四十八話 救いを求めた先に
王宮から戻ったあとも、昊然の頭から玄烈のことが離れなかった。
書斎の卓には、これまで集めた報告が並んでいる。
盗賊に奪われた穀物や薬草、鉄。裴家を探るよう清遠へ命じていた玄烈。そして、そのもとにいた侍女、秀蓮の失踪。
清遠の告白によって、玄烈が裴家を探らせていたことは分かった。
だが、盗賊の件と秀蓮の件には、今のところ決定的な証拠は何一つない。
当主である以上、自分を快く思わぬ者がいることなど珍しくなかった。それでも、長い年月を同じ龍家の者として過ごしてきた男が、密かに自分の周囲を探らせていたと知れば、穏やかではいられない。
ただ自分が気に入らないのか、それとも当主の座を欲しているのか。
書簡へ目を落としても答えは出ず、昊然は椅子から立ち上がった。
窓の向こうでは、秋の風が庭の枝を揺らしている。
今の昊然には、玄烈のこととは別に、重く胸にのしかかっているものがあった。
裴家と、共に暮らす陸家へ、龍家の秘密を明かす。
王の命はすでに下りていた。両家を守るためにも必要なことだ。それに、春華は自分がどのような子を宿しているのかも知らずにいる。
それなのに、まだ裴家へ向かう決心がつかずにいた。
戦場で刃を向けられた時でさえ、ここまで迷うことはなかった。龍家の当主として判断を迫られれば、必要な判断を下してきた。
だが、星揺へ自分の正体を明かすとなると、どうしても足が止まる。
自分が人ではないと知った時、星揺はどんな顔をするのだろうと。
以前の自分なら、人間一人にどう思われようと気にしなかった。恐れられればそれまでだ。離れていくのなら仕方がないと、簡単に切り捨てられた。
けれど今は、自分を見上げる眼差しも、名を呼ぶ声も失いたくない。
柄にもないことだと思った。それでも、嫌われることを恐れ、何も知らせずに星揺を危険の中へ置いておくわけにはいかない。
真実を知れば、これまでのような関係には戻れないかもしれない。だが、そんなことをいくら考えても、決めるのは星揺だ。
そう思うと、昊然は静かに息を吐いた。
今夜、裴家に伝えに行かなければ。
◇◇
静蘭が星揺を頼って裴家を訪れたのは、それよりも数日前のことだった。
その頃にはもう、外へ出ることさえ恐ろしくなっていた。市場へ向かえば、離れた場所に見覚えのない男がおり、振り返った時には姿を消している。
けれど、また別の日に違う場所で同じ男を見かけるのだ。
そして何より、玄烈だった。
出かけた先で、不自然なほど何度も顔を合わせるようになった。
「奇遇ですね、周夫人」
いつもそう言って穏やかに笑う。けれど、静蘭にはもう偶然とは思えなかった。
その日、恐怖は自分だけのものではなくなった。
久しぶりに実家へ弟の顔を見に行った時だった。
「姉上、見て」
歳の離れた幼い弟が、嬉しそうに小さな箱を持ってきた。
「それは、どうしたの?」
「龍玄烈様という方がくださったんだ」
箱へ伸ばしかけた手が、名前を聞いた途端止まった。
「……龍玄烈様が?」
「うん。姉上のお知り合いなんでしょう?」
箱の中には菓子が綺麗に並んでいた。弟はどれから食べようかと迷いながら、無邪気に笑っている。
静蘭はようやく微笑みを返したが、膝へ戻した手は冷たく震えていた。
玄烈は、自分の実家を知っている。静蘭に幼い弟がいることも、その弟へこうして直接贈り物をした。
それが、ただの親切だとはどうしても思えなかった。
夫にも両親にも、このことは話せなかった。もし、助けを求めれば、その人まで玄烈に目をつけられるのではないかと思うと、口を開けなくなった。
そんな中で、静蘭は自分が子を宿していることを知った。
医師が帰ったあと、一人で腹部へ手を添えた。
まだ見た目には何の変化もないけれど、それでもそこには確かに小さな命がいる。
お腹の子は、夫との初めての子だった。ずっと待ち望んでいた命を授かったことが嬉しくて静蘭は自然と頬が緩んだ。
けれど、その喜びの中へあの玄烈の顔が入り込んできた。
もしも、この子が生まれたら、弟にしたようにまた近づいてくるのではないだろうか。
何食わぬ顔で贈り物を差し出し、穏やかに笑うのではないか。
「……嫌」
そう思うだけで、腹部を覆う手に力がこもった。
自分だけならまだ、耐えられたかもしれない。けれど、この子まで巻き込ませるわけにはいかなかった。
その時、不意に頭の中に星揺の声が蘇った。
『何かございましたら、裴家へ知らせてください』
静蘭は腹部へ手を添えたまま、ゆっくりと息を吸った。
そして翌日の昼過ぎ、侍女と従者を伴って裴家を訪れた。馬車の中から何度か外を窺ったが、つけられている様子はなかった。門前へ降り立ち、一度息を整える。
ここまで来た。あとは星揺に会って、話すだけ。
「周夫人。お久しぶりです」
応対に出てきた景明へ礼を返した時、その傍らにいる男に気づき、静蘭の身体が強張った。
そこに居たのは龍暁嵐だった。
「お久しぶりです、周夫人」
「……お久しぶりでございます」
彼の穏やかな挨拶を受けても、目を合わせ続けることができなかった。玄烈と同じ龍家の者。
暁嵐まで玄烈と同じだと思っているわけではない。それでも、今の静蘭には誰を信用してよいのか分からなかった。
「今日は星揺に御用でしょうか」
「はい。少し、お会いできればと思いまして……」
「申し訳ありません。星揺は鈴花と出かけているんです。暁嵐様も、鈴花へ地図を返しにいらしたところなのですが」
景明の手には巻かれた地図があった。暁嵐はそれを預け、帰るところだったらしい。
「……そう、ですか」
静蘭が視線を落とすと、景明は気遣うように尋ねた。
「何か急ぎの御用でしたら、私から伝えておきますが」
玄烈様のことで、お話があるのです。
そう言いかけて、言葉が止まった。目の前には暁嵐がいる。後ろには、自分の侍女と従者も控えていた。
ここで話したことが、どこから玄烈の耳へ入るか分からない。
「……いいえ。近くまで参りましたので、ご挨拶だけでもと思ったのです」
「そうでしたか」
「また、日をあらためて伺います」
「そうですか。では、星揺にも伝えておきます」
静蘭は頭を下げ、そのまま裴家を後にした。
帰りの馬車では、膝の上の両手を握りしめていた。もしかしたら、景明なら話を聞いてくれたかもしれない。暁嵐だって、玄烈と同じではないのかもしれない。
そう思ったけれど、それでもあの場ではどうしても言えなかった。
次こそは星揺本人に会い、誰もいないところで話そう。
そう決めた日の夕刻、侍女が一通の文を持ってきた。
差出人は、龍玄烈だった。
『本日は裴家へお出かけだったそうですね。星揺様には、お会いになれましたか。』
文を持つ手が震えた。
裴家へ行くことも、星揺を訪ねることも、玄烈には一度も話していない。それに、馬車の外も何度も目を向けて確認していたのに。
「……どうして……」
もしかすると、この屋敷の中に玄烈へ知らせている者がいるのかもしれない。そう思うと、文を届けた侍女の顔までまともに見られなくなった。
侍女を下がらせ、静蘭は腹部を庇った。
助けを求めに行ったことさえ知られているのなら、どうすればいいのだろう。だが、黙ったままでは何も変わらない。
静蘭は震える指で文を折り畳んだ。
これが、もしかすれば証拠になるかもしれない。そうすれば、あの香合わせの日のことも、星揺が訪ねてくる前に玄烈から言われたことも、信じてもらえるはず。
そう自分に言い聞かせ、静蘭は寝台の中に入り、目を閉じた。
◇◇
そして、昊然が王宮から戻った、その日の夜。
静蘭の夫は、まだ帰宅していなかった。今日は仕事で帰りが遅くなると、朝から聞いていた。
夜、屋敷が静まってからなら、行き先を誰にも知られずに出られるかもしれない。夫に相談すれば、自分を守ろうとして玄烈へ会いに行くかもしれず、それも恐ろしかった。
まずは星揺に会いたかった。助けを申し出てくれた彼女に、どうすればいいのか尋ねたかった。
廊下を行き交う足音が途絶えた頃、静蘭は使用人の出入りする裏手の小門から、そっと屋敷を抜け出した。今日は供は連れていない。他の者を巻き込むわけにもいかない。
それに誰が玄烈と通じているか分からないという不安も消えなかったからだ。
懐の文を衣の上から確かめ、夜道を歩き始める。自分の足音がやけに大きく聞こえ、何度も振り返ったが、ついてくる者は見当たらなかった。
こんな時刻に訪ねた非礼は、いくらでも詫びるつもりだった。そして今度こそ話そうと、静蘭は足を速めた。
裴家のある通りへ差しかかり、門の灯りが見えた。
ようやく辿り着いたと思った時、灯りの下にいる人影に気づき、静蘭は角を曲がる手前で足を止めた。
そこに居たのは、昊然と暁嵐だった。
二人は迎えに出た屋敷の者と言葉を交わし、開かれた門をくぐっていった。
外には景雲と岳が残っており、短く言葉を交わしたあと、それぞれ通りの先へ目を向けている。周囲を警戒しているようだった。
静蘭は通りへ踏み出しかけていた足を引いた。
今夜は、龍家の者がこんなにいる。
数日前、暁嵐を前にしただけで何も話せなくなった。
その暁嵐だけでなく、今夜は龍家当主である昊然まで屋敷の中にいる。
星揺に会いたいと申し出ても、用件を尋ねられるかもしれない。玄烈のことで相談に来たと、あの人たちの前で言えるだろうか。
懐の文へ手を当てた。
ここまで来たのだから、声をかければいいだけの事。
星揺と二人で話したいと、それだけ伝えればいい。
けれど、あの玄烈へ知らされたらと思うと、どうしても足が動かなかった。思い浮かぶのは夫の顔と、菓子の箱を抱えて笑う弟の顔。
静蘭は唇を噛み、門の灯りから目を逸らした。
今夜も駄目だ。改めて来なければ。
そう言い聞かせて引き返したけれど、裴家が見えなくなっても、懐へ添えた手を離せなかった。
また、伝えられなかった。そう思ったけれどせめて夫が戻る前に帰ろうと、静蘭は来た道を急いだ。
自宅までは、あと少しだった。屋敷へ続く路地へ入ったところで、暗がりからふいに声がした。
「こんな夜更けに、お散歩ですか。周夫人」
静蘭の足がぴたりとその場で止まった。
道の脇に、玄烈が立っていたのだ。
「供も連れずに?」
その声は一人歩きを気遣うような、穏やかな声だった。
「……玄烈様」
玄烈は静蘭の背後へ目を向け、それから再び顔を見た。
どこから見ていたのだろう。屋敷を出た時からなのか。それとも、裴家の前で引き返したところなのか。
「少し、外の空気を……」
「お一人では危ないでしょう」
近づいてくる玄烈から、静蘭は一歩だけ離れた。
「もう、戻るところですので……失礼いたします」
頭を下げ、その脇を通り抜けようとした瞬間、腕を掴まれた。
「っ……!」
「そう何度も出歩かれては、私も困るのですよ」
静蘭は顔を上げた。
玄烈は微笑んだままだったが、その言葉を聞いた途端、偶然出会ったのではないと分かった。
「離して、ください……」
腕を引いても、手はびくともしない。空いている手で指を外そうとしても、まるで固く締められた金具のようだった。あの香合わせの日を思い出し、静蘭は次第に血の気が引いていく。
「昊然も何かと調べまわっている中、これ以上、余計な手間を増やされたくはない」
何の話をしているのか、静蘭には分からなかった。ただ、自分が裴家へ通うことを、この男はもう許すつもりがないのだと悟った。
「私は、何も……」
「ええ。まだ、何もお話しになっていないのでしょうね」
玄烈の目が、静蘭の首元へ落ちた。
「そのままでいてくだされば、よかったものを」
静蘭が身をよじると、掴まれた腕が引き寄せられた。玄烈は力を込めているようにさえ見えない。それなのに、どうしても離れられなかった。
首元へ顔を寄せられ、静蘭は息を止めた。
「あなたの血の匂いは、私の好みなのですよ」
耳元へ顔を寄せる玄烈から落ちた言葉に、全身が冷たくなった。
これまで向けられていた奇妙な視線や、不自然なほど距離を詰めてきたこと。それから今、自分を捕らえている力。分からずにいたものが、恐ろしい意味を持ち始めた。
「あなたは、一体……」
玄烈は答えず、名残惜しむように静蘭を見つめた。
「最後の楽しみに取っておきたかったが、こうも落ち着かずに動かれては、それも難しい」
静蘭は咄嗟に腹部へ手を添えた。
せめて、この子だけは。
その手へ、玄烈の視線がゆっくりと落ちていく。静蘭は腹部を庇ったまま、動けなくなった。
「……誠に残念だ」




