第十五話
ゴツゴツとした岩肌が続く、洞窟のような古い坑道。その奥深くでメリアは膝をつき、激しく咳き込んだ。喉が焼けるように熱く、灰の粉っぽさが口内に残っている。
ふと隣を見れば、ジルもまたひどい有様だった。彼は革袋の水を口に含んでは吐き出し、口内の灰を必死に流している。それだけでは追いつかないと悟ったのか、残りの水を躊躇なく己の顔へとぶちまけ、目を擦って洗っていた。
「っ……ジル、ねえ、大丈夫……!?」
命からがら逃げ延びたのだと、呼吸が落ち着くにつれて実感が湧いてくる。自分のことなど後回しに、濡れた顔を拭うジルの顔を、メリアは覗き込んだ。ジルは瞬きを繰り返しながら、いつもの気安い笑みを浮かべて見せる。
「何とか目が見えりゃ大丈夫でしょ。あー、参ったね。これで旅の経歴書がまた余計に豪華になっちゃった」
「ヴァル・シネレアの灰よ……。私たち、本当に……何ともないの?」
「そりゃ身体には良くないだろうけどさ。肺が腐るだの呪いだのっておどろおどろしい迷信は、俺は端から信じてないね」
ジルは坑道の奥へと歩き去り、やがて倒木や朽ちた支柱の破片など、乾いた薪を抱えて戻ってきた。
外では、あれほど猛威を振るっていた灰の地吹雪が、ようやく嘘のように止み始めていた。静寂を取り戻しつつある世界で、ジルが打ちつけた火花が薪に燃え移り、橙色の温かな炎が二人の影を揺らめかせる。
「……で? そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
爆ぜる炎の前に二人で並んで腰を下ろし、冷え切った手をかざす。炎の揺らめきを見つめたまま口を開いたジルの声に、なじるような色は欠片もなかった。
「見ての通り、俺もけっこう命張ったからさ。俺をここまで巻き込んだお連れ様が、本当はどんな訳ありなのか……そろそろ教えてくれても罰は当たらないだろ」
メリアは胸元に下がる冷ややかな銀の感触を、そっと指先で確かめた。
ついに、この時が来たのだと思う。私の手を取り、あの死の灰が渦巻く死地へ迷いなく飛び込んでくれたこの人には、もう何ひとつ嘘をつくことなんてできない。
「……そうね。ずっと隠していて、ごめんなさい」
もう、自分を偽るための言葉はいらない。固く閉ざしていた傷口を開き、誰かに──この人にすべてを吐き出したいと、本当はずっと、ずっと願っていたのかもしれない。
「このロケットに入っているのはね、私の、大嫌いなお兄様の遺灰なの。……私は、アストラヴァール侯爵と愛人の間に生まれた娘。淫売の落とし子──正妻や異母兄からは、幼い頃からずっとそう呼ばれて育ったわ」
心の一番深く、血を流し続けている傷口。かつて屋敷の暗がりで浴びせられた侮蔑の数々が、鮮明に脳裏をよぎった。
「三ヶ月前、モンテ・クリュエンタの攻囲戦でそのお兄様が戦死したの。報せを聞いたとき、私は神様が罰を下してくださったのだと思った。でも……違った」
そこでメリアは言葉を詰まらせた。ジルは立てた膝の上に肘を置き、頬杖をつきながら耳を傾けている。真剣に重く受け止めすぎるでもなく、かといって聞き流すでもない。ただ「うん」と短く相槌を打ち、彼女の言葉が自ずと紡ぎ出されるのを待っていた。
「兄が死んだって、私の何かが変わるわけじゃなかった。周囲の視線も、蔑むような態度も、何ひとつ変わらなかったのよ。……どうしても、どうしても許せなかった。だから私、葬儀の隙を突いてこの遺灰を盗み出したわ」
亡き母の形見である銀のロケットに兄の遺灰を押し込め、かねてより望んでいた聖地への巡礼に出たい、と嘘をついて屋敷を出た。
供はいらないと言えば、拍子抜けするほど簡単にひとりで送り出された。父親はメリアという存在そのものに興味がなく、正妻はどこか遠くで野垂れ死ねばいいと本気で思っていたからだ。
「神様に見放された、ヴァル・シネレア……。あの灰の底にこの遺灰を撒き捨てて、あの人の魂を永久に彷徨わせてやりたかった。永遠に救われない死地で、苦しみ続ければいいって……。それが、私の旅のすべて」
ひとしきり告白を聞き終えたジルは、頭の後ろで両手を組んでその場に寝転がった。天を仰ぎ、まるで答え合わせでも終えたかのような、のんびりとした態度だった。
「……なるほどね。なんとなくそんなこっちゃないかと思ってたけどさ。思った以上に筋の通った、えげつないお返しだわ」
「……げ、幻滅、しないの……?」
メリアの瞳から、涙がいくつもいくつもこぼれ落ちる。一度あふれ出した感情は止めようがなく、彼女は嗚咽を噛み殺しながら肩を震わせた。
今となっては、遠い過去の傷みなどよりも、ジルに見放されてしまうことのほうがずっと恐ろしかった。
「私、あなたを騙していたの。本当の心の中は真っ黒で、誰かを憎んでばかりいて……誰かに誇れるような私なんて、どこにもいないわ……っ」
「しないしない。なんで俺がそんなことで幻滅すんの」
ジルは仰向けのまま、楽しそうに「ははっ」と声を漏らした。そしてしなやかな仕草で身を起こすと、膝の上に肘をのせ、手の甲で頬を支えながらメリアを覗き込む。
「むしろ感心したね。俺みたいな胡散臭いのをうまく手駒にしてさ、まんまとここまで連れてきただろ。大した度胸だって」
ジルは猫のような目を細め、片手でぽんぽんと気安くメリアの頭を叩いた。
「大体さ、メリアはバカ真面目なんだよ。黙ってたいことなんかさ、死ぬまで自分だけの秘密にして墓場に持ってきゃいいだろ。俺なんてメリアに言えない隠し事どころか、世間に知られたら絞首台に送られる秘密が腹ん中に吐くほど詰まってんの!」
胸を張ってあっけらかんと恐ろしいことを言い放つ彼に、メリアは毒気を抜かれたように固まった。ジルは涙でぐしゃぐしゃになったメリアの顔を面白そうに見つめ、「てか鼻水出てるよ」と容赦のない一言でその場の空気をあっさり木っ端微塵にした。
「ほら、じっとして」
「え……っ」
メリアが呆気に取られている隙に、彼は身を乗り出し、あろうことか自分の服の袖口で彼女の顔を乱暴に擦った。涙も鼻水もまとめて拭い去る力加減に、メリアの肌は瞬く間に赤く擦れてしまう。
「……痛いっ、ジル、乱暴だわ……!」
「はいはい。泣き虫メリア。これで綺麗さっぱり」
痛みに身を縮めて恨めしげな視線を向ける彼女を、ジルはいたずら成功と言わんばかりに楽しそうに笑い飛ばし、からかうように鼻を鳴らした。
「……でさあ。その絞首台ものの秘密とはまた別なんだけど、俺もさっきの連中見て、ちょっと昔のこと思い出したんだよね」
ジルは手持ち無沙汰そうにそこらの枝を拾うと、焚き火に放り込み、まるで人ごとの噂話でもするような、底抜けに呑気な口調で語り始めた。
「俺がまだ可愛くて、嘘のひとつも吐けなかった頃の懐かしい話ね。家がなくなって、明日どう生きていけばいいのかもさっぱりでさ。寒いわ腹減ってるわで、もうどうにでもなれーってどこぞの屋敷の裏手で倒れ込んでたわけ」
そう語りながら、ジルはわざわざ「こんな感じね」とその場に大袈裟にへたり込んで目を閉じ、力尽きた倒れ込みの再現までしてみせる。どこまでもふざけた男だった。
「そしたら裏口がコソッと開いてさ……すっげえ上等な格好したちっちゃいお姫様が出てきたんだよ。猫みたいに俺のこと警戒しながらさ、自分のおやつだか何だか知らん焼き菓子を分けてくれて。で、逃げるみたいに引っ込んじゃうの。あの時は本気で、お空から臆病な天使様でも降りてきたのかと思ったね」
黙って薪の爆ぜる音を聞いていたメリアの胸の奥で、ジルの言葉の破片が、薄暗い記憶の影と重なり合っていく。
雨の匂い。かじかんだ指先。
見つかれば厳しいお仕置きを受けると知りながら。
自分の存在すら許されないような屋敷の中で、どうしても、背を向けることができなかった。
あの時差し出した手のひらと、あまりにも似通った感触──忘れていたはずの景色が、鮮烈な色を取り戻して一気に溢れ出した。
「……裏庭」
ぽつりとこぼれ落ちたメリアの声に、ジルが視線を向ける。
「雨が降っていて……すごく寒い日だった。弱り切って、泣きそうな顔をした男の子が倒れていて……私、すごく怖かった。でも、どうしても放っておけなくて……」
「ちょっと待って。弱り切った顔?」
記憶を一つひとつ確かめるように紡がれるメリアの言葉。だがジルはそこで眉を跳ね上げ、心底不思議そうに首を傾げた。
「俺が? そんな顔してたかな。俺って昔から結構な男前だし、いくら行き倒れて死にかけてたとしてもさ、もうちょっとこう……絵になるっていうの? 良い顔してたと思うんだけど」
「……っ!」
感動の余韻を全力で踏みにじる調子に、メリアの目尻に再びうっすらと溜まりかけていた涙が吹き飛んだ。
「人が……人が真面目に思い出そうとしているのに、どうしてあなたはいっつも、そうやって台無しにするようなことを言うのよ……!」
「台無しも何も、事実と違う言いがかりは聞き捨てならないって話で」
「言いがかりじゃないわ! 絵になんてならなかった! 痩せて、汚れて、ただのみすぼらしい男の子だったわよ!」
「うわ、みすぼらしいって言った。ひど」
ジルはゲラゲラと可笑しそうに笑うと、焚き火の爆ぜる橙色の光の中で、じっとメリアを見つめた。
「……まあ、そのみすぼらしいガキをさ、助けたのがメリアなんだよ。あんなに怯えながらさ。そんな怯えるなら来なきゃいいのにってくらい。……ほんとお人好し。俺から言わせてもらえば、今も昔も変わってないよ。俺を助けてくれた、あのお姫様はそのまんま」
胸の奥から込み上げる感情に耐えきれず、メリアは伸ばした手でジルの腕にしがみついた。すがるものを求めるように、ただ無心で彼の腕を抱きしめる。
あの日に怯える手で差し出した、幼い頃のささやかな気まぐれなど遠く及ばないほど、メリアは彼に救われ続けてきたのだ。絶望の縁に立つたび、この男のいい加減な言葉と、嵐の中でも倒れない樹木のような確かな存在感に、どれほど繋ぎ止められてきたことか。
ジルは一瞬だけ目を見張ったが、すぐにその肩を包み込むように、大きな腕で深く抱き寄せた。甘い情愛のそれではなく、どこまでも頑丈で、二人の間を繋ぐ確かな絆だった。
「参ったね。もっと早く知ってりゃ、俺だって考えがあったのに。俺は根っからの悪い奴なんだから、さっさとあのお姫様を攫って逃げてやれば良かった」
「……ジル……?」
「金持ちの家でぬくぬく良い暮らししてんのかと思ってたのにさあ。散々いじめられてたなんて、冗談じゃねえよ。もっと早く連れ出してやれば良かったな。こんなところで泣かせる前にさ」
昔の自分にそんな力があるはずもなかったくせに、ジルは本気で悪態をつく。
その荒っぽい言葉が、メリアの奥深くにどこまでも染み渡っていく。
少女の頃からずっと続いていた彷徨い続けてきた暗闇。辛かった。生きていることすら罪のように感じながら、ずっと、惨めで寂しかった。
けれど今、その孤独な過去ごと自分を救おうとしてくれる人がいる。自分のために憤り、力任せに存在を肯定してくれる人が、ここにいる。
「……ううん。今、助けてもらったわ」
もう、一人きりで夜を恐れる必要はない。この温かな腕がある。過去の傷が消えるわけでも、自分が抱えた醜い憎悪が拭い去れるわけでもない。けれど、もう逃げ隠れする必要はないのだ。
背負った深淵がどれほど深くとも、これから歩む道がどれほど険しくとも──この人が背中を支えてくれているのなら、逃げずに、まっすぐ前を見据えて歩んでいける。




