第十一話
翌朝、窓から差し込む光の中で目を覚ましたメリアの顔を見て、ジルはあからさまに吹き出した。
「さすがハニーパム、蜜欲しさに蜂の巣にでも突撃したの? すごいじゃん」
「〜〜っ! 誰のせいでこうなったと思っているのよ!」
「え、俺のせい? そりゃごめんね」
どこが申し訳なさそうなのか、あっけらかんと笑うジルは、怒るメリアを気にも留めずさっさと荷物をまとめてしまう。
泣き明かして腫れた目を隠すように、メリアはエテルナの花飾りがついた帽子をいつもよりも深く被って、階段を降りていく彼の背中を追いかけた。
登山道を目指すため、二人は下層から勾配のきつい坂道を上がっていった。
鍛冶場から吐き出される甲高い金鎚の音が重なり合い、地鳴りのように街全体を揺らす中層まで差し掛かったところで、突然人だかりと激しい怒号に行き当たった。
「聞き分けろ、野蛮人ども! 坑道内で出た遺体は、直ちに火葬するのが帝国の法規だ。この狭い街で死体を腐らせて疫病でも流行ってみろ、誰が責任を取るんだ!」
憲兵が軍靴で地面を叩き、苛立ちを露わに叫ぶ。帝国の教義において、炎で死者を天へ送ることは至極当然の理だ。しかし、遺体を囲む異民族たちは、血走った目で斧やツルハシを握りしめていた。
「ふざけるな。魂を宿した肉体を火で焼くなど恐ろしい冒涜だ! 死者の魂は我々のやり方で土へ還し、正しく弔うのが道理だろう!」
「伝染病が出たらどうするんだと言っているのが聞こえんのか!」
昨日までのメリアなら、憲兵の言い分になんの疑いも持たなかったはずだ。けれど、同胞の遺体にすがる彼らの必死な眼差しを見れば、それは身勝手な我が儘などではなく、命を懸けてでも譲れない祈りなのだと分かってしまう。
「ねえ、ジル。あれって……」
「えー、知らね。間を取って燻製にでもすれば?」
「……何も面白くないわ。不謹慎よ!」
「冗談だって。……だけどさ」
ジルは足を止めると、やれやれと首を軽く振って、冷めた目でその騒ぎを見やった。
「ああいうのはよくあるし、ぶっちゃけどうしようもないんだよね。どっちの言い分がどうとか関係なくて、最後には腕っぷしの強い方が勝つんだよ」
彼の言葉が終わるのとほぼ同時だった。憲兵のサーベルが抜かれ、押し問答はあっけなく暴力で踏みにじられた。
異民族たちが地面に伏せ、叫び声を上げる中で、憲兵たちは冷酷に遺体を地面に引きずり、荷車へと放り込んでいく。
「ほら、行くよ。見惚れてても何も出ないんだから」
喧騒を抜け、二人はアルゲントラの端に位置する水車群の近くまでやってきた。
勢いよく水飛沫を上げる木製の大水車が並ぶ中、その一角にある古びた小屋の陰で、乾燥した薬草を燻らせている老人がいた。風にそよぐ長い白髪をたなびかせた老人は、通りかかったメリアの帽子に飾られたエテルナの花に目を留めた。
「……珍しい花をつけているな、お嬢さん。昔は、この山の麓にもたくさん咲いていたものだがね」
思わず足を止めたメリアは、彼の髪の奥に伸びる尖った耳に気がついて息をのむ。エルフだ。
元より歳を取りにくい彼らが老いたの姿をしていること自体がきわめて珍しい。一体どれだけの時を生きてきたのか、想像すらつかなかった。
隣でジルが眉をひそめ、あからさまに億劫そうな顔で老エルフに視線を投げかける。
「へえ。爺さん、何年生きてんの?」
「お前たちの曾祖父の、そのまた曾祖父がこの山に足を踏み入れる前から、私はここにいるよ」
老エルフは煙を吐き出し、聳え立つヴェルティス・ノルディカ山を見上げた。
「あの嶺の向こうも、かつては我らの深い森だったのだよ。……銀が見つかり、人間たちが押し寄せた。木々は切り倒され、山は穿たれ、数百年の静寂が、たかが石ころの輝きひとつで灰となった。森の呼吸は止まり、あとに残ったのはあの忌々しい煙だけだ」
彼は薬草の吸い口をゆっくりと持ち替え、虚ろな目をアルゲントラの街へ向ける。
「父親が殺された地で、その息子がまた殺される。死体の上に積み上がった石ころを栄華と呼び、互いの首を切り落とし合う。何度も、何度も愚かな争いが繰り返されてきた……」
言葉の先で、遠く鍛冶場の煙突が黒煙を吐き出し続けている。果てのない不条理を前に、メリアはただ固まって立ち尽くすしかなかった。
だが、ジルには空気を読む気など端からない。彼はうんざりしたように天を仰ぐと、欠伸混じりに言い捨てた。
「はいはい。年寄りの昔話って本当に長いんだよね。あいにく俺たちの命はそんなに長くねえからさ」
「ちょっと、ジル……!」
メリアの手首を強引に掴み、ジルは振り返りもせずに歩き出す。あまりの不躾さに真っ赤になって咎めるメリアの後ろで、老エルフは喉を鳴らし、皮肉めいた笑いを漏らした。
「そうだろうな、人間。お前たちの生き急ぐ足音は、昔から変わらん」
ジルに引きずられながら、メリアはせめてもの無礼を詫びるように、振り返って老エルフへ深く一礼した。彼はそれ以上何も言わず、ただ煙の向こうから、過ぎゆく短命な種族の背中を見送っていた。
日暮れ近く、山道沿いの混雑する宿へ辿り着いた。旅人や商人たちでごった返す宿屋の受付で、ジルは信じられないほど悲痛な表情を作っていた。
「うちの嫁さんを見てくれよ。ご覧の通り病み上がりでさ……冷気にやられて一時はどうなるかと思ったんだよね。俺ならいくらでも耐えられるけど、こいつだけは暖かい部屋で休ませてやりたくてさ……」
どこから出ているのか分からない悲哀に満ちた声と迫真の演技に、メリアが抗議しようと服の裾を引っ張ると、ジルはしれっと「静かにしてて。部屋取れなくなるじゃん」と耳打ちして制する。結局、彼は見事に暖炉のある部屋を破格の安値で勝ち取ってみせた。
「……その口の達者さと厚かましい神経だけは、神様も気前よくお与えになったのね」
「嘘じゃないだろ。俺と比べたらメリアなんてぜんぜん弱いし。実際、一昨日まで熱で寝込んでた病み上がりじゃん」
「あなたの山熊みたいな頑丈さに比べたら、誰だって病弱よ。嘘をつくのは感心しないわ。……あたたかいお部屋で休めるのは、すごく助かるけれど」
階段を上がりながら、メリアは鍵を指で弄ぶジルの横顔に視線を向け、小さく口を尖らせた。
二階の薄暗い廊下へと差し掛かったときだった。 奥の暗がりから擦り足の音が近づき、痩せぎすで背の高い男がぬっと姿を現す。
男は二人の前に立ち塞がると、ジルの顔をじろじろと覗き込んできた。無精髭を生やし、口元には大きな古い傷跡が刻まれている。
「……おい。お前……帝都で飾りやら指輪やら仲買してた、貴金属商の息子だろ」
滲み出る不穏な気配に、メリアは咄嗟にジルの服の裾をぎゅっと掴み直した。しかし、当のジル自身はどこ吹く風といった様子で、いつもの無関心な表情を崩そうとはしなかった。
「取り立てのたびに親父の横からしゃしゃり出てきてよ、いちいち減らず口叩いて突っかかってきた……あの生意気なガキだろ」
「あ? 知らねえよ。人違いじゃね?」
ジルは相手の顔すらまともに見ず、煩わしそうに鼻で笑うと、そのまま傍をすり抜けて素通りしようとした。だが、男の口元が歪み、嘲笑とともに投げつけられた言葉が、廊下の空気を凍りつかせる。
「しらばっくれんなよ。……なんて言ったかな、お前の名前。そうだ……ジラルドだ」
この男はただのからかいや言いがかりで言っているのではない。本当にジルを知っているのだ。そう悟ったメリアの背筋に、冷たい汗が伝った。
「人違いだって言ってんだろ。さっさとそこどけよ」
ジルは低い声で苛立ちを隠しもせずに男を追い払おうとする。しかし、男は勝ち誇ったように喉を鳴らし、その背中に追い打ちのナイフを突き立てた。
「親父が首括ったあと、残った金目になりそうな細工持って自分だけ逃げ出したろ? お前、よくもまあ今までのうのうと生きていられるもんだなあ」
「…………」
「知ってんのか、ジラルド? 姉さんは可哀想だったよなあ……。娼館へ叩き売られて、何年か前に客から病気もらって死んだってよ」
呼吸の音すら掻き消えるほどの沈黙が、薄暗い廊下を支配する。 メリアの目から見ても、ジルの背中が強烈な動揺で固まっているのが分かった。手を伸ばそうにも、彼の全身から立ち上る気配に息が詰まる。
「なあジラルド、その女はなんだ? お前も俺たちと同類で、ついにそういう商売に手を出したのか? それとも何かい、自分だけ過去を捨てて、普通の人間の幸せでも手に入れられると思ってんのか?」
男はジルの沈黙を怯えと受け取ったのか、さらに調子づき、今度は卑しい笑みを浮かべてメリアの方へと視線を移した。
「おい嬢ちゃん、騙されちゃいけねえよ。こいつはな、身内の女を俺たちみたいな奴らに差し出して、自分だけ逃げ出したような──」
ギチ、と嫌な鈍い音がして、男の言葉は唐突に途絶えた。代わりに、喉の奥から絞り出すような苦悶の声が漏れる。ジルが男の両顎を力任せに掴み上げていたのだ。
「口が減らねえのはお前の方だろ。景気よくベラベラ喋りやがって。いまここで前歯も奥歯も全部へし折って噛み合わせ失くしてやろうか? ……大丈夫だって、スープしか飲めなくなっても俺が美味い店教えてやるからさ」
指先は男の肉に深く食い込み、腕に力を込めれば、本当に顎の骨を砕いてしまえるだろう。男の顔からみるみる血の気が引き、濁った瞳に恐ろしいほどの恐怖が走った。
ジルが投げ捨てるように手を離すと、男は咳き込みながら床に転がり、もつれる足で逃げ去っていった。なりふり構わぬ足音が遠のき、やがて下階の喧噪の中に消えていっても、ジルは立ち尽くしたままだった。
メリアはかけるべき言葉さえ見つからなかった。かけるべき言葉など、この世のどこを探しても見つかるはずがないのに、それでも見つかるはずもないものを探し続けて、ただ彼の背中へ手を伸ばそうとした。
その指先が触れるか触れないかの瞬間に、ジルはメリアの方を振り返りもしないまま、変な同情や哀れみを向けられるのを何よりも拒絶するように吐き捨てた。
「……あいつの言う通りだよ」
「ジル……?」
「俺は親父の借金から逃げて、姉さん見捨てて、メリアの言うような綺麗なとこなんかさ、俺のどこを探したってひとかけらもないんだ」
指先で弄んでいた部屋の鍵を握ると、ジルはそれをメリアの掌に押し付けるように手渡した。
「……一人で部屋行ってて。ちょっと外で頭冷やしてくる」
言い捨てるなり、引き留める隙すら与えないような、頑なで拒絶に満ちた足取りでジルは歩き出した。暗い廊下の先へ、まるで自分という存在そのものから逃げ出すように去っていく彼の背中を、メリアはただ見つめることしかできなかった。




