二十六話 届かなかった言葉
春が過ぎ、いつの間にか王都には初夏が訪れていた。
西苑を彩っていた杏や桃の花はとうに散り、庭の木々には濃い青葉が幾重にも重なっている。池では丸い蓮の葉が水面を覆い、その隙間から淡い紅色の蕾が顔を出していた。
春には柔らかかった陽射しも、今では白く強い。開け放たれた窓から入る風には、花の甘さよりも、水と青葉の湿った匂いが濃く混じっていた。
蕭昭華が西方の国へ嫁ぐ日まで、残り三日となっていた。
裴星揺と陸鈴花は、いつものように昭華の部屋へ呼ばれていた。
室内には、西方の意匠を取り入れた深い青と金の衣が広げられている。婚礼の日に身につける衣だった。
深い湖を思わせる青い布へ、翼を広げた銀色の鳥と、金の蔓草が細かく刺繍されている。幾重にも重なる裾には小さな宝石が縫いつけられ、宮女が動かすたび、差し込む陽を受けて星のような光を放った。
昭華は鏡の前へ立ち、宮女たちに袖丈を確かめられていた。
「少し、重すぎないかしら」
「正式な婚礼衣でございますから」
年長の宮女が、裾の皺を整えながら答える。
「西方では、この程度の重さが格式を表すと伺っております」
「この暑さの中で着るだけでも、疲れてしまいそうだわ」
「公主殿下なら、きっとお美しくお召しになれます」
「美しくても、歩けなければ意味がないわ」
いつもの昭華らしい言い方だった。
けれど、鏡に映る黒い瞳は笑っていない。
星揺は少し離れた場所から、その顔を見つめていた。
しばらくして、昭華は自分の薄桃色の衣へ着替えると、肩を軽く回した。
「これを着て、長い儀式をするのね」
「途中でお休みにはなれないのですか?」
星揺が尋ねる。
「婚礼の途中で休む花嫁が、どこにいるのよ」
「公主殿下が最初になればよいのでは?」
「星揺」
鈴花が小さく名を呼ぶ。
昭華は呆れたように星揺を見つめたが、口元にはわずかな笑みが残っていた。
やがて卓の方へ歩くと、そこへ置かれていた小さな箱を二つ手に取った。
一つを星揺へ。
もう一つを鈴花へ差し出す。
「あなたたちに」
星揺が箱を受け取る。
蓋を開けると、中には桃の花をかたどった小さな髪飾りが入っていた。
薄紅色の石で作られた花弁の中央に、小さな真珠が一粒だけ埋め込まれている。初夏を迎え、すでに散ってしまった春の花を、そのまま残したような髪飾りだった。
鈴花の箱には、薄い銀板へ西苑の池と朱塗りの回廊を細かく彫った栞が収められていた。
池には、小さな蓮の花まで彫られている。
「綺麗……」
星揺が呟く。
鈴花も、銀の栞を大切そうに持った。
「いただいてもよろしいのですか?」
「ええ。私がいなくなっても、時々思い出しなさい」
星揺の目へ、わずかに涙が滲む。
「毎日、思い出します」
「毎日は多すぎるわ」
「では、二日に一度」
「それも多い」
「三日に一度なら?」
昭華は堪えきれず、笑った。
「好きになさい」
笑いながら、目の奥に浮かんだ涙を誰にも気づかれないよう、わずかに顔を逸らした。
◇◇
そして、とうとう昭華が西方へ嫁ぐ日が来た。
初夏の空は、朝から青く晴れ渡っていた。
王宮の南門から城下の大通りまで、赤と金の旗が幾重にも掲げられている。道の両側には、公主を見送るため、多くの人々が集まっていた。
陽射しは朝から強く、旗の金糸が眩しく輝いている。風が吹くたび、木々の濃い葉が大きく揺れた。
蝉が鳴くにはまだ早く、庭からは名も知らぬ虫の声が聞こえてきた。
西方から迎えに来た騎兵。王家の護衛。贈り物を運ぶ荷車。
その列には、西方まで同行する龍家の護衛の一隊も加わっていた。景雲が自ら旅程を確かめ、道中の守りを託した者たちだった。
長い行列の中央には、金と深い青で飾られた大きな婚礼馬車が置かれている。婚礼馬車の窓には厚い青色の簾が下げられ、その縁へ幾つもの金の飾りが連なっていた。
空は晴れていた。
雲一つなく、あまりにも美しい旅立ちの日だった。
昭華は深い青と金の婚礼衣をまとい、王と王妃へ深く頭を下げた。
重い衣を身につけていても、その背筋は真っ直ぐ伸びている。
この国の王、蕭承淵は娘を見つめながら、何度も言葉を探していた。
国を治める王としてなら、言うべき言葉はいくらでもあった。
西方の王家へ敬意を払え。
国同士をつなぐ役目を果たせ。
蕭家の公主として、誇りを失ってはならない。
けれど今、目の前にいるのは、遠い国へ送り出さなければならない自分の娘だった。
それでも、
「息災であれ」
その一言しか言えなかった。
王妃は昭華を強く抱き締めた。
婚礼衣の飾りが互いの衣へ触れ、細かな音を立てる。
「身体を大切にするのですよ」
「はい、母上」
「食事を抜いてはいけません。寒い時には、我慢をせず衣を重ねて」
「分かっています」
「嫌なことがあれば、すぐに文を……」
王妃の声が震えた。
昭華は、母の背へ腕を回した。
「母上……」
王妃はそれ以上言葉を続けられず、すぐには娘を離すことができなかった。
やがて蕭凌川が、妹の前へ立った。
太子として、人々の前では涙を見せない。
「西方の者たちへ、我が国の公主がどれほど誇り高いか、よく見せてこい」
昭華は少しだけ眉を上げた。
「兄上に言われなくても、そうするわ」
「そうだったな」
凌川の口元へ笑みが浮かぶ。
けれど、目の奥には深い悲しみがあった。
「困ったことがあれば、すぐに文を寄越せ」
「国境を越えるのよ。すぐには届かないわ」
「それでも書け」
昭華の瞳が、わずかに潤む。
「……分かったわ」
兄妹は、それ以上言葉を続けられなかった。
昭華は、星揺と鈴花の前へ来た。
「二人とも」
星揺は笑おうとした。
けれど、唇が上手く動かなかった。
「公主殿下……」
声が、どうしても震える。
昭華は星揺の頬を、指先で軽く摘んだ。
「もう、泣かないでよ」
「な、泣いておりません」
「目に、いっぱい涙が溜まっているわ」
「まだ、落ちていませんから」
星揺の言葉に、昭華がいつものように笑う。
その笑顔を見た瞬間、星揺の瞳から涙が一滴落ちた。
「落ちたわね」
「今のは……風のせいです」
「そんなわけないでしょう?」
いつものようなやり取り。
けれど、これが最後かもしれない。
そう思うと、星揺は余計に涙を止められなかった。
鈴花も目元を赤くしながら、昭華へ丁寧に頭を下げた。
「どうか、お身体を大切になさってください」
「鈴花も。少しは自分のことを優先しなさい」
「はい……」
「星揺の面倒ばかり見ていては駄目よ」
「公主殿下」
星揺が不満そうに呼ぶ。
昭華は堪えきれないように笑った。
「また、会いましょう」
星揺は何度も頷く。
「必ずです」
「ええ」
「約束ですよ」
「分かったわ」
昭華は二人の手を、一人ずつ握った。
星揺の手にも、鈴花の手にも、別れを惜しむような少し強い力が込められていた。
それから昭華は、婚礼馬車へ向かった。
階段へ足を掛ける前、一度だけ王宮の回廊へ目を向ける。
多くの武官や貴族が並ぶ中、その中に黒い日傘が二つ並んでいた。
その下には、昊然と景雲が立っていた。
昭華と景雲の視線が静かに重なった。
遠い。
声は届かない。
景雲は、深く頭を下げた。
ただ、それだけだった。
けれど、昭華は笑った。
公主らしく、美しく、何の未練もないように。
そして馬車へ乗り込んだ。
扉が、静かな音を立てて閉じられた。
それを合図に、太鼓が鳴り始め、長い行列がゆっくりと動きだす。
馬車の車輪が王宮の門を越え、城下の大通りへ進んでいく。
人々の歓声と祝いの音楽が響き、やがて金色の屋根も、深い青の旗も、初夏の白い陽射しの中で少しずつ小さくなっていった。
昭華は、西方へ嫁いでいった。
最後まで、誰にも悲しいとは言わずに。
◇◇
見送りを終えた人々が、少しずつ王宮の中へ戻っていく。
景雲は一人で、西苑の弓場へ来ていた。
昭華が使っていた弓は、ほかの荷と共に西方へ運ばれている。
弓架には、何も残っていなかった。
濃い藍色の日除け布の下。
誰もいなくなった射場へ、青葉を揺らす初夏の風だけが入り込んでいる。
的の外側には、最後の稽古で昭華が放った矢の痕が残っていた。
初めて矢が的へ届いた時。
昭華は振り返り、景雲が見ていたかと、嬉しそうに尋ねた。
景雲はその痕を、一人、長く見つめていた。
「景雲様」
背後から声がした。
振り返ると、鈴花が一人で立っていた。
「陸鈴花様。何かございましたか」
景雲は、いつものように穏やかな表情を作る。
鈴花はすぐには答えなかった。
普段なら、相手の事情へ不用意に踏み込むことはしない。
けれど今日だけは、言わなければならないように思えた。
「なぜ、お気持ちをお伝えにならなかったのですか」
景雲の表情が止まった。
弓場へ風が通り抜け、日除け布の端が大きく揺れた。
「何のお話でしょう」
景雲は静かに答える。
鈴花の長いまつ毛が、わずかに伏せられた。
「私が何も気づいていないと?」
景雲は答えなかった。
「どうして、思いを伝えなかったのですか?」
「……お伝えしたところで、何も変わりません」
景雲の声が、いつもより低くなる。
「婚姻は王命です。殿下へ想いをお伝えすれば、ただお心を乱すだけでしょう。西方へ嫁がれる殿下へ、選べぬ未来を見せるべきではないのです」
言葉は、どこまでも冷静だった。
きっと、何度も自分へ言い聞かせたのだろう。
鈴花はしばらく黙ったあと、静かに口を開いた。
「ええ、未来は変わらなかったかもしれません。きっと景雲様がお気持ちを伝えても、公主殿下は西方へ嫁がれたでしょう」
「ならば――」
「ですが、選べないことと、何も知らされないことは同じではありません」
景雲の黒い瞳が、鈴花へ向けられる。
「公主殿下は、ご自分だけが景雲様との時間を大切にしていたのではないか――そう思われたまま、旅立たれたかもしれません」
「そんなことはないと――」
「景雲様には分かっていても、公主殿下には、景雲様のお気持ちは分かりません」
弓場へ沈黙が落ちた。
景雲は、衣の袖の中で手を強く握った。
「私は……殿下を困らせたくなかった」
「きっと、お気持ちを伝えて、殿下が苦しむお顔を見ることが、景雲様も怖かったのではありませんか?」
鈴花の声は静かだった。
「何も言わず、初めから想っていなかったように振る舞う方が、ご自分も別れやすいと思われたのでは?」
鈴花の言葉に、景雲は的へ視線を向けた。
昭華が何度も外した矢。
初めて的へ当たった時の笑顔。
褒めたあとに、必ず何か言うと怒った声。
次はいつ教えるのかと、当然のように尋ねた顔。
あの日々を大切にしていたのは、自分だけではなかった。
それなのに、最後まで彼女に何一つ渡さなかった。
「未来を変えられなくても、公主殿下は、ご自分が一人で恋をしていたのではないと、知ることができました」
景雲は、ゆっくりと目を閉じた。
「選べない未来しかなかったからこそ、愛されていた記憶くらいは、お渡ししてもよかったのではありませんか」
景雲は何も答えられなかった。
初夏の風が、空になった弓架の間を通り抜ける。
しばらくして、景雲が小さく呟いた。
「もう、遅いですね」
鈴花は、静かにまつ毛を伏せた。
「はい。もう、遅いです」
慰めるための嘘は言わなかった。
景雲の口元へ、笑みとも呼べないわずかな歪みが浮かぶ。
「陸鈴花様は、随分と厳しいことを仰る」
「……申し訳ございません」
「いいえ」
景雲は静かに首を横へ振った。
「必要な言葉だったのでしょう」
景雲は、もう一度的の痕へ視線を向けた。
「私は、殿下を守るために何も言わなかったつもりでした。ですが、本当は……」
それ以上は、言葉にならなかった。
鈴花は景雲の傍へ立ったまま、何も急かさなかった。
伝えられなかった想いを、今度こそ景雲自身がなかったことにしないために。
◇◇
一方、星揺は王宮の南門に残っていた。
昭華の行列は、もう大通りの先へ消えている。
祝いの音楽も、少しずつ遠くなっていた。
すぐ近くには、凌川が立っていた。
ほかの者たちは王と王妃に続き、宮殿の中へ戻っていた。
それでも凌川は、妹の馬車が消えた方角を見つめたまま動かなかった。
太子として背筋を伸ばし、いつもと変わらぬ顔をしていた。
けれど衣の袖の中で、右手を強く握っていることに、星揺は気づいた。
「太子殿下」
凌川の目が、わずかに動く。
「何だ?」
「どうして……このように悲しい別れをしなければならないのですか」
星揺は、消えていった道を真っ直ぐに見つめた。
凌川は、すぐには答えなかった。
初夏の強い陽射しが門前へ落ち、赤と金の旗の影を石畳の上へ揺らしている。
やがて、凌川が静かな声で言った。
「国のためだ。西方との結びつきが強まれば、国境の争いも減る。多くの民が、戦で命を失わずに済む。昭華も、それを理解している」
「だから、悲しくないのですか」
凌川の眉が、わずかに寄る。
「そうは言っていない」
「でも、公主殿下は最後まで笑っていました。陛下と王妃様を安心させるため。太子殿下を困らせないため。私たちが泣かないようにするため。本当は、誰よりも悲しかったはずなのに……」
凌川は何も言わなかった。
「国を守るためのご婚姻なのでしょう?」
星揺は続ける。
「それなのに、どうして守られるはずの公主殿下のお心だけが、誰にも守られないのですか」
凌川の目が、わずかに見開かれた。
誰も、それを言わなかった。
王も、王妃も、重臣たちも。
昭華自身さえ。
国のため。
王家の役目。
公主として当然のことだと。
誰もが同じ言葉を繰り返した。
凌川も、そう何度も自分に言い聞かせていた。
妹を送り出すために、兄としての心を太子という立場の下へ押し込めた。
「では、お前は婚姻を取りやめるべきだったと言うのか」
凌川が低く尋ねる。
「分かりません」
星揺は正直に答えた。
「国のことは、私には分かりません。でも、公主殿下が悲しまない方法を、最後まで探してほしかったです。仕方がないと決める前に、公主殿下が何を望んでいらっしゃるのか、きちんと聞いてほしかった」
「聞いたところで、叶えられなければ余計に苦しませるだけだ」
凌川の声が、わずかに揺れる。
「叶えられなくても、それでも悲しいと言うことくらいは許されたのではないですか」
凌川の顔から、太子の仮面が一瞬だけ消えた。
ただ、大切な妹を遠くへ送り出した兄の顔になった。
星揺は、それを見逃さなかった。
「太子殿下も、悲しいでしょう?」
凌川の喉が、わずかに動く。
「……ああ」
短い答え。
その声は、普段より低く、弱かった。
「なら、今だけは太子殿下ではなくてもいいのではありませんか」
星揺は、凌川の隣へ立った。
近づきすぎず。
離れすぎない距離。
凌川が、ゆっくりと星揺を見る。
初夏の陽の下、涙で少し赤くなった目。
自分を責めるためではなく、凌川の悲しみまで見つけてしまった顔。
星揺は、慰めの言葉を重ねなかった。
大丈夫だとも、また会えるとも言わない。
ただ隣に立ち、昭華が去った道を一緒に見つめていた。
凌川の胸へ、星揺の言葉が静かに沈んでいく。
――守られるはずの公主殿下のお心だけが、誰にも守られないのですか。
太子としては、正しい選択だった。
それでも兄として、もっとできることがあったのではないか。
初めて、その問いから目を逸らすことができなくなった。
凌川は、星揺の横顔を見た。
この娘は、誰もが仕方がないと飲み込んだ痛みを言葉にしてしまう。
見ないふりをしていた心を、真っ直ぐに指し示す。
そして責めるだけではなく、その痛みの傍へ自分も立とうとする。
「星揺」
名を呼ばれ、星揺が凌川を見る。
凌川の眼差しは、先ほどまでとは違っていた。
王族が臣下の娘へ向ける穏やかなものでも、面白い娘を見る時の楽しげなものでもない。
もっと深く、星揺という一人の人間を見つめる眼差しだった。
「何でしょうか」
凌川は何かを言おうとした。
けれど結局、首を横へ振る。
「いや。少しだけ、ここにいてくれ」
星揺はわずかに目を見開いた。
それから、静かに頷く。
「はい」
二人は、もう見えなくなった行列の先を並んで見つめた。
昭華が去った悲しみは、少しも消えていない。
けれど凌川は初めて、太子ではなく兄として悲しむことを、誰かに許されたような気がしていた。




