第四話
シルヴェンヘイムの森の緑が途切れ、視界がにわかに開けた。目の前に現れたのは、峻烈な岩肌が牙のように突き出す峡谷地帯。その深く抉れた谷底に拓かれた交易の街、サウド・ガルだった。
「いやあ、本当に助かったよ、お嬢さん。役所の狐どもにまた書類の不備だって難癖をつけられるところだった。あんたのおかげで、今年はまともな稼ぎになりそうだ」
馬車を降りたところで、獣人の農民は心底ほっとしたように、日に焼けた大きな手でメリアの手を握った。メリアが代わりに仕立て直した出荷明細書は、役人の意地悪な追及を完璧に退けたのだ。老人はお礼にと、油紙に包まれた見慣れないドライフルーツをメリアの手に握らせてくれた。
「いいえ。私たちの方こそ、ここまで乗せていただけて本当に助かりました。どうぞ、この先の道中もお気をつけて」
メリアが帝都の礼法に倣って優雅に一礼してみせると、老人は破顔し、手綱を握り直して馬車を街の奥へと進めていった。カラカラと遠ざかる車輪の音を見送りながら、メリアは手の中の油紙をそっと胸元に抱きしめる。
誰かの役に立った。あの屋敷で「役立たず」と蔑まれ続けた自分でも、自分の力で人に感謝されたのだ。手のひらに残る温もりと、甘酸っぱい果実の匂いが、暗い胸の奥に灯ったささやかな誇りを照らしていた。
「おー、大層なご身分で。すっかりお上品な代書人様だな、フレアパルマ」
横から荷物を肩に担いだジルが、ニヤニヤと覗き込んできた。メリアはすぐにいつものすました顔に戻り、ふんと鼻を鳴らす。
「誰かさんみたいに、他人の背中に隠れて悪口を言うことしかできない人間とは違うのよ。さあ、早く行きましょう」
そう言ってジルの前を歩き出そうとしたメリアだったが、門を潜り、サウド・ガルの中心部へ一歩足を踏み入れた瞬間、その足がすくんだ。
視界を埋め尽くすのは、色とりどりの、しかしどれも継ぎはぎだらけの天幕の波。ひしめき合う市場の通路を、帝都では決してお目にかかれない奇妙な人々が行き交っている。熱気と混沌、シルヴェンヘイムのあの耳が痛くなるほどの静謐さが嘘のように、暴力的なまでの喧騒がメリアの鼓膜を殴りつけた。
立ちこめるのは、炭火で炙られる肉の香ばしい煙、見たこともない異国の香辛料のツンとする匂い、そして血と皮の生臭さだ。
肉屋の軒先には皮を剥がれた肉がずらりと吊るされ、その下で籠に入れられた鳥がバサバサと羽を散らして暴れている。店主の男は、暴れるリスの太い尻尾を無造作に掴んで持ち上げると、「おいお嬢さん! さっき獲れたてだ、シチューにどうだ!」とメリアの顔前へ突き出してきた。
向かいの露店には、瓶の中で怪しく蠢く大蛇や、干からびた蛙がうずたかく積まれている。地面に座った薬草売りが謎の粉末をすり鉢でゴリゴリと挽きながら、胡散臭い効能を大声で捲し立てていた。
思わず後ずさったメリアの耳元を、怒号が切り裂く。
「おい、そこのトカゲ! その鹿と、こっちの希少な鉱石を換えようってのは虫が良すぎるだろ」
「何を言うか、大狼。この肉はさっき絞めたばかりだ。そっちの石ころこそ、ただの鉄屑ではないか!」
通りの真ん中で、鈍く光る緑の鱗に覆われたトカゲの頭を持つ亜人が、鋭い牙を剥き出しにした狼の獣人と、胸ぐらを掴み合わんばかりの勢いで怒鳴り合っている。
彼らの手にあるのは、帝国の刻印が入った銀貨や銅貨ではない。削ぎ落とした肉、怪しげな鉱石、塩漬けの毛皮──。ここでは、剥き出しの需要と供給による物々交換が世界を回しているのだ。
サウド・ガルは、メリアにとっては息をするだけで目眩がしそうなほど野蛮な世界だった。メリアはそのすべてに気圧され、気がつけばジルの上着の裾を、ちぎれんばかりに強く掴んだまま後ろをついて歩いていた。
「メリア、それじゃフレアパルマっていうか……ハニーパムじゃん」
「な、何よ、そのハニー……なんとかって……!」
「蜜吸い小熊。赤ん坊のうちはずーっと母親の背中にくっついてんだけど、ちょっとでも敵の気配がすると毛皮の中に潜り込んで、ちっこい手足でぎゅうぎゅうにしがみついて絶対に離れねえの」
「だ、誰が蜜吸い小熊よ! 私はただ、あなたが勝手にどんどん進むから……あなたが変なところへ行って迷子にならないように、見張ってあげているだけ!」
「へー。見張り役にしてはずいぶんと手が震えてますけどねえ」
ジルはヘラヘラと口元を緩め、メリアは恥ずかしさと悔しさで顔を真っ赤にしていた。だが、ここは油断すればすぐに獲物として品定めされる混沌の街だ。布を被っているとはいえ、明らかに怯えてジルの背に隠れようとするメリアの気配を、周囲のゴロツキたちが見逃すはずもなかった。
「おい、そこの兄ちゃん」
行く手を塞ぐようにして、ぬっと影が立ち塞がった。背の低い、けれど横幅が人間の倍はあるような、背中に身の丈ほどもある無骨な斧を背負ったドワーフの男だ。煤汚れた髭の間から黄色い歯を覗かせ、ジルの背後にいるメリアをねめつけてくる。
「妙に良い匂いのする上等な荷物を連れてるじゃねえか。ちょっとその布を剥ぎ取って、ツラを拝ませてみろよ。いいモンなら、俺の手持ちの極上の酒と換え──」
ドワーフの太い指がメリアのフードに伸びようとしたその時、ジルが横から割り込むようにして、メリアをぐっと自分の胸元へと引き寄せた。突然の強い力にメリアが小さく悲鳴を上げる間もなく、ジルは周囲の天幕にまで響き渡るような大声で笑ってみせる。
「うちの嫁に色目使うんじゃねえよ。こいつ、見かけによらず夜がとんでもなく激しいんだわ。俺以外の男じゃ、一晩で腰を抜かしちまうのがオチだ」
そのあからさまで下俗な言葉に、周囲で物々交換をしていた獣人やドワーフたちが一斉に足を止め、どっと野卑な笑い声が上がった。
「そりゃあ恐ろしい。斧を振るうより体力がいりそうだ」
「若いってのは結構なこった。そんな上等で可愛らしい嫁さんなら、そりゃ昼も夜も手放せねえよな!」
絡んできたドワーフも、ジルのあまりの調子の良さと周囲の笑い声に毒気を抜かれたのか、「けっ、命知らずな色ボケ野郎め」と忌々しげに鼻を鳴らし、そのまま人混みの奥へと去っていった。ジルは周囲に手を振って応えながら、鮮やかにその場の危機を煙に巻いてみせる。だが、彼の胸に顔を押し付けられる形になっていたメリアは、全く笑えていなかった。
「………………」
正妻や兄から淫売の娘と蔑まれてきたメリアにとって、今のジルの言葉は何よりも耐え難い侮辱だった。あの家にいた時と何も変わらない。結局自分は、そういう風に扱われる存在なのだと突きつけられた気がしたのだ。
「──っ!」
メリアはジルの胸を力任せに突き放すと、渾身の力を込めて小さな踵で彼の足の甲を思い切り踏んづけた。
「痛ってぇ!」
今度はジルが、文字通り声を詰まらせてその場にうずくまった。片足を抱えて飛び跳ねながら、彼は怒りの声を上げる。
「おい、ふざけんなよ。助けてやったのにそりゃないだろ! 冗談に決まってんだろ、あの場を収めるために──」
「あなた、嫌い」
けれど、ジルの言葉を遮ったのは、震える小さな声だった。
「あなたなんて、本当に……世界で一番、大嫌い……っ」
そう吐き捨てたメリアは、被せられた布の隙間から、泣きそうなのを必死に堪えるように唇を噛みしめていた。その瞳には怒りだけでなく、深い絶望と悔しさの涙が今にも溢れそうに揺れている。
「……メリア?」
いつもの減らず口の応酬のつもりだったジルは、彼女の尋常ではない拒絶の気配に、ハッとしたように言葉を失った。軽薄な笑みは完全に消え去り、何も言えなくなったままただ呆然と立ち尽くす。
メリアはもう彼の顔を見ることもしないまま、ドワーフや獣人たちがいようが何だろうが構わず、雑踏の奥へと走り去ってしまった。
残されたジルは、前髪の毛先を指先でいじりながら、苦々しく舌を打つ。サウド・ガルでのやり方としては、あの馬鹿げた冗談が正解だったはずだ。メリアが箱入り娘のままでいれば、一瞬で餓狼の餌食になる。だからこそ、周囲と同じ薄汚れた場所まで引っ張り下ろして守ったのだ。……けれど。
「……あー、クソ。地雷踏んだか」
ジルは深くため息をつき、メリアの消えた人混みを睨みつけた。




