第十三話
宿屋の重い木扉を開けると、澄んだ、けれど刺すように冷たい朝の空気が二人の肌を撫でた。
「うわ、寒……。メリア、足元凍ってるから滑らないでね。転んで泣かれても抱っこはしてやれないから」
「その心配なら、ジルの方こそ気をつけるべきだわ。どんなに頼まれたって、私にはあなたを抱きあげるなんて絶対に無理なんだから」
「それは頼む俺のほうがバカじゃん」
路地に残る霜を踏み締めながら、山道へ歩き出そうとしたその時、ジルの視線が、数軒先の馬つなぎ場でぴたりと止まる。
寒風に揺れる馬のたてがみの陰。通行人や馬方をとらえ、手元にある紙切れを見せつけながら、何かをしつこく問い質している男たちがいた。軽装の旅装束を纏ってはいるが、腰に下げたサーベルや身のこなしで一目でそれと分かった。──兵士だ。
隣を歩くメリアはまだそれに気づいていない。ジルは歩幅を変えることなく、ごく自然にメリアの斜め前に体を差し入れ、彼女の視界を遮った。
「うわ、朝から本道は人が多くて酔いそうだな。……メリア、こっちから行かない?」
「え? でも、本道を進む方が道沿いに……」
「まあまあ、急ぐ旅でもなし。遠回りだけど、こっちの方が見晴らしがいいんだよ。ほら、行こ行こ」
怪訝そうに眉をひそめるメリアを言いくるめ、ジルは脇道へと折れた。背後で兵士たちが馬の綱を解く音が聞こえたが、彼は足取りを崩さず、振り返ることもない。
ジルに促されるままついていく道は、かつて鉱石を運び出すために使われていたという旧道だった。
両脇には荒々しい岩肌と、苔むした巨大な針葉樹の原生林が立ち並び、視界を深く遮っていた。足元は湿った泥道で、所々に崩れた石積みの跡や、打ち捨てられた荷車の車輪が埋もれている。
「……ジル、本当にこっちで合っているの? 道というより、ただの岩場じゃない」
「合ってる合ってる。たまにはさ、こういう静かな森の中で森林浴ってのも悪くないだろ? 空気が美味いよ、空気が」
こんな悪路にもかかわらず、ジルは足を止めようとしない。いつもなら「疲れた」「ちょっと休もうぜ」と真っ先に音を上げるはずの彼が、一度の休憩すら挟まず、淡々と歩き通している。
様子がおかしいことくらい、メリアにも分かっていた。けれどジルが自ら口を開かない以上、問い詰めたところで「気にしすぎ」と煙に巻かれるのが目に見えている。
そうして喋る余裕もないまま半日近く歩き続け、ようやく辿り着いたのは、山腹にひっそりと佇む休息所だった。かつて鉱夫たちが雨風を凌ぐために使っていたのだろう、風化して半ば傾いた木造の小屋があるばかりで、人影はまばらだった。
「あー、やっと着いた。メリア、すごいじゃん。こんな悪路を泣き言ひとつ言わずに踏破するとかさ、俺いま本気で感動の涙を引っ込めたとこ」
「……誰のせいでこんな急ぎ足になったと思っているのよ。あなたが一度も休まずに進むからじゃない」
「俺? いや、腹減ってたから。ごめんって」
ジルは大げさに背伸びをすると、壊れかけた木造小屋の柱に寄りかかった。
「お詫びにさ、前に宿で食ったあの美味すぎる煮込み作ってあげるよ。女将に泣きついて作り方聞き出したんだよね。そこらへんで奇跡的に毒の入ってなさそうな山菜かキノコでも探してくるわ」
「えっ……あなただって疲れているでしょう。少し休んでからでもいいんじゃない?」
「何それ、心配してくれてんの? 大丈夫だって。体力なんかさ、可愛いフレアパルマの前じゃいくらでも湧き出てくるもんなんだよ。すぐ戻るし、おとなしく座って待ってて」
「ちょっと、ジル──」
メリアが言い募るより早く、ジルは人差し指を口元に当てて「隠し味は内緒」と笑い、休息所の裏手に広がる岩かげへと身を躍らせるように消えてしまった。
「……もう、勝手なんだから」
相変わらず訳さえ話してくれない。急な回り道も、煮込み料理なんていうのも全部口実だ。
不満を抱えつつも、メリアは溜息を吐いて周囲を見回した。本当に何か作ってくれる気なら、水くらいは用意しておいてあげよう。
ふと視線をやると、少し離れた木々の影から、水で満たされた革袋を肩にかけた旅人が一人、歩いてくるのが見えた。そちらの方角へ足を進めてみると、風化して黒ずんだ古い井戸がひっそりと佇んでいる。
メリアは足元に転がっていた木桶を手繰り寄せ、水を汲み上げようと滑車に手をかけた。
「やあやあ。上から眺めてたらさ、なんか上等な毛並みのヒヨコが歩いてくるのが見えたんだよね」
途端、どこからか声がかかる。ハッとして見上げると、井戸の腐ちかけた屋根の上に腰かけていた人影が、羽先を羽ばたかせる音とともに軽やかに地上へと降り立った。
「ねえ、一人で何してんの? 俺から言わせてもらえばさ、あんたみたいな飛べそうもない小鳥が一人でフラフラしてると、猛禽類に一飲みにされちゃうよ?」
鳥の獣人だった。頭部から肩にかけて生え揃う羽、鋭い鉤爪。鷹のような黄色い目を細めて、男はメリアを上から下まで露骨に品定めするように覗き込んできた。馴れ馴れしく肩を引き寄せるように手を伸ばされ、メリアは弾かれたように身を引く。
「触らないでちょうだい。それに、一人じゃないわ。今にジルが戻ってくるもの。だから、向こうへ行って!」
メリアが毅然とした声で突っぱねると、鳥の獣人は「ジル?」と首をかしげ、それから面白そうに喉を鳴らして笑い出した。
「ジル? ジルねえ……なんだ、お友達の女の子かよ! 華奢なお姉ちゃん二人でこんな山道を旅なんて、空から見てりゃ滑稽で感心しないなあ」
男は翼をゆるやかに広げて左右の立ち木との隙間を埋め、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。鳥人族特有の敏捷な身のこなしは、逃げようとするメリアの動きを容易く先回りしてみせた。
「いいかい、女の子二人じゃこの先の道で野盗に襲われちゃっておしまいさ。……なあ。この俺が特別に、その貧弱な羽じゃ行けない場所まで案内して助けてあげようか?」
不躾に伸びてきた手を、メリアは「やめて!」と必死で振り払う。しかし男は嫌がる素振りすら楽しむように、追い詰められた獲物の逃げ場を奪って喉を鳴らした。メリアの背中が、井戸の冷たい石積みに当たって行き止まる。
じわじわと胸を満たしていく気味の悪さに、メリアが固く目を閉じた──次の瞬間だった。
「へえ、案内してくれんの? 助かるわー。ジルちゃんは見かけによらずか弱いからさ。頼りになる案内人がいてくれて良かったよ」
暗がりから滑り込んできたのは、言葉とは裏腹に、一切の感情が籠もっていない棒読みの低い声だった。背後に不意に現れた気配に、鳥の男が羽を逆立てて振り返る。
そこに立っていたのは、山菜どころか手ぶらのまま、腕を組んで佇むジルだった。威圧感を全身から放つその佇まいは、どこをどう切り取っても華奢な小鳥ちゃんなどではない。
「ねえ、俺ってそんな可愛い? あんたの目には、一体どんな小鳥に見えてんの?」
全然可愛くない。自分が気安く声をかけたのがとんでもない猛獣だったと悟った鳥の獣人は、なりふり構わず翼を羽ばたかせ、空へと飛び去っていった。
「……ジル?」
メリアがおずおずと声をかけた瞬間、ジルは彼女の手首をぐっと強い力で掴んだ。いつもの冗談めかした態度に戻ることなく、迷いのない足取りで歩き出す。
「ちょっと、ジル……! 痛い……どこへ行くの?」
「急ぐよ。……なんか嫌な感じがする」
困惑しながら尋ねるメリアに、ジルは振り返りもせず、吐き捨てるように低く呟いた。
「あいつ、ただのナンパ野郎じゃない。……情報屋だよ」




