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二十八話 消えた侍女



龍国公府へ戻った頃には、陽はすでに城壁の向こうへ沈んでいた。

空にはまだ淡い紫色が残っていたが、広い中庭は深い影に包まれている。


龍昊然リュウ・コウゼンが馬を降りると、待っていた従者がすぐに手綱を受け取った。


昊然は日除け笠を外すと、誰にも声をかけず書房へ向かった。


長い墨色の衣が、歩みに合わせて静かに揺れる。

その足取りは普段と変わらなかったが、袖の内側には、秀蓮シュウレンの祖母から預かった書状が収められていた。


紙の薄い感触を意識するたび、老女の声が蘇る。


――何も言わず、私を置いていなくなるような子ではございません。


書房へ入ると、昊然は黒檀の卓の前へ腰を下ろした。


窓の外には幾重もの黒い薄布が垂れ、夜風を受けてわずかに膨らんでいる。

灯火の芯が揺れ、机上へ積まれた書状や、軍から届いた報告書の影を細く伸ばしていた。


昊然はそれらへ手をつけず、袖から一通の書状を取り出した。

丁寧に折り畳まれてはいるものの、何度も開かれた紙の端は柔らかくなっている。


もう一度、中へ目を通した。

祖母の体調を気遣う言葉。

薬代として送った金のこと。

屋敷の仕事に少しずつ慣れてきたこと。


次の休みには、必ず帰るという約束。

文字の一つ一つは、特別な内容ではなかった。


遠くで働く若い娘が、故郷で待つ家族へ送る、ごくありふれた便りだった。

だからこそ、何の前触れもなく連絡が途絶えたことが不自然に思えた。


戸の外から、静かな足音が近づいてくる。


「昊然様。お呼びでしょうか」


龍景雲リュウ・ケイウンの声だった。


「入れ」


戸が開く。


景雲は濃紺の衣をまとい、王宮から戻ったばかりの姿で書房へ入ってきた。

普段どおり昊然の前へ進み、静かに一礼する。


「王宮での役目は終わったのか」


「はい。陛下へお渡しする書状も、すべて整えてまいりました」


昊然は卓上へ置いていた秀蓮の書状を、景雲の方へ滑らせた。


「秀蓮という侍女を調べろ」


景雲の視線が、昊然から紙へ落ちる。


「秀蓮、でございますか」


「二十を少し越えた娘だ。玄烈の別邸で働いている」


景雲は書状を手に取った。

折り目を崩さないよう慎重に開き、端正な文字へ目を走らせていく。


「ふた月前から、祖母への便りが途絶えている」


「ご家族が、昊然様へ直接?」


「ああ。王都の外郭門で会った」


景雲のまつ毛が、わずかに持ち上がった。


景雲は書状の末尾まで読み終えると、もう一度日付を確かめた。

穏やかな表情に、ごく薄く考え込むような色が浮かぶ。


「月に一度は、欠かさず文を送っていたようでございますね」


「少なくとも、祖母はそう言っていた。だが、ふた月前から突然、何も届かなくなったと」


景雲は紙を元の折り目に沿って畳み、卓上へ戻した。


「玄烈様の別邸へ、先に人を向かわせましょうか」


昊然はすぐには答えなかった。


黒い瞳は、書状の上へ留まっている。

秀蓮という一人の侍女が、家族へ便りを出していない。


それだけならば、病や仕事の都合も考えられる。

当主である昊然へ、別邸の侍女一人一人の出入りまで報告されることはない。


玄烈から何も聞かされていないこと自体は、不自然ではなかった。


それでも、祖母の涙を見たあとでは、ただの行き違いとして片づける気にはなれなかった。


昊然が口を開こうとした時、戸の外から別の足音が聞こえた。

遠慮なく近づいてくる歩調に、景雲が戸へ視線を向ける。

返事を待つより先に戸が開き、龍暁嵐リュウ・ギョウランが姿を現した。


「兄上、いたのか」


深い藍色の衣をまとい、結い上げた黒髪をわずかに揺らしながら、暁嵐は書房へ入ってきた。


昊然の前まで来ると、一度だけ卓上の書状へ目を向ける。


「ん? 何かあったのか?」


「玄烈の別邸で働いているはずの侍女の消息が、ふた月前から分からなくなっている」


昊然が答えると、暁嵐の眉がわずかに上がった。


「……玄烈の別邸?」


「ああ」


「侍女の名は」


「秀蓮だ」


暁嵐は聞き覚えを探すように、少しだけ目を細めた。

けれど思い当たるものはなかったらしく、すぐに首を横へ振る。


「知らない名だな」


「別邸の侍女でございますから、私どもが知らなくても不思議ではありません」


景雲が言った。


暁嵐は頷きかけたものの、その動きが途中で止まった。

何かを思い出したように、視線が卓上から昊然へ戻る。


「そういえば……」


「何だ」


昊然が顔を上げる。


暁嵐は一度まつ毛を伏せ、記憶を確かめるように間を置いた。


「以前、星揺も玄烈について尋ねてきた」


昊然の黒い瞳が、わずかに動いた。

それまで書状の上へ置かれていた視線が、完全に暁嵐へ向けられる。


「いつだ」


声は変わらなかった。

けれど景雲には、昊然の意識が一瞬で切り替わったことが分かった。


「兄上が東の山間へ討伐に出ていた時だ」


暁嵐は答えた。


「鈴花へ地図を届けに裴家へ行った時、星揺から玄烈はどのような人物なのかと尋ねられた」


昊然の眉間へ、細い皺が寄った。


「なぜ、そのようなことを」


「王宮で会ったらしい」


「玄烈と?」


「ああ」


暁嵐は当時の星揺の顔を思い出すように、少しだけ視線を横へ向けた。


「具合を悪くした夫人を、玄烈が介抱していたと言っていたが……」


言葉を選ぶように、そこで一度止まる。


「穏やかに笑っていたのに、少し怖く感じたと」


昊然は何も言わなかった。

眉間へ寄った皺は消えない。

星揺は、思ったことをすぐ口へする娘だ。


大げさに騒ぐこともある。

けれど、理由もなく誰かを悪く言う娘ではなかった。


むしろ、自分の見間違いかもしれないと考え、玄烈を疑うことをためらっていたのだろう。


「その時、兄上のことも聞かれた」


暁嵐が続ける。


「玄烈を信頼しているのか、と」


「お前は何と答えた」


「兄上も玄烈を信頼している、と答えた」


暁嵐は少し眉を寄せた。


「ん? 何か間違っていたか?」


「いや」


昊然は短く答えた。実際、そのとおりだった。

玄烈は、先代の頃から龍家を支えてきた。


戦の時も。

一族内で意見が割れた時も。


若くして当主となった昊然にも、表立って逆らうことなく力を貸してきた。


古い掟や記録にも詳しく、一族の中でも最も信頼できる者の一人だった。


一人の侍女から便りが途絶えたこと。

星揺が一度、玄烈を怖いと感じたこと。


その二つだけで、玄烈の忠義を疑うことはできない。


それでも。

まったく別の場所にあったはずの二つの話が、玄烈という名の下で重なった。


昊然の右手が、卓の縁へ置かれる。

長い指が、黒い木目の上へ静かに添えられた。


「星揺は、それ以外に何か言っていたか」


「いや」


暁嵐は首を横へ振る。


「本人も、気のせいかもしれないと言っていた」


「そうか」


昊然の返事は短かった。


けれど視線は、再び秀蓮の書状へ戻っている。


紙の上へ書かれた明るい文字。

星揺が感じた、言葉にできない恐れ。

どちらも、玄烈の罪を示すものではない。


ただ、胸の奥に細い棘のような違和感が残った。


「昊然様」


景雲が静かに尋ねる。


「やはり、先に人を向かわせますか」


昊然はゆっくりと顔を上げた。


黒い瞳からは、すでに迷いが消えている。


「いや」


「では――」


「私が行く」


暁嵐の目が、わずかに大きくなった。


「は?今からか?」


「ああ」


「もう夜だぞ」


「だから都合がよい」


昊然は立ち上がった。

墨色の衣の裾が、椅子の脇で静かに揺れる。


「秀蓮が今も別邸にいるのか。それだけを確認する」


声は落ち着いている。


玄烈を疑って乗り込むのではない。

祖母が王都の門まで訪ねてきた以上、今夜のうちに所在だけでも確認する。


昊然は、そのように自分の中で理由を定めていた。


けれど景雲には分かっていた。

本当にただ所在を確認するだけならば、当主自ら前触れもなく向かう必要はない。


「私もお供いたします」


「私も行く」


暁嵐が言う。


昊然は弟へ視線を向けた。

暁嵐の顔には、軽い好奇心ではなく、わずかな緊張が浮かんでいる。


「お前は残れ」


「なぜだ」


「三人で押しかければ、問いただしに行くように見える」


暁嵐は言葉に詰まった。


「……それもそうだな」


昊然は、納得した暁嵐へ視線を向けたあと、書状を袖へ収めた。


景雲は昊然の半歩後ろへ立ち、一礼する。


「馬車を用意させます」


「必要ない。馬で行く」


夜であれば、陽を避ける必要はない。

それに、予告なく到着するには、その方が早かった。


     ◇◇


玄烈の別邸は、王都の北西にある静かな一角へ建っていた。


高い黒塀に囲まれた、古い屋敷だった。

大通りから離れているため、夜になると人通りはほとんどない。


塀の向こうから見える屋根の端には、赤い灯籠が幾つか吊るされている。


昊然と景雲の馬が、門前で止まった。


門を守る男が龍家の紋へ気づき、驚いたように背筋を伸ばす。


「りゅ、龍国公様……」


声がわずかに裏返った。

昊然は馬を降り、手綱を景雲へ渡した。


「玄烈はいるか」


「は、はい。今夜はお屋敷にいらっしゃいます」


門番の視線が、屋敷の奥へ一瞬泳いだ。


「ただいま、お取次ぎを――」


「必要ない」


昊然は閉ざされた門へ目を向けた。


「開けろ」


門番の喉が動き、返事がわずかに遅れた。


昊然の眉間へ、薄い皺が寄る。

それだけで、門番は弾かれたように身体を動かした。


「た、ただいま!」


重い門が、内側へ開かれる。


予告のない当主の来訪は、すぐに屋敷中へ伝わった。

昊然が前庭へ入ると、回廊の奥から使用人たちが次々と姿を現した。


皆、何が起きたのか分からない顔をしている。


けれど昊然と目が合うと、すぐに頭を下げた。

茶器を運んでいた若い侍女は、盆を持つ手をわずかに震わせている。

別の下働きの男は、慌てて道を空けようとして柱へ肩をぶつけた。


屋敷の家令らしい年嵩の男が、衣の前を整えながら駆けてきた。


「昊然様。ようこそお越しくださいました」


息がわずかに上がっている。

額には、薄く汗が浮かんでいた。


「急なご来訪とは存じ上げず、お迎えの準備も――」


「必要ない」


昊然は周囲を一度見回した。


灯籠の光、磨かれた石畳。

庭の隅へ並べられた水甕。

屋敷の者たちは皆、動きを止め、こちらの様子を窺っている。


昊然の視線が一人へ向くたび、その者は肩を強張らせて顔を伏せた。


当主が訪れたことへの緊張。


そう見えた。


けれど、何かを知られることへ怯えている者が混じっていても、今の昊然には見分けられなかった。


「秀蓮という侍女がいたな」


昊然が尋ねた。

家令の表情が、ほんの一瞬止まった。


驚いたのか。

名を思い出しているのか。

それとも、別の何かなのか。


すぐに恭しい表情へ戻る。


「はい。以前、こちらで働いておりました」


「以前?」


昊然の黒い瞳が、家令へ定まる。


「今はおりません」


家令は頭を下げたまま答えた。


「ふた月ほど前に暇を与え、郷里へ帰しました」


景雲の視線が、家令の横顔へ向けられる。


昊然は動かなかった。

ただ、眉間へ寄っていた皺がわずかに深くなる。


「誰が暇を出した」


「玄烈様のご許可を得て、私が手続きをいたしました」


「本人が望んだのか」


「はい。故郷にいる祖母の具合が思わしくないと申しておりましたので」


昊然の目が、わずかに細められた。


祖母は、秀蓮が郷里へ帰ってきたとは一言も言っていなかった。

それどころか、ふた月前から便りが途絶え、何も言わずにいなくなるような子ではないと訴えていた。


家令の話が事実なら、秀蓮は祖母のもとへ帰っているはずだった。


「いつ、屋敷を出た」


家令は答える前に、視線をわずかに下へ動かした。

記憶を探しているようにも見える。


「ふた月前の、十六日でございます」


「給金は」


「すべて精算いたしました」


「荷は」


「本人が持って出ました」


「誰かが門まで送ったか」


家令の目が、わずかに泳ぐ。


「いいえ。本人が一人で」


「どの門から王都を出ると言っていた」


「そこまでは……聞いておりません」


昊然は何も言わなかった。


沈黙が長くなるにつれ、家令の背中が少しずつ丸くなっていく。

額へ浮かんだ汗が、こめかみを伝った。


「記録を見せろ」


「記録、でございますか」


「侍女へ暇を出した記録だ」


「ただいま、お持ちいたします」


家令は深く頭を下げ、逃げるように回廊の奥へ向かった。


その背中を、昊然は目だけで追った。

景雲が声を潜める。


「少々、怯えすぎているようにも見えます」


「私が予告なく来れば、あの程度にはなる」


昊然はそう答えた。


けれど、家令が秀蓮の名を聞いた瞬間、表情を止めたことは昊然も見ていた。


しばらくして、家令が戻ってきた。

手には、使用人たちの出入りを記した厚い帳面が抱えられている。

卓のある客間へ案内され、家令が該当する頁を開いた。


そこには確かに、


――侍女・秀蓮。本人の願いにより暇を与える。給金を精算し、郷里へ帰す。


そう記されていた。


日付は、ふた月前の十六日。記録の下には、家令の印。

さらに、その隣には玄烈の許可を示す印が押されている。


昊然は頁へ視線を落としたまま、動かなかった。

記録そのものに、不自然なところはない。


紙も。墨の色も。

前後の記録と、大きく変わらなかった。


「昊然様」


奥の回廊から、落ち着いた声が聞こえた。


龍玄烈リュウ・ゲンレツが姿を現した。

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