二十四話 貴方のいる場所
清遠からの書状が途絶えて、三日が過ぎた。
わずか三日。
それだけのことだと、春華は何度も自分へ言い聞かせた。
もともと毎日、書状を交わしていたわけではない。
次に会う日も、はっきりと決めてはいなかった。
清遠にも、龍家の者としての務めがある。
急な用が入ることもあるだろう。
そんなことは、分かっている。
けれど朝になるたび、侍女が部屋へ入ってくる足音を聞くたび、春華は、書状が届くのではないかとどこかで期待していた。
窓の外には、穏やかな空が広がっている。
春華は窓辺の卓へ肘をつき、開いたままの詩集を見つめていた。
清遠から借りた、淡い藍色の詩集。
最後まで読み終えた今も、返さずに手元へ置いている。
──また読みたくなった時に、お返しください。
清遠は、そう言った。
だが、何度読み返しても、今の春華には詩の言葉が少しも入ってこなかった。
「お嬢様」
侍女が声をかける。
春華は、顔を上げないまま答えた。
「何?」
「先ほどから、頁が逆さまでございます」
「……え?」
春華が詩集へ目を落とす。
開かれた頁の文字は、確かに上下が逆になっていた。
いつからこのままだったのだろう。
侍女は笑いを堪えるように、そっと口元へ手を添えている。
春華は何事もなかったかのように、詩集を正しい向きへ戻した。
「ただ、少し考え事をしていただけです」
「清遠様から、まだ書状が届かないことをですか?」
春華の指が止まった。
「どうして、そう思うの?」
「朝から何度も、門の方をご覧になっておりますので」
「外の花を見ていただけよ」
「門の方には、花はございません」
春華は答えに詰まり、窓の外へ顔を向けた。
侍女の言うとおりだった。
門の近くにあるのは、背の高い柳と、馬車が通るための広い道だけだ。
「……三日」
春華は小さく呟いた。
「三日しか経っていないのに、気にする方がおかしいわ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「けれど、お嬢様にとっては、随分と長い三日だったのではございませんか?」
春華は何も答えられなかった。
確かに、そのとおりだった。
清遠が好きなのだと気づいたばかりなのに、もう、会えない時間を寂しいと感じている。
彼の姿を思い出せば、胸の奥が温かくなる。
その一方で、何も届かない日が続くほど、心には小さな影が落ちた。
最後に会った日の言葉を、自分が都合よく受け取っていただけなのではないか。
清遠にとって自分は、詩について語る親しい知人に過ぎなかったのではないか。
そんな不安まで浮かび始めていた。
その時、別の侍女が戸口へ姿を見せた。
両手で一通の書状を捧げ持っている。
「春華様。龍家より、お届け物でございます」
春華は勢いよく顔を上げた。
けれど、すぐに平静を装うように背筋を伸ばす。
「こちらへ」
差し出されたのは、見慣れた薄い灰青色の紙だった。
封に名は記されていない。
それでも、誰からのものか疑う余地はなかった。
受け取った指先へ、微かな震えが走る。
春華は侍女たちの視線を感じながら、できるだけゆっくりと封を開いた。
――ご連絡が遅くなり、申し訳ございません。
――明日の午後、以前の書肆へ参ります。
――お伝えしたいことがございます。
わずか三行。
だが、最後の一文を目にした瞬間、春華の胸には安堵だけではない緊張が広がった。
伝えたいこととは、何だろう。
次に会う約束だろうか。
それとも――。
気づかぬうちに、春華は紙の端を強く握っていた。
「お嬢様」
侍女が恐る恐る尋ねる。
「お返事は、いかがいたしましょう」
春華は書状から顔を上げた。
「伺うと、お伝えして」
◇◇
翌日の午後。
王都の東へ続く通りは、朝から薄い雲に覆われていた。
陽射しは弱く、時折吹く風には雨の気配が混じっている。
春華は侍女を伴い、古い書肆を訪れた。
戸を開くと、小さな鈴が澄んだ音を立てる。
乾いた紙と墨。
古い木の棚へ染み込んだ、微かな香の匂い。
以前と変わらないはずの場所なのに、今日は胸の奥がやけに落ち着かなかった。
「清遠様は、奥の庭でお待ちです」
書肆の主人が、静かに頭を下げる。
春華は礼を返し、店の奥へ向かった。
中庭へ続く戸を開くと、白い花をつけた低木の前に、清遠が立っていた。
空が曇っているためか、今日は日傘を持っていない。
その姿を見つけた途端、三日間、胸へ溜まっていた不安が、嘘のようにほどけていった。
清遠も、春華へ顔を向けた。
黒い瞳が重なる。
だが、以前のような柔らかな笑みはなかった。
その表情には、どこか思い詰めた影がある。
「春華様」
「清遠様」
互いに礼をする。
顔を上げたあとも、清遠は何も言わなかった。
春華の侍女は二人の様子を察したのか、中庭の見える回廊へ下がった。
声までは聞こえないが、何かあればすぐに駆けつけられる距離だった。
春華は清遠の前へ立った。
「お忙しかったのですか?」
責めるつもりなどなかった。
けれど、口から出た声には、自分で思っていたよりも寂しさが滲んでいた。
清遠の瞳が、わずかに揺れた。
「申し訳ございません」
「謝っていただきたいわけではありません。ただ……」
春華は一度、言葉を止めた。
「何かあったのではないかと、心配しておりました」
清遠は、すぐには答えなかった。
この三日間、彼は玄烈へ渡した報告書のことを何度も考えていた。
春華が自分を待っていることを隠した。
彼女が好意を抱き始めていることも書かなかった。
命令へ背いたことに、後悔はなかった。
だが、春華へ会えば会うほど、彼女を騙し続けることになる。
それだけが、怖かった。
このまま近づいていいのか。
彼女が向けてくれる信頼を、受け取っていいのか。
考えても、答えは出なかった。
それでも、会わずにいることの方が、清遠には耐えられなかった。
「何か、あったのですね」
春華が静かに尋ねる。
清遠は、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「……少し、考えておりました」
「何をですか?」
「春華様に、これ以上お会いしてよいのかを」
春華の表情から、柔らかな色が消えた。
その瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「それは……もう、私とは会いたくないということでしょうか」
「いいえ、違います」
清遠はすぐに否定した。
思わず強くなった声が、静かな庭へ響く。
「あなたに会いたくないわけではありません。むしろ、その逆なのです」
清遠は一歩、春華へ近づいた。
会いたかった。
彼女の柔らかな声を聞きたかった。
三日前に自分へ向けられた笑顔を、もう一度見たかった。
「では、なぜ……」
春華の瞳に、微かな不安が浮かぶ。
その表情を見た瞬間、清遠の胸が締めつけられた。
自分が迷っている間にも、春華を傷つけていたのだと分かったからだ。
「私は、春華様が思っていらっしゃるような人間ではありません」
「私が思っている、清遠様とは?」
「穏やかで、誠実で、あなたへ嘘をつかない男です」
春華は黙った。
清遠は視線を逸らさなかった。
けれど、すべてを告げることはできない。
龍家のこと。
玄烈の命令。
裴家へ近づいた、本当の目的。
どれも今ここで話せば、春華だけでなく裴家全体を危険へ巻き込む可能性があった。
それでも、何も知らない彼女の前で、清廉な男のふりを続けることはできなかった。
「私には、今はお話しできないことがあります」
清遠は低く続けた。
「背負っているものも、隠していることもございます。いつかそれを知れば、あなたは私を許さないかもしれません」
その言葉を口にした瞬間、清遠の胸に鋭い痛みが走った。
春華に嫌われる。
その可能性を思い浮かべるだけで、息が苦しくなる。
誰かを好きになるということは、相手を得たいと願うことだけではない。
失うことを、これほどまでに恐れることでもあるのだと、清遠は初めて知った。
「それでも私は……」
声が、わずかに掠れる。
「あなたに会いたいと思ってしまうのです」
春華のまつ毛が揺れた。
「もう会わない方がいいと、何度も考えました。あなたへ近づく資格などないのだと」
「清遠様」
「ですが、離れている間も、あなたのことばかり考えておりました」
白い花を見れば、南市で花を拾う春華を思い出した。
詩集を見れば、書棚の前で振り返った横顔が浮かんだ。
青磁色を見れば、あの日の姿が蘇った。
自分の中のあらゆるものが、春華へつながっていく。
「これ以上、理由を作りながら会うことも」
清遠は一度、息を止めた。
「何も感じていないふりをすることも、できません」
春華の胸が、強く鳴った。
清遠が何を伝えようとしているのか。
もう、分かっていた。
嬉しいはずなのに、続きを聞くことが怖い。
それでも春華は、目を逸らさなかった。
「春華様」
その声は、これまで聞いたどの呼びかけよりも優しかった。
「私は、あなたが好きです」
春華のまつ毛が震えた。
「詩集を好むあなたも、傷ついた花を見捨てられないあなたも。私へ向けてくださる笑顔も、すべて大切に思っております」
春華の瞳に、薄い涙の膜が浮かんだ。
悲しいわけではない。
ただ、胸に溢れるものが多すぎて、すぐには言葉が出なかった。
三日間、不安だった。
自分だけが清遠を待っているのではないかと思った。
あの日の言葉を、都合よく受け取っていたのではないかと恐れた。
けれど、目の前にいる清遠もまた、自分に会いたいと願ってくれていた。
「何も知らないまま、私を信じてほしいとは申しません」
清遠は静かに告げた。
「怖いとお思いになるのであれば、これ以上は近づきません」
春華の瞳が大きく揺れた。
確かに、全く怖くないわけではない。
清遠には秘密がある。
何を抱えているのかは分からない。
それでも、今、苦しそうに自分を見つめるこの人が、そのすべてを偽っているようには、どうしても思えなかった。
春華は、ゆっくりと一歩前へ進んだ。
二人の距離が近づく。
清遠の黒い瞳に、驚きが浮かんだ。
「私は、清遠様のすべてを知っているわけではありません」
春華は静かに言った。
「けれど、私がこれまで見てきたものまで、偽りだったとは思いません」
「春華様……」
「花を拾ってくださったことも、私のために詩集を探してくださったことも」
青磁色の衣を選んでくれたことも。
別れ際に、いつまでも見送ってくれたことも。
その一つ一つが、誰かを欺くためだけにしたことだとは思えなかった。
「清遠様が何を隠していらっしゃるのか、私には分かりません」
春華の声が、わずかに震える。
それでも、さらに半歩近づいた。
袖の中に隠れていた手を、ゆっくりと持ち上げる。
清遠の手へ触れる直前で、一度だけ止まった。
それから、春華の細い指が、清遠の指先へ重なった。
「もう、お会いしない方が苦しいと思います」
清遠の瞳が見開かれた。
春華は頬を染めながら、真っ直ぐ彼を見つめた。
「私も、清遠様が好きです」
清遠の呼吸が止まった。
「あなたから書状が届くことを、毎日待っていました」
春華の指が、清遠の手へわずかに力を込める。
「白い花を見ても、詩集を開いても、いつも清遠様を思い出していました」
「……本当に?」
春華は小さく頷いた。
「はい」
清遠が、春華の手を握り返した。
強くすれば壊れてしまうのではないかと恐れるような、慎重な触れ方だった。
その手が、わずかに震えていた。
いつもは落ち着いている清遠が、今は自分と同じように心を揺らしている。
それが分かると、春華の胸に、さらに愛おしさが広がった。
「春華様」
清遠は、もう一度その名を呼んだ。
けれど、春華は小さく首を振った。
「……春華と」
清遠の瞳が揺れる。
春華は恥ずかしさに耐えるように、わずかに目を伏せた。
「お呼びください。今は、二人きりですから」
回廊には侍女が控えていた。
本当の意味で二人きりというわけではない。
それでも、この庭で交わしている言葉は、二人だけのものだった。
清遠は、しばらく何も言えずにいた。
それから、壊れ物へ触れるような声で呼ぶ。
「春華」
たった二文字。
けれど、自分の名が彼の声となって届いた瞬間、春華の胸の奥が甘く震えた。
「はい」
春華が答える。
清遠の手が、ゆっくりと持ち上がった。
頬へ触れようとした指先が、触れる寸前で止まった。
清遠の瞳に迷いが浮かんだ。
春華が少しでも身を引けば、彼はすぐに手を下ろしただろう。
だが、春華は動かなかった。
清遠を見つめたまま、わずかに頬をその手へ寄せる。
清遠の親指が、頬の輪郭をなぞるように、ぎこちなく動いた。
「触れても、よろしいのですか」
今更のような問いかけに、春華の口元へ恥じらうような笑みが浮かんだ。
「もう、触れていらっしゃいます」
清遠の目元が、ほんのわずかに柔らかくなった。
だが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「これ以上です」
春華の心臓が、大きく音を立てた。
何を尋ねられているのか分からないほど、幼くはない。
春華は回廊へ一度だけ視線を向けた。
侍女は離れた場所で、庭の外へ顔を向けている。
見ていないふりをしてくれていた。
再び清遠へ視線を戻す。
逃げることも、誤魔化すこともできた。
それでも春華は、ゆっくりと目を閉じた。
それが、彼女の答えだった。
清遠の手が、頬から耳の後ろへ移る。
わずかに身を屈める気配。
清遠の吐息が、ゆっくりと近づいた。
触れる直前、ほんの一瞬だけ、彼が躊躇ったのが分かった。
春華は閉じた目のまま、清遠の衣の袖をそっと掴んだ。
次の瞬間、柔らかなものが唇へ触れた。
それは、あまりにも静かな口づけだった。
清遠はすぐに顔を離したが、春華の唇には、まだその温もりが残っていた。
恥ずかしさに、頬が耳まで熱くなる。
それでも、嫌ではなかった。
むしろ、清遠が離れてしまったことを、少しだけ寂しいと感じている自分に驚いた。
春華は勇気を振り絞り、声を出した。
「……もう一度、してくださいますか」
声に出した途端、恥ずかしさに声が震えた。
清遠の瞳が大きく揺れた。
次いで、これまで春華が見たことのないほど柔らかな色が浮かんだ。
頬へ添えられた手に、わずかに力が込められた。
「春華」
呼ばれた名は、先ほどよりもずっと甘く響いた。
春華が顔を上げた。
今度は目を閉じるよりも先に、清遠の唇が重なった。
先ほどよりも、少し長い口づけだった。
清遠は急ぐことなく、春華の気持ちを一つずつ確かめるように、優しく唇を重ねた。
春華は掴んでいた袖から手を離し、清遠の胸元へ指を置いた。
布越しに伝わる鼓動は、驚くほど速かった。
緊張しているのは、自分だけではない。
そう思った瞬間、春華の胸に、泣きたくなるほどの喜びが溢れた。
やがて清遠が、名残を惜しむようにゆっくりと離れる。
二人の額は、触れそうなほど近くにあった。
春華は清遠の胸元へ手を置いたまま、小さく息を吐いた。
清遠も何も言わなかった。
言葉にすれば、今の時間が壊れてしまうような気がしたからだ。
しばらくして、春華がそっと尋ねた。
「以前のお答えを、もう一度伺ってもよろしいですか」
「……答え?」
「帰りたい場所のことです」
清遠の瞳が、静かに春華へ向けられた。
「帰りたいと思う場所を、見つけたのかもしれないと仰いました」
春華の指先が、わずかに衣を掴んだ。
「あれは……どこのことだったのでしょう」
尋ねることが怖かった。
けれど、もう曖昧なままにはしたくなかった。
清遠は、すぐには答えなかった。
帰る場所。
これまで清遠には、その言葉の意味が分からなかった。
玄烈の命令が待つ屋敷。
自分の役目を果たすためだけの部屋。
そこは、戻らなければならない場所ではあっても、帰りたい場所ではない。
だが今は、一人の人が自分を待っている。
書状を待ち、会える日を待ち、自分の名を呼んでくれる人がいる。
清遠は春華の頬へ添えていた手をゆっくりと下ろし、彼女の手を取った。
「あなたのいる場所です」
春華の瞳が揺れる。
「あなたが待っていてくださるのなら、私は何度でも、そこへ帰りたい」
春華の目に、じわりと涙が浮かんだ。
けれど今度は、零れる前に笑みへ変わった。
「では」
春華は震える声で告げた。
「待っております」
清遠の表情が止まった。
「私が、待っておりますから」
その言葉が、清遠の胸に深く染み込んでいった。
待っている。
これまで、誰からも言われたことのない言葉だった。
清遠は春華の手を、もう一度強く握った。
「必ず」
その短い約束が、どれほど重いものになるのか。
今の二人は、まだ知らなかった。




