二十九話 巧妙な嘘
紫黒の衣をまとった玄烈の長い黒髪には、わずかに白いものが混じっていた。
見た目は三十八歳ほどだが、実際には二百年以上を生きている。
突然の来訪にもかかわらず、衣には乱れ一つなく、顔にはいつもと変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。
玄烈は客間へ入ると、昊然の前で深く頭を下げた。
「お越しとは知らず、お迎えが遅くなりました」
「ああ」
昊然は短く答えた。
玄烈の視線が、開かれた帳面へ落ち、そのあと家令へ向けられた。
「何かございましたか」
「秀蓮という侍女について尋ねていた」
昊然の声は平坦だった。
玄烈のまつ毛が、一度ゆっくりと伏せられた。
「秀蓮……」
名を確かめるように繰り返した。
「覚えているか」
「もちろんでございます」
玄烈は昊然へ顔を戻した。
「よく働く娘でした。祖母を大切にしていたと記憶しております」
昊然の目は、玄烈の顔から離れなかった。
「郷へ帰ったと聞いた」
「はい」
玄烈は迷わず答えた。
「祖母の体調が悪いと申し、暇を願い出ました」
「本当か」
短い問いだった。
けれど、客間の空気がわずかに変わった。
家令が息を止める。
景雲も、昊然と玄烈の間へ静かに視線を動かした。
玄烈の笑みは崩れなかった。
ただ、黒い瞳の奥へ、ほんの一瞬だけ別の光が浮かんだように見えた。
驚きか、疑問か。
それとも、昊然が何を知っているのか測ろうとしたのか。
その光は、すぐに消えた。
「はい」
玄烈は穏やかに答えた。
「本人が帰郷を望みましたので、止める理由もございませんでした」
昊然は袖から、秀蓮の書状を取り出し卓の上へ置いた。
玄烈の視線が、古びた紙へ落ちた。
「秀蓮の祖母が、今日、王都へ来た」
玄烈のまつ毛が、わずかに動いた。
「祖母が?」
「秀蓮は、郷へ戻っていない」
客間には、灯火の燃えるかすかな音だけが残った。
玄烈は書状を見つめたあと、ゆっくりと昊然へ顔を上げた。
「それは……妙でございますね」
眉がわずかに寄った。
驚きと心配を示す、ごく自然な表情だった。
「郷へ向かう途中で、何かあったのでしょうか」
「分からない」
昊然は玄烈の目を見たまま答えた。
「だから尋ねに来た」
「では、私の方でも人を出しましょう」
玄烈はすぐに言った。
「秀蓮が使ったと思われる道と、途中の宿場を調べさせます」
「その必要はない」
玄烈の眉が、わずかに上がった。
「景雲に調べさせる」
「左様でございますか」
玄烈は一度だけ景雲へ視線を向け、穏やかに頭を下げた。
「何か分かりましたら、私にもお知らせください。こちらでも、秀蓮と親しかった者たちへ話を聞いておきましょう」
あまりにも自然な対応だった。
所在の分からない元侍女を案じ、調査にも協力しようとしている。
玄烈の表情にも、声にも、明らかな不自然さはなかった。
それでも、昊然の眉間に寄った皺は消えなかった。
「秀蓮が屋敷を出た時……」
昊然が尋ねた。
「お前は直接会ったのか」
玄烈は、ほんの一呼吸だけ間を置いた。
「はい。暇を認める際に、短く言葉を交わしました」
「様子は」
「祖母のことを心配しておりました。それ以外に、変わった様子はなかったかと」
「そうか」
昊然は、それ以上問いを重ねなかった。
帳面を閉じる。重い表紙が、低い音を立てた。
「夜分に邪魔をした」
「いいえ」
玄烈は穏やかに笑った。
「秀蓮の祖母も、さぞご心配でしょう。無事が分かればよいのですが」
昊然は立ち上がった。景雲もそれに続いた。
二人が客間を出る際、昊然は一度だけ振り返った。
玄烈は、先ほどと同じ場所に立っていた。
柔らかな灯火の中。
穏やかな表情で、深く頭を下げていた。
◇◇
屋敷の門を出ると、夜の風が昊然の黒髪をわずかに揺らした。
景雲が馬の手綱を渡す。
昊然はすぐには馬へ乗らず、玄烈の別邸を振り返った。
高い黒塀。
閉じられていく重い門。
屋敷の中では、灯籠の明かりが静かに揺れている。
「昊然様」
景雲が呼んだ。
昊然の視線が、閉じた門から景雲へ移った。
「外郭門の記録を調べろ」
「秀蓮が屋敷を出た日でございますね」
「ああ」
昊然は馬へ跨がった。
「王都を出た記録があるか。どの門を使い、誰と一緒だったか。荷を持っていたかも調べろ」
「承知いたしました」
景雲も馬へ乗った。
「玄烈様を……お疑いですか?」
昊然の指が、手綱の上で一瞬止まった。
視線は前へ向けられたままだった。
「まだ何も分からない」
低い声が、夜道へ落ちる。
「玄烈の話には、記録もある。説明も通っている」
「はい」
「だが――」
昊然の眉間に、再び細い皺が寄った。
星揺の顔が浮かんだ。
――穏やかに笑っていたのに、少し怖く感じた。
形のない言葉。確かな証拠ではない。
それでも、星揺が感じた違和感を完全に無視することはできなかった。
「秀蓮が本当に王都を出たのか。それだけは確かめる」
昊然は手綱を引いた。
黒い馬が、静かな夜道を進み始める。
景雲も少し後ろから続いた。
玄烈の忠義を疑うには、まだ何もかもが曖昧だった。
ただ、あまりにも筋の通った説明だけが、昊然の胸に引っかかっていた。




