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二十五話 言えなかった言葉



朱塗りの回廊では、宮女たちが大きな木箱を幾つも運んでいた。

箱の中に収められているのは、蕭昭華ショウ・ショウカが西方へ持っていく品々だった。


衣、宝石、書物。

慣れ親しんだ茶器。

幼い頃から使っていた香炉。


嫁入りの日が近づくにつれ、昭華の部屋からは少しずつ物が消えていた。

裴星揺ハイ・セイヨウは、その様子を部屋の入口から眺めていた。

以前は華やかな飾りで満ちていた室内が、今はどこか広く、寂しく見える。


「それはもっと丁寧に包みなさい」


昭華は宮女へ指示を出しながら、卓の前へ立っていた。


薄桃色の衣、紅玉をあしらった簪。

いつもと変わらぬ華やかな姿だった。

けれど星揺には、その声が普段より少しだけ明るすぎるように聞こえた。


「公主殿下」


星揺が呼ぶと、昭華が振り返る。


「何?」


「本当に、全部お持ちになるのですか?」


「全部ではないわ。古い衣や使わないものは置いていくもの」


「そしたら、この部屋が空になってしまいます」


昭華の表情が、一瞬だけ止まった。

けれど、すぐに何でもない顔へ戻る。


「…いなくなるのだから、空になるのは当然でしょう?」


当たり前のことを言われただけなのに、星揺の胸へ、鋭い痛みが走った。


「そんな風に、言わないでください…」


「では、何と言えばいいの?」


昭華は少し困ったように笑った。


星揺は答えられなかった。

陸鈴花リク・リンカは、窓辺で書物を一冊ずつ布へ包んでいた。その手が、僅かに止まる。

昭華は二人の顔を見比べ、小さく息を吐いた。


「そんな顔をしないでよ。西方には大きな湖があるそうよ。冬には雪が降って、宮殿の屋根まで白くなるのですって」


「…寒そうです」


星揺は、呟く。


「もう少し、綺麗ですねとか言えないの?」


「綺麗でしょうけど、公主殿下が寒がらないか心配です」


「私を何だと思っているのよ」


「朝、寝台から出たくないと仰っていた方です」


鈴花が静かに口を挟むと、昭華が目を丸くした。

星揺は、うんうんと頷いた。


「鈴花まで、星揺のようなことを言うようになったわね」


「事実を申し上げただけです」


星揺が思わず笑い、昭華もつられるように笑った。

その瞬間、以前と同じ空気が戻る。

けれど笑いが消えると、部屋の隅へ積まれた木箱が再び目へ入り、現実が戻ってくる。


もうすぐ、昭華はいなくなる。

それは、どうしても変わらない事実だった。


     ◇◇


荷造りが一段落したあと。


三人は、西苑の水亭で茶を飲むため部屋を出た。

朱塗りの長い回廊。

柱の間からは、陽を映した池と、風に揺れる白い花が見える。


昭華は二人より半歩前を歩いていた。


「西方へ行っても、弓の稽古を続けられるかしら」


不意に、昭華が言った。

星揺と鈴花は、一瞬だけふたりで顔を見合わせる。

昭華は景雲の名前は口にしなかった。


けれど、

昭華が今誰を思い浮かべているのかはすぐに分かった。


「弓をお持ちになるのですか?」


星揺が尋ねる。


「一つくらい、持っていってもよいでしょう?」


「景雲様と、何度も稽古なさった弓ですからね」


星揺が何気なく口にしてみると、昭華の歩みが僅かに止まった気がした。


「……そうね」


彼女は短く答え、再び前を向く。

鈴花は、昭華の横顔を静かに見ていた。

そして、何も言わなかった。


その時。 

回廊の向こうから、数人の武官が歩いてきた。

先頭にいるのは、黒い日傘を差した龍昊然リュウ・コウゼン

その半歩後ろには、龍景雲リュウ・ケイウンが付き従っている。


星揺の目は、初めに昊然へ向いた。 


黒い日傘。

墨色の衣。

変わらない静かな歩み。


ほんの数日前まで、討伐へ出て王都を離れていた姿が、今はまたいつもの場所を歩いている。

姿を見ただけで、胸の奥へ小さな安堵が広がった。


けれどすぐに、昭華の歩みが遅くなったことへ気づいた。


景雲もまた、こちらを見ていた。

互いの距離が、少しずつ縮まる。

回廊の中央で昊然が足を止め、公主へ僅かに頭を下げた。


「公主殿下」


「昊然」


昭華は、いつもどおりの声で答えた。

昊然の黒い瞳が、慌ただしく荷を運ぶ宮女たちへ向けられる。


「お支度は」


「順調よ」


「そうですか」


それだけ告げると、昊然の視線が星揺へ移った。

ほんの一瞬だけ、目が合った。

星揺は礼をするためすかさず頭を下げた。


顔を上げると、昭華の視線はすでに昊然の後ろへ向いていることに気がついた。

景雲は先ほどの星揺のように、深く頭を下げていた。


「景雲」


名を呼ばれ、景雲が顔を上げる。

二人の視線が綺麗に重なった。

以前ならば、昭華は真っ先に景雲へ歩み寄り、何かしら尋ねていた。


弓の稽古、怪我の具合、次に会う刻限。


けれど今日は、一歩も近づかなかった。

景雲も、昭華を見つめながら何も言わない。

長い沈黙のあと景雲が、先に口を開いた。


「ご婚姻、心よりお祝い申し上げます」


昭華のまつ毛が、ほんの僅かに震えた。


「ええ、…ありがとう」


とても、穏やかな声だった。

けれど、その指先は袖の中で強く握られていた。


景雲は一度、言葉を探すように唇を閉じた。

本当に伝えたいことは、祝いの言葉ではない。


西方へ行ってほしくない。

もう少しだけ、傍で笑っていてほしい。

また弓を引く姿を、傍で見ていたい。


けれど、そのどれも口にすることは許されなかった。


「西方までの道のりは長く、途中は寒さの厳しい土地もあると聞いております」


景雲は、いつもと変わらぬ穏やかな声で続ける。


「どうか、道中は無理をなさらず、お身体を大切になさってください」


昭華は暫く、景雲を見つめていた。

聞きたかった言葉ではない。

それでも、自分を案じていることだけは伝わった


「あなたも」


昭華は、一度目を伏せ、そして僅かに笑った。


「昊然の後ろばかり歩いて、無茶をしては駄目よ」


「承知いたしました」


景雲は深く頭を下げた。


それは、別れを受け入れた者同士のような言葉だった。

本当は、どちらも受け入れられてなどいないのに。



「それから……」


昭華の言葉がそこで止まった。

景雲は、続きを待っている。


星揺も、鈴花も、誰も声を出さなかった。

昭華の唇が、一度だけ僅かに開く。


まだ、貴方と弓の稽古を続けたかった。

また貴方に姿勢を直してほしかった。


そう伝えたかった。


けれど、


「……いえ、何でもないわ」


昭華は目を伏せた。

景雲はすぐには答えなかった。

何かを待つように、僅かな沈黙だけが二人の間へ残る。


「左様でございますか」


そして、昊然がゆっくりと歩き始める。

景雲も一礼し、その後へ続いていく。

昭華の横を通り過ぎる時、二人の肩が触れることも、衣の袖が重なることもない。


しかし、すれ違う瞬間。


景雲は、袖の中で右手を強く握りしめた。

けれど、それには誰も気づかなかった。


ただ、二人の距離は少しずつ開いていく。

景雲の背中が回廊の角へ消えるまで、昭華は一度も振り返らなかった。


二人の様子を見ていた星揺と鈴花の胸が、強く締めつけられた。

きっと、二人とも何かを言いたかったはずなのに。

昭華は笑い、景雲は祝いの言葉だけを告げ、始まりもせずに、終わろうとしていた。


「公主殿下、」


星揺が呼びかけると、昭華はすぐに顔を上げた。


「何?」


「……あ、いえ、何でもありません」


言えなかった。

景雲様へ、伝えることは、本当にそれだけでよかったのですか?

そう、聞きたかったのに、星揺にはいつものように、簡単に尋ねることができなかった。

昭華の、泣くのを我慢した表情を前にしては、さすがに星揺も言葉が出なかった。


昭華は一瞬だけ、目を細めた。

それから、いつものように顎を上げる。


「なら行きましょう。茶が冷めてしまうわ」


昭華は再び歩き始めた。

けれど、その背中は先ほどより少しだけ小さく見えた。

星揺は昭華の後ろを歩きながら、回廊の角へ目を向けた。


もうそこには、景雲の姿は見えない。



どうして、二人とも何も言わないのだろう。

言っても何も変わらないから。

それとも、相手を困らせるだけだからか。

きっと、そんなことを考えているのだろう。


それでも、何も言わなければ想っていたことさえ、なかったことになってしまうのではないか。

星揺には、それがひどく悲しいことに思えた。


隣を歩く鈴花も、黙ったままだった。

けれど、その静かな横顔には、普段とは違う強い色が浮かんでいる。

星揺は、鈴花も同じことを考えているのだと気づいた。


もうすぐ昭華は西方へ嫁ぐ。

残された時間は、あまりにも短い。


なのに、昭華も、景雲も。

互いへ背を向けたまま、何一つ伝えようとはしなかった。

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