最終話
ヴェルティス・ノルディカの険しい山道を越えたその先で、二人を待ち受けていたのは、あまりにも異様な無の世界だった。
神に見放されたと語り継がれるその絶壁の底には、命あるものの息吹がひとつとして残されていなかった。鳥の羽ばたきも、虫が地を這う気配も、風に葉擦れの音を返す木々の囁きすらも。緑どころか朽ちた一本の枯れ木さえ、この谷には存在し得ないのだ。
「うわ……ほんっとに何もねえな。噂以上のすっからかんじゃん」
ジルは周囲を見渡すと、口元を手で覆いながら眉をひそめた。
「呪われた土地だの何だのは知らんけどさ、この砂っぽさと空気の悪さは勘弁してほしいね。ほらメリア、さっさと用事済ませちゃお。こんなの長居するとこじゃねえよ」
だが、谷を見下ろす丘のふちに立つメリアの耳には、その声さえ遠い水底からの残響のようにしか届いていなかった。
白い灰が風もないのにかすかに揺らめき、また沈んでいく。音のない世界だった。帝都の喧騒も、サウド・ガルの混沌も、アルゲントラの鍛冶場が轟かせる槌の音も、山越えの地吹雪の記憶さえも、何もかもが遠い遠い夢の切れ端のようだった。
メリアは亡き母の形見である銀のロケットを、両の手のひらで固く握りしめていた。ひんやりとした金属の感触が、皮膚に冷たく食い込んでくる。
ここでこの遺灰を撒けば、兄の魂は永遠に、この救いのない灰の谷を彷徨い続けることになる。
幼い頃から自分を蔑み、踏みにじり続けてきた異母兄。その男への永久の呪い。
それがこの長い旅の果てに、私が選び取る結末だったはずだ。
けれど──メリアは静寂に沈む谷底を見つめながら、己の心の奥深くにそっと問いかける。
本当に、それでいいの?
お兄様の魂をここに縛りつけて、それであなたは満たされるの?
憎しみを谷底に叩きつけて、それで何かが変わるとでも思っているの?
これ以上何ひとつ奪われまいと、後生大事に守り続けてきた、母の形見のロケット。けれど今、その正体が何であったのか、メリアにはようやく分かってしまった。
これは鎖だ。私を過去に縛りつける、冷たい銀の鎖だ。これを握りしめている限り、私はいつまでも、あの回廊に立ち尽くしている。憎しみの中に膝をついたまま。
アストラヴァール家の私生児の娘として、決して立ち上がることを許されないまま。
メリアはもう一度だけ、ロケットに視線を落とした。刻まれた父の家の紋章。中に納められた兄の遺灰。母が遺したたったひとつの形見。あの屋敷で生きてきた歳月の全てが、この小さな塊の中に押し込められていた。
ならば今、手放そう。
憎しみごと。悲しみごと。あの日々の記憶ごと。膝をついて泣いていた、幼い自分ごと。全部、全部、この谷底に置いていこう。
銀のロケットが、白い空に弧を描いて舞う。落ちながら、最後にひとつ、光を弾いて煌めいた。それは彼女がこれまで流してきた涙の粒のようにも見えた。そうして、波紋のように広がる灰の中へ沈んでいく。
「……は?」
静寂を破ったのは、間の抜けたジルの声だった。彼は自分の目に映った光景が信じられないというように、投げ捨てたメリアの手と、何もなくなった谷底とを、忙しなく二度、三度と見比べる。
「お……おいおいおい。嘘だろ。メリア今なにした?」
ジルは頭を抱えて崖の縁へと駆け寄り、血眼になって灰の底を覗き込んだ。
「何捨ててくれてんの……!? 意味分かんねえ、俺にくれるって約束しただろ! あれが俺の借金返済の全部なんだよ。全部って言ったら文字通り全部なの!」
「正気かコイツ」とばかりに、ジルはメリアの両肩を掴んで揺さぶってくる。
こうなることはメリアだってはじめから理解していた。旅の始まりに、死地へ向かうために交わしたあの切実な約束を、自分は今一方的に破り捨ててしまったのだ。
「分かっているわ。ごめんなさい、ジル」
「分かってないだろ。分かってたら投げねえよ」
「いいえ、ちゃんと分かっているの」
「何? その開き直り。なんで二回言うの?」
けれどどれだけ責め立てられても、メリアの胸の奥に後悔という二文字は浮かんではこなかった。まるで一陣の風が吹き抜けたあとのように、心は不思議なほど澄み渡っていた。
「あなたの未来を投げ捨てた責任は、私が背負うって決めたからよ。あなたの借金は、私が一緒に返してあげる」
メリアはジルの手をそっと自分の肩から外すと、その指先を温もりごと包み込むように、両手で握りしめた。
「私はもう、日陰を歩くのはやめにするの。逃げるのも、怯えるのもやめる。あなただって、そうでしょう。借金取りから逃げ回って、路地裏を走り続けて、それが、あなたの生き方だったのかもしれないけれど」
「……」
「きちんと向かい合いましょう。堂々と歩いていける道を、二人で作りましょう。どれほど怖くても逃げないで、迷わないで、自分が信じたほうへ進むの」
ジルは完全に毒気を抜かれた顔で、開いた口も塞がらないままメリアを見つめた。静寂が二人の間をゆっくりと巡り、やがてジルは天を仰ぐと、「あー……」と身も蓋もない溜め息を深く吐き出した。
「フレアパルマから可愛げが消え失せた……」
頭を抱えてがっくりと肩を落としたジルだったが、その項垂れた様子からの切り替えは呆れるほどに早かった。鼻梁に落ちた前髪をかき上げると、鋭い目つきでメリアを指さす。
「言っとくけど、俺の借金は桁が違うから、桁が。覚悟してよ。一生かかっても返し終わるまで、絶対逃がさないから」
「ええ、望むところよ」
メリアはすっと背筋を伸ばすと、かつて仕込まれた淑やかな、けれど芯の通った力強い佇まいで胸を張った。
「私、高地語を読めるし、書けるし、算術もできる。リュートやヴィオラだって奏でられて、パヴァーヌの美しいステップだって踏めるわ。できることは、私の中にいくらでもあるの。きっと、私にだってできる仕事が見つかるはずよ」
風の中で誇らしげに並べ立てられる、あまりにも浮世離れした高貴すぎる教養の数々。それを聞いたジルは、思わず引きつった笑いを浮かべながら額に手を当てた。
「……なあ、メリア。もしかして前に俺がさ、『俺を養えるくらい稼いでみせて』って言ったの、まだ根に持ってる……?」
とはいえ、泥水をすするような裏の世界をたくましく生き抜いてきた男だ。その頭の中では、さっそく悪知恵が働き始めていた。
「まあいいや。だったら俺が知り合いに頼んで、どこぞの伯爵家の印をポンと押した身元保証書と紹介状でも作ってやるからさ、金持ちの家庭教師にでも潜り込んでよ。その特技のてんこ盛りなら一発でしょ」
「……ちょっと待ってよ。今作るって言ったわね? 偽造なんて絶対に許さないわ!」
「いいじゃん別に。減るもんじゃないし、ハッタリなんて通ったもん勝ちなんだからさ。生まれは本物のお嬢様で、教養も本物なんだから、紙切れ一枚くらい嘘ついたって誰も損しないって」
「嫌よ。紹介状なんて嘘をつかなくたって、私の立ち振る舞いひとつで、育ちや教養は証明してみせるわ」
怒りながら前を歩き出すメリアの背中を、笑いながらジルが追いかけていく。
ふと、メリアは歩みを止め、ただ一度だけ、後ろを振り返った。
地平の果てに、天を突くような白銀の連峰がある。もう越えてきた山だ。かつて旅の始まりの検問所で、怯えと焦燥に押し潰されそうになりながら、心に問いかけたことを思い出す。
あの頃の自分には、答える術すらなかったその問いへの答えを、今のメリアは確かに知っている。
この地平の先には、まだ見ぬ立ち塞がる世界があり、待ち受ける人々がいるのだろう。それでもメリアには、恐れるものなど何ひとつなかった。
──群れは道を示せど、雪を踏むは己が四肢のみ。
天は二つとして同じ毛並みを織りたまわず。されど、いずれも冬を越えるに足る。
いくら望んでも、この身に流れる血も、風に跳ねるこの赤毛も、生まれ落ちた家という宿命も、変えることなどできはしない。けれど、どんな明日を選び取り、どう生きていくのかという答えだけは、いつだって自分の手の中で眩しく光っている。
自分以外の誰かになんてなれなくても構わない。私という一人の人間のまま、自分自身の足で、この果てしない世界をどこまでも歩いていけるのだから。
どこへ辿り着くのか、神様さえまだ誰も知らない。けれどメリアは今、かつてないほど確かな足取りで、その荒野の只中を歩いていた。燃えるような己の心だけを、たった一つの羅針盤にして。
二人分の足音が、風の中へ、遠く、遠く、溶けるように消えていった。
了




