第六話
果実を綺麗に平らげ、ようやく少しだけ元の調子を取り戻したメリアに、ジルは「でさあ」と、なんとも締まりのない顔で頭を掻きながら切り出した。
「言いにくいんだけどさ。路銀が底を突きそうなんだわ」
「……え?」
メリアは手に残った果汁をハンカチで拭いながら、信じられないものを見る目でジルを睨んだ。
「どういうことよ。あなたはこの旅の案内人でしょう。資金の管理くらい、計画的にできないものかしら」
「シルヴェンヘイムの検問所で余計な賄賂は取られるわ、物価は無駄に高いわでさ。ほら、この果物買ったのも響いてるわけ。……ってことでメリア、なんか稼げるような特技とかない?」
「……稼げる、特技?」
ジルはあけすけにケラケラ笑いながら、腕を組んでメリアをジロジロと見下ろす。メリアは眉をひそめてオウム返しに呟き、上品に顎に手を当てて考え込んだ。
「……刺繍、お茶の淹れ方、乗馬、あとは帝国史の暗誦、それから……パヴァーヌのステップ」
「だめだめ、全っ然だめ。どれもこれもサウド・ガルじゃ一ロルにもならねえな」
ジルはこれ見よがしに手をひらひらと振って、「歴史の暗誦で飯が食えたら学者だらけだろ」とにべもなく却下した。その態度に、メリアはせっかく果物で直したばかりの気分を早くも害される。けれど彼女は負けじと胸を張り、すんと澄ました顔で付け足した。
「失礼な人ね。私、音楽だって一通り嗜んでいるわ。家庭教師の先生にも筋が良いって褒められたんだから。リュートや、ヴィオラなら……」
「あ。それだ」
ジルの目が獲物を見つけた猛獣のようにきらりと光る。彼はメリアの細い手首を掴むと、問答無用で彼女を引きずり始めた。
「話が早くて助かるわ。おら、行くぞ」
「きゃっ! ちょっと、引っ張らないで!」
ジルに強引に連れてこられたのは、市場の片隅にある少し開けた広場だった。そこでは、色鮮やかな衣装をまとった吟遊詩人の一座が、賑やかな音楽を鳴らして人だかりを作っている。
「ほら。あそこの座長っぽいおっさんに掛け合って、一曲混ぜてもらって」
「えっ? 急に何言い出すのよ。どこの誰だかもわからない人たちの中に、いきなり飛び込んでいくなんて……」
メリアはきっぱり拒絶しようとしたが、それ以上に、一座の楽士たちが衣装の隙間から覗かせている、妙にギラギラとした鉄の光に目を奪われた。
「……ねえ、あの人たち、腰に大きなナイフを差しているわ。演奏家なのに、どうして……?」
「あいつら各地を旅してまわってるから。街道じゃ賊も出るし、護身用でしょ。珍しくもなんともないって」
ジルは事もなげに言うが、メリアにとっては恐怖以外の何物でもない。すくみ上がってジルの上着の裾を再び掴もうとするメリアの肩を、彼はガシッと両手で掴んだ。
「いいから行ってきて。ほんと金ないから。びびってないで度胸見せてこいよ。飯にありつけなくなるぞ」
「無茶言わないでよ。そんなに言うならあなたが自分で──」
「ほら、行ってこい!」
ジルの大きな手に背中を力任せに押され、メリアはよろよろと吟遊詩人の一座の前へと押し出されてしまった。
突然飛び出してきた彼女に、一座の演奏がぴたりと止まる。見物客の値踏みするような鋭い視線が一斉にメリアに突き刺さった。恐怖で心臓が跳ね上がり、今すぐジルの後ろへ逃げ帰りたかった。けれど、背後からは「早くしろ」と言わんばかりの無言の圧力を感じる。
メリアはぎゅっと拳を握りしめ、喉の震えを必死に抑えながら、座長らしき大柄な男の前に進み出た。これ以上ないほど背筋を伸ばし、精一杯の矜持を持って交渉を試みる。
「……失礼いたします。一曲、私を一座に混ぜていただけないかしら」
「はあ? 混ぜろって……お嬢ちゃん、楽器も持ってねえじゃねえか。歌でも歌うのか?」
「歌じゃないわ、弦楽器よ。お願い、そのヴィオラを貸していただきたいの。帝都の宮廷楽士に仕込まれたのよ。下手な演奏はしないわ」
メリアは一座の若い楽士が持っていた、使い込まれたヴィオラを指さす。彼らは呆気にとられたように顔を見合わせたが、やがて髭面の座長がメリアの頑なさを察したのか、にやりと笑って顎をしゃくった。
「おい、貸してやれ」
「え? 座長、本気ですか? 傷つけられたら……」
「いいからよこせ。嬢ちゃんのそのハッタリ、タダで引き下がりそうにねえだろ。下手くそだったら、その服のレースを一枚剥ぎ取って楽器代にさせてもらうからな」
剥き出しの脅し文句と共に突き出されたヴィオラを、メリアはごくりと息を呑んで受け取った。じっとりとした緊張で指先が震えそうになるのを必死に堪え、笛を吹いていた女性の隣に並んでそっと弓を構えた。
サウド・ガルの喧騒を縫うように、メリアが引いた弓から最初の音が溢れ出す。途端、広場の空気がかすかに震え、通りすがる人々の足を無意識に止めさせた。宮廷楽士に仕込まれたというのは、決してはったりなどではない。
「……へえ」
遠巻きに見ていたジルが、素で少し驚いて眉を上げた。ただの世間知らずの退屈な習い事だと思っていたが、予想以上にサマになっている。
だが、すぐに金になると踏んだ男の行動は早かった。足音を忍ばせてメリアに近づくと、彼女の帽子を頭から不意にひったくったのだ。
「ちょっと、何をするの──」
メリアは演奏を止めないまま、眉尻をつり上げて怒った。しかしジルはお構いなしに、その帽子をひっくり返して足元の地面へとぽんと置く。
「聴き惚れてねえで金出しな、お前ら! ほら、そこの兄ちゃんもタダ聴きしてんじゃねえよ」
ジルは自らも懐から残り少ない銅貨を取り出し、音を立てて帽子の中に放り込む。あまりに不躾な催促だったが、メリアの確かな演奏に足を止めていた見物客たちは、「しょうがねえな」と苦笑しながら、あるいは「見事だ」と歓声を上げながら、帽子めがけて好き勝手に物を投げ入れ始めた。
チャリン、チャリン、と小気味よい金属音が足元で弾け、メリアは驚きに目を見張る。中には小銭だけでなく、ドワーフの商人が景気付けにと放り込んだ、きらりと光る小さな宝石までが転がり落ちた。
味を占めたジルがさらに「ほら、ケチケチすんなよ! 今聴いたろ。あんな贅沢な音、一生聴けねえぞ」と調子に乗って煽り続けていると、一座の男が彼の襟首を後ろから力任せに掴み上げた。
「おいガキ。嬢ちゃんのオマケで付いてきてるだけのくせにでしゃばってんじゃねえよ」
「あ痛っ。冗談だって、おっさん。半分はそっちの取り分にしてやるからさ」
ジルはひょいと身をかわして男の腕を外すと、まるで当然の商談のように交渉をまとめた。メリアは広場の熱気に釘付けになり、彼の情けない姿を叱るのも忘れて目を輝かせていた。
やがて聴衆が去ると、メリアは一座に深く頭を下げた。
「……素敵な時間を、どうもありがとうございました」
「おう。あんたなかなかやるな。また気が向いたら顔出しな」
彼らと別れた二人は人通りのない路地裏へ移動し、ジルが帽子をひっくり返して中身を地面にぶちまける。ジャラジャラ、と転がり出たのは硬貨だけではなかった。価値があると思うものは人それぞれ違うのだ。何かの骨、お菓子の包み紙、よくわからない小綺麗な貝殻、さらには干し肉の一切れまでが砂の上に散らばる。
「見たかしら、ジル。私の力だけで、これだけ稼げたのよ。……でも私の帽子が、もう二度と被れないほど汚れてしまったわ……」
「いいって、また新しいの買お。なんなら派手な鳥の羽とか付ける?」
普段のジルなら絶対口にしないような提案に、メリアはすっかり気を良くして、ふふんとご機嫌に喉を鳴らした。やはり自分の力で生きる糧を得たという事実は、何物にも代えがたい高揚感をもたらしてくれる。
その時、雑多な山を仕分けていたジルの指先が、一際きらめく銀のブローチをつまみ上げた。メリアの目が、そのブローチの裏側に刻まれた緻密な意匠に留まる。それは見紛うはずもない、帝国貴族の紋章だった。
「……嘘でしょう。これってサンヴィリウス家の刻印よ。あの一族が家紋の入った宝飾品を自ら手放すはずがないわ。このブローチ、盗品だわ。間違いなくそうよ」
「よっしゃ」
ジルは驚くどころか、むしろ大当たりでも引いたかのように口角を吊り上げた。
「このままじゃ足がつくから、すぐ細工屋でバラして売ろ。金目の石だけ抜きゃ一財産だ」
「……え? あなた、泥棒の片棒を担ぐ気?」
メリアはすかさず咎めたが、当のジルは「金は金だっての」とへラヘラ笑いながら、悪びれもせずブローチをポケットに放り込んでしまう。いつもなら、その俗っぽさに心底うんざりして、いつまでも目くじらを立てて怒っていただろう。けれど今のメリアは、不思議とそこまで腹が立たなかった。というより、もういいか、という気分になってしまっていた。
だって、今の彼女の胸には、何物にも代えがたい誇らしさが満ちている。もう二度と被れそうにないほどめちゃくちゃに汚れてしまったお気に入りの帽子。その中に、この街を生きる人々の価値が音を立てて集まったのだ。その生々しい重みこそが、ぐらついていたメリアの足元を力強く地に繋ぎ止めていた。
私はもう、ただジルの後ろで怯えて守られるだけのフレアパルマでも、ただ愛でられるだけのハニーパムでもない。
胸を満たすその誇らしさが、ジルのちょっとした悪辣ささえも受け流せるほどのしなやかな強さを、今の彼女に与えていた。




