらない。


「私は、介抱していただけ」


「……は、はい」


「手首の痕は、元から痕の残りやすい体質であるため」


静蘭はぎゅっと唇を噛んだ。

玄烈は構わず続ける。


「玄烈様には助けていただいた、と。とても感謝している、と話しなさい」


静蘭の顔が強張った。


「そこまで……」


「ええ。そこまで、自然に話しなさい」


そう言った玄烈の声は、驚くほど穏やかだった。


「怯えた顔を見せれば、相手に疑われます」


静蘭の息がひゅっと止まった。

玄烈は、彼女がどのように振る舞うべきかまで分かっていた。


「笑いなさい」


静蘭の唇が、わずかに震えた。


「何もなかったのだと、相手が安心するように」


「も、もし……本当のことが知られたら」


静蘭は恐る恐る尋ねた。


その瞬間、玄烈の黒い瞳が、わずかに細くなった。


「本当のこと、とは?」


静蘭は、その問いに答えられなかった。


声は優しく、表情も、とても穏やかだった。

けれどその奥には、触れてはいけないなにか冷たいものがある。


「ご安心ください」


玄烈は再び茶碗を手に取った。


「何もなかったのですから」


     ◇◇


静蘭は椅子の上で、強く目を閉じた。

全て、玄烈に命じられたとおりに話した。


気が動転していただけ。

介抱されただけ。

痕の残りやすい体質。

助けてもらったことに心から感謝している。


一つも間違えなかった。

笑みも決して絶やさなかった。

星揺たちは最後まで安心して帰っていった。


これでいい。


夫も、弟も今は無事。

これでいいはずだ。


だって。


「何も……なかったのだから」


静蘭は、自分へ言い聞かせるように何度も呟いた。


けれど、その声は小さく、震えていた。

両腕へ力を込めても、身体の震えは止まらない。


本当は、何もなかったのではない。


怖かった。

助けてほしかった。


けれど、その言葉を一度でも口にすれば、夫や弟に何が起こるか分からない。


静蘭は片手で口元を押さえた。

誰もいない客間で。


星揺たちへ見せなかった恐怖が、ようやく静蘭の顔へ溢れ出した。


助けを求める言葉は、声になることなく、何度も喉の奥で押し潰された。


静まり返った客間には、その震える息遣いだけが、小さく残っていた。

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