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二十七話 途絶えた便り

第二十七話 途絶えた便り


凌川と別れたあと、星揺は一人で王宮の回廊を歩いていた。


昭華を乗せた婚礼馬車は、もう王都の大通りの先へ消えている。


祝いの楽も遠ざかり、先ほどまで多くの人で埋め尽くされていた南門には、初夏の風に揺れる赤と金の旗だけが残されていた。


星揺は、昭華から贈られた桃の花の髪飾りを両手で包んでいた。


――また会いましょう。


昭華は、最後まで笑っていた。


父母の前でも。

兄である凌川の前でも。

星揺や鈴花の前でも。


そして、遠くに立つ景雲と視線を交わした時でさえ、何の未練もないように美しく笑っていた。


けれど本当は、どこか悲しそうだった。


裴家の馬車が待つ宮門へ戻る途中、星揺は足元へ視線を落とした。

祝いのために撒かれた花びらが石畳の上を転がり、湿り気を含んだ風に押されて、回廊の端へ集まっている。


涙は、もう止まったと思っていた。


それなのに昭華の笑顔を思い出すと、また目の奥がじわりと熱くなる。


「前を見ろ」


不意に、低い声が聞こえた。


星揺が顔を上げると、長い回廊の先に黒い日傘が見えた。


傘の下には、墨色の衣をまとった昊然が立っていた。

黒い瞳が、真っ直ぐ星揺へ向けられている。


「り、龍国公様……」


星揺は慌てて姿勢を正した。


昊然は星揺の前まで歩いてくると、何も言わず、その顔を見下ろした。

星揺は泣いたことを悟られたくなくて、わずかに顔を横へ向ける。


けれど目元は、隠しようがないほど赤くなっていた。


「……泣いたのか」


「な、泣いておりません」


返事は早かった。

昊然のまつ毛が、静かに伏せられる。


「目が赤い」


「今日は……風が強かったので」


「風で、そのような顔にはならない」


星揺は言葉に詰まった。


誤魔化せるとは思っていなかった。

それでも、顔を見ただけで気づかれてしまうと、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


「公主殿下が……」


星揺は、もう誰もいない南門の方角へ目を向けた。


「最後まで、笑っていらしたんです」


昊然は何も言わず、続きを待っている。


「本当は悲しかったはずなのに。ご家族にも、私たちにも心配をかけないように、ずっとお一人で堪えて……」


手の中にある髪飾りを、星揺の指が強く包む。


「景雲様のことも、最後まで何も仰いませんでした。お二人とも、あれほど互いを大切に思っているように見えたのに」


昊然の黒い瞳が、わずかに動いた。


「景雲は、自分の立場を理解している」


声は静かだった。


「想いを伝えたところで、公主殿下の婚姻は変わらない。かえって苦しませると考えたのだろう」


「でも……」


星揺は、昊然を見上げた。


「私は、何も知らないまま失う方が、もっと苦しいこともあると思います」


星揺の言葉だけが、二人の間へ静かに残る。


「言っても未来が変わらないからといって、何も伝えなければ……好きだったことまで、初めからなかったようになってしまうでしょう?」


「忘れた方が、幸せなこともある」


「それを決めるのは、想われた方ではありませんか?」


星揺の声は、昊然を責めるものではなかった。


「公主殿下は、ご自分だけが景雲様を好きだったと思ったまま、遠くへ行かれたかもしれません」


昊然の脳裏へ、先ほどの景雲の姿が浮かんだ。


婚礼馬車へ深く頭を下げたあとも、景雲はいつもと同じ穏やかな顔をしていた。

けれど、袖の中で握られた手がわずかに震えていたことを、昊然は知っている。


「龍国公様は……大切な方へ伝えたいことがあっても、何も仰らないのですか?」


昊然の視線が、星揺へ戻る。


思いがけない問いだった。

黒い瞳に、涙を溜めた星揺の顔が映っている。


「……必要がなければ、言わない」


「必要かどうかは、どうやって決めるのですか?」


「自分で考える」


「それでは、相手のお気持ちは分からないでしょう?」


星揺は、真面目な顔をしていた。


特定の誰かについて尋ねているつもりはない。

ただ今日、言葉を交わさぬまま別れた二人を見て、心からそう思ったのだろう。


けれど昊然の胸には、その問いが思いのほか深く残った。


自分で考え、自分で決める。相手を危険から遠ざけるため。龍家の秘密へ巻き込まないため。


それが正しいことだと、これまで一度も疑ったことはなかった。


星揺の瞳から、堪えていた涙が一滴こぼれた。


昊然の黒い瞳が、わずかに揺れる。次の瞬間、昊然は日傘を星揺の方へ傾けた。黒い影が星揺の頭上へ移り、その顔から肩までを静かに覆う。


星揺がその動きに気づくより先に、昊然の手が伸びた。

指先が目元へ触れ、頬を伝いかけていた涙を静かに拭う。


星揺の身体が、わずかに強張った。

昊然自身も、自然に手を伸ばした自分に驚き、一瞬だけ動きを止めた。


星揺の頬は温かかった。初夏の陽を浴びて生きる、人間の肌。指先に伝わる柔らかな熱に、昊然は一瞬、息を止めた。


星揺は驚いたまま、昊然を見上げていた。

黒い日傘の下では、外の光も、人々の声も遠くなったように感じられる。


やがて、昊然は頬から指を離した。


「泣くなら、下を向くな」


「どうしてですか?」


「前が見えなくなる」


あまりにも昊然らしい答えに、星揺は涙を残したまま小さく笑った。


「龍国公様は、慰めるのがお上手ではありませんね」


「慰めたつもりはない」


「では、なぜ涙を拭いてくださったのですか?」


昊然は答えなかった。


星揺は返事を待つように、その顔を見上げる。けれど、黒い瞳から答えを読み取ることはできなかった。


しばらくして、昊然は宮門の方へ身体を向けた。


「馬車まで送る」


「お忙しいのでは?」


「同じ方角へ行くだけだ」


以前にも聞いたような理由だった。星揺はそれを指摘せず、黒い日傘の下を歩き始めた。


二人で歩くには、黒い日傘の影は少し狭かった。

肩が触れそうになるたび、星揺は気恥ずかしさから、わずかに距離を取る。


そのたびに昊然は日傘を星揺の方へ傾け、自分の肩を影の外へ出していた。墨色の衣へ初夏の白い陽射しが落ちていることに気づき、星揺は足を止めた。


龍家の者は陽の光に弱いと、以前、叔母から聞いたことがある。


「龍国公様、もう少しこちらへ寄ってください」


「このままで構わない」


「構います。肩が陽に当たっています」


「わずかな間だ」


「わずかでも、お身体に良くないのでしょう?」


星揺は袖を掴んだまま、自分から半歩、昊然へ近づいた。


「これなら、二人とも影に入れます」


昊然は、すぐ隣まで近づいた星揺を静かに見下ろした。

けれど何も言わず、日傘を二人の中央へ戻した。


     ◇◇


王宮の門近くまで来ると、裴家の馬車が待っていた。


窓には、初夏の陽射しを遮るための薄い布が下ろされている。

星揺と昊然が近づくと、その布がわずかに持ち上がった。

馬車の中から外を覗いた鈴花が、黒い日傘の下を並んで歩く二人へ気づく。


最初に星揺の赤くなった目元を見て、それから昊然へ視線を移した。


星揺は鈴花と目が合うと、昊然の袖からそっと手を離す。

御者が二人へ気づき、すぐに馬車の扉を開いた。


「龍国公様に、馬車まで送っていただいたの」


星揺が鈴花へ説明する。

鈴花は、馬車の中から昊然へ丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


「近くまで来ただけだ」


昊然は短く答えた。


星揺は、馬車の踏み台へ足を掛ける。

けれど乗り込む前に、一度だけ振り返った。


黒い日傘の下に、昊然はまだ立っている。


「今日は、ありがとうございました」


「何もしていない」


「いいえ。慰めてもらいました」


昊然のまつ毛が、わずかに動いた。


馬車の中では、鈴花が何も言わず二人を見ている。

星揺は、少しだけ笑った。


「それでは、また」


「ああ」


短い返事を聞き、星揺はようやく馬車へ乗り込んだ。

鈴花の向かいへ腰を下ろすと、御者が静かに扉を閉めた。


やがて馬車が、ゆっくりと動き始める。


星揺は窓の布を少しだけ上げたまま、外を見ていた。

黒い日傘の下に立つ昊然の姿が、初夏の眩しい光の中で少しずつ遠ざかっていく。


昊然もまた、裴家の馬車が王宮の門を出るまで、その場から動かなかった。


「随分と長く見ているのね」


向かいに座る鈴花が言う。

星揺は慌てて、窓の布を下ろした。


「そんなに見てないわ」


「そう」


鈴花はそれ以上、何も言わず、ただ口元へわずかな笑みを浮かべた。


     ◇◇


裴家の馬車を見送ったあと、昊然は王宮の外へ用意されていた黒馬のもとへ向かった。


今日は景雲を伴っていない。

景雲はまだ西苑に残り、王へ提出する書状の整理を任されていた。


馬の傍らには、龍家の従者が待っていた。


昊然が近づくと、従者はすぐに深く頭を下げ、日傘を受け取るために手を差し出した。


昊然は、それまで差していた黒い日傘を閉じ、従者へ渡した。


代わりに差し出されたのは、馬上で身につけるための黒い日除け笠だった。


広いつばの縁から薄い黒布が垂れ、顔だけでなく首筋や衣の襟元まで、初夏の強い陽光から守れるように作られている。


昊然は日除け笠を被った。


黒い薄布が白い頬の両側へ落ち、顔の大半を深い影の中へ隠す。


風が吹くと布の端がわずかに揺れ、その隙間から黒い瞳だけが覗いた。


従者が、続いて一組の手袋を差し出す。

陽はすでに西へ傾いている。

けれど王都の大通りには、まだ初夏の白い光が強く残っていた。


昊然は黒い手袋へ、片方ずつ指を通した。

柔らかな革が手首まで隙なく覆い、墨色の袖と重なる。

手袋をはめた指を一度曲げ、緩みがないことを確かめる。


それから鞍へ手を掛け、軽い動きで黒馬の背へ跨がった。


黒い馬。

墨色の衣。

顔へ深い影を落とす日除け笠。

手綱を握る黒い手袋。


馬具へ刻まれた龍家の銀の紋だけが、傾いた陽を受けてわずかに光っていた。


昊然は手袋越しに手綱を握り、王都の大通りを東へ進んだ。

昭華を見送った人々の多くは、すでに家路についている。

それでも通りの両脇には祝いの旗が残り、地面へ撒かれた花びらが馬の蹄に踏まれていた。


強い陽に熱せられた石畳から、乾いた熱気が立ち上っている。

店先へ吊るされた日除け布は緩い風を受け、重たげに揺れていた。


やがて、王都を囲む高い城壁が見えてくる。


東の外郭門。


王都へ入る者も、外へ出る者も、必ず身分や通行の理由を確かめられる場所だった。


夕刻が近づき、門を閉じる刻限も迫っている。

旅人や荷車が列を作り、門兵たちは汗を拭いながら、一人ずつ通行証を確認していた。

昊然が門へ近づくと、龍家の紋を見た兵たちは道を空けていく。


その時、列の外れから年老いた女の声が聞こえた。


「お願いでございます。王都へ入れてくださいませ。孫を探しに来たのです」


昊然は手綱を引き、馬を止めた。

門の脇には、粗末な荷物を足元へ置いた老女が立っていた。


古びた茶色の衣。

白髪を包んだ、色褪せた布。

長い道を歩いてきたのだろう。


履物には乾いた泥がつき、暑さと疲れで足は小さく震えている。


額には汗が滲み、日に焼けた頬は赤くなっていた。

それでも老女は、一通の書状を胸元へ抱き、必死に兵へ訴えていた。


「通行証も、王都に住む者からの迎えもない。身元を確かめられぬ者を入れることはできない」


「ですが、孫からふた月も便りがないのです」


「王都には大勢の者がいる。名だけでは探せない」


「孫は龍家のお屋敷で働いております。龍家へ伺うことさえできれば、何か分かるはずなのです」


───龍家。


その言葉に、日除け笠の影の中で昊然の目がわずかに動いた。

馬を進めると、門兵が昊然へ気づき、すぐに姿勢を正した。


「龍国公様」


老女も、その呼びかけを聞いて振り返った。


黒い馬の上。

墨色の衣。


顔を覆う黒い日除け笠。

手綱を握る黒い手袋。


龍家の紋が刻まれた馬具。


老女の目が、大きく見開かれる。


「龍家のお方で、いらっしゃいますか?」


昊然は馬を止めた。


「ああ」


老女は震える足で近づこうとしたが、力が抜けたように、その場へ膝をつきかけた。


昊然は、鞍から下りた。


垂れた黒い布が風を受け、白い顎の近くでわずかに揺れる。


「立て」


「ですが――」


「地面へ座ったままでは、話が聞けない」


門兵に支えられ、老女はどうにか立ち上がった。


昊然が尋ねる。


「孫の名は」


秀蓮シュウレンと申します」


老女は、胸元に抱いていた書状を差し出した。


「二十を少し越えたばかりの娘でございます。幼い頃に両親を亡くし、私が育てました」


昊然は、黒い手袋をはめた手で書状を受け取った。

紙は何度も開かれたため、端が柔らかくなっている。


そこには、祖母の身体を案じる言葉。

薬を買うための金を送ったこと。


仕事にも少しずつ慣れ、屋敷の者たちによくしてもらっていることが、若い娘らしい丁寧な文字で記されていた。


「どの屋敷で働いている」


「龍玄烈様の別邸でございます」


日除け笠の影の中で、昊然の黒い瞳がわずかに細められた。


玄烈の別邸。


老女は、その変化には気づかず言葉を続ける。


「秀蓮は、月に一度は必ず文を寄越す子でした。どれほど忙しくても、元気だと一言だけは知らせてくれておりました」


声が震え始める。


「ですが、ふた月ほど前から、何の便りも届かなくなったのです」


「こちらへ来たのは、今日が初めてか」


「はい」


老女は頷いた。


「孫から聞いていた道を頼りに、ようやく王都まで参りました。けれど、通行のための証も、王都で身元を保証してくださる方もおりません」


老女の涙が、深い皺の間を流れた。


「この門を通ることもできず、別邸へ伺うことさえできないのです」


昊然は、手元の書状へ目を落とした。

最後の日付は、ふた月前のものだった。


その下には、


――次の休みには、必ずお婆様へ会いに戻ります。


そう記されている。


けれど秀蓮は戻らず、文も途絶えた。


「何も言わず、私を置いていなくなるような子ではございません」


老女は昊然を見上げた。


「何かあったのではないかと、毎日そればかり考えております。どうか……どうか、孫が今も屋敷で働いているのかだけでも、確かめていただけませんでしょうか」


昊然は書状を、元の折り目へ沿って丁寧に畳んだ。


「この者を通せ」


門兵へ告げる。


「ですが、身元が――」


「私が保証する」


門兵は、すぐに頭を下げた。


「承知いたしました」


昊然は老女へ視線を戻す。


「今夜は、龍家の者が用意する宿へ泊まれ」


「龍国公様……」


「秀蓮が今も別邸にいるのか、私が調べる」


老女の顔が、涙で歪んだ。


「ありがとうございます。ありがとうございます……」


何度も頭を下げる老女を、門兵が支える。


昊然は畳んだ書状を、袖の中へ収めた。


玄烈からは、別邸の侍女について何の報告も受けていない。


ただ、便りを出せない事情があっただけかもしれない。

病に伏している可能性もある。

あるいは、すでに屋敷を辞めたのかもしれない。


この時点では、何も分からない。


それでも、月に一度欠かさず文を送っていた娘が、ふた月前から突然音信を絶った。


その事実だけは、確かだった。


王都の門が、夕暮れを告げる低い音を響かせる。

重い扉がゆっくりと閉じ始める中、昊然は鞍へ手を掛け、音もなく黒馬の背へ跨がった。


玄烈を疑う理由など、まだない。


だが、秀蓮という名と、祖母が握りしめていた古い書状だけは、確かに昊然の手元へ残った。


昊然は袖の中に収めた書状の感触を確かめるように、一度だけ腕を動かした。

それから夕暮れの王都へ黒馬を走らせた。

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