第九話
路地をがむしゃらに引き返す途中、激しい目眩が襲い、メリアは壁にすがりつくこともできず、その場にずるずると座り込んでしまった。冷たい地面の感触が、自分が今、拠り所をなくして迷子になったのだと突きつけてくるようで涙がこぼれそうになる。
「ちょっと。大丈夫かい、お嬢ちゃん」
頭の上からかかった声に見上げると、そこには見覚えのある顔があった。この街に着いたばかりの時、熱にうなされていたメリアを助けてくれた、馴鹿の獣人の女性だ。彼女はメリアの顔色を見るなり、驚いて荷物を置くと、大きな温かい手でメリアの肩を支えた。
「ひどい顔色だ。ここの煙にあてられたんだね。……よし、ちょっと歩けるかい? すぐそこに、あたしたち出稼ぎ仲間が使ってる休憩所があるんだ。そこで休んでいきな」
メリアは返事をする気力もなく、彼女に支えられるまま、路地のさらに奥にある古びた煉瓦造りの建物へと連れられていった。
部屋の中では、彼女と同じ馴鹿の獣人たちが、その大きな身体を寄せ合うようにして座っていた。大きな鍋を囲んでスープを分け合ったり、カード遊びで笑い合ったり、がやがやと活気に満ちている。
「ほら、ここ座りなよ」
ルーミと名乗った彼女は、メリアを椅子に座らせると、湯気の立つ木製のカップをそっと差し出してくれた。温かいスープの香りに、強張っていた胸が少しだけ解けていく。
「ルーミさん……ご親切に、どうもありがとう。ごめんなさい、みっともないところをお見せてしまって……」
「あんた、まだ体調戻ってないんじゃないの? そんなふらふらな体で一人で歩いちゃダメだよ。そういや、旦那は一緒じゃないのかい?」
「旦那……? いいえ、違います。あの人は夫なんかじゃ……」
「あら、そうかい? じゃあ兄さんか何か?」
「兄なんかでも絶対にありません! ……彼はただの、巡礼の案内人です」
ぽつりと答えると、ルーミは意外そうに眉を上げた。
「へえ、案内人ねぇ。それにしちゃ随分と心配してたけどね」
「え……?」
「あんたを宿に運び込んだ後さ。あの男、あちこち声をかけて回ってたんだよ。『この辺に腕の良い医者っている? ヤブじゃないやつで頼むわ』ってさ」
スープの湯気越しに、メリアは思わず息を呑んだ。
「……あの人、そう言っていたの……?」
「そうだよ。医者を呼んだ後も、ドワーフの怪しげな薬湯のレシピを聞き回ったり、病人に効く食べ物はないかって市場を走り回って。なんだ、あんた知らなかったのかい」
そんなこと、メリアが知るはずもない。毎日夕方になると戻ってきてはヘラヘラと変な冗談を言い、あの不気味なスープを無理やり食べさせようとしてきたのだ。そんな素振りなんて、一度も見せなかった。
普段から宿代すら細かく切り詰める彼が医者を呼んだことには少し驚いていたが、まさかそこまで自分のために駆けずり回っていたなんて、メリアは思いもしなかったのだ。
メリアが呆然としたまま湯気の立つカップを見つめていると、部屋の隅に座っていたひとりの獣人が、ふと遠い目をして詩のようなものを口ずさみ始めた。暗譜の声はかすれ気味で、けれど優しく響いていく。
見よ、雪原を行く迷い子よ。
吹雪の夜に群れを見失い、角なき若鹿のごとく歩みをとどむる者よ。
北風が足跡を消し去るとも、天の御使いは汝とともに歩み、その息吹をもって凍える心を温めん。
ゆえに恐るることなかれ。
果てには必ず北の星が輝く。
朝日が峰を照らす時、見失いし道も再び汝の前に現れん──。
「……あたしたちの古い教えだよ」
見れば、周囲の獣人たちも静かにその声に耳を傾けていた。胸の前で指を複雑に交差させ、見慣れない形で祈りを捧げている者もいる。
「ま、この国じゃ文字にして持ってるだけで、手足に鎖を繋がれるような禁書の一節なんだけどね」
その響きが落ちた瞬間、メリアの心臓がどきりと跳ねた。
背筋を冷たいものが駆け抜け、否応なしに、さきほど目撃してしまった光景がまざまざと脳裏に蘇る。
捕まれば罰を免れない。そうとわかっていて、それでも求める人がいる。帝国に背く行いだとは思いつつも、メリアは戸惑っていた。これほどの危険を冒してまで、彼らが信じ続けたい教えとは一体何なのだろう。
「──群れは道を示せど、雪を踏むは己が四肢のみ。天は二つとして同じ毛並みを織りたまわず。されど、いずれも冬を越えるに足る」
言葉の意味は分からない。けれど、その響きがなぜか今のメリアの傷ついた心に深く引っかかった。
「あの……今、あの方が誦じているのは、どういう意味の言葉?」
「ん……? ああ、難しく聞こえるかい? 噛み砕いて言えばさ、こうだよ。……群れが道を指し示そうと、冷たい雪を歩くのは自分自身の四本の足だけだ。神様は誰一人として同じ毛並みの者をお作りにならないけれど、どんな毛並みであれ、厳しい冬を越えて生きていける……」
ルーミは温かな眼差しをメリアに向け、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「つまりさ、生まれとか、親がどう生きてきたかが、自分の足までを縛ることはできないってこと。自分以外の誰かになんてなれやしないんだから、ただ、自分のままで生きなさい……って。そういうことさ」
帝国の教義の中の神は、祈る者に光を与えると教えた。
父母を敬い、兄弟を愛し、気高き人として正しき道を歩むことこそ、人の務めであると教えた。
だからこそ、メリアは耐えてきたのだ。 淫売の娘とどれほど後ろ指を指されようと、神様だけは私の無実をご存じだから。いつかこの暗闇から救い出してくださるはずだと、メリアはすがるような想いでその正しさを抱きしめて生きてきた。
けれど、血の繋がった父も、異母兄も、ただの一度だって愛を注いでなどくれなかった。
本当の家族よりずっと温かかったのは、誰の手だった?
『誰がなんて言おうが、俺にとってのメリアはそれだけだよ。それ以外、なーんにも見えてない』
私が見てきたジルは、どんな人だった?
神を冒涜し、盗品を売り払い、禁書すら手にかける、救いようのない悪人。
……けれど。
傷つき、世界の全てに絶望していた自分に、ただひとり偽りのない言葉をくれた人。世を生き抜く術を教え、熱にうなされれば走り回り、温もりに私を繋ぎ止めてくれた人。
そして彼らにとって、ジルの売った本は……あの男の罪は、誰かの救いだった。
何が正しいのかじゃない。
何を信じれば救われるのかでもない。
誰を信じるのかを、私は自分で決めなくちゃいけなかったのだ。
「……あ」
ぽつり、と杯の湯気の中に小さな波紋が広がった。メリアの瞳から、自分でも気づかないうちに零れ落ちた涙だった。止めようもなく溢れ出し、頬を伝って次々とスープの表面を揺らしていく。
「おや……どうしたんだい、お嬢ちゃん」
ルーミが驚いたように耳をそびやかせ、丸い目を瞬かせた。
自分がこの目で見て、この肌で感じてきたジルを信じる。そう心に決めた瞬間、溢れ出してきたのは、息もできないほどの悔恨だった。
「……でも、気づいたって……もう遅いわ……。私、あの人を傷つけた。酷いことを言って、背を向けて、どう謝ればいいかもわからない。きっともう、許してなんてもらえない……」
「なんだ、喧嘩したのかい?」
涙をこぼし続けるメリアの隣で、ルーミは困ったように眉を下げながら、幼子をあやすようにその背を優しく撫でた。陽だまりのように温かい掌と、穏やかな声が涙の隙間に寄り添う。
「どんなに深く踏み外した雪道でもね、引き返そうとする足さえ止めなきゃ、道は見失わないものだよ。素直になれないのは、それだけ相手を思ってる証拠さ。……間違えたならその分だけ、素直に一歩を踏み出せばいい。じっと丸まっているより、よっぽど早く春が来るさ」




