第十話
ルーミに深々と頭を下げたメリアは、弾かれたように煉瓦造りの建物から飛び出した。 膝の震えも、煤煙の苦しさも、いまの彼女を立ち止まらせることはできなかった。
けれど、メリアはジルのように街の裏路地に精通しているわけでも、勘が利くわけでもない。焦燥感に背中を押されるように、あちこちを走り回った。すれ違う見知らぬ人々に何度も頭を下げ、必死に彼の特徴を伝えて尋ね歩いたけれど、誰もあの男の行方を知らなかった。
私があんなに酷いことを言ったから、いなくなってしまったの?
伝えたいことがいまようやく分かったのに。自分が誰の隣にいたいのか、ようやく気付けたのに。
藁にもすがる思いで一度宿へ引き返すと、部屋の隅には見覚えのある彼の荷物が残されていた。 まだこの街を離れてはいない。 その事実だけに少しだけ胸を撫で下ろし、メリアは再び空の下へ飛び出して彼を探し続けた。
けれどどれだけ歩き回っても、彼の姿はどこにもない。やがて空は茜色から群青へと沈み、冷たい夜の闇が街を包み込んでいく。
途方に暮れた身体を引きずり、重い足取りで宿へ戻る。軋むドアをそっと開けて、メリアの胸を安堵が満たした。
月明かりの下で、彼はベッドに腰掛けていた。何事もなかったかのように靴を脱ぎかけていたジルは、息を切らして立ち尽くすメリアに気づくと、眉をひそめて首を傾げた。
「何、戻ってきたの?」
「……っ、あなたを探していたの! どこにいたの……!?」
「仕事してたんだよ。お前の大嫌いな仕事を」
怒っているのだと一瞬で分かった。冷たく放たれたその言葉に、メリアの息が詰まる。ジルは投げ出すようにベッドに背中を預けると、天井を見上げたまま言葉を継いだ。
「なあ、メリア。言いたいことがあるなら当ててやろうか。……説教ならもう十分聞かされたよ」
「違うの、お説教なんかじゃ……」
「やっぱさ」
メリアの言葉を遮り、ジルは乾いた笑みを浮かべる。メリアを嘲るようで、その実何かを諦めたような悲しさがあった。
「お前には、俺みたいな奴と一緒に旅なんて無理だったんだよ。こんな治安の悪いとこに一人で置いていくわけにもいかねえから、途中のまともな街まで送ってやるよ。そこまで行けば、ちゃんとした馬車も拾えるだろ」
嫌われた、とメリアは思った。拒絶され、もういらないと投げ出されたのだと。
嫌われたくない。この人と離れたくない。 血の繋がった父親も、異母兄も、ただの一度だって与えてくれなかったものを。どれほど祈っても決して手に入らなかったものを、初めて自分にくれたのは、他の誰でもないこの人だったのだから。
「……嫌」
ぽつりとこぼれた声に、ジルが僅かに眉を動かす。
「嫌よ……! 旅をやめるなんて嫌。あなたと離れるなんて、絶対に嫌……!」
「メリア、お前──」
「酷いことを言ったわ! あなたを傷つけた! 自分だけが傷ついた顔をして、何も見ようとしないで……。ごめんなさい、ごめんなさいジル……!」
溢れ出す涙をぬぐうこともせず、メリアは叫ぶように言葉を紡ぐ。一度は背を向けたその瞳で、今度は逃げずにまっすぐジルを見つめ返した。
「あなたのすることは、私には受け入れられないこともたくさんある……! だって、あなたはやっぱり悪い人よ。教義を冒涜して、平気で嘘を吐いて、禁書を売って……決して正しい人なんかじゃないわ!」
声が震え、涙が次々と頬を伝って落ちていく。けれど、その眼差しに宿る意思だけは、決して揺らがなかった。
「でも、私が見てきたあなたは、それだけじゃない……!」
サウド・ガルの孤独の中で、逃げ出した自分を追いかけてきてくれたジルがしてくれたように。 世界がどう言おうと関係ないのだと、自分の目で見てきた彼の姿を届けるために。
「人間嫌いのエルフから私を庇ってくれた。宿代さえ惜しむくせに、約束通りこの帽子を買ってくれた。私が歩けなくなったら、迷わず抱き上げてくれた! この……この、綺麗とは到底言えない世界で、生き抜くための歩き方を教えてくれたわ……!」
メリアは胸元をぎゅっと握りしめ、震える声にありったけの想いを乗せる。
「私をいつも助けてくれたのはあなただった。ずっと守ってくれたのは、ジル……あなただったの! あなたがくれた優しさを、私は何ひとつ忘れたりしない……だから私、あなたを信じられるわ。……お願い、旅を続けさせて。まだ一緒にいさせて!」
大粒の涙が次々と溢れ、頬を伝って落ちては、暗い木目の床にいくつものシミを作っていく。
青白い月明かりの下で二人の視線が交差し、息の詰まるような長い沈黙が小さな部屋を支配する。 張りつめた緊張を破ったのは、拍子抜けするほど脱力したジルの溜息だった。
「……はぁ。まあ、いいよ」
「……え?」
「あの時はさ、流石の俺も普通に腹立ったけどね。てっきりあのまま俺とはお別れなんだと思ってたよ。もう何言っても聞いてくれないんだろうなって」
立ち上がったジルは、椅子にかかっていた使い古しのタオルを無造作に手に取った。そして歩み寄ると、あまり手加減のない雑な仕草で、メリアの頬に濡れる涙をゴシゴシと拭っていく。
お世辞にも清潔とは言えないその布の感触。けれど、そこから伝わる確かな温もりに、メリアは拒むこともなく、黙って彼の手に身をゆだねた。
「なに泣いてんの。別に切り捨てたわけじゃないって。……だいたい、勝手に一人で盛り上がって勝手に泣いて、ほんと世話が焼けるフレアパルマだな」
「ジル……。私を、置いていかないでくれるの……?」
「途中まで送ってくって言ったろ。……まあ、メリアがそこまで泣いて嫌だって言うならさ。その途中が、予定よりだいぶ長くなるだけの話だよ」
その言葉が落ちた瞬間、メリアは掠れた声を絞り出す間もなく、そのままジルの胸へと身を投げ打った。熱い涙が彼の服を濡らし、何度も、何度も繰り返される「ごめんなさい」が、縋りつく指先から伝わっていく。
「……っ、ごめんなさい……! ごめんなさい、ジル……!」
突然の衝撃に、ジルは「うわ」と足を滑らせそうになりながらも、倒れないよう踏ん張り、しっかりと彼女の身体を受け止めた。
散々突っかかって、お互いに酷い言葉で傷つけ合って、街をあてもなく歩き回った挙句に、これだ。
胸元で泣きじゃくるメリアの頭上で、ジルは堪えきれなくなったように吹き出した。笑い声が体を揺らし、その振動が直接メリアの頬へと伝わってくる。
「お前すごいな。その歳になってまで、そんな馬鹿正直でいられるとかさ。希少種じゃん。……なに、お前みたいな希少種には優しくしろってこと?」
メリアの背に回されたジルの手が、落ち着かせるようにゆっくりと、楽しげにぽんぽんと背中を叩く。
世の中の汚さや残酷さをそれなりに知っているはずなのに、ここまで擦れておらず、真っ直ぐにぶつかってくる。その愚直な熱量に、ジルは降参して目尻を下げた。
「敵わねえなあ、ほんと」
月明かりが落とす部屋の隅、ジルの胸に顔を埋めたまま離れようとしないメリアの小さな温もりを、ジルはもう笑いを隠そうともせず、ただ腕の中で抱き留め続けていた。




