第十二話
一人にしたくない、とメリアは咄嗟に思った。
いまの彼を放っておくべきなのかもしれない。そっとしておくのが彼のためなのかもしれない。下手に踏み込めば、かえって傷つけてしまうのかもしれない。
「待って! ねえ、ジル……!」
それでも、去ろうとするジルの腕を、メリアは夢中で掴み引き止めた。何が彼のためになるのかなんて分からない。ただ、あんな顔をして一人で消えようとする彼を、一人になんてしたくない。それだけの衝動だった。
「……離せよ。頼むから、向こう行ってろって」
ジルは振り払おうと腕に力を込める。けれど、メリアはひるまず「嫌!」と拒んだ。
「……離さないわ。あなたのこと、一人にしたくないの!」
メリアの叫びにも似た声が、静まり返った廊下に真っ直ぐ響き渡る。
途端、ジルの腕からふっと力が抜けた。振り払おうとしていた指先が力なく弛み、彼はその場に立ち尽くす。
「……はぁ。もういいや。なんか冷めた。……つーか、廊下寒っ」
唐突に大きな溜息を吐くと、ジルはパッと暗い表情を消していた。自分の袖を掴むメリアの手を軽くポンポンと叩くと、何事もなかったかのように振り返る。
「メリア、やっぱ鍵ちょうだい。さっさと部屋入ろ」
「……え? あ、そ、そうね……」
あまりの切り替えの早さに、メリアは呆然と目を見開いた。
つい先刻まで「俺のどこを探したって綺麗なところなんかひとかけらもない」と痛切に自嘲していた男が、今は「ここ寒すぎだろ」ポケットに手を突っ込んでいる。
無理して強がって、平気なふりをしているの?
それとも、傷つきすぎて心を閉ざしてしまった……?
彼の深い傷に触れてしまったのではないかと息を詰めていたメリアは、戸惑う自分からひったくった鍵でガチャガチャとドアノブを叩いているジルの後ろ姿を見つめながら、猛烈な困惑の渦に呑み込まれていく。
だが、実際ジルが何を考えているのかと言えば。彼は呆れて折れたのだ。メリアの必死さにではなく、自分自身に。
こんなふうに必死にぶつかられて、それを力任せに振り払って一人で去るなんて、あまりにも器が小さすぎる。それに悲劇の主人公気取りで一人になりたがる自分にも、急激に頭が冷えてバカバカしくなった。
俺ってホントろくでなしだな。っていうか、メリアのその理屈のなさも勘弁してほしいんだけど。
過去の事実は最悪だし、姉の末路も、それに引き換えて生き延びた自分にも心底引く。けれど、どれだけ悔やんだところで姉が戻ってくるわけではない。それなのに一人で悲劇に浸って落ち込んでみせるなんて、あまりに虫が良すぎる。何より、この寒い廊下でいつまでも鬱々としていたところで、何も始まりはしないのだ。
消えない後悔を胸の底に力ずくで押し込め、冷めた現実へと足をつけ直す。それが彼のたくましい長所でもあり、同時にどこまでも罪深いところだった。
鍵を開けて部屋に入り、カウチに腰掛けたジルは、なおも痛々しいものを見るような目で見つめてくるメリアに、心底不思議そうに眉をひそめた。
「……なに? 何が言いたいの?」
「……あ、あのね、ジル……。本当に、平気なの……?」
「平気って……まあ別に。あ、もしかして心配してくれたの? ごめんね?」
頭を下げて軽く茶化して見せるジルだったが、メリアの瞳の奥にある疑惑と困惑は消えない。変な誤解をされたままでも面倒だな、とジルは頭の隅で思った。
彼はほんの少し──本当に、ほんの少しだけ迷うように視線を泳がせ、背もたれに体重を預ける。自分の過去をペラペラと語るつもりなどなかった。けれど、中途半端に同情されたり、妙な幻想を抱かれたりするくらいなら、話してしまった方がマシかもしれない。
「何その顔。そんな大層な悲劇の主人公を見るような目で見られても困るんだけど。……今さらもったいぶるような内緒話でもないから言うけどさ、あいつの言ったこと、別になんも間違ってないよ」
息をのんで身構えたメリアの真面目さに呆れつつ、ジルは拍子抜けするほど軽々しく口を開いた。自分のみっともない人生を悲劇ぶる気なんてさらさらない。気取った憂い顔で過去を振り返るなんて、考えただけで吐き気がするくらい虫の好かない芝居だ。
「親父の商売が行き詰まって、山みたいな借金抱えて勝手に死んだ。残ったのは俺と姉さんと、ノックの勢いだけで家を壊しにかかってくる借金取り。で、自分の命が一番かわいい弟は、あんなガラの悪いおっさんたちと付き合ってらんねえってあっさり逃げ出したわけ」
後ろめたさが一切ないと言えば嘘になる。だが、あの場で踏みとどまる知恵も力もなかったのは事実だし、今さら同情の言葉をもらったところで何一つ変わりはしない。こうして笑い草にしてしまえば、どんな過去もよくある昔の苦労話として片付けられる。
「それだけのことだよ。俺は昔っから救いようのないろくでなし。今さら反省の弁を述べるのも柄じゃないしさ、あのまま二人で仲良くお迎え待つよりはマシだったと思いたいけどね。……で? 無言で圧かけるのやめてくんない? なんか言いなよ」
呆れて失笑されるか、あるいは身勝手だと責め立てられるか。 そうやって「取り返しのつかない悪党」の判決でも下してもらえれば、この茶番は無事に終わるはずだった。
……だが、返ってきたのは狙い通りの反応ではなかった。メリアは変わらず、胸が塞がるような痛々しい眼差しで、まっすぐにジルを見つめ続けている。
「……どうしてそんなふうに笑うの?」
「……は?」
「そうしておどけて見せられたら、私、笑って返さなきゃいけないの? ……ちっとも可笑しくなんてないのに」
途端、ジルの口から言葉が出てこなくなった。いつもなら勝手に口が回ってしょうがないのに。自分でもうっとうしいくらいペラペラ喋れるはずなのに。
「……ほんと野暮だな、メリアは」
結局絞り出せたのは、そんなくだらない一言だけだった。こんなものを悲劇になんてさせてたまるか。必死に防波堤を立て直そうと口を動かすが、その言葉足らずな焦り自体が、彼の動揺を何より雄弁に物語っていた。
「大人ってのはさ、こういうくだらない自虐を笑い流して終わらせるもんなんだよ」
とはいえ、二人の歳に大した開きがあるわけではない。せいぜい二つか三つ、ジルが先に生まれたという程度だ。どれほど世間擦れした大人ぶってみせたところで、彼もまた、メリアとそう変わらない年月しか生きていない若者でしかないのだ。
「……真顔で刺しにこないでよ。そこは苦笑いでもいいから付き合ってくんないと、俺の立つ瀬がないんだけど」
「付き合ってなんてあげられないわ」
メリアの冷たい声が静かに割り込んだ。突き放すような響きの中に、今にも崩れそうな震えが混ざっている。
「私には、あなたのことなんて何一つわからないから。……そんな悲しい笑い方に付き合ってあげるほど、お人好しにもなれないわ」
それだけ言い捨てると、メリアはぷいとそっぽを向いてしまった。
軽々しく「可哀想に」なんて言えるはずもない。分かったような顔をして同情するなんて、ジルが一番嫌がることくらいメリアにだって分かっていたのだから。
だが、そっぽを向いたメリアの目元がうっすらと赤く潤んでいるのを目ざとく見つけると、ジルの肩から無駄な緊張が抜けた。
なんだよ、泣きそうになってんじゃん。
重苦しい空気は相変わらずだが、彼女のその不器用な反応のおかげで、ジルはいつもの調子を取り戻すことができた。
「はいはい。お見それしましたよ」
ジルは棒読みでそう呟くと、大げさに両手を上げて降参してみせた。そしてそのまま、糸が切れたようにカウチへ倒れ込む。
「これ以上いじめられるのは勘弁だから、俺はもうここで寝まーす。ほら、メリアも目冷やしてさっさと寝なよ。おやすみ」
しかし、残されたメリアはベッドに入っても、一向に眠りにつくことができなかった。暗闇の中で天井を見つめながら、メリアの思考はぐるぐると渦を巻き続ける。
ジルは、人には決して話したくなかったであろう壮絶な過去を打ち明けてくれた。それなのに──私はどうだろう。
私生児として生まれ、淫売の娘と罵られ、誰からも愛されずに生きてきたこと。亡き兄の遺灰を握りしめ、ヴァル・シネレアに撒いて復讐を誓っていること。
そんな惨めな過去も、本当の目的も、口が裂けても言えるはずがなかった。けれど、この人を大切にしたいと強く思えば思うほど、その秘密が自分を不誠実な嘘つきだと責め立ててくる。
メリアは重い溜息をついて毛布を引き上げた。今夜もまた、あの恐ろしい悪い夢を見るかもしれない。胸の前で手をぎゅっと抱きしめ、暗闇の中で小さな不安に身を縮める。
……もし、私がまたうなされていたら。
あの夜のように、ジルはまた私の頬を叩いて叩き起こし、助けてくれるだろうか。
そんな勝手な期待と甘えを抱いていることすら自分勝手に思えて、メリアはぎゅっと瞼を閉じた。




