第五話
サウド・ガルの喧騒を掻き分け、メリアは脇目も振らずに走った。背後から突き刺さる視線、嗅ぎ慣れない強烈なスパイスの匂い、すべてが恐怖だった。
結局、逃げ込んだのは市場の喧騒が遠く下に聞こえる、切り立った岩壁の上の高台だった。人通りのない寂れた物影に身を潜め、メリアは地面に座り込んで膝を抱えた。
溢れそうになる涙を堪えきれず、膝に顔をうずめる。あの男にとっての自分も、結局は品性のない言葉で面白おかしく言い触らしていい、その程度の存在だったのだ。あの屋敷の人間たちと同じように、最初からそういう目でしか見ていなかった。
一瞬でも、あの嵐の夜に「一人きりよりずっといい」なんて思ってしまった自分が、心の底から惨めでならなかった。冷たい氷のような殻が、再びメリアの心を包み込んでいく。
「……」
どれくらいそうしていただろう。激しい涙のあと、ザリ、と乾いた砂の音がした。メリアはハッとして顔を上げた。サウド・ガルの治安の悪さを思い出し、恐怖に身体が強張る。
だがそこに立っていたのは、見紛うはずもない、首筋まで流した髪に指を滑らせ、気まぐれな風に遊ばせている男だった。彼はその得意の探索能力で、迷路のようなこの街からすぐにメリアの足跡を見つけ出したのだろう。
けれどいつもなら浮かべているはずの、あの小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いはなかった。ジルはメリアに無理に近づこうとはせず、数歩離れた岩肌にどさりと腰を下ろす。そして手元にあった小さな麻袋から、瑞々しく甘い香りを放つ果実を一つ取り出し、メリアの方へと軽く放った。
「……ほら。これ食って、ちょっとは落ち着いてよ」
果実はコロコロと転がり、メリアの膝元で止まる。メリアはそれを一瞥しただけで、再び膝に顔をうずめて完全に無視した。食べ物で釣ろうだなんて、どこまでも人を馬鹿にしている。
沈黙が流れる。遠くの市場から怒号が響く中、ジルは自分の額を爪で掻くと、酷く居心地の悪そうな、ひどく掠れた声で話し始めた。
「……悪かったよ。ほんとごめん」
メリアはびくりと肩を揺らしたが、意地でも顔は上げなかった。
「言い訳になっちゃうけどさ。俺はああいうやり方しか知らないんだよね。血の気の多い連中を無駄な揉め事なしで引かせるには、下手に正論吐くより、あの手が手っ取り早いから」
「…………」
「でも、いくらなんでも、あんなこと、まともな女の子なら言われたくないよな。それにメリアは……帝都のちゃんとした家のお嬢さんなんだもんな。俺が調子に乗りすぎたわ」
ジルはメリアが高貴な身分ゆえに、その潔癖さから傷ついたのだと思っているようだった。それはそうだろう。何も知らない彼からすれば、それが当然の考えだ。
そうやって自分の非を認め、頭を下げてみせるのも、彼なりの不器用な優しさなのだということも分かる。けれどそのすれ違いが、メリアの胸をひどく虚しく抉った。
「……ちゃんとした家のお嬢さん、なんて。笑わせないでよ」
メリアはゆっくりと膝から顔を上げた。その瞳は赤く潤み、けれど妙に冷静にジルを真っ直ぐに見据えていた。
「あんな言葉、あんな蔑み……私は聞き飽きているの。今更なんとも思ったりしないのよ。だけど……」
メリアの心に、あの息の詰まる屋敷の光景がまざまざと蘇る。
父であるアストラヴァール侯爵にはこれっぽっちも似ていなかった自分。亡くなった母親の顔は朧げにしか思い出せなかったけれど、成長するにつれて、鏡に映る自分の顔がその母親に酷く似ていくことだけは、嫌というほど分かった。
だからこそ、正妻はますますメリアを毛嫌いしたのだ。身体が成長し、それまで着ていた服が着られなくなって、新しいドレスを仕立てた時でさえ、「何かにつけて男の目を引き、誘っているのだわ」と揶揄し続けた。
私は両親とは違う。あんな風に生きていくつもりなんて毛頭ない。私は私として、必死に気高く生きようとしてきた。
けれど、生きている限り、この血と、この容姿と、亡き母親の幻影にずっと呪われ続けなければならない。そんな理不尽な檻の中に、彼女はずっと閉じ込められていたのだ。
「だけど……あなたにだけは、そんな風に言われたくなかったの……」
他の誰に何を言われても、どう扱われても、そんなものは昔からの日常だった。だけど、この人だけは違うように思えていたのはなぜだろう。どうしてなのかはわからないけれど、この男にだけは軽蔑されたくなかったのだ。
「……そっか」
ジルは膝を抱えて震える彼女を、ひどく痛々しそうな、胸を衝かれたような目で見つめた。彼はゆっくりと腰を上げると、距離を詰めることはせず、ただその場に立ち尽くしたまま視線を落とした。
「ごめん。俺、メリアのことなんも知らないのに、本当に最低なこと言った」
ジルはその野生に近い鋭い勘で、メリアがこれまで負ってきた傷の深さを痛いほどに察したのだ。そして、そんな彼女が自分に、どれほど真っ直ぐな信頼を寄せてくれていたのかを。
彼は静かな足取りで一歩、メリアへ近づいた。冷たい地面に片膝を突き、膝を抱える彼女の目線に自身の高さを合わせる。
「言っとくけどさ。俺はメリアをあんな風に思ったことなんか一回もないよ。メリアはいつも無駄に気高くてさ、誰の役にも立たない綺麗事を一生懸命信じてて。そのくせ俺の知らない文字をすらすら読んで、獣人のじいさんを助けてやるくらいには賢くて、とびきり生意気な女の子だよ」
「……」
「誰がなんて言おうが、俺にとってのメリアはそれだけだよ。それ以外、なーんにも見えてない。だからさ、そんなクソみたいな連中の言う事と、俺のヘタクソな冗談を一緒くたにすんのやめて。……ま、傷つけたのは俺だし、完全に俺の負けなんだけどさ」
ジルは降参、とばかりに両手を軽く上げて見せた。その不躾で、けれど一切の嘘偽りのない言葉が、メリアの頑なだった心の痛みを、じんわりと溶かしていく。メリアは鼻をすすり、乱暴に手の甲で目元を拭った。
「……ジル」
ぽつりと溢れたその名に、ジルは「あ」と小さく声を漏らした。そういえば、彼女に名前を呼ばれたのはこれが初めてだった。呼び掛けはいつも「ねえ」か「あなた」、あるいは不名誉なあだ名ばかり。だからこうして真っ直ぐに名前を呼ばれることが、なぜか妙に面映ゆい。
「……メリア、果物好きだろ。こういう甘いの。旅の道中じゃ腐りやすいからなかなか買ってやれないしさ。今、ここで食っちゃいなよ」
彼は気恥ずかしさを隠すように、果実の詰まった麻袋を差し出された。メリアはひったくるようにして受け取ると、涙で赤くなった鼻を小さく鳴らし、大きな瞳で彼をじっと睨みつける。
「……二度とあんな言い方しないで。次にやったら、今度こそ足の骨を折ってあげるわ。ジラルド・オリオン」
シルヴェンヘイムの検問所で聞いた彼の本名を、一言ずつ刻むように告げる。途端にジルは本気で嫌そうな顔をして、両手をひらひらと振った。
「ちょっと待って。その呼び方マジでやめて。ジラルドって呼ぶの借金取りだけだからさ。心臓に悪いわ。頼むからジルで勘弁してよ」
「それなら好都合よ。あなたの心臓なんて、少しは縮み上がった方が身のためだわ。覚悟してね、借金取りよりもきっと私の方が怖いんだから!」
「はいはい、肝に銘じまーす……」
メリアは袋の中から赤く熟した果実を一つ取り出すと、小さな口を開けて思い切り齧りついた。じゅわりと瑞々しい果汁が口いっぱいに広がる。
サウド・ガルの慣れないスパイスの匂いや、胸に渦巻いていた苦い記憶をすべて洗い流してくれるような、ただひたすらに優しい甘さだった。




