第十四話
二人は息を切らし、ただひたすらに山道を急ぎ続けた。
食事どころか息を整える短い休息も捨て置き、ジルは一度もメリアの手を離さずに脚を動かし続けた。息が上がり、足が痛んでも、ジルの冷たい横顔が立ち止まることを許さない。
だが──悪路が険しさを増すヴァル・シネレアの峠道に差し掛かったところで、その足は唐突に止められた。
「──止まれ、そこの二人。……随分と焦って先を急いでいたようだな」
声とともに、木々の影から身構えた数人の兵士たちが立ちふさがる。 急いで引き返そうと振り返ったメリアの視界には、すでに背後の道を塞ぐ別の兵士たちの姿があった。逃げ場はない。
兵士たちの視線がジルを通り越し、メリアへと向けられる。 その瞬間、先頭の男の表情が驚きと安堵に揺れ、深々と頭を下げた。
「……よもや、このような場所でお目にかかろうとは。……失礼。間違いございませんね、メリアお嬢様」
「っ……!」
メリアは息を呑み、思わずジルの背中へ一歩後退った。ジルは驚く様子もなく、ポケットに手を突っ込んだまま「はあ」と短く息を吐き出した。
「やっぱりかー……。俺、ずっと考えてたんだよね。どっちかなーと思ってたんだけどさ」
ジルはメリアをちらりと振り返り、すべてを悟ったような苦笑いを浮かべた。
「お前の方だったか」
アストラヴァール家の私兵の隊長はジルを強く警戒し、サーベルの柄に手をかけたままメリアへ視線を向ける。ジルはその柄に刻まれた紋章をじっと見つめた。周囲を囲む兵士たちも、研ぎ澄まされた刃のように鋭い威圧感を放っていた。
「お嬢様。お父上は慈悲深くも、貴女に新しく相応しい居場所をご用意されました。……さあ、お立場にそぐわぬお戯れはここまでです。どうぞ、私どもとお戻りください」
「……居場所?」
「ええ。しかるべき家柄の、ご立派な嫁ぎ先でございます。貴女のお立場と血筋を思えば、これ以上ない寛大なご配慮ですよ」
メリアの背筋に氷を突き刺されたような寒気が走り、足元から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
これまでずっと、自分のことなど存在しないかのように捨て置いてきた父親だ。メリアが何を思い、何を願って家を出たのかすら気にも留めなかった。
兄が死んだ途端、家門を維持し、他家との繋がりを強めるための手札として、今まで見向きもしなかった私生児の利用価値にようやく気がついたのだろう。
「……戻らないわ。戻るはずがないでしょう。今さら道具のように呼び戻して、従わせようとしても無駄よ……!」
メリアは胸の前で拳を固く握りしめ、震える唇を開いた。だが隊長は溜め息をつき、心底あきれ果てたというように首を振ってみせる。
「……神聖なる巡礼を言い訳に家を抜け出し、素性も知れぬ男に身を許すおつもりでしたか。あまりに嘆かわしい限りです。……やはり、血は争えぬということでしょうか。どのような教育を施そうと、身持ちの甘さばかりは誤魔化せぬようですな」
メリアの喉から、押しつぶされたような小さな悲鳴が漏れた。脳裏に、あの忌々しい日々が怒涛のように蘇る。どんなに正しく振る舞おうとしても、どんなに努力しても、メリアは常に母親の影に呪われ続けてきた。
メリアの顔から血の気が引き、その肩が抑えきれずに細かく震え始める。彼女のあからさまな異変と、兵士の底意地の悪い侮蔑を察したジルは、メリアの前に自然な足取りで一歩踏み出した。
「へー。これが大事なお嬢様を迎えに来た奴らの態度ねえ」
「何のつもりだ。口を慎め、無礼者」
隊長の一喝をどこ風吹く風と受け流しながら、ジルはメリアを完全に自分の背後へと隠すようにかばい直す。
「自分たちは立派なこと言ってるつもりかもしれないけどさ。俺から見たら、ただの意地悪なおっさんどもが女の子いじめてるようにしか見えないけど」
「……無知とは恐ろしいものだな。やはり身分相応の浅はかな知恵しか持ち合わせておらぬと見える。貴様のような者に、貴族の理を推し量れる道理などあろうはずもない」
「はいはい。理屈になってないんだよね。本気でさっさと連れ帰りたいならさ、うまく丸め込むのが筋だろ。わざわざ嫌味叩き込んで余計に反発させて、何がしたいの? 手際が下手くそすぎない?」
鼻で笑うようなジルの挑発に、周囲を固める兵士たちの眉が苦々しく跳ね上がる。剣の柄に手をかける者すらいたが、隊長はただ冷徹に、ジルの指摘を聞く価値もない野犬の遠吠えとして切り捨てることを選んだ。こんな男を相手にするのは時間の無駄だと切り捨てるように視線を外し、再び冷酷な焦点をメリアへと絞る。
「お嬢様、お分かりですか。貴女が今なさっていることは、ご自身の身の卑しさを自ら証明するようなものですよ。お父上がお知りになれば、どれほどお心を痛められるか。……これ以上、このような路傍の野犬に身を委ねるのはおやめなさい」
メリアはギュッと自分の胸元をかき抱いた。
目の前に立つジルの背中は、いつだって頼もしかった。道中で何度、彼の機転や余裕に救われてきただろう。
だけど、今ここで隠れていてどうするの?
奪われる恐怖に身体の芯は冷え切っていた。それでも逃げるわけにはいかなかった。
怯えて誰かの陰に丸まっているだけでは何も守れない。恐怖で足がすくみそうになるのを、固い地面を踏みしめて跳ね返す。
引き下がるために、諦めるために、今日まで自分の足で歩いてきたわけじゃない。
胸の奥で、熱く激しい感情の残り火が、一気に大きな炎となって爆ぜた。恐怖で強張っていた身体に、血が巡り出す。
「……嫌よ」
驚きに目を見張るジルの横をすり抜け、メリアは追手たちの威圧へと真っ向からその身を晒した。立ちふさがる兵士たちを射抜く瞳には、怯えなど欠片もない。
「嫌よ……! 私は屈しない。あなたたちには絶対に従わない!」
「お嬢様、ご乱心を──」
「お父様が心を痛めるですって? 笑わせないで!」
静止を試みる兵士の言葉を、メリアの鋭い叫びが遮った。積年の冷酷な記憶をなぎ払うように、激しい激情のままに言い放つ。
「あの方が私に居場所を与えたことが、一度でもあるかしら。一度でも、あの冷え切った屋敷に私の居場所があった? 私はお父様のカードの手札じゃない。あなたたちが蔑む、淫売の娘でもない……!」
メリアは胸を張り、自分を縛り続けてきた過去の鎖を、その手で断ち切るように言葉を紡いだ。頬を伝う一筋の涙は、もはや恐怖や悔しさの涙ではない。
「私は、私よ! 私がどこへ行き、誰を選び、どう生きるか。私の価値も、いるべき場所も、私が私自身の心で決めるわ。誰の道具にもならない。私の人生だから!」
魂を絞り出すような叫びが冷えた大気を震わせた、まさにその時だった。
──ゴオオオオ、と。地底の底から響くような不気味な咆哮とともに、突如として激しい一陣の風が吹き抜け、視界を塗りつぶした。
兵士の一人が顔を覆う。だが、彼らはすぐにそれがただの砂埃ではないことに気がついた。肌を撫でるざらついた感触、視界を白く染め上げる灰色の粒。それがどこから吹いてきているのかを悟った瞬間、彼らの顔から一斉に血の気が失せた。
ヴァル・シネレア。
神に見放され、立ち入った者に災いをもたらすと言い伝えられる呪われた死地。その伝承の地から吹き降ろす、忌むべき灰の地吹雪だ。
古くから語り継がれる禍々しい迷信と恐怖が、手練れの兵士たちの足をも竦ませる。この不吉な灰の渦へ踏み出すことへの強い抵抗感が、彼らの追撃の足を決定的に鈍らせた。
突如として訪れた異様な光景に、メリアが呼吸を詰まらせ、足をすくませた瞬間──。
「吸い込むな! 走れ!」
腕を強く引き寄せられ、口元にひんやりとした濡れ布を強引に押し当てられる。ジルの切迫した声だった。
「……!」
メリアは迷うことなく、強く、深く頷いた。
繋がれた手から伝わる温もりにすべてを託し、二人は死の灰が渦巻く中へと弾かれたように駆け出す。
「お、追わないのですか! 逃げられますよ!」
「馬鹿を言え! あの嵐の中に踏み込めるか。灰を吸えば肺が腐るんだぞ!」
「……しかし、お嬢様が……!」
「黙れ! 死にたければ貴様一人で行け!」
引き止めようと伸ばしかけた手は、不吉な嵐に阻まれて虚空を泳ぐ。
視界を埋め尽くす灰色の渦。その奥へと、振り返ることもなく飛び込んでいった二つの背中。消え去った影を呆然と見つめながら、兵士の一人が吐き捨てるように呟いた。
「……狂ってる。あの家に戻るくらいなら、灰の底で死んだ方がマシだってのかよ……」




