第八話
「絶対に嫌よ。死んでも食べないわ」
「おお、いい度胸してんじゃん……」
アルゲントラの宿の一室、ベッドの上で身を縮めるメリアの前に、ジルは一つの木椀を差し出していた。
中を覗けば、ドロドロとした怪しい色の液体の中に、何の肉とも知れない不気味な塊や、どう見ても虫の部位らしきトゲトゲした何かがぷかぷかと浮いている。怪しげな屋台で買ってきたというそのスープからは、鼻を突く強烈な匂いが漂っていた。
「ドワーフの野郎どもが言うにはさ、風邪にはこれが一番効くんだってよ。ほら、冷めないうちに流し込んじゃいな」
「面白がって買ってきたでしょう。お気持ちだけ頂いておくわ、私は病人なのよ!」
ジルはスプーンを無理やりメリアの口元へ押しつけようとする。しかしメリアは、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの全力で首を振り、断固として拒否した。
結局、折れたジルが「もったいねえな」と自分でその謎のスープを啜り、不気味な塊をガリガリと噛み砕く羽目になった。その咀嚼音を聞くだけで、メリアは余計に熱が上がりそうだった。
ジルが呼んできた医者の見立ては、いたって真面目なものだった。大瀑布の冷気で一時的に体力を落としただけで、鉱山の煤煙に気をつけつつ、栄養のあるものを食べて温かくして休めばすぐに治る、とのことだ。
それからというもの、メリアは宿の部屋で一人きりの時間を過ごすことになった。暇だった。そして、ひどくつまらなかった。ジルはメリアを部屋に残し、朝から晩までずっと出かけっぱなしなのだ。
夕方になり、戻ってきたジルに「毎日どこへ行っているの?」と尋ねても、まともな答えは返ってこない。『裏路地でネズミのレースに全財産賭けてすった』だとか、『怪しい武器商人から伝説の聖剣を値切ってた』だとか。毎日毎日、呆れるほど変な冗談ばかり。
「本当、よくもまあ毎日あんなにふざけた話が思いつくものだわ……」
ベッドの中で毛布にくるまりながら、メリアはため息をついた。からかわれているのは分かっている。けれど彼が部屋を空けている間、冷たい採掘の音が響くこの見知らぬ街で、メリアは嫌でも自分が一人きりであることを痛感させられるのだ。
数日後にようやく熱が下がり、身体の軽さを取り戻したメリアは、ベッドの上で大きく一つ伸びをした。部屋の小さな窓から灰色の空を眺めるのには、完全に飽き飽きしていた。
早くこの身体を動かしたくて、彼女はエテルナの花飾り付きの帽子をしっかりと頭に乗せ、アルゲントラの街へと繰り出すことにした。
本当なら、一人で出歩くのは危ないということは分かっている。けれどサウド・ガルでの経験が、彼女に少しばかりの妙な自信を与えていた。
山腹の岩盤を力任せに削り取って造られたアルゲントラは、大きく三つの階層に分かれていた。最も堅固な岩盤の最奥にある上層は、帝国から派遣された総督や鉱山の監督局が陣取る区域だという。
その下、街の心臓部とも言える中層は、精錬所や採掘工房が立ち並んでいた。煙突からは四六時中黒い煤煙が吹き上がり、行く手を遮るように鉱石を粉砕する重厚な音が響き渡っている。
メリアが歩みを進めたのは、最も賑やかな下層だった。ここは旅人や商人が最初に行き着く玄関口だ。
採掘や精錬の腕を買われて集まったドワーフたちをはじめ、一獲千金を狙う異民族の採掘人や商人など、様々な種族が雑多に行き交っている。彼らがたむろする酒場、この先の過酷な山越えに備えるための毛皮で溢れた防寒具屋、頑丈な車輪が並ぶ荷車の修理屋がところ狭しとひしめき合っていた。
雑多な街並みを、メリアはあてもなく彷徨った。視線は自然と、人混みの中であの姿を探している。けれど、あの見慣れた男はどこにも見つからない。
そうして歩いているうちに、気がつけば周囲の喧騒が少し遠ざかっていた。似たような岩肌の路地が複雑に入り組んでおり、どうやら少しばかり迷子になってしまったらしい。
心細くなり、きょろきょろとあたりを見回した。引き返すべきかと不安が胸をよぎったその時、薄暗い裏路地の奥から、ひどく聞き慣れた声が届いた。
「──、だからさ。あんまり無茶なふっかけ方は勘弁してくれよ。これ一冊を検問すり抜けて持ち込むのが、どんだけ命がけか分かってんだろ?」
ジルの声だ。メリアはハッとして、吸い寄せられるように声のする方へと向かった。ひんやりとした岩壁の角から、息を潜めてそっと路地の奥を覗き込む。そこにいたのは、本当に探していた彼の姿だった。
「……分かっている。だが、こちらの提示した額も決して悪くはないはずだ。お前の命がけの対価としては十分だろう」
しかし、その場の空気はいつもと全く違っていた。ジルの目の前に立っているのは、深いフード付きのマントで完全に姿を隠した人物だ。
「いやいや、足りないね。こっちの要求額通りだ。これ以上は一ロルたりとも引けねえよ。サウド・ガルでも兵士どもが嗅ぎ回りに来ててさ。こっちの胃の痛くなるような道中も少しは考慮してくれっての」
ジルの有無を言わせぬ態度に、マントの人物は観念したように肩を落とし、ずっしりと重そうな革袋を差し出した。ジルはそれを受け取って中身を確認すると、代わりに自分の懐から一冊の本を取り出して手渡した。
何を取り引きしているのだろう。メリアは目を凝らした。
ジルが手渡したのは、一見すると帝国で広く出回っている退屈な北方貿易録の古い本だった。しかし、彼らがいるのはアルゲントラの裏路地だ。中層の鍛冶場から漏れ出る真っ赤な炉の光が、その本の表紙を真横から鋭く照らし出した。
その瞬間、なめし革の表面に、光の反射で文字が一瞬だけ鮮烈に浮かび上がる。それを目にした瞬間、メリアは絶句した。
ルマ文字──北方の獣人民族だけが用いる独自の言語だ。「これ一冊を検問すり抜けて持ち込むのが、どんだけ命がけか──」ジルの言葉が、メリアの脳内で恐ろしい真実となって結びつく。
あれは、帝国で厳しく禁じられている異教の聖書だ。
あまりの動揺に、メリアの足が震えた。視界が歪み、思わずよろめいて岩壁に背中を打ち付けてしまう。
「誰だ!」
マントの人物が鋭く反応し、すぐさま足早に去っていく。後に残されたジルは、音のした方へと視線を向け──そこに立ち尽くすメリアの姿を認めた。
メリアは金縛りにあったように動けなかった。ただ目を潤ませ、震える指先をジルへと向けた。
「お互いが幸せになる、賢い商売なんて……真っ赤な嘘じゃない」
メリアの喉の奥から、絞り出すような拒絶の言葉が漏れる。
「あなた、密輸人だったのね。主の教えを汚して、神様に背く大罪を犯して……平気な顔をしている、本物の罪人よ!」
その激しい糾弾の言葉には、裏切られた怒りだけでなく、彼の魂が地獄へ堕ちることへの純粋な恐怖すら混ざっていた。彼女は神聖なる国教の教えを、絶対的な正義だと信じて疑わずに育ってきたのだ。
しかし、ジルは狼狽えることも、言い訳をすることもしなかった。彼はただ、手にした革袋を軽く放り投げて懐に収めると、メリアを見下ろした。
「罪人? そりゃどうも。だったら次からはジルじゃなくて、地獄行き確定男とでも呼んでよ」
その表情はいつも通り飄々として、口元には笑みすら浮かんでいるのに、瞳の奥だけはまったく底が知れない。メリアは彼にそんな目を向けられたことなど、一度もなかった。
「だけどさ、メリア。あっちはこれがバレたら死罪だってことも、全部百も承知のうえで『どうしても欲しい』って言ってんだよね。で、俺にはそれを届ける伝手がある。それだけのことだろ」
「でも……っ」
「そんな綺麗な信仰心だけで毎日飯が食えるならいいけど、現実はそうじゃねえじゃん。俺の商売が気に入らないなら、お前がその真っ白な手で、今すぐ俺を養えるだけの金を稼いでみせてくれよ」
鼻でせせら笑った彼の瞳には、神への畏怖も罪への恐怖もこれっぽっちもない。あるのはただ、現実の厳しさを知らない温室育ちへの、底寒い嘲笑だけだった。
「神様ってやつが本当に助けてくれるって言うならさ、ここでもどこでも大人しく、呑気に祈ってりゃいいよ。神頼みで生きていけるならこんなに楽な人生ないもんな。そしたら俺だって、明日から真面目に聖歌隊にでも転職してやるけど」
その侮蔑に満ちた目が、メリアのプライドを鋭く逆なでする。恐怖は一瞬で消え去り、代わりに彼女の根底にある正義感が頭をもたげた。
「……かわいそうな人」
メリアはすっと背筋を伸ばし、涙の滲む瞳で真っ直ぐにジルを睨み据える。その態度は、どこまでも凛として、そして残酷なほどに傲慢だった。
「あなたはただ目先の金貨のために、都合の良い言葉を並べ立てているだけよ。……神様に見放されて、そうやって自分を慰めながら生きてきたのね」
ジルの表情が冷徹さを増し、それに気圧されそうになるのを隠すように、メリアはそれ以上言葉を重ねることなくきびすを返す。鍛冶場の真っ赤な火が照らす中、彼女は一度も振り返ることなく、アルゲントラの煤煙へと消えていった。




